3章:喪失の感触



「『お前には、本当に済まないけど、許してほしい。それから、オスカー様を恨むなよ。』だってさ。」
細みの身体を、もたれ掛かった木から引きはがすのに合わせて、所々、美しく染められたパッションブロンドが鼻の先でふわふわと揺れた。
良い香りがする。なんの香りだろう。高級なオーデコロンか何かだろうか。
「ちょっと!アンタ、人の話聞いてる?」
苛ついた声で、下から睨み付けられて、俺は初めてその人の瞳を見下ろした。こんなに、あの赤毛の男以外の守護聖様の側に立つのは初めてだ。きっと、兄貴なら恐縮して身体を遠ざけるに違いない。
「ええ。聞いてます。」
俺は、静かに、無表情に、それだけ告げた。
「確かに、伝えたからね!」
苛ついた顔付きに戻って、彼はこれまた奇麗にデコレーションされた爪の先をピンと伸ばして俺の顔を指さした。
「ええ。・・・ただ、・・・一つ。質問が。」
俺は無表情を崩さずに、その指先をじっと見つめた。
「何?なんで止めなかったのか、とか余計なこと聞かないでよ??できたらアタシがこんな伝言伝えに来てないことくらい分かるわよね?」
剣呑な笑い方で、眉を上げ、オリヴィエ様が声を低くする。そのダークブルーの豪奢な睫に縁取られた瞳は、真剣そのものだ。
「そいつは御愁傷様です。」
俺は軽く失笑してから、
「質問はこうです。『恨むな』が兄貴の最期の台詞ですか?」
と聞いた。別にこの人に恨みはない。
オリヴィエ様は記憶を辿るように、瞳を一度巡らせ、思い出しながら、といった感じで口を開いた。
「最期の・・・?最期は、確か・・・オスカーが戻ってきて良かったとか、そんなことだったと思うけど。」
でしょうね。
俺は自分がにこっと笑い顔を作るのを、他人事のように冴えた頭で感じ取っていた。
「いえ、気になっただけです。有り難うございます。オリヴィエ様。損なお役目、御苦労様です。」
皮肉でなく、本心からそう思ったのだが。
「皮肉はよしてよね。ま、せいぜいお兄ちゃんからの言い付けだけはしっかり守んな!」
するっ、と目の前で身を翻して、その麗人は後ろ頭でサラッと言い捨てた。

『オスカー様を、恨むなよ?』

目を閉じれば、兄貴が人の良い笑顔を浮かべて俺に言う姿がありありと思い描けた。
「はは、泥棒に『止まりなさい』というのと大して変わらんぜ。」
俺は口の中で呟いてから、両目を片腕で隠し、まだオリヴィエ様の体温が幾ばかりか残った木の幹に、正面から身体を預けた。

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秘書の役目を無理やり引き継いだはいいが、最初はその量の多さに気分は滅入る一方だった。
「ほんとに兄貴が、こんなことまで全部こなしてたのか?」
俺はウソだろう、と執事のオバハンに愚痴った。
「こなしてたよ。それだけじゃない、屋敷の雑務だって気が付いたらなんだって引き受けてくれたしね!男手はここでは俺一人だからといってさ!」
女性にしては恰幅の良い、その執事に背中をどん、と大きく叩かれて、俺はげほっ、と思い切り咽せる。
兄貴らしい・・・。俺は微かに笑った。
「あんた達、兄弟は二人ともよく働くよ。」
執事は目を細めた。
「よせよ、オバハン。俺は兄貴みたいな優等生じゃない。今さっきも、オスカー様に怒鳴られたところだぜ?」
俺は眉を上げる。
「同じ顔して、あんたは口が悪いのが欠点だけどね!」
執事も意地悪く一度ふふふ、と笑い返し、不意に、その顔を真面目に引き締めて言った。
「オスカー様は、仕事に・・・特に公務にはとても神経を使ってらっしゃるから。アンタはそれをお手伝いしてるんだ。熱も入るってもんさ。」
知ってるよ。と、俺は失笑する。
公務には神経を使いまくってることも、無神経に見えて館の中の事に気を配ってることも、俺に熱心に仕事を教えてくれてることも。
「それで?帳簿の内部監査はこれで終わりだろう?さっきの、香辛料を地下に運ぶって言ってたやつ、手伝うぜ?」
俺は指先を伸ばして、処理の終わった端末のディスプレイのスイッチを切り、オバハンに向き直った。
きょとん、と一度オバハンは瞳を開いて、
「やっぱ、あんた達はよく似てるよ。」
と気持ちよく、コロコロと笑った。
こんな時はいつも、兄貴が、一緒になって俺のすぐ後ろで笑っている気がする。
俺はゆっくりと、小さく振り返って、いつも、その幻に笑いかける。
そうだな、仕事の量は多いけれど、やる価値はある。
ここには、兄貴が居るのだから。

