忘れえぬ君 3

6、悩める男

「調子は、戻ったようだな。何よりだ。」
「はい。ご迷惑をおかけしました。申し訳ありません。」
「もう良い。数日中に、といって、実際そのようになったのだ。」
「はっ。」

首の皮一枚で、大目玉を回避して、俺は些かほっとしてジュリアス様の執務室を出た。
あれ以来、気分は最悪なのに、身体は軽い。いきなり深く眠れるようになった。これまで積み上げていた仕事は、二日ですべて片をつけることができた。集中力も戻ったって事だ。
心身は一体と、いつも思っていたのだが。今回ばかりは事情が違うらしい。
『次は、土の曜日に。』
ふいに、耳元で声がした気がして、足を止め、ばっと周囲を見回した。が、誰もいない。
考え過ぎだ、オスカー。
思わず自分に語りかける。
くそっ。
ダンっ、と強く一度足を踏み鳴らす。
だが、行かねば、次がいつになるかわからない。いちいち日程を合わせる相談ができる相手じゃない。できるだけ会いたくないくらいだというのに。
「ハ、ハハッ!」
ふいに、笑いが込み上げて来て、俺は壁によって、身体を預けた。
「ハハハッハーッハッハッハッ!!」
ぎゅっと身体を抱いてそのままその場にへたり込む。腹がいてぇ。傑作だ。こんなのは、ただの。
そう。こんなのはただの、生理現象、だろ?

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「ねぇ、オスカー。アンタ最近目付き悪いよ?」
うるせぇ、目付きが悪いのは、
「生まれつきだ。」
色々省いて結論だけ言う。じろり、と目だけ動かすと、ベッドサイドのテーブルでオリヴィエが大袈裟に青筋を立てる。
「おー、こわっ!」
「俺の服は?」
「洗面台にいつも通りおいてあるわよ、慣れてきたからってガウン一枚でウロウロしない!」
ビシッと俺を人差し指でさして、言う。回数を重ねるごとに、段々オリヴィエは小言が多くなっている気がする。服を取りに戻ろうと洗面台に向き直ると、背中から声がかかった。
「しっかし、すっかり恒例になったわね。土の曜日のお泊まり。」
ピク、と身体が一瞬反応してしまった。それを、見たのか、見ていないのか、奴が続ける。
「まあいいけど。どーせ暇な事の方が多かったし?」
振り返ると、オリヴィエは自分の毛先チェックに忙しいらしい。指先で毛束を玩んでいる。俺はほっとして、洗面台に歩みを進めながらいってやった。
「週に一度、聖地のアイドルが遊びに来てやってるんだ、せいぜい恩に着るんだな。」
ふふん、と鼻をならす。
と、その背中に枕が投げ付けられた。
「誰がアイドルか!!ったくそのノーテンキさは相変わらずだけどっ。」
洗面台に戻ると、たしかに服が台の隣に服が置かれて居た。勝手に使ったガウンを脱いで、服の隣をふと見ると、カーテンのようなものが壁に掛けられている。向こうにも部屋があるのか?とそれをジャッと一気にめくると、高さ2メートルほどの姿見が現れた。床までびったり鏡になっていて、自分のつま先まで写りこんでいる。
あんの、ナルシスト。
思わず苦笑するが、つと、鏡の中の自分と目があって、一瞬固まる。
あの男の細い指が鏡の中の俺の首筋を、撫でた気して。反射的に、自分の首筋を手のひらで隠す。
そのまま、全裸の自分をマジマジと眺め、身体の見える部分を点検するが、跡などは、どこにもついてない。あいつなりに最低限は気を使ってくれているらしい。
しかし、自分の身体だというのに、妙な違和感があった。こんなに、華奢だったろうか?俺の身体は。筋肉が落ちているのか?トレーニングの量はそんなに減っていないはずだが。吸い寄せられるように、鏡に近づいていた。
「お前は、誰だ?」
ガシャーーーーーンッッ!!
独り言が口の端をついて出た、と思ったらけたたましい音が鳴り響き、既に鏡の中の自分が居なくなっていた。
・・・え?
「アンタ何やってんの!!」
オリヴィエが洗面所に乗り込んで来た。
「手!!このタオルで止血して。今床の破片どかすから!動かないでよ!!」
白いハンドタオルを投げられ、それを受け取ろうと左手を動かすと、激痛が走った。どうやら拳で鏡を割っちまったらしい。なんとか受け取ったタオルで左手についた破片を適当に払い落とし、タオルで血液が滴らないように軽く押さえる。
オリヴィエが裸のまま立ん坊になっている俺の周りを手早く小箒とルームクリーナで掃除し、
「もういいよ。動いて。念のため、シャワーもう一度浴びて来て。破片がついてるといけないから。頭もね!」
長く、奇麗に色づいた人差し指の爪先でピッと胸元あたりを指さした。
「あ、ああ。」
俺はいまだに何が起こったのか理解しかねる頭で生返事をして、言われた通りシャワーに入ることにした。

