2章:還れない場所



掴み上げられた胸倉の感触が、まだ消えないうちに、彼は口を開いた。
「雇って、くれませんか。兄の代わりに。」
俺は微かに、おそらく笑ったと思う。
「俺は構わないが。お前は故郷に帰りたいって言うだろうと、思ってたが。」
彼が聖地にいる理由は、残っていないだろうと俺は予想して、そう言った。奴は、泣いているのか笑っているのか、よく分からない目付きで俺を見て、
「兄を。連れて帰れるなら、俺もそうしたいところです。」
と言い、
「けれど兄は死んでもなお、きっと貴方の側に居たがって、ここに残るでしょう。だから・・・俺は兄の居る、ここに残るよりしょうがない。」
最後は諦めたように俯いて、拳を握った。
俺は漫然とその拳を眺めていた。いっそ殴って欲しかった、と、彼の自重をどこか責めるように。彼に土下座でもなんでもするべきだった。少なくとも、ベッドの上で、ぼぅっとしている場合じゃない。
だがあの時、仮に身体が自由になったとしても、俺はそこから一歩も動けなかった気がする。
俺を見限って欲しかった。リョウに。
だから、リョウが俺の側に居たがっているなどと、同じ顔で言われるのが堪えたのかもしれない。
「好きにすればいい。他に、俺に出来ることがあれば何でも言ってくれ。」
「では、死んでください。」
言い終わるか終わらないかのうちに、リュウはきっぱりと言い放った。
その言葉に、いっそ、清々しいとさえ俺は思ったが、
「俺に、できることで、だ。」
息を吐いてから、ベッドサイドから俺を見下ろす、鳶色の瞳をぼんやりと見上げて。彼の憎しみに揺れた瞳が、すっ、と冷静さを取り戻す様を観察することで、自分の闇雲に高ぶりそうな気持ちを紛らわせた。
「では、せいぜい兄のようにこき使って下さい。少なくとも、俺が貴方の後ろ姿を見ても、殺意を抱く暇がないくらいに。」
笑い顔があった。リョウとそっくりの顔で、だがあの人懐こい笑顔とは対象的な笑みが。リョウを見ても、特に美形とは思わなかったが、リュウを見ていると気づく。彼らがとても整った顔立ちをしていることに。派手でないから目立たないだけで。
顔の造形のせいもあるだろうが、リュウの陰鬱な笑い方は、どこかリュミエールを思わせるような・・・奇妙な表現だが、陰鬱だが綺麗な、と。そう言いたくなるような笑顔だった。
「ああ。」
俺の生返事を聞いてから、リュウは入って来た時とは反対に、丁寧に頭を下げて退室した。

このやり取り以降、リュウは仕事を覚えようと、ある程度必死で。時には冗談も言い、明るい笑顔すら見せて俺に仕えた。
ただひとつ。胸に喪章がついていることを除けば、まるでリョウがそこに帰って来たかのように。

・・・最初の異変はなんだったろう?
・・・といってもリョウが逝ってしまったのが、最初の異変なのかもしれない。
とにかく、俺が最初に「それ」を感じたのは、風呂に入った時だった。

--

「エヴァンゼリン、エヴァ〜?」
湯殿に入って、暫く待っても、一向にエヴァが現れないので、仕方なく俺はバスタオル一枚腰に巻いて、ぺたぺたとフロアを歩いた。床を大理石の総貼りなんぞにしなくて良かったぜ。転んでしまったらイチコロかも知れんしなあ、と俺は自分の選択に感心しつつ、名を呼ぶ。
なんだか・・・格好悪いことをさせられている気がする。
足を止め、首に手を当てて。自分で髪も洗っちまおうかな、でもバレたら文句言われるだろうしなあ、とぶつぶつと独りごちる。

クスクスッ

その時、ふいにマッサージルームからエヴァの声がしたような気がした。
「エヴァ?」
俺はマッサージルームに近づいて、声をかける。
カタン、と部屋の中から音がした。
「まあっ、オスカー様!!済みません!!」
エヴァは俺の声にやっと気づいたのか、小さく叫び声を上げ、マッサージルームからガタガタと音をさせて現れた。
「も、申し訳ございません!!私ったらオスカー様に気づかないなんて!!」
顔を真っ赤にして、エヴァはすごい勢いで頭を深々と下げた。
俺はその様子に思わず吹き出して、
「いいんだ。こんなこと、初めてだろう?次から俺を放ったらかしにしないでくれよ?」
ウィンクして、その肩に軽く手を置く。首を曲げて覗き込むと、明るくて大きなオリーブ色の瞳が、涙で潤みそうになりながらも、笑顔になった。
「済みません。今すぐに。御髪(おぐし)ですよね?」
「ああ。あと、肩と腰が張ってるから、後でマッサージも。」
エヴァは、一瞬顔を強ばらせてから、「は、はい。」と、彼女にしては歯切れの悪い答えを寄越した。
俺は、
「ん?デートの約束でもあったかな?だったら別に明日でも・・・。」
と、気を利かせたつもりで言ったが、
「いいえっ!!オスカー様のお疲れを取るのが私の仕事です!さあ、御髪をまずは洗いましょう。」
悲鳴のような声で否定され、頭を掻きかけた手が途中で止まってしまった。ま、まあ後半はいつものエヴァらしいけれど・・・。情緒不安定なあの日かな、などと下世話な解釈をして俺は納得した。