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明日のスケジュールはフィックスしてっから、俺は気にしなくていいだろ。んで、明後日は通常公務に加えて、会議が一本入ってるだけで、今のところブッキングはないし、確かに会議資料も時間も知らせたし・・・。後はオバハンに館の仕事で力仕事系がないか聞いて、寝るだけ・・・か?
俺は指折り、ぶつぶつと仕事の確認をしながら廊下を速足で歩いた。
「きゃっ!!」
前をあまり見ずに歩いていて、誰かを突き飛ばしてしまう。この館は背の低い女だらけで困る。大抵の障害物は俺の視線のえらく下にあるから、ついつい気づくのが遅れてしまうのだ。
「大丈夫か。」
俺はとっさに腕を伸ばしてクリーム色のふんわり頭を支える。
「あ、はい。」
俺の胸の下くらいにある頭がぐっと上を向き、オリーブ色のでっかい瞳が済まなそうに俺を見る。
「・・・リュウ様。ごめんなさいっ。私、前を見ずに歩いていて・・・。」
ぺこり、と突然下げられた頭がもう一度上を向く頃には、オリーブの瞳が少し潤んでいた。
「様」はどうも慣れないが、この館の者達は、執事や一部の年長者を除いて全員俺のことは様付けで呼ぶ。先々代の初代秘書からずっとそうらしく、止めてくれと言っても結局直らないまま、今に至っていた。
「・・・どうかしたのか?」
女の泣き顔は苦手だが、放っておく訳にも・・・と俺は、抱えていたファイルで頭を掻きながら、申し訳程度に無愛想に聞いた。
「あの、その。実は今日、母の身体の調子が悪くて早く帰りたいんです・・・けれど、オスカー様の寝室に入る許可がまだ下りてなくて・・・。」
焦っているのか、いまいち要領を得ない。
「・・・?何かどうしても今日中に取り替えるものでもあるのか?」
「タオルとガウン・・・いつもお休みの前にシャワーを浴びられるから・・・。でも、いいんです。多分内線のランプに気づいてらっしゃらないんだわ。もう一度、時間を空けて伺ってみます。」
困り果てたように顔がくしゃくしゃになり、目元に溜まった涙がじわじわと量を増していく。
全然・・・解決になってないだろうが・・・。
俺は天を仰いだ。タオルとガウンぐらい、部屋の前に置きっぱなしにしてても、別にあの人なら文句も言わなそうだけどな、とは思ったが、まあ彼女も仕事でやってる以上、主の許可がないのに勝手なことはできないのだろう。
「俺が直接、部屋にいって聞いてくる。お部屋で一人のはずだし。何かなさってても、怒鳴られるのには慣れてるしな。」
俺はため息をはき出しながら、その潤んだオリーブ色の瞳に、ほんの少しだけ笑いかける。
「そ、そんなっっ!!」
と彼女は遠慮しそうになったが、
「お母さん、病気なんだろ?行ってあげた方がいいぜ。側に居ないうちに、ひどくしたら後悔するだろ?」
死に目に会えないのは、もっと最悪だぜ、と続けたい言葉を飲み込んで、俺は単調に告げた。
「同時に新しいのにも取り替えるよな?俺が後で持って行くから、俺の部屋の前に用意しておいてくれ。とにかく、もう帰んな。」
その華奢な肩を、そっと叩く。その小さな衝撃で、ほろり、と溜まっていた涙が一粒落ちた。
「あ、あの、本当に有り難うございますっっ!!有り難うございますっ!!!」
ペコン、と90度に二度、頭を下げて、その小さな生き物はぱたぱたと廊下を走っていく。
俺は執事の部屋によってから、その用事を済ませるとするか、とファイルでトントンと自分の肩を軽く叩いた。

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あの細っこい身体を拭くのに、ここまで沢山タオルがいるかね?と俺は不満に思いつつも、フェイスタオル、バスタオル、ボディタオル、フットマットの4本のタオルと、ガウンの入ったバスケットを持ちあげて、赤色の髪の男の寝室に向かった。
外出していなければ、日の曜日の夕食後は応接室で本を読んでいるか、寝室で休む場合が多い。多分、内線に返事がないということは、もう既に仮眠を取り始めているのだろう。
「寝起きがあまりよくないからなぁ・・・。」
と俺は一人ごちながら、廊下を早足に進む。

が、部屋の前まで来ると、中から明かりが漏れており、なにやら話し声がした。寝てないのか、と不思議に思いながらも更に近づくと。
ガタンッッと険呑な音が一度。
え?と思って聞き耳を立てていると、
「おいっっ、よせっ!」
赤毛の男の聞き慣れた声が、悲鳴のように上がった。