おざなりにシャワーを浴びて出ると、洗面所には新しい服とガウンが置かれていた。母親に気遣われているようで、なんだか擽ったい。オリヴィエといると楽なのは、こういう気遣いがあるからだろうか。

服をきて、寝室に戻ると、
「アンタさー。本当にダイジョブな訳?」
どこかおどけた口調でオリヴィエが口を尖らせた。
「すまんな、なんか高そうな鏡だったのに。」
俺は何食わぬ顔でガシガシと頭を拭いた。
「そうそう、あれ特注だったのよ、どうしてくれるのさー?って違うってば!」
一度乗りかけて、ギロッとこっちを睨む。
「情緒不安定なんだ。分かるだろ?」
頭にタオルをかぶったまま、備え付けの食器棚に体重を預けてオリヴィエの目をタオルの透き間から、覗く。
「知るか。アンタの情緒なんて!」
とぞんざいな言葉を吐いて、オリヴィエはプイと顔をそらした。

もう気づいてるんだろ、と問いただしたい気持ちがあった。でも問いただしたくない。
知ってるんだろ?相手がリュミエールだってことも、毎週何してからここに来てるかって事も。俺が反対の立場だったら、そんな奴、家に上げるか分からないぜ?むしろ、たたき出すかもな。
「お前、いい男だよな。」
考えていたこととは直接関係ない言葉が漏れた。
「はあ?アンタ一体なにしたいの?アタシを誘ってんの?」
切れる一歩手前みたいな声だ。オリヴィエにしては珍しい。
「さあな?飯にしようぜ。腹が減った。今日の前菜は俺が作るって厨房の連中に言ってあるんだ。」
ひょいと、被っていたタオルをベッドの上に放り投げる。
「アンタね。家にくるのはかまわないけど、家の人間と次々に結託しないでよね。後が怖いわ。」
それを拾い上げながら、額に手を当てて、オリヴィエは呻いた。

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7、届けられた男

『ちょっとアンタたち大丈夫なの?』
『何がです?』
『オスカーとリュミちゃん、アンタのことよ。オスカー、仕事は出来るようになったみたいだけど、なんかどんどん、らしくなくなっていくっていうか・・・最近はほんとひど・・・』
『オリヴィエ。私の小鳥が、貴方のところで羽根を休めているのは知っています。ですが、アレは私の小鳥ですよ。』
『ちょっと、リュミエールっ。』
『貴方が何を想おうが勝手です。アレをどう慰めようが、ね。ですが、私のものを私がどう扱おうが私の勝手というものでしょう?』
『・・・』
『分かったら、お帰りください。オリヴィエ。』
終始、能面のような無表情で窓の外を見やっていたリュミエールは、最後の一瞬、こちらを振り向いて、ふわり、と儚げにほほ笑んだ。

考えていたより、事態は深刻らしい。リュミちゃんの執務室を尋ねて、そう思った。でもこのままじゃオスカーの情緒不安定はひどくなるばかりだし、と途方に暮れて。
事件はその数日後の土の曜日に、突然起こった。