髪を洗ってもらい、身体も洗い終わり、湯船にも浸かって身体が暖まったところで、マッサージルームに入った。
エヴァは肩口で束ねたクリーム色の髪を揺らしながら、何やらオイルやらソイル(※珪藻土を焼いたもの。水に浸けると泥状になる。)やらを捏ねている。
「おいおい、勘弁してくれ。前に言ったじゃないか。オイルもソイルも苦手なんだ。」
俺は手の付根を額にパチン、と当てて、マイガッのポーズを作った。
が、彼女の涙に濡れた声が言う。
「私の専門、これなんです・・・。一度でいいのでお試しいただけないでしょうか・・・。」
女性にそんな顔をされると・・・。
マッサージしてくれなんて言うんじゃなかった。俺は猛烈に後悔していた。
「これで駄目だったら、許してくれるってことだよな?」
ため息をつきつつ、マッサージベッドに手を付いて、エヴァの泣きそうな顔を覗き込む。泣きそうな顔は一瞬で満面の笑みになり、
「はいっ!」
と答えた。
躍らされている気がしなくもないが、女性にだったら躍らされる自分も嫌いではない俺が、どこか、諦めたように納得している。今の笑顔の代償だと思えば、多少の時間、くすぐったさに晒されるのがなんだ!!
俺は覚悟を決めて、ベッドにうつ伏せに寝そべった。

背中に生暖かいザラザラしたものを塗り広げられるたび、足の先から耳までぞわぞわと鳥肌がたつ。
誰だ、「多少の時間」「くすぐったさに晒されるだけ」だなんて言った奴は!!内心涙目になりながら、俺は必死で堪える。
「オスカー様、力が入り過ぎですわ。くすぐったいとお思いになるから、辛いんです。息を吐き出して筋肉を弛緩させれば、くすぐったくなんてありませんよ?」
どこか歌うような軽やかな調子でエヴァが言う。そうは・・・思えないが・・・
「手を一旦止めてくれ。息を吐き出すから。」
俺がなんとかギリギリ、平静を装って言うと、エヴァは一旦手を止めて、
「ええ。どうぞ。」
と少し笑った。
こっちは笑い事じゃないんだが・・・と、息を
「はぁーーーー・・・・。」
声と共に吐き出す。強ばった筋肉が呼吸に合わせて少し弛緩する。もう一回深く吸って、息を、
「はぁーーーー・・・・ぅあっ!!」
吐き出したところでエヴァに背中をゾロリ、と撫で上げられて突然の感触に悲鳴が上がる。

耐えられん!!男オスカー、この仕打ちには耐えられん!!

エヴァの手は俺の声に、吃驚したようにその場で止まっている。
吃驚したのは俺の方だってのに・・・。
「な、な?やっぱ俺には無理だった・・・」
無理だったろ?と言おうとして、突然。

!!

突き刺すような鋭い殺気の気配を感じて、俺はベッドの上をエヴァのいる方向に素早く横転し、エヴァを腕の中に匿う。「背中から刺される」と思った。が、ベッドから落ちた時の衝撃で身体を床に強か打ち付けた他は、痛みらしい痛みは何も襲って来ない。
突然の事に吃驚したように細かく震えるエヴァを、きゅっと一度抱いてから、エヴァを背中で隠すようにして、訝しみつつも、殺気のした方向を床から睨め付けた。
「何か、あったんですか?」
上から、リュウが長身を屈めて、驚いたような表情で見下ろしていた。

・・・?

「いや、たった今、凄まじい殺気が・・・っつーより、なんでお前がここにいるんだ?」
俺も状況を把握しかねて、支離滅裂になる。
その質問に、
「あ・・・。その。」
と、少し気まずそうにリュウは鼻の頭を掻いて、
「実は、もともとここに居たんです。俺。」
更に俺を混乱させる。エヴァを背中に抱いたまま、クエスチョンマークを飛ばす俺に、
「エヴァに会いに来たんですが、途中でオスカー様がいらして。それで、外に出る機会を失ってしまって・・・。すみません。」
ぺこっと軽く頭を下げる。

なーるほど?
「なんだ。お前達、付き合ってたのか?すまんな。気が付かなくて。」
俺は殺気の件も忘れてハハ、と笑ってしまった。
「ああ、エヴァの名誉のために言いますが、俺達はただの友達ですよ。今も、話をしにきただけです。な?」
リュウはエヴァにほほ笑みかける。
エヴァは困ったように、え、えぇ、と返していた。
「話しに来てただけなら隠れる必要なんてなかっただろうに。」
俺が意地悪く顎を撫でつつニッと笑ってやると、
「慌てていたんですよ。それに、サボってるところを見つかるのは使用人にとっては不名誉な事なんです。」
言葉の割には太々しく、リュウは人差し指を立てて、まるで俺に説教をするかのように言った。
俺はその様子に吹き出しつつも、
「わかったわかった。丁度、エヴァのソイル攻撃に俺は参ってたところだったんだ。どうぞ、お話の続きを?」
俺は床に座り込んだまま、手を一度上げて降参のポーズを作り、二人の間から体を退けた。
目の端で、リュウの左胸の小さな喪章がひらりと揺れる。
さっきのは・・・なんだったんだろう。あの殺気は。俺はどこかでそれを気にしながらも、勢いよく立ち上がると、笑いながらバスローブを取って、マッサージルームを出た。
せっかく身体を洗ったのにな、ソイルを落とさなけりゃ・・・と愚痴りながら。