曲者かっっ!?
「オスカー様っっ!?」
俺は何を考えるよりも前に、バスケットを床に落とし、そのドアを乱暴に開け、飛び出して自分の構えを取った。

「・・・リュウ??」
寝室の窓は大きく開いており、そこから冷たい夜風が入ってきて、何者かが外から進入したことを裏付けていた。が、警護対象の男は、ベッドの上で、鳩が豆鉄砲を食らったような顔をして素っ頓狂な声で俺を呼んだだけで、一向に指示を飛ばさない。
それを多少怪訝に思いながらも、俺の直感は、手前にみえている白い背中の長髪の男を、明らかに侵入者だと断定していた。赤い髪の男は、シーツのようなものを身にまとっているから、裸ではなかったが、長髪の方は完全に素っ裸で、ベッドの上で四つ這い気味になっている。第六感で、何かとてつもなく厄介な敵を相手にしている時独特の嫌悪感を感じ取っていたが。
「誰だっ!!」
それを振り払うつもりで、俺はその白い背中に低く怒鳴った。
「・・・私ですよ。」
素っ裸のまま、ゆっくりと振り返ったのは・・・
「リュミ、エール様?」
俺は、呆気に取られて、構えた両手が自然と下がっていくのを感じた。
「これは・・・・??」
何が何だか分からない。何故リュミエール様がこの男の寝室に素っ裸で?
完全に思考停止に陥りかかっている俺に、リュミエール様が、にっこりと優しく笑いかけた。
「これから良いところなんです。邪魔しないでいただけますか?」
その一言に、俺は、遅ればせながら状況をやっと理解した。
・・・
「し、失礼いたしました。」
かっ、と頭に血が上り、ごくり、と喉が鳴る。
「ち、違うぞ。リュウ。」
「大変お邪魔いたしました。あの、エヴァがタオルとガウンの替えをしたいと言ってましたので、部屋の外に置いておきますね。」
「ち、違うぞ!!」
主の悲鳴が聞こえた気がするが、ただの弁解で、命令ではないようだったので、俺は聞こえないふりをすることにする。
そのまま、部屋を出て、なんとか扉を閉めた。

・・・つまり、夜這いだよ、な。
と、俺は鼻の頭を掻きつつ頭を整理する。手に変な汗をかいていた。
女と見れば、片っ端から声を掛けて、優しく接している上に、男は嫌いだと公言して憚らないから、よほどの女好きと思っていたが・・・。まさか・・・リュミエール様とそういう仲とは・・・。
全く気づかなかった。
俺は、ふぅ、はぁ、と一度深呼吸を入れてから、先ほど廊下に取り落としたバスケットの中身を確認する。
問題ないな・・・、と俺は枚数を確認して、それを部屋の前にまっすぐにして置く。と、扉の向こうから、なにやら又言い争いの声が漏れ聞こえる。
「・・・おまぇっ!」
「・・・っ?」
「・・・減にしろ!・・・くっ・・・ぁっ!」
・・・。
人払いをしないといかんな・・・。なんとはなしに、思い及んで、俺は自室に戻りがてら、周囲の給仕達に声をかけて廻った。廻りながら、段々と、俺の中の何かが目を覚ますのを、またどこか他人事のように感じる。

何故、俺は部外者が侵入したと思ったとき、あの男を守ろうと思ったのだろう?
警護対象を守るように、ガキの頃から躾けられてきたからか?
俺は、兄貴のように、命まで張るのはごめんだぜ。
まして、兄貴の敵(かたき)の為になどな。

凶暴にささくれ立っていく気持ちの中で、一つの疑問が湧く。
何故、あの男の為に働く?
あの男の為に、俺は譬え指一本でも、動かしたくないはずではないのか?

・・・兄貴は・・・。知っていたのだろうか。あの男と、リュミエール様のことを。
『オスカー様は、リュミエール様が・・・苦手なんだ。だから今回の出張は・・・。』
兄貴が死ぬ直前に二人の関係について言っていたことを思い出す。

ク、と喉が自然に笑い声を漏らす。
あの余裕に充ちて、いつも自信満々の太々しい男が、あんなに焦って何かを否定するのを、俺は初めて見た。
「いい方法を思いついたぜ?」
アンタの側に居ると、兄貴を近くに感じられる。
兄貴と共にアンタの側に居よう。兄貴とアンタが過ごした時間より、ずっと長い時間を。
俺はアンタの従者、アンタは俺の主だ。一所懸命に、尽くすとも。
だけど、俺はアンタの為に働く自分に何か褒美をやりたいんだ。

だから、一つだけゲームをしよう。
たかだか従者の考える姑息なゲームだ。
主のアンタがそれを看破するなんて、造作もないことだろう?
自嘲気味な笑いが俺の胸に満ちる。

「何故、そんな顔をするんだよ。・・・兄さん。」

自室の扉を開ける。ベッドはまだ二つとも、残したままだ。
俺は兄貴のベッドの前に跪いた。

「怒ってるのか?」

ベッドの上に見える寝顔は、返事を返さずに眉を少し寄せる。
そっと、その髪に手を伸ばす。
やがて、その幻も部屋の空気に解けて。

俺はいつものように、なかなか寝付けない夜をやり過ごすことだけに集中し始めた。

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その日。何かの気配で、俺は目を覚ました。
聴覚だけが先に覚醒して、背後のベッドから、ギッギギッ、と。不規則にスプリングがきしむ音を聞き取る。俺は寝返りを打って、うっすらと目を開けた。