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「そろそろ来るころなのに、今日は遅いねぇー。」
なんて、エントランスに様子を見に行った時、それはやってきた。
馬車が玄関先ギリギリにつける音がしたと思ったら、乱暴に戸が開き、
「オリヴィエ!!いますか!!」
突然見たこともない見幕でリュミちゃんが現れたのだ。アンタたちは、二人揃って一体なんなの・・・とアタシは頭を抱えた。女性の家人はすっかり怯えてしまっている。
「丁度いい。」
アタシの姿を認めると、ニヤリ、とらしくもないニヒルな笑みを浮かべ、左手で引きずっていた長さ2メートルはあろうかという毛布のでかい固まりのようなものをアタシに投げ付けた。アタシは重量のあるそれに突き飛ばされて、思わず尻餅を付く。
リュミちゃんは、外が豪雨のためか、濡れて頬にへばりついた髪を鬱陶しそうに引きはがしながら、
「もう飽きたので、差し上げますよ。どうぞっ、ご自由に!!」
少しだけ高揚した頬に、鋭い眼光でこちらを睨み付け、それに飽きると、フンッとなかりにきびすを返し、手ぶらで馬車に戻って、館から出て行ってしまった。
すごい、めちゃくちゃをされた気がするのに、あまりの壮絶な奇麗さに見とれ、思わず二の句も告げず、見送ってしまった。
「オ、オリヴィエ様っ!」
突然の般若の襲来に呆然と静まり返っていた家人たちが、我に返ってアタシに駆け寄る。
アタシもやっと自分を取り戻していた。この毛布の中身は、多分。
「寝室にこれ運ぶの手伝って。」
アタシは尻餅をついたまま、いやな予感を振り払うように、髪を掻き上げ、小さく指示を出した。

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「なんで、こんなに頑丈にぐるぐる巻にするかなー!!」
ハサミで毛布を固定しているガムテープをちぎりながら、アタシはいらついていた。やっと最後の一カ所も切り終えて、毛布を恐る恐るめくる。
「なんてこと・・・」
目と、口と、腕をタオルで拘束された全裸のオスカーが、ゴロリ、と物のように床に転がった。腕は背中の高い位置で交差され、普通に後ろ手で縛られるよりきつい体勢で固定されている。
「んーーーーーっ!!んーーーーーーっ!!」
あまりのことに、その場に立ち尽くしかけたアタシを、オスカーの呻き声が呼び戻す。
「ごめんごめん。いま外すからっ!」
と、まずは口だけ外すと、オスカーが信じられない事を訴え始めた。
「リュッミエッ!!もう出してっ抜いてくれっ!あぁっっ!はっぁ!」
最後の方は言葉になってない。あわてて目を隠しているタオルをずらす。高揚した頬、涙に濡れ、焦点の合わない瞳。
オスカー!アンタ何打たれたの!?
「あぁぁぁあぁぁああああっつ!!」
絶叫と共に身体が撥ねる。思わず上から押さえたアタシに、痙攣が伝わらなくなったと同時に、低い、微かな電子的な振動音が聞こえてきた。
ヴ、ヴヴヴ、ヴヴ、ヴ・・・
「リュミエール。アンタまさか・・・」
ここには居ない第三者に非難の言葉を浴びせつつ、辛うじて毛布に隠れていた下半身を露出させ、あわててその後ろを確認する。案の上、いや、想像を超えた仕打ちの証がそこにあった。直径7cmはあろうかという黒い物体がそこに穿たれていたのだ。
「オスカー。いい?抜いて上げる。だから力を抜いて?分かる??」
祈るような気持ちでオスカーの耳元に口を寄せ、伝えるが、
「あぁ、あっもう無理っだ!リュミエッ助けッ・・・ん、ふっぅ!!」
達してすぐだというのに、また高まってきたのか、意味不明な反応しか返ってこない。仕方なく、そろり、そろり、と少しずつ力を込め、負担が少ないように螺旋状にネジを抜く要領でそれを抜く。
「あぁあああっ!!やっめっ!!」
後ろに寄り添うように寝そべって、ゆっくりと手を使って抜く。が、少しそれをずらすたびにオスカーの身体が跳ね上がろうとする。それもそのはず、内蔵の動力で動いているらしいそれは、容赦のない動きで、全周に備えられた凹凸をうねらせている。仕方なく、片足をオスカーの下半身の上に乗り上げ、撥ねる身体を固定する。やっと、すべてが抜けるころには、アタシは全身汗だくだった。
だけど、それがすべて抜けてもオスカーの身体の痙攣は多少おとなしくなっただけで、止む気配がない。
「リュミエールッひっ!んぅっ!おかしくなっ、だっっ!」
口の端から泡を吹いて、綴じられた瞼が、目尻が、細かく痙攣を始める。ちょっとっ、このまま死んだりするんじゃないよ?!焦る気持ちを抑えつつ、残っていた腕の戒めを解く。オスカーは、自由にはなったものの、痺れているからか、おぼつかない動きで腕を前に回した。と、思ったら。
「熱っぃ、リュミエっル!身体っなんとかして・・・れっ!んんっ。」
涙に濡れた睫が、照明を浴びてキラキラする。半開きの唇は唾液を溢れさせて、奥に見えてる舌が、頼りなく震えていて。
オスカーは這うようにして、床に上半身だけ起こしてたアタシの腰にすがりついてきた。
「オスカーーッッ!」
オスカーの肩を腰からアタシの肩の位置まで無理やり引き上げて、アタシは力いっぱい抱き締めた。
「っぁっうぅっ」
アタシの服や、ただ抱き締めているだけの腕に触れているだけでも刺激があるのか、小さく声を上げて、その身体が震える。だけど、アタシの背中に回ったオスカーの腕が、ぎゅっと、アタシの抱擁に応えくれ、アタシは少しだけほっとした。
「ずっと朝までこうしててあげる。」
できるだけ、刺激を与えないように、幼子をあやす要領で、その後頭部を撫でる。
「んぅっ、ぁんっはっぅ」
オスカーの顔は、アタシの肩の上に乗っていて、その表情は見えない。多分、見てほしくないだろうし、アタシもそれを何度も直視して理性を沸騰させない自信もない。
オスカーの悩ましい吐息に反応する自分とか、理性と関係なく上気してきた顔は無視しつつ、アタシは、とにかく、この子が眠るまで、ずっと抱いて居てやろうと、それだけ決めて、もう一度ぎゅぅとその身体を引き寄せた。