--

翌日。
「眠い・・・。なんでだ・・・。」
俺は眠気と格闘しながら執務室で手元の書類を睨みつけた。が、一向にその内容は頭に入ってこない。
「月の曜日はいっつもじゃないですか。それと昼食を取りすぎたんですよ。」
む、慣れてくると減らず口を叩くようになるのも兄譲りだな、と俺は書類ごしに、室内に作業台を持ち込んでファイリングしているリュウを睨む。
「あ。そうだ。これ要りますか?」
リュウはポケットをごそごそとやって、飴玉を一つ取り出した。
「甘いのは嫌だ。太る!」
俺はプイと顔を逸らす。一時期、ケーキ関係にはまり過ぎて体脂肪が増えたことがある。全宇宙の女性達のためにも、俺は断じてデブになるわけにはいかんのだ。
「いえ、甘くないですよ。ハッカです。眠気覚ましに、たまに。」
苦笑しながら、袋を口で破り開けて、取り出したものを自分の口に放り投げる。
確かに、何かで眠気を覚ましたかった。
「甘くないのか。ひとつくれ。」
俺はそういって、手を伸ばす。掌に乗せられた飴玉の袋を剥いた。何やら大量に白い粉をまぶされたそれを、口に放り込む。
口にしっかり飴玉が入ったのを確認すると、リュウがにこっと俺の瞳を見て、笑った。あ、今のはリョウの笑い方そっくりだ・・・ついつい比べる癖が抜けない俺は、知らずその顔を見つめてしまう。
胸の中の感傷的な気持ちとは裏腹に、口の中では甘いどころか舌に突き刺さるような強烈なハッカの刺激が炸裂した。
「〜〜〜〜っっ!甘くないって言うか、辛すぎるなこりゃ!!」
俺は顔をぎゅっと顰める。
「でも、目が覚めるでしょう?」
リュウは切れ長の目を、瞳が見えない程に細めて笑う。
「ああ、よし。仕事に戻る!」
ハッカの刺激が切れないうちに俺は書類に目を落とした。
しかし、その異様に長身な男は仕事に戻ろうとせずに、何やら俺をじっと見下ろしたまま、動かない。
「どうした?仕事しろ、仕事。」
俺は眉を顰めてもう一度リュウを見上げた。
そこに、何やら思い詰めたような表情があった。そのまま見つめられるとこっちが焦げちまいそうな視線に、
「な、なんだ?」
不本意ながら、声が震えた。
はっ、とリュウは我に返ったように「なんでもありません。」と手を振って笑い、やっと仕事に戻った。

口の中で舌を動かすと、カラリ、と一度。
飴玉が乾いた音を立てた。

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俺の異変に、最初に気づいたのは、彼奴だったと思う。
あの頃。土の曜日に、俺は再び、ほぼ定例行事となりつつある用事で、リュミエール宅を訪れていた。