ギクッッ

と、隣のベッドで兄貴の背がその寝返りの音に反応して、固まったのが見えた。

・・・。
何をしているのかは察しがつくが・・・。狸寝入りを続けるべきか、それとも「俺は寝るから気にせず続けろよ。」と声をかけるべきかが問題だ。致すべきか、致さざるべきか・・・うーん・・・。
考えているうちに、兄貴の我慢は限界に達したらしく、何やらごそごそと続きが始まる。
俺は狸寝入りを続けるより他になくなってしまった。

何故か、丸まった背中から目が離せず。月明かりだけが僅かに差し込む薄暗い部屋で、俺はその様をまるで瞳に焼き付けるが如く、凝視してしまっていた。
暫くの間、その不規則な軋みは続き、グッ、と一瞬兄貴のでかい背中が小さく縮まって、何事か呟いた。
「・・・カ、さ・・・まッッ!」
・・・。
いやいや、まさかな。ありえねぇ。聞き違いだ。ぜってぇ。
「・・・はぁっ・・・。」
熱を放ったらしく、空しいような寂しいような、はたまた色っぽいような、微妙な吐息が漏れて、後始末をごそごそと始める音がする。
俺は、何か異様な感情の高ぶりを感じて。とても寝直せるような心境ではなかったが、かといって起きる訳にも行かず、力いっぱい目を瞑って、自分の内部の熱が収まるのを待った。
寝られず悶々とする俺のことなど知る由もない兄貴は、済ませることを済ませてすっきりしたらしく、数分後には衣服を整えて安らかな寝息を立て始めた。
「オスカー、様・・・。」
今度は、はっきりとした寝言が聞こえ、俺はただでさえ内容の薄い自分の脳みその中身が、真っ新(まっさら)に上書きされるのを感じた。

ね、寝れん・・・。

結局、そのまま俺は一睡も出来ずに朝を迎えた。

「おぉ?!珍しいな、リュウ。俺より早いなんて。」
朝からいつでも、スロットル全快で寝起きのよい兄貴は、パチッ、と時間通りに目を覚ます。ベッドの上で布団を巻き付けたまま、特にやることもなくあぐらをかいて固まっていた、不機嫌極まりない俺の頭に手を伸ばし、明るく声をかけると、ぐしゃ、と潰した。
俺も普段なら兄貴とまではいかないまでも、寝起きはいい方なのだが、今日ばかりは勝手が違う。なにしろ、「寝てない」のだから。
兄貴は寝間着をちゃきちゃきと脱ぎ、下着だけになって、執務用の制服に着替え始める。いつも見慣れているはずのその光景に、何かしら不謹慎なものを感じて、俺は視線を泳がせた。
「ほら!せっかく早く起きたんだ。おまえも着替えてお庭の世話くらいして来い!」
今度は頭を後ろからはたき飛ばされる。兄貴が俺の頭を幼少の頃から叩きまくるから、兄弟なのにこんなにオツムの出来が違ってしまったんだ。絶対にそうだ・・・。俺は確信しつつ、言い返す。
「庭担当のブラッケ夫人は、昼からの方がいいってさ。厩舎担当のリヒター夫人は、朝早いみたいだったが・・・。」
「それじゃあ厩舎をお手伝いしてこい!厩舎なら、男手は使い手があるだろ。ほれっ!!」
しまった・・・一言余計だった。布団を取り上げられて、俺はぶすくれる。
「行くんだぞ、いいな!!オスカー様は男嫌いで有名なんだ。置いてもらってるだけでも有り難いんだぞ!俺達はっ!」
部屋を出る間際に、兄貴は身体ごと振り返って、人差し指を立てつつ、そう言い残して、後ろ手に扉を閉めた。
オスカー様・・・。ねぇ・・・。
と、頭を掻いて、隣の綺麗に整えられたベッドを見やる。

う・・・。いかん、思い出したら催してきた。
男の主を想って致す兄貴もどうかと想うが、主を想って致す兄貴をオカズにする俺は確実にその上を行っているのではなかろうか・・・。
冷静に自分につっこみをいれつつも、俺の身体は火照る一方で、自然、手の動きも熱っぽくなる。
「・・・なんだっつーんだ、一体・・・。」
達してもなお、顔の火照りが収まらぬままに、俺は拳を枕にぼす、と埋めた。