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8、起きぬけの男

「あら、おきたー??」
オリヴィエの声。いつもは、ちゃんと自分で決めた時間に起きて、勝手に家に戻るのにな、寝坊でもしたか。と、起き上がろうとして、いつもよりだいぶ身体がだるいのに気が付いた。それだけじゃない。
指先や足先が微妙に痺れていてむず痒い。
奇妙に思って、手首をぽりぽりと掻きながら、周囲を少し見回してみた。オリヴィエの寝室のベッドの上?俺、今日はゲストルームじゃなくてこっちで寝たのか?それなら全裸なのはおかしくないか?
だいたい・・・昨日はどうやって・・・

と思い至ったところで、昨夜リュミエールがむちゃくちゃした上に、薬を血中に直接打ち込みやがった後の記憶がないことに気づいた。

「おい。どうしてお前の部屋に俺が居るんだ。」
あまり気は進まないが、確認しないことには始まらない。
氷入りの水をグラス2つ用意してサイドテーブルに置き、オリヴィエは若干憔悴したようにみえる表情で、どす、とベッドに腰を下ろした。
首から上だけこちらにむけて、
「話せば、長くなるんだけどさー?」
なんていたずらっぽく笑う。化粧はなおしたばかりのようだが、そこに疲れが滲み出ている。
「手短に、だ。」
いやな予感がする。
「昨日は大変色っぽかったよ、オスカー。」
語尾にハートマークを付けて、途中経過全部すっ飛ばした答えが返ってきた。顔を覗込まれているのは分かるが、目を合わせる気になれない。
「お前・・・まさか・・・」
言いながら、顔から血の気が引いていくのが分かる。
「してないって。ほーんと。のしつきっつーか、据え膳そのものだったけどね!」
俺の反応をたっぷり楽しむだけの間を空けて、オリヴィエが苦笑して、グラスに口をつけた。俺は心底安心した。守護聖同期二人と関係を持つなんて冗談じゃない。それじゃ、俺は正真正銘、立派なホモヤローだ。
「アンタもいる?」
グラスを軽く上げられ、首だけ使って意思表示する。
「ちょっと口の中ザラザラすると思うから、ゆっくり飲んでね。」
とグラスが渡された。そのまま飲み込むと、たしかにザラザラしている。
「俺、戻したのか?」
「うん。胃液ごと。三回くらいかな。本気でやばいかと思った。何度も。」
オリヴィエの声は珍しく真剣だ。
「迷惑、かけたな。」
胃液の酸で、口の中が荒れたってことか。昔、士官学校の長距離訓練で胃の内容物がなくなるまで吐いた時もそんな風になったよな、なんて俺はお気楽に記憶を引っ張り出していた。
「ここには、リュミちゃんが、連れてきたのよ。飽きたから、アタシにくれるんですって。来たときには何の薬をどれだけ打たれてるかわかんなくてさ。」
「ハハ、そりゃ傑作だ。」
言いながら、吐きそうになる。ふざけすぎだ。あのヤロー。
「いい加減にしてよ。」
オリヴィエが、下を向いて、吐き出すような声で言う。それを、俺はどこか遠くの景色でも見るみたいに眺めていた。いい加減にしてほしいのは、俺も同じなんだがな。あの滅茶苦茶ヤローも。俺のこの体も。
それにしても、あれ以来、なんだか本当に変だ。どこか、現実世界が薄いカーテンの向こうの世界みたいに、ぼんやりと、他人事みたいに感じる。オリヴィエの真剣な声も、どこか遠い。
「いい加減に、してよ。」
ぐい、と突然肩を抱かれて、泣きそうな声で懇願された。
「怒ってるのか?安心しろ。今度俺を押し付けられたら、焼却炉で燃やしていいぜ?生ゴミと一緒にな。」
思わず失笑する。
「あのねぇっっっ!!!」
珍しすぎる怒鳴り声を伴って、身体を引きはがされ、バシッと勢いよく俺の右頬が鳴った。
「っつ。」
口の中が切れる。さすがは男のビンタだ。耳までジンジンする。