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「風よけに」と羽織ってきた薄手の白い外套を、部屋に入るなり、甲斐甲斐しく脱がされてコート掛けにかけられた。
後ろ姿を見送りながら、いつもクラヴィス様の世話を焼いている時の癖かな?等と、せんないことを考える。
「どうしました?」
ぼーっとしていたらしい。問いかけられて、俺はリュミエールに焦点を合わせる。定位置になりつつあるベッドに腰掛けて、上から見下ろす彼奴をぼんやり見返した。いつになく、優しい笑顔でクスリ、と笑われて、驚く。驚きついでに言うはずでなかった台詞が口をついた。
「あ、いや。クラヴィス様のお世話もそうやって焼いているのか、と思ってな。」
今度はリュミエールの瞳が驚いたように見開かれる番だった。普段切れ長の目が丸く見開かれる様を見るのはなかなか楽しい。が、
「妬いてるんですか?」
笑みを含んだ声と青銀の髪が上から落ちてきて、肩に手を置かれ、得意気な顔で覗き込まれる。
『女性に対して似たような態度を取った事があるだろう?』って?『Ja!!』でも、だからって『それを甘んじて受けられる』かって?答えは『Nein!!』だ!
それに、俺の得意気な顔はこいつほどイヤミじゃない(はずだ)。もっと可愛気がある!多分きっと絶対!
「妬いてる?そんな訳無いだろう。」
鼻で嗤って、そのしたり顔を睨み上げる。
あーあ、また喧嘩を売っちまった。今日はこれでご破算だな、と俺は脳裏でため息をつく自分の気配を感じた。
が、突然後頭部の髪を力いっぱい掴まれて、噛み付くようなキスをされる。そのままぐっ、と髪を後ろに引かれてバランスを崩した。
押し倒されるように、乱暴にあちこち吸われ、一体何がスイッチだ、と俺は半ば呆れる思いでされるがままになっていた。
ふと、その手と舌が動きを止め、
「シャンプーか何か、変えました?」
と、眉を顰めて聞かれる。瑠璃色の瞳が何かを探るような鋭い光り方をした。
変えられていたとしても、俺は分からないが・・・。逡巡して、
「いや、何も聞いてないから、変えてないと思うが。」
至近距離に迫った目を、同じく訝しんで見上げる。
「気づきませんか?何か。」
その鼻先を項から鎖骨にかけて、擦り付けるようにされて、俺はくすぐったさに身を捩る。
「薔薇の香り。」
短く宣告されて、俺は自分の腕や肩を寄せて自分で香りを確かめる。別に何も匂わないが。
「何もしないぞ?」
俺はぶっきらぼうに返して、再度その瞳を見返すと・・・
「微かに・・・。誰かの残り香じゃないでしょうね?」
凍てつくような視線と、能面のような無表情にさらされて、俺は一瞬で内腑がぞっと冷え込むのを感じた。
「ばっ馬鹿言え!誰がだ!」
上げた悲鳴を聞いているのかいないのか、その瞳は冷たい色を宿したままで。その凍るような視線を見上げ続けるのに耐え兼て、俺はぼそぼそと言葉を継いだ。
「お、おい俺は、あれ以来女性には声もかけてないぜ?それに・・・。」
言いかけて、脳裏にチラリ、とゼーンとの一件が過り、言葉を失う。・・・馬鹿な、あれは・・・、と考え始めたところで。顎先の骨を女の指のように細い指先が、ご自慢の握力と指筋を使って痛いほどに掴む。
「男、ですか・・・。」
ま、待て待て待て!!
「ち、違うわっ!誰が好き好んで男とっ!!それにっ!あれは不可抗力だった上に、相手はお前自身みたいなもんだろーがっ!」
慌てふためいてまくし立てているうちに、ふいに俺も腹立たしいことを思い出した。
「大体なあ!俺はお前に言われたくないぜ。お前の方は、ばっちりしっかり自由意思で遊んでやがるだろうが。」
噛み付くようなつもりでその瞳を睨み返し、人差し指の先をとん、とその胸元の骨に当てた。
コバルトは細く一度眇められて、多すぎる睫の奥に一度引っ込み。
「ヴィクトールの事ですか?あれは貴方の勘違いです。彼が慌てて変なことを口走ったのも悪かったですが。」
顎を掴んだ手を離して、鬱陶しそうにリュミエールは前髪を掻き上げ、それでも落ちてきた髪を耳にかけた。
窓から入る午後の光が、その錦紗の上で細かく踊る。
それに目を細めながらも、勘違い、だぁ?と俺は心で非難を続けるのを止めなかった。が、これでは本当に妬いてるみたいじゃないか、と激昂しそうになるのを、ギリギリで踏みとどまる。
「素っ裸で大の男にのしかかって、どんな勘違いがあるっていうんだ?」
知らず、失笑が言葉尻に交ざった。
「水浴びしてるところに彼が通りかがったので、そのまま話し込んだだけです。誰かがきたと思ったのでとっさに隠れましたが・・・そもそも隠れる必要もなかったんですよ、今思えば。」
ふっ、と斜めに息を吐き出して、心底つまらなそうな顔になる。
その顔に、なんだか俺自身も段々どうでもよくなってきた。此奴が嘘を言っているようには思えなかったが、散々ぱら騙しうちを食らっている我が身を思うと、これで信用するのも何か違っている。
「まあ、いい。別にお前が演技してるにしろ、事実そうだったにしろ・・・気が、済んだ。」
俺は瞳を逸らして盛大に息をついた。たった一度のことでぎゃあぎゃあと目くじらをたてる自分の方が情けなくなる。
「私は気が済んでいません。」
再び冷たさを取り戻した声音に、俺は耳を疑う。顎を引き寄せられるようにして、無理やり正面を向かされると、冬の海がそこで荒れていた。
「はぁ?」
ちょっと待て。
「あなたの口ぶりからするに・・・ゼーンですか。相手は?」
口元にうっすらと笑みを携えて、若干軽やかな調子で言われたが、俺の背筋は凍ったままだ。此奴の、目が笑ってないからだった。
「・・・。」
何も言えずに、顎に添えられた手を邪魔に思いつつも精一杯視線を逸らす。
「何を、されたんです?」
どこか、うっとりとした響きが耳元で低く呟く。この声音は聞き覚えがある。こんな声を聞く日は・・・どうせ禄なことにならない。
嫌な悪寒に体温は下がっているのに、何故か顔に朱が上るのを感じる。
「もう、いいだろ?」
目を伏せて、俺はどこか遠くに意識を飛ばした。あんな最悪な記憶なぞ、掘り返したくもない。
「いいわけがないでしょう・・・。」
珍しく、苛立ちが滲んだ声。視線を戻すと、能面が苦々しげな表情を見せていた。だが、そんな表情をしていても、人形のように整った顔はそのままで、どこか現実感がない。
あのなぁ、俺だって好きであんな目にあった訳じゃ・・・と、半ば呆れる気持ちで再び瞳を覆っている睫を見上げると、
「いいことを思いつきました。」
閃いた!とばかりに一度目が開かれ、突然ふわり、と満面の爽やかな笑みにその顔が彩られる。その喜びを共有して欲しいかのように、俺の前髪がすいっと片手で掻き上げられた。その細い指の感触に俺は目を細めつつ・・・だが、背筋には再びブリザードが吹き荒れていた。
「少し、待っていてください。」
にこやかに笑ったまま、俺の目尻を一度なめ上げて、奴は身を翻すようにして、軽やかに体を離した。
いいこと・・・ねぇ。
俺の体温が更にさっと下がったのは、彼奴の身体の温もりが遠くへいったからだけではないと思う。
やるせないため息が出て、俺はベッドから上半身を起こして重たい首を振った。