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数日後。
またしても俺はその現場で、目を覚ましてしまった。
兄貴、頼むからトイレとか庭先とか、どっか違うところでやってくれよ、などと泣き言が言えるはずもない。
必死で狸寝入りを再度決め込もうと、俺は壁を向いたままに、ぐっと強く目を瞑った。
のだが。
「あっ、ぁ・・・。・・・ッスカー・・・様ッッ。」
耳裏を擽る声に、俺は耐え切れず、大きく寝返りを打ってしまう。
ビクッッと、数日前と同じく固まった背中に、俺は吸い寄せられるようにして、自分のベッドを降りた。
途中で手を止めたままに、一瞬逡巡して、振り返ろうとする兄貴の背を、そのまま押さえ込むようにして、俺はベッドに乗り上げ、背中から抱く。
「リュウ?」
兄貴が、どこか緊張した声で俺を呼んだ。
「いいから、そのままオスカー様の事でも考えてな。」
俺は、背後から手を伸ばし、兄貴のそれをやんわり上から握って耳裏から囁いた。兄貴の身体が強ばって、
「お、おい。止せ・・・。」
さっきまでの熱っぽさが嘘のような、固い声を発した。だが、身体の熱はまだ残ったままだ。それを良い事に、俺は上からその身体をがっちり押さえ付ける。
「・・・リョウ。」
兄貴を名前で呼ぶのは、多分今が初めてだ。と俺は思いつつ、声を低くして呼んだ。
手の中のものが、ぐん、と力を漲らせる。
「っはぁ・・・。」
以前の、空しい吐息ではなく、熱さだけをもって、掠れた声が上がる。兄貴の顎が上がるのを見て、俺は頭の中で何かが暴発する音を聞いた。
耳元で、ほとんど耳を舐るようにして、名を何度も呼び、何かに突き動かされるようにして、俺は手を動かした。
「ふっ・あ・・オ・・・カ・・・っさ、まッッ!!」
間もなくして迸った兄貴の精は、兄貴の顎先まで飛び、その首にほとんど顔を埋めるようにしていた俺の髪まで汚した。

「兄貴・・・。」
兄貴の息が整うのを待って、その顔を覗き込もうとしたが、パシ、と兄貴の手の甲が乾いた音を立てて、俺の頬を払った。
「二度と・・・するな。」
声が、震えている。
俺は兄貴の身体を抱き締めていた腕をゆっくり解いた。
「気持ち良かったんなら、いいじゃねぇか。」
と、俺は陽気を装って言ってみるが、
「二度と、するなっ!」
今度は少なからず怒気を孕んだ声で言われる。兄貴は身体をがばっと起こして、こちらを睨んだ。
髪をセットしていないと、すこしだけ幼く見える兄貴だが、その瞳を月光に輝かせて睨む、真剣な怒り顔は、やはりどこか、恐ろしかった。見慣れている俺でもそう思うんだ。おそらく他人がみたら、余程だろう。
「怒ったのか。悪かったよ。もうしない。」
俺も身体を起こして、両手を上げ、降参のポーズをつくって、顔を下に向けた。
「分かればいい。約束だぞ。」
兄貴は下半身と顔を汚したままに、人の良さそうないつもの笑い顔を見せる。俺は再び何かが自分の中で暴発する音を聞いた気がしたが、耐えて、視線を逸らした。
「後始末しねぇと。顔、汚れてるぜ。」
まるで泥遊びをした後のように、俺は努めて淡泊に言い、それ以上、変な空気が続かないように、細心の注意を払ったが、
「お前の髪も汚れてる。俺って元気なんだなー・・・。っていうか寧ろ立派な変態だよな・・・。」
と、繋いで、呑気に俺のべとついた髪に失笑しながら手を伸ばした兄貴は、そもそも、変な空気を感じてすらいないように見えた。

『よくわからんが、お前がブラコンなのはよく分かったよ。俺は、男は嫌いだ。特に、無礼な男と俺よりでかい男はな!!』

何故か分からないが、突然。つい先日、投げ付けられた捨て台詞が脳裏にフラッシュバックした。
ブラコンの域を越えてしまった気がする・・・。俺は鼻の頭を掻いた。

「元はと言えば、兄貴が悪いんだ。こんなとこでするんじゃねぇよ。」
なんとはなしに、苛立って言った。
「悪かったよ・・・。でも他にする場所がないだろ?」
「外でやれ。外で。」
「アホか!そんな立ちションみたいな真似ができるかよ!まさかお前・・・。」
「してねぇよ。」
「・・・。」
「してねぇって!!」
「・・・。」
「してねぇっつってんだろ!?」

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余韻に浸って、目が覚める時は大抵顔が笑っている。そして、それが夢であるという現実を嫌でも思い出す。
朝起きると兄貴のでかい手が、俺の後ろ頭をはたき飛ばす感触がする。
俺の手はそれを捕まえようと自然とスイと伸びて。毎朝、空(くう)を掴む。

いつのまにか、眠り込むことに成功したらしい。見る夢は決まって、幼い頃の夢か、こっちに来てからのその時の夢か。大抵どちらかだった。
秘書業務についてから、寝る時もつけっ放しにするようになった腕時計に目をやり、時間を確認する。もうシャワーを浴びて出る時間だ。