「昨日は、優しく労ってくれたんじゃなかったのか?」
歯が血に染まってきっとみっともないんだろうが、せいぜい俺はかっこつけてやった。口の端から血がれ出て行くのが気持ち悪い。手の甲を使って、口元を乱暴に拭った。
「やめてよ。頼むから。何がアンタ達をそこまでさせるわけ?何があったか知らないしって。いい人ぶって取り敢えずアンタ達のしたいようにさせてあげようって知らないふりしてきた仕返しがこれ?」
オリヴィエまで混乱し始めたのか、言ってることが支離滅裂だ。俺は身体にかけてあった薄い布ごと、自分の片膝を抱いた。そしてオリヴィエの横顔をじっと見つめて、その剣幕を、ただ、聞いて居た。
「どうしても女が抱けなくて、でも性欲処理したいってんなら、アタシ手伝うわよ。これ以上見てらんない。死にそうになったアンタなんて、もう二度と見たくない。」
溜まりに溜まった鬱憤を晴らすかのように、一気にオリヴィエはまくし立てた。目尻に、涙が溜まっている。
こいつも、泣くんだなぁ。しかも、俺なんかのことで。
「俺にも分からん。」
オリヴィエは落ちかかった涙をぐっと堪えてこちらを振り返った。
「あいつが、なんで俺を・・・その、抱くのかとか。俺はなんであいつに抱かれるのかとか。」
こいつの、誠意に応えなきゃ、とそれだけ考えて、必死に言葉を探した。ベール一枚向こう側に、オリヴィエがいるのは、俺のせいなのか、オリヴィエのせいなのか。多分、前者だろうと思えたから。
「正直、俺はどっちでも良かったし。お前でも、あいつでも。」
でも。
「あいつ、ただの生理現象だって。人と人が肌を合わせるのは。俺は、そんな風に思ったことない。けどな、じゃあ今俺は何してんだって。女性と出来ないからって好きでもない相手と、しかもされる側で。それなのに、身体は妙にすっきりしやがる。」
そうだ。この自分に対する不信感の正体は、これだ。
「便所と一緒だって。あいつは俺の。俺はあいつの。便所と一緒だって。そう言ってたぜ。・・・ハハっ傑作だろ?」
考えたこともない。だけどそれ以外に説明する言葉も見つからない。奴から言葉を与えられれば与えられるほど、だんだん、自分自身が、薄汚れたどうでもいいモノのように思えてくる。
「あんなこと、しょっちゅうされてんの?」
「薬のことか?いいや。あいつにされたのは初めて、だな。多分。」
あいつにされたのは、なんて言うべきじゃなかった。しまった失言だ、と思ったが、オリヴィエはそれには突っ込まず、代わりに妙なことを尋ねた。
「普段は、やさしい?」
やさしい?そういえばあいつは優しさの守護聖だったっけ、と吹き出しそうになる。
「底意地の悪さに比べれば、普通、ってとこか?」
ルゥにされたことや昨夜の乱暴を考えれば、これまでの行為は至って普通のように思える。しかし、口に出してしまってから、これってすごく恥ずかしいこと言ってないか、なんて思い始めたころ、オリヴィエがふっ切ったように言い放った。
「じゃあ、リュミちゃんが、凶行に及んだのは多分、アタシのせいだわ。」
併せて、肩からふぅとため息をついた。って、なんのことだ。
「アタシ、リュミちゃんの執務室、いったんだよね、何日か前。で、オスカーが情緒不安定だけど大丈夫かって聞いた訳。」
なんだ?その意味不明な質問は。
「したら、リュミちゃん、オスカーは私のものだから、お前が口出すな、みたいなことを言ってきてさ。」
誰の、ものだって!?人を物扱いしやがって!!
一瞬にしてカッと怒りに全身の血が沸く。
「すーーーっごい綺麗な儚げな笑顔で帰れって言われたんだけど、多分あれ、ものすっごい怒ってたんだよねー。」
その言葉に、怒りには燃えつつも、俺は昨日のやりとりを思い出していた。