部屋に取り残されて数十分。
帰った方がいい、うん。このまま帰ろう。
俺は決意を固めつつも、寝室から出られないままに、顎に手を当てて、うろうろと室内を歩き回る。
勝手に帰ったことで半殺しの目に合ったことはまだないよな。うん、やっぱり帰った方が・・・
ぽん、と手を打って、外套をひっつかみ、そのまま扉に向かったところで、
「おや?どちらにおでかけですか?」
ありえないくらいのバッドタイミングで戻った男に、ふんわりと外面で微笑まれ、俺は自分の心がぽっきりと折れる音を聞いた。
帰ってきた男は、ついさっきとは様子が違っている。髪がアップになって、服もふわりとしたシフォン袖のブラウスのようなシャツから普通のカッターシャツに変わっていた。その腕の中に、なにやらタバコの2倍くらいの大きさの箱のようなものが二つ。
「で?なんなんだ。一体。」
俺は逃げ損なった自分を哀れみつつ、額に手を当てて聞いた。
「いや、以前趣味で作ったものを、ちょっと加工してきたんです。ひとつ貴方にプレゼントしようと思って。」
その無邪気に浮ついた、似合わない笑い顔はなんなんだ!怖すぎるだろうが!俺は顔をよそに向けながら、視界の端と五感をフル稼働させて様子を伺った。
「俺にプレゼント?お前が?」
俺が呻くように言うと、ふっと呆れたように笑って、
「そんなに警戒しないでください。普通のアクセサリですよ。銀の方が、チェーンの細工が気に入ってるんですが、恐らく貴方の肌の色だと・・・」
とサイドテーブルの上に箱の一つを置き、箱を片手で器用に開ける。おそるおそる、上から中を覗くと、本当に普通のアクセサリーのようだった。金細工の細いチェーンと、銀細工の細いチェーン。少しゴツめのピアス金具も4つ見えている。
「ピアスにしちゃ、随分チェーンが長いな?」
俺が興味を多少そそられて、それに手を伸ばそうとした時。

ガガガッ

リュミエールが突如繰り出した右手が、俺の脇腹を襲う。拳じゃねぇ・・・スタンガン?
・・・やっぱこういうオチかっ!!
身体が脱力した一瞬に、スタンガンを床に投げ捨てる音がして、鳩尾に本気の一発が入る。
「ぐっぅ!」
「いい加減、毎回本気で貴方と殴り合うのもしんどいので。学習してみました。」
リュミエールが能面のような顔で淡々と言い、こちらを見下ろす気配がした。俺は繰り出された腕に体重を預けるようにして、気をやる。
「私は、怒ってるんです。オスカー。」
恐ろしい程、涼しく冴え渡った声に、俺は今この瞬間だけ「オスカー」を廃業して「家に帰してくれ・・・」と泣きたい気分だった。