「どこ行っちまったんだ。アンタ。」
俺は疲れきった頭を兄貴の枕に埋めた。

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「何万回やったら覚えるんだ?!王立図書館からの資料は、朝リストを確認してすぐに仕分けしろと言ってるだろう?!定期購読の文書に取り寄せた資料が混ざっちまってるぞ!」
耳に唾をぶちまける魂胆か、耳を摘まれてその中に向かって怒鳴られる。
耳が痛い。言葉の内容ではなく、物理的に。
「すみません。今すぐ、やります。」
直立不動のままに、姿勢を崩さず言うと、
「もういい。今日着いてる分は俺が回収した。」
さすがに仕事がお早いですね。なーんてほざいたら火に油である。俺は飲み込んで、
「申し訳ありませんでしたっ!」
と、45度に腰を折る。
男は呆れたように、
「聞き飽きたんだよ。もっと根性入れろ!」
と、俺の後ろ頭をバシッときつく、はたき飛ばした。
俺はつい、いつものくせで、反射的に手を伸ばし、特に何を思う訳でもなく、それを捕まえてしまった。
いつも空を掴むはずの手が、しっかりとその指先を握り込むことに成功する。

あ・・・。

「何すんだ。」
捕まれた手を振り払って、唇を尖らせ気味にこちらを見下ろすアイスブルーを最敬礼の位置から見上げて、俺は体を起こした。
手に、骨ばった長い指の感触が残っている。当たり前か。
「あ・・・いえ、なんでもありません。」
なんでもないにしては開きすぎた間を、俺はシカトしてしれっと言ってのけた。
「なんでもないならデイリー業務(※毎日決まってやる作業の意)くらいパーフェクトにこなせっ!」
この山ほどあるデイリーを毎日パーフェクトにするのが俺にとっては最も難度が高いんですが。とは思いつつ、それもぐっと飲み下す。
「おまえが何を考えようが自由だがな。仕事だけは回らなきゃ困るんだ。」
ふぅ、と男はため息をついた。
その言葉に、ひょっとしてこの男は俺が何をしようとしているのか、すべてお見通しで、分かった上でその罠にかかるつもりなのではないだろうか、と。些か穿った見方をしてしまう。
『まさか』、である。
「俺は・・・。」
男は声音を不意に落ち着いたものに切り変えて、何かを言いかけ、
「いや、とにかくちゃんとやれ。分かったら仕事に戻れ。」
困ったように、パチン、と自分の首筋に手を当て、吐息混じりに繋いだ。
「はい!」
俺は『返事だけは兄貴と同じだ』、と笑われた返事を返して、さっそく、昨日の会議資料をファイリングはじめる。しかし、手には、今まさに掴んでいるファイルの感触ではなく、あの指の感触がなお、残っている気がした。

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クラヴィス様は、また無断で早引きか。
いい加減、先々週までの合議資料を片づけないと、首座の方がまた無駄にエネルギーを消費し始める頃なのだが。
彼の執務室に寄り、とにかくサインだけは今日中にして戴こうと思ったのだが、生憎の空振りだった。「面倒ではあるが、仕方あるまい」と、クラヴィス様の私邸に向かう決意をしつつ、聖殿の廊下を足早に歩いた。

と、階段にさしかかったあたりで、白を基調とする周囲から浮き出て見える赤い頭と、その秘書が前を行くのに目が止まった。
「うぉっ!?」
強さの守護聖が、不意に悲鳴を上げて階段を踏み外す。というよりは・・・。
さして心配はしていなかったが、やや大げさな動きで男は床に手をつき、腕の筋肉で跳躍して、側転もどきを階段の半ばで披露し、最後はきっちりと階段の下に着地した。
結果、ばさばさと彼が手にしていた紙の資料が散った他は、なんの事故も起こらなかった。

よくもまぁ、そんなに足場の悪いところで。大道芸人か、貴方は。

と、突っ込みたいのを胸の内にしまいつつ、ふん、と一度息を吐いて、階段に散らばった資料を拾い上げるのを手伝う。
「相手が俺じゃなかったら死んでたぜ?お前、前みて歩けよな。ったく。」
ここに女性の一人でも居れば、「見たか」とばかりに自慢げにするであろう男が、周囲に誇示する相手もなく、唇を尖らせつつ不満そうに言うのを聞いて、私は些か驚いた。
突き飛ばされたように見えたのは、見間違いではなかったのか?と。
ほとんど無意識に、その秘書を振り返る。
秘書は、あの気の優しそうな兄そっくりの件の弟で、だが、以前オスカーの寝室で鉢合わせしたときとは全く違った、どこか妖しげな色を纏って、オスカーの瞳をじっと見ていた。
こうも印象が変わるものだろうか?と思わず私の喉が鳴った一瞬に、
「す、すみませんっ!俺ぼーっとしてたみたいですっ!!」
妖しげな雰囲気など微塵も感じさせない声と表情で、我を取り戻したかのように男はオスカーに駆け寄った。
男は私の脇を抜け様に、ふわ、と昨今オスカーから、やたらに香っている薔薇の香りで鼻を擽る。やはりあの館の何かの移り香だろうか。