『なぜ、私のところに来るんです。オスカー。』
責めるような目に、
『他にアテがないからだろ?』
と反感を込めてにらみ返した。
『アテなら他にいくらでもあるでしょうに。』
剣呑な笑い方をして、奴の目が嫌な光り方をしていたのを覚えている。
俺は大して気にしてなかったので、いつも通り事に及ぶのかと思っていたら、いきなり鳩尾を殴られて、その後は拘束されるわ、腹に蹴りを入れられるわ、変な物を突っ込まれるわで、めちゃくちゃされ、挙げ句に腕から薬を打たれたんだった。
あいつ、ルゥは別人格だとか抜かしてたけど、地も大して変わらねーんじゃねーのか、と、思い出しながら身震いする。

しかし、他のアテ、と奴が言ってたのが、オリヴィエの事だったとは。
「だが、それじゃあ奴が怒る理由がないじゃないか?」
尤もな疑問をそのままぶつける。と、
「たはっ!!」
と、オリヴィエは、おやじ臭い笑い方で失笑して、
「アンタってなんつーかさー・・・恋愛経験豊富なオスカー君にはわっかんないかなぁーーー?」
クックック、と鼻頭に皺を寄せて、手を振りふり、馬鹿にしたような口調でいう。
「なんだよ。恋愛経験ありすぎるとわからんよーな事なのか?」
俺としては真面目に気になる。俺は自慢じゃないが、人間の機微には敏感な方である。
「さあね。まーでもそーか。そんならいいや。毎回死にかけてるのかと思ってビビっちゃったけど。リュミちゃんもアンタもよくわかんないけど、過渡期ってことね。」
いつもの調子のオリヴィエがそこにいた。
「過渡期?なんの過渡期だ。」
「大人になるための、よー。決まってるじゃない!」
冗談じゃない。
「おい。お前な。俺がお前より子供なんて事があるかよ?」
「あらっ?!じゃあアタシも過渡期なのかしら??っきゃー!うちら三人もしや思春期まっさかりだったりして?!はー!!青春のか・お・り♪」
「うるさい!さーわーぐーなー!」
得意の一人でお祭り騒ぎが始まって、俺はたまらず耳を塞いだ。

