終章 おだやかな時代・3


その男は、朝からかかった招集にも出席していたし、どうやらすっかり回復して、午後から執務に励んでいるようだった。相変わらず仕事熱心なことだ、と呆れ半分に少々感心する。

私のサクリアはどうやら安定したらしい。宇宙も落ち着きを取り戻した。研究所の話では、一度くずれたバランスは、急激に元に戻ることはないが、それでもだんだんと回復に向かう傾向だという。

新月にもう一人の自分に身体を支配される、という奇妙な現象は起こらなくなり、頭痛の種はひとつ減った。
代わりに鬱陶しい記憶がしっかりと蘇ってしまったが、これはもう一人が出現し始めたころから、ある程度分かっていたことなので、諦めがついた。
何より、たとえ夢の中とは言え、あの男が殺される惨状をみて、長年の溜飲が下がったのかもしれない。だとしたら、自分もあの男に負けず劣らずの悪趣味の持ち主ではあるが。
しかし、あれ以来、妙にすっきりと、爽快な気持ちがしているのは事実だった。

あの時、最後に頭をよぎった、「母さん、助けて」は極め付けに意外だったが、そこしかよりどころがなかった自分が、本当は母に助けを求めたいのを、我慢して、あるいは助けても、気づいてもくれない母をある意味で憎んでもいたのかもしれない、と思い当たり、妙に納得した。
我ながら随分と倒錯している。倒錯している自分を受け止めることができるようになったのは、もう一人の、あのどこか子供じみたヒステリックな自分が、既に自分の中に解けこんでいるせいだろうか。

いずれにせよ。自分が自分を受け止められずに、人格分裂などという、情けない事態に陥ったのは、あの赤い髪の少年のせいだ。
あの一件で、そのことを思い出した。

あの日。図書館での一件が、すべてのきっかけだった。
聖地に来たばかりの、あの日。図書館で妙なコンプレックスを刺激されたのがきっかけで、私はもう一人の自分に、記憶を封印したのだ。
すべての始まりは、そこから。

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コン、コン、と多少、力を込めて、その執務室の扉を叩く。
幼い頃に、兄たちに悪戯を仕掛けた時のような気持ちが足元から沸き上がる。

「どうぞ」
聞き慣れたハスキーな声が中から短く答えた。
扉を開くと、見ていた書類から目を離さずに、赤毛の男が言う。
「リシアか?ちょっと待っててくれ。今この一枚で終わりだ。」
事務員か、秘書の名前か分からないが、誰かと勘違いしているらしい。
仕事をしているときは、端正なその顔がやけに引き締まってみえるから不思議だ。だが、仕事上の付き合いの女性を、ファーストネームで呼ぶ当たりはさすが、女誑し、と言ったところか。

構わず、その執務机にずんずんと近づく。
その男の目の前にたって、私は右手を差し出した。

「私は、水の守護聖、リュミエール。優しさを司る者。」
一気に言い、
「はぁ?」
と困惑して持ち上げられた、そのアイスブルーの視線を、飛び切りの笑顔で見つめ返す。差し出された手を、眉を顰めながら胡散腐そうに見、再度私の顔をマジマジと眺めて、心配そうな声で男が言った。
「お前、熱でもあるのか??」

私は書類を掴んでいたオスカーの右手を、無理やり書類からはがして、つかみ取り、何年も前に失敗した握手をやり直した。

そこまでやって、
「ふぅ、清々いたしました。ではオスカー、ごきげんよう。」
くるりと、クエスチョンマークの渦に巻き込まれた男に背を向け、その部屋を出た。

「『我、地に平和を与えんために来たと思う勿れ。我、汝等に告ぐ。然らず、むしろ、争いなり。』人は争い、憎み合うものだ。」
呪詛のように、男はいい、その呪詛で固められた模様の腕輪で、自由を奪った。

あの卑劣な男が、王立協会の枢機卿だなんて、聖書を語るだなんて、お笑いだ、と思いながら、それでも、その家紋をみると、言い知れぬ畏怖の念を消すことができなかった。

けれど。その呪いの腕輪も、足輪も。あの強く猛々しい業火によって跡形もなく、焼き尽くされてしまった。
正義感の固まりのような少年が、昔、私を追い詰めて、かき乱した。その代わり先日は、その広げた傷ごと、全部吹き飛ばしてくれた。
聖地と故郷の間の、時の流れの差の中で、もうあの男も、母も、その呪いも、遠い昔の話になったのだ。
今なら、素直に、そう思える。

 もう、忘れたり、押し付けたりしません。
 本当に?
 ええ。でも、もういいでしょう?もう、過去の思い出にしても。
 思い出。母さんも?
 そう。だって、もう母さんに確かめることなんて、できないもの。

そう。怖くて。確かめられなくて。だから、自分だけで、あの悪意が通り過ぎるのを待った。

『僕がこんなに汚いと知っても、抱き締めてくれますか?』

代わりに抱き締めて、汚いものすべて、火にくべてくれた人がいる。
心の中に凝り固まっていた亡霊は、もう追いかけてくることはないだろう。たまに、私の足を止めることはあっても。

礼を言うつもりなど毛頭なかった。もとは、やはりあの少年が悪いのだ。けれど、こうも思っていた。

いつもつっかかってくる、あの相反するサクリアの持ち主に、私が言いたかった、本当の言葉は。少年の日に伝え損ねた、
「こっちをみて。話をきいて。」
ではなかったか、と。



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