しかし、なんなんだ。この男の違和感は。私は少し、気になってその男に背後から話しかけた。
「以前お会いした時には、お恥ずかしいところを見つかってしまって。お兄さんと同じくオスカー思いなんですね?」
「そっ!?そんな昔のこと?!記憶にないだろっっ!!リュウ!」
昔といってもせいぜい6、7週くらい前だったろうか、と思いながら、慌てふためく炎の守護聖は無視して、私は男の反応を伺った。
男は一瞬だけ、その細い瞳を僅かに大きくあけ、その後すぐに笑顔を作って言った。
「オスカー様が忘れろとおっしゃることは覚えていません。それに、私が兄に似ているのは見た目だけですよ。」
にっこりと笑った彼の顔は、ほとんど瞳が見えない。
「そうでしたか。これ、どうぞ?」
こちらもにっこりと微笑み返して、拾い集めた資料を渡す。食えない奴には違いないようだが、どうもよく分からない。いずれにせよ、この上オスカーの面倒まで見られるか、という思いで、
「では、私は急ぎますので、これで。」
と会釈してそこを離れる。と二人とすれ違いざま、また、例の薔薇の香りが、きつく鼻腔を縛った。
甘すぎる香りに無理矢理、振り向かされるようにして、二人を振り返り、あまりにも普通の主従の一コマを一瞬見やってから、その香りを振り切るようにして宮殿を出た。

--

時が止まったようなその部屋に入ると、不思議と自分の周囲をとりまいている緊張した殻が解けて落ちるのを感じる。湯船に浸かるときのように。
まるで条件反射だ。
「思うに。お前もルヴァも、貧乏性というやつだな。自分でもほとんど無意識のうちに、進んで面倒な事を引き受けたがる。」
親兄弟よりも私自身の理解者であると、私が慕ってやまないこの部屋の持ち主の青年は、ごねることにかけては右に出るものがいない、というのが大きな特徴である。
この方のコレは美点と言うべきか、欠点と解すべきか。いや、私がこの方に好意を抱いていなかったら美点と評す事は間違いなくないだろう。
その白い額に長く細い指をかけて、鬱陶しそうに吐息を付かれ、私はとりあえずの正論を気休めに言ってみる。
「より高くつく事態を避けようと思えば、サイン一つなど、相対的に安いものかと・・・私などは考えますが。」
真っ向からサインをねだっても彼がそう易々と応じるはずはないので、書類だけ目につくところに置いて、クラヴィス様の邸用に用意頂いたハープを弾く準備にかかる。
「お前は・・・喧嘩をするのが好きか?」
案の定、関係のない話題を降られて、私は演奏用の椅子に腰掛けたままに、準備の手を休めてそちらに向き直る。
「喧嘩・・・ですか。嫌いですね。口喧嘩にしろ、体を使ったものにしろ、アレは忍耐力の足りない方々が好むものでしょう。」
脳裏に浮かんだ喧嘩相手を思って知らず微笑が混じる。
「ハッハッ。」
やや珍しい大きめの笑い声を上げ、
「これはおかしい。肉体的なそれにしろ、精神的なそれにしろ、喧嘩とは忍耐力のあるものの方が強いのだと、私は思っていたが。」
と続けられ、そういえばオスカーと喧嘩して負けたことがあったろうか、と脳裏を探る。
「では・・・、喧嘩好きは喧嘩に弱いのでございましょう。」
出てきた帰結を淡々と告げると、
「これは辛辣な。」
闇の守護聖はクッと喉を詰まらせて再び楽しげに笑った。
と、ここまできて、彼の言わんとすることに薄々思い当たる。
「してみますと、クラヴィス様は喧嘩がお好きなのですか?今まさに、首座の方にお売り遊ばしますのは。」
少し厭味がすぎるが、ご愛敬の範囲だ。
「いいや、好かんな。」
クスクスと鼻をならしながら、デスクに肘をついて、口元をさりげなく隠す。
「好かぬ私は、いざ事が始まれば、強いのであろうが。好かぬ故にそれを回避するとしよう。」
その言葉に、ほっと胸をなで下ろし、私はデスクの側に戻ってサインの必要な箇所を指し示した。
「ここと、ここ・・・それからここですね。」
サインがなされるのを待って、不備がないか書類の確認をし始めると、
「お前も苦労するな。嫌気がさしたら、いつでも私などに構うのはやめていいのだぞ?」
その尖った顎の先で組まれた手の中に向けて、失笑混じりの呟きが漏れる。
本気か冗談か。あるいは、私の好きに取れるように態とそのようなおっしゃいようをなさるのか。
「ご冗談を。クラヴィス様との、このような遊びがなくなっては、私の方が退屈で死んでしまいます。」
実際、この方に係る諸事に限らず、手を焼くのが私は存外好きなのかもしれない。
クラヴィス様とのこのようなやり取りは、始まるまでは頭が痛いが、いざ始まってしまえば、何かのゲームに取り組むかのように楽しんでいる自分がいることに気づく。
クラヴィス様は、どこか遠くを見つめたままにその瞳をすいと細め、
「これは遊びか。それは良い。」
と嬉しげに言ってから、イタズラっぽく片方の眉を上げ、こちらに殊更ゆっくりと視線を投げかけて、
「だがな、お前がゲームを好むのは、相手を楽しませるのが好きなのではなく、自分が勝つことの方が多いからだ。よくよく、覚えておくのだな。」
と続けた。堪えきれず笑いが混じった語尾に、私は考えていたことをいつものように見透かされたな、と。つと、天を仰ぎ、
「・・・『これは辛辣な。』」
肩を竦めてから、
「と、私はお返しすれば宜しいでしょうか。」
負け惜しみを、軽く笑って継いだ。