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9、不要な男

昼を食べ終えて、執務室に戻ろうとリラを片手に聖殿のホールを抜けかかった時だった。ふいに、肩を、二度叩かれ、振り返ると。
バシィッッ
すさまじい音が、天井の高いホールに響き渡った。周囲の人間全員がこちらに注目する。
「・・・痛いですよ、オリヴィエ。」
暫く何事が起こったのか分からなかったが、叩かれた頬を手のひらで押さえて、私はゆっくりとその同僚の目をみた。
「下手すりゃ死なせるところだったわよ、アンタ。」
珍しく、きつく、真剣な眼差しが私を捉える。幼子を叱りに来た、母のように。
「今度やったら、許さないっっ!!」
「目立ち過ぎます。声を落として。第一、アレは、貴方に差し上げたでしょう。」
ささやくような声で、私は早口に告げた。
と、ふいに彼がふっと口元に華やかな笑みを浮かべる。意表を突かれて私がそれに見取れていると、
「取り上げたり、しないわよ。アンタの物を。だけどね、ソレはね。アタシも欲しかった物なの。だから。大切にしなかったら、許さない。」
ジロリ、とそのダークブルーの瞳が見開かれる。豪奢な睫がそれを大切な物を守るように縁取っていた。
「私は。オリヴィエ。」
ゆっくり、小さな声で、けれど噛み締めながら言葉を継いだ。正確に、意図が相手に伝わるように。
「何かを大切にしたことなど、ありません。」
そう、貴方達とは、もともと構造(つくり)が違うのだ。
「ですから・・・」
と、繋ごうとしたところで、片手で軽く、口を塞がれる。
「それは嘘。例えばこれは?」
と、オリヴィエはもう片方の手で、私の抱えていたリラを指さす。
「貴方の大好きなハープは?大切にしたことなどないの?」
それは・・・と、考えているうちに、ゆっくりと、口を塞いでいた手が離れていった。
「勿論手入れはしますし、乱暴には扱いませんが。」
「それと同じことよ。手入れして、自分の好きな曲を奏でて、しまう時にはそっとしまって。手入れは、あまり間隔を空け過ぎない。でしょ?」
その通りではあるが、それは楽器の話だ。
釈然とせず、だがうまい反論も思いつかず、ただ漫然とその瞳を見つめ返すと、
「あのねぇ、アタシは、何もあの子を愛してやれとか、そんなすごいことをお願いしているわけじゃぁないのよ?」
人差し指が、その先にある装飾の施された長い爪が、私の顔をビシッと捉えた。
「ただ、大事にしろっていってるだけ。そのリラの、次くらいに。」
私は、向けられた人差し指を、やんわりと手の甲で押しのけながら、
「それは、面倒ですね。」
とだけ言った。
「あれは私の物だって、最初に言ったのはアンタなんだから。せいぜい後悔すればいいわ。後悔だけならタダだしね。」
余計なことを言う物じゃないな、こういう律義なタイプの人間には。末まで祟られそうだ。と、既に盛大に後悔し始めていた。
「私は、楽器の手入れ以外、知りません。」
やる気なく、反駁すると、
「あら、似たようなものよ。良い音が、鳴るでしょう?」
うっとりと、指先を使って、私の髪を一束すくい上げる。その言葉に、やはり、抱いたのか、と脳の奥がすっと冷えるのを感じた。自分でそうなるように仕向けておいて、やはりおかしい。一体何を、試したがっているのだろう。私は。
「怖いけど、綺麗な表情(かお)ね、リュミエール。まるで、壁画に出て来る神様みたいに。でも誤解しないで。人の物に手を出すのはアタシの趣味じゃ無い。アタシ、気に入ってるの。今の状態。だから、あのケダモノは、アンタのものよ。失ってからじゃ遅いの。分かる?」
人の目をのぞき込むようにして、子供を諭すように、静かに告げると、すい、と猫のような動きで身体を躱して、そのまま通り過ぎていった。
私が、それを追いかけるように振り返ったものの、何を言うべきか掴みかねて、
「どうせもう来ませんっ。」
自棄になって叫ぶ。
「大事にね。」
オリヴィエは、その結果を分かっているかのように、後ろを向いたまま手をヒラヒラと振った。

壁画に出て来る神様?この私が??・・・ありえない。
アレを楽器のように大事に?それもありえない。
だって相手は獣だもの。縛って、苦痛を強いて、服従させなければ。
『リラの次くらいに』
『愛してやれとか、そんなすごいことを、お願いしている訳じゃぁ、ないのよ。』
『だから、あのケダモノは、アンタのものよ。』
そんなもの、要らない。
本当に欲しかった物は遠い昔に失ってしまったものだから。
もう手に入ることのない、ものだから。

『失ってからじゃ遅いの。分かる?』

「分かりませんよ。オリヴィエ。」
クラヴィス様のような理解者がいて。適度な仕事と休日があって。休日には絵を描いたり、マルセルと庭をいじったり。十分満ち足りていると。あれ以来、本当に思っていたんです。以前のように過去を封印するようなやり方でなく。過去から逃げずに、この生活の中でやっていけると、そう思えたのに。

それなのに、あの瞳を見ると、心が乾く。
何故、こんな想いをしなきゃいけない。
ダッタラ、ソノメヲ、ミナクテスムヨウニスレバ・・・
これでは昔に逆戻りだ。毎日、あの男を殺す夢を見ていた、あの頃に。

だって、リラは、ハープは、壊したくならないもの。
でもあの瞳をみると、壊して、小さくして、隠してしまわなければ、と心が乾いて。衝動を、抑えられなくなる。
ギュッと、強く。私は自分の身を抱いた。私の中の眠ったはずの獣が、決して外に飛び出して来ないように。もう二度と、起き出してこないように。



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