あー、目を覚ましたくない。覚ましたくない。覚ましたくない!!
「あら、気づきました?」
心の叫びは誰にも届かなかったらしい。いつも通りの何食わぬ声が耳に届く。「あら、こんなところに牛肉が。」ってな調子だ。
目隠しされているから、相手がどこにいるのかは分からないが、俺は声のした方角に顔を向けた。
堅い椅子に座らされている。足が、それぞれ左右の椅子の足に固定されていた。それから腕は・・・背の高い位置でまとめられて、ご丁寧に背と腕の間に椅子の背もたれが挟み込んである。身体がすーすーするが・・・また全裸か。よよよ、と俺は心中で項垂れる。
「せめて、腕の位置をもう少し下げてくれ。」
・・・おい俺、主張するところ違うだろ、とは思いつつ、ふてくされた声で、言うだけ言ってみる。
「駄目ですよ。位置が下だと肩抜いたら抜けられるでしょう?」
にべもない。いや、俺もさすがに肩を抜くつもりまではない・・・が、それはそうしたくなるような事をこれからされるということだったりするんでしょうか?
・・・ちょっと待て俺・・・一体此奴のどこに「惹かれた」だと!?
「明日はジュリアス様と遠乗りの約束があるんだ、絶対薬は使うなよ!!」
心の悲鳴の割に消極的な条件が口から漏れる。『大負けに負けて、明日無事ならいいということにしよう、この際。』という算段が、俺の知らないどこかで立ったとでも言うのだろうか。
ふと、リュミエールの香りが近づいて、おそらく後れ毛?が肩にかかる感触がした。突然のことに俺は身を捩ろうとして、当然ながら僅かに身じろぎして終わる。
「薬?そんなもの使いません。」
耳元で笑みを含んだ声が静かに囁く。
「遠乗りですが、それは丁度良い。」
歌うような調子で言われ、くすり、と笑われる。吐息が耳にかかって身体が微かに反応した。
若干体温が遠くなって、奴が身を引いたことが分かる。
と、突然肌に冷たい感触が襲った。
「ひっ!!な、なんだ?」
しゃら、という音にさっきの細いチェーンを思い起こす。胸先で、二つのチェーンを俺の肌に交互に当てているらしい。
「うーん。やはり、金ですね。その辺の見立てはジュリアス様も悪くない。」
あの、ネックレスのことを言っているのだろうか?
「そういえば、あれ、最近付けてないですね?」
やけに楽しそうな声だな。付けてたら千切られたから警戒してるんだっつーの、俺だって学習する。
「・・・ジュリアス様と会う時だけ付けてる、なんてことは?」
「・・・。」
俺の視線は若干斜め上を泳ぐ・・・が目隠しされているので奴には見えないはずだ。
「そうですか、貴方も大変ですね。では私のプレゼントは、TPOに応じて外されないようにしなくては。」
な、なんで分かったんだ!!エスパーかお前は!!・・・てか、外されないように??
俺が混乱している間にも、扉を開閉する音がして、奴が部屋を出る気配。彼奴の性質が悪いところは足音がほとんどしないことだ。
さっきと違って数分も立たないうちにもう一度扉の音がして、がちゃがちゃと、近くまで何かのぶつかる音。
サイドテーブルを近くに引きずる音。
足音がしないから自然と予想外のところで鳴る物音に過剰に神経が反応する。
そうこうするうちに、俺の目の前に椅子を用意して、彼奴が座る気配がして、やっと声がかかった。
「さて、動かないでくださいね。ケガしますから。」
淡々と言われる。
「い、いったい何をするつもりだ。教えてもいいだろう、どうせこっちは逃げられないんだから。」
自分の頭から血の気が完全に引いている。足先や指先も緊張と拘束があいまって痺れたように感覚がなくなっていた。
「ただ、プレゼントを付けて差し上げるだけですよ。そんなに血の気を引かせるような事はしませんって。」
呆れたような声が、ため息混じりに言う。
「お前の日頃の行いのせいだろーがっ!」
俺はほとんど悲鳴を上げた。
「プレゼントってピアスか?穴開けるのか?お前が?俺に!?」
わーっと捲し立てるように一気に言った。冷やしもせずに、いきなり耳にがっつり穴を開けられる予感がしたからだ。此奴ならやりかねん!!
「黙って。」
怒気を含んだ声に、奴の鬱陶しげな怒り顔が瞼に浮かび、反射的にぱくぱくと口が空気を食んだ。満足気に小さく息を吐く気配に、俺は今度はかっと怒りに頭に血を上らせる。
が、その怒りに氷水をぶっかけるかのように、臍の辺りを冷たい感触がおそった。と、同時にアルコールの香りが立ち上る。
「お、おい。まさか臍か?」
こうなって初めて、俺は精一杯力を入れて、一度ロープの固定具合を確かめた。冗談じゃないぞ。
「いいじゃないですか。減るものじゃないんですから。」
歌うような調子で、脱脂綿で臍の周りが拭われる。気化熱で冷たいだけでなく、臍周りの温度が下がって体温全体がすっと寒くなる感触に肌が粟だった。
「お、お前・・・。」
このオスカー様がヘソピアスだと!?ありえねぇ!かっこわるすぎて上半身裸になれねぇだろがっっ!自慢の身体が!!
俺はもう一度腹筋に渾身の力を込めた。体勢が体勢だけに、力の入れ方としては上半身を膝にくっつける要領で背もたれを折るしか・・・。っていっても。
「金属製の背もたれが、そう簡単に折れるとは思えないですが。」
失笑を含んだ声と共に、脱脂綿が臍から離れていく。
クソッタレっっ!!
俺は久々に此奴に罵詈雑言を浴びせかけたい気分に見舞われていた。
「行きますよ?力抜かなくて大丈夫ですか?」
痛かろうが痛くなかろうが、私は関係ないですけれど、みたいな投げやりな調子でリュミエールが宣う。
「ま、待て。せめて冷やせよっ!!」
と、言い終わるか言い終わらないかの内に、バツン!!と、何かに撃たれたような感触が俺の身体を襲った。
穴を開けると同時にピアスを装着されたのだ。
「・・・・・っっっっっ!!」
遅れるように、じわりとわき上がってきた痛みと熱の感触に、声が出ない。脂汗が滲むのを感じながら、痛みが過ぎ去るのを待つために、俺は頭を垂れて意識を散らした。
顎先を指一本で上向かされ、
「声を上げないんですね?さすが強さの守護聖。」
ほとんど唇と唇とがくっつくほどの距離で、うっとりと呟かれるイヤミ。そのまま、上唇を吸われ、下唇も軽く吸ってから、その口が一度離れ、耳の中を舐った。思わず顎が上がって、そこから広がる痺れと痛みによる痺れで一瞬、脳みそが混乱して悲鳴を上げる。
「・・・っはっ・・・お、俺に名誉の負傷以外の傷、つけやがって・・・。覚えとけ、よ。」
痛みに耐えつつ、なんとか恨み言を返す。仕返しに何をすれば気分が落ち着くのかなんて、俺には見当もつかないが。
「そんなに痛いですか?」
俺の恨み言など聞いてもいない素振りで、挙げ句に笑いを含んだ声で、リュミエールは言い、額からこめかみに流れようとする脂汗を舌で拭う。
がが、と椅子を近づける音がして、俺の両膝の外側にリュミエールのパンツが微かに当たった。大股を広げて近づいているらしい。
「ご要望にお応えして、暫く冷やしましょうか。」
かしゃ、とピアスから穴を開ける機材を取りさらわれて、代わりに複数の鎖の感触がしゃらっと下腹部を撫でた。
どうやらピアスから、例のチェーンがぶら下がってるらしい。
「んっっ。」
突然の自分の中心に冷たいモノが擦った感触に、一度身体が飛び上がる。
「ああ、そうですよね。これじゃあ鎖が邪魔になりますね。」
ぽん、と手を打って、リュミエールが態とらしく芝居を始める。しゃらしゃらと指先でチェーンを弄ばれて、チェーンがそこを撫でる。
「〜〜〜っ!!て、てめっ・・・。」
擽られるような感覚に、臍から上がってくる痛みと熱がない交ぜになって、丹田から熱いものが込み上げてくる。俺の身体が足先から頭まで、ビリビリと震えた。
「邪魔ですね。」
笑みを含んだ声と、鎖をそっと指先にまきつける感触。
「って!!」
完全に遊んでやがる。開けられたばかりの穴が、微かに攣れて、シクシクと痛んだ。
「ああ、良いことを思いつきました。」
鎖を巻き付けた左手はそのままに、右手で首を引き寄せられて、仰け反らされた首筋を吸われる。
「・・・なんでもいいから早く済ませろよ。」
俺は怒りに充ちた声で低く嗤ってやった。堪忍袋の緒もいい加減、切れるってもんだ。
脱脂綿が、もう一度臍周りとピアスのつなぎ目を拭った。消毒と言うよりは、愛撫に近いようなその動きが、つつつ、とそのまま腹筋をなぞって移動する。
「んんんっ!」
思わず上がる声を、俺は唇をかみ締めて、顎を上げ、封じる。
動くと、余計にピアスを開けられた部分から熱と痛みが上がる。できるだけ、身体を動かさないように気を遣っていても、脊髄反射で反応を返す部分はどうにもならない。
腹筋の筋と肋骨の上を辿るようにして、脱脂綿は、胸の印にたどり着いた。
うそ、だろ・・・
目隠しされているにも関わらず、俺は目の前が真っ暗になるのを感じる。
俺の心の悲鳴を真っ向から否定するように、脱脂綿が新しいものに変わって、その中心をくるり、と丁寧に回った。あまりのことに、うっすらと開いてしまった口がふさがらない。
脱脂綿が綺麗にそこを拭った後に、今度は暖かいものがそこを拭った。
「よ、せっぁ!」
リュミエールの舌の感触。いつもするように、ゆっくりと周りを舐った後で、唇で挟み込むようにして刺激され、身体が勝手に大きく跳ね上がる。がっ、と椅子の脚が連動して音を立てた。
甘く、かみ締められて、甘い痺れに身体が支配される。
痛い、むかつく、憎い、甘い、熱い・・・俺は混乱しそうになるのを必死で、頭を一度振り、振り払おうとする。
だが、そこをチュゥと、強く吸われて、
「あぁっくっ・・・。」
顎が再度、上がってしまう。上を向いた顔を、首ごと強く下向かされて、唇をかみつくように奪われた。リュミエールの舌の動きはいつもより些か熱っぽく、互いの息は早々に上がり始める。
くそ、ここで此奴の舌を噛んだりとかできる性格だったらこんなにやられっぱなしじゃねぇのに・・・とせんない思考が一瞬過ぎる。が、奴もそれを分かっていなかったらこんなことしてこないだろう。結局、此奴からしたら、俺の行動など、すべて織り込み済みなのだ。
舌の動きに翻弄され、息も絶え絶えで酸欠に脳が痺れ始めた辺りで。熱い舌が名残惜しげに唇を舐めて離れ・・・

バツンっっ

と例の衝撃が、胸の印の上で弾けた。
「ぐあっ!・・・・ぁ、ぁ、ぁ、ぁ・・・。」
最初の衝撃が先ほどの数十倍であるばかりか、そこからわき上がってくる痛みと熱が、尖った針を何度もそこに突き通すかのように俺を襲う。チリチリと焦げるような痛みに、こめかみがピクピクと痙攣した。堪えきれずに、断続的に小さな悲鳴が上がる。
その痛みを散らすかのように、さっさと、機材が取り払われ、ピアスごと熱いままの舌が乳首を嬲る。
「あぁ!!よ、止せっってっ!・・・。」
チリチリした痛みと痺れで、舌が外に捩れ出る。抗議もむなしく続けられる愛撫に、俺はそこから広がる熱が、足の指先まで広がっていくような感覚に震えた。
「反省させるつもりが、悦ばれているようでは・・・。」
右手の指先が、いつの間にか頭を擡げかけている根本を弾いた。
「うぁっ!!」
痛みに呻く。じん、とそれまで意識してなかった下腹部からも、熱が湧いてきた。胸元のピアスを再度、今度は強く吸い上げられて、
「っぁぁああああっ!」
痛みにずきん、ずきん、と血管の収縮音がする。
・・・だ、誰が、何を反省するって?
早くも出張しかかっている理性に俺は投げやりに問いかける。
「いぃ、て、ぇ・・・・あ、つ、ぃ・・・。」
抗議の声は、掠れすぎて、もはや喘ぎ声なんだか、なんなんだか分からない。
ちゅ、と不意に、優しげなキスが俺の唇の上で跳ねて、後頭部に回った手で目隠しが外された。ゆっくりと瞼を上げると。珍しく、困ったように翳る瑠璃色の瞳と、これ以上ないくらいに眉間にしわを寄せた顔が俺の汗と涙で滲んだ視界に写り込む。
「・・・ぁ?」
俺は肩で息を整えつつ、刺激に過敏になりすぎている五感を沈めながら、阿呆な声を上げた。
「なんで、そんななんですか。貴方は。」
はぁ、と溜め息をついて、明後日の方向に視線が逸れる。
俺がお前に聞きたい台詞だ、それは。
「気が、済んだなら・・・ほどけ、よ。」
俺は、コバルト色を睨んだままに言った。もっと不敵に言い放ってやるつもりが、熱の余韻に声が縒れた。
「これが終わったら。」
と、リュミエールは能面を取り戻し、サイドテーブルから銃形の小型溶接機のようなものを取り出した。
おい、ちょっとまて、と俺の口が叫ぶより前に、