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無断で欠勤した昼下がりを、談笑と演奏で過ごし、そろそろお暇するかな、と腰を上げようとしたタイミングで、クラヴィス様から俄かに緊張した面持ちで、声をかけられた。
「こういうことは・・・あまり言いたくないのだが。」
私に対して、このように言い淀まれるのは、珍しいな・・・。と少々驚きながら、
「なんでしょう?」
聞き返す。
「アレの事は、慎重に事を運べ。冷静さを欠くとろくなことがない。お前なら・・・大丈夫だとは、思うが。」
アレの事?アレ・・・。思い当たることがなく、知らず首を傾げながら瞳を宙に彷徨わせ、考えていると、
「フッ・・・。」
小さな失笑が耳に届いた。
「珍しいな。いつも聡いお前が。」
「私が聡いなどと・・・。アレの事とはなんでしょうか?」
厭味を聞き流して、ギブアップを伝える。
「炎のアレだ。」
つまらなそうに言われて、オスカーが何か・・・と言いかけ、不意にオスカーの周辺で気になっていることをいくつか放ってある事に思い至った。
出所不明の薔薇の香りと、どこか違和感のある秘書の態度。
だが・・・。
「例えば、何かオスカーの近辺で起こっていることがあったとして、何故私が『事を運ん』だり『冷静に対処』することが必要になるのでしょうか?何か・・・。」
見えていらっしゃるのですか、と聞こうとして、いや、それはこの方に聞くのは筋違いというものだな。と続きを飲み込み、頭を振った。
「いえ、とにかく。オスカーの事、全てに係わり合いになるつもりは私はございません。」
言い切ってから、その瞳をまっすぐに見た。
闇の守護聖は、こちらと視線を絡めたままに、ほんの少しだけ意外そうな表情を見せ、
「そうか。」
と短く言って黙ってしまった。
私は逆に肩透かしをくらったような気分になり、何かを言おうとしたが、言うべき言葉が見当たらずに、何か言いたい、という態度だけを示したままに終わってしまう。こういう阿呆な態度は・・・彼の得意であって、私の得意ではないのだが。
「何をむくれているのだ。聞きたいことがあるなら聞けばよかろう?」
どこか楽しげな言いようをされて、ますます自分の言葉が手元から逃げて行くのを感じ、再度私はギブアップする羽目になった。
「・・・降参いたします。どの程度、深刻なお話なのでしょう?それによります。」
どこか・・・微かにむくれた調子の声が出る。言いながら、私はやはり、この青年に対しては甘え癖があるのかもしれないな、と脳裏でちら、と自戒の念が過ぎる。
「さてな。お前とアレなら、そう悪くもなるまい。問題があるとすれば・・・アチラは、おそらく真正面から問題に当たる羽目になる。」
真っ正面から・・・。
「というか、彼はそれ以外に方法を持たないので。」
ふ、と呆れたようなため息が自分の口から漏れるのを聞く。
オスカーが搦め手から問題を解決するような周密な計画を立てて事を運んだ、などという話をついぞ耳にした事はない。彼は勝利や任務の遂行のために努力を惜しまないタイプではあるが、それはよく言えば彼の信条から想像しやすい、悪くいえばお決まりの正攻法のための努力だ。
思わず笑ってしまって、口元にそれを隠すように指をやる途中で、
「真正面から体当たりして、傷付くのが本人とは限らぬぞ。」
堅い声が私を凍らせた。
・・・。
その言葉の意味を正確に把握しかねるほどの、得体の知れない焦燥感が急激に沸き上がってきて、私はぎくしゃくと、こちらに向けられた刺すような視線を辿り、その瞳を見た。刺すような視線の先には、だが決して冷徹ではない、ぬばたまの黒が、私の驚きをじっと受け止める。
「やっと・・・真剣になったようだな。」
小さく吐息をつかれ、はっと我に返った。

傷つくのは他に誰があり得るというのだろう。体当たりされた相手か?それとも・・・。

ぐ、と詰まったような感覚のする胸元を。私は一度そこに指先をかけて緩くさすり、
「分かりました。気をつけるように致します。」
と、真面目に、ゆっくりと、答えた。


終。
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