チチチッ!!

と高い音がして、ものの1、2秒で奴は胸元のピアスポストをその軸に正確に溶接する。
うわぁ、信じられねぇ凄腕の職人さん!・・・っじゃねぇ!
「お、おまっ、正気かよ!?」
裏返った声に、
「外されたくない、と言ったでしょう?」
さも当たり前だとばかりの顔で、リュミエールは宣い、臍から垂れ下がった3本の極細の金の鎖を左手の手の甲を使って、胸元に当て、直径1、2、ミリ程度に見える輪状の金具を右手の指先でサイドテーブルからつまみ上げて左手に渡し、ニッパーを使って慣れた手つきで固定する。
「終了です。ほどきますか。」
能面のような無表情に、どこか、不満そうな色を混じらせて、リュミエールは言い、頭を屈めて右の足首を固定していたロープを一つほどいた。
自由になるやいなや、俺は鬱憤を込めて、腹筋を使って足を振り上げる。腹筋の動きに合わせて臍からビリッッと痛みが走り、挙げ句に鎖が胸元に付けられたものを引っ張るが、そんな痛み(もの)は根性でねじ伏せる。
今俺は、此奴を、とにかく蹴り倒したいんだからな。
が、
パシっっ、
と乾いた音がして、リュミエールの右手が俺の向こう脛を受け止める。ぐっと握力を使ってそのまま握り込まれた。
リュミエールは空いた手で、人差し指を立てて、それを俺の鼻先でチッチッ、と左右に振った。
「いけませんね。こういうときは、相手がすべての拘束を外してから反撃するのがセオリーでは?」
その仕草は、俺の専売特許だ、馬鹿野郎。
「生憎、そのセオリーには、相手がドタマ突き抜けるほど頭に来る野郎の場合の例外が用意されてるもんでな。」
痛みに顔をしかめつつも、腹筋に更に力をいれて、ぐぐぐ、と奴の顔に寄せる。
「そうですか。それは随分と非合理的な例外対処ですね。」
ふ、と柔らかく笑ってから、奴は、空いた左手で鳩尾に思い切りパンチを入れた。
ごふっ、
と、俺が唾液を吐き出しているうちに、奴は反対の足の拘束を手早く外し、後ろに回って椅子の背もたれと両腕との結合を解き、バックステップを踏んで、間合いを取る。
鳩尾に食らったパンチをやり過ごしてすぐに反撃しようとしていた俺は当てが外れた。しかも、両腕は背中で固定されたままだ。
「腕はどうした?外してくれないのかよ?」
俺は笑いながら言い、椅子から立ちあがって、それを思い切り蹴りたおす。
「人払いしてるので、館に人はほとんど残ってないですし・・・騒いでいただくのは結構なんですが。あまり物を壊されたくないんですけれどね。」
仕方ないなあ、といった風で一度息をつき、奴は髪を掻き上げた。
「肉弾戦で、しかも両腕塞がれてる状態では、貴方に勝ち目はないですよ。」
ニヤ、とリュミエールは腕を組んで得意気に口の端を上げる。
「ぬかせっっ!!」
俺は肩から体当たりの体制で奴に突進し、それを直前でリュミエールが右に避けると山を張って、そちらに膝蹴りをかます。

ビンゴ!!

もろに入って、奴はうずくまる。うずくまった男の鳩尾に、もう一度足先を勢いよくめり込ませ、俺は奴を床に這いつくばらせることに成功した。
「だ、れ、が、勝ち目がないって?」
俺はふふん、と鼻を鳴らし、腹を抱えて横たわっている、奴の白い横顔を上から見下ろした。
「いっつも直前、ギリギリのタイミングで避けるからな。お前は。無駄に気障なんだよ。」
俺はククク、と喉で笑った。いっつもギリギリで躱されてむかついてたんだ、清々するぜ。
うっすらと開かれた瑠璃色の目が、睫に見え隠れしながら俺を見上げていた。と、苦しげに歪められていた口が、何事かパクパクと紡ぐ。・・・聞こえない。
「なんだよ、聞こえないぜ?」
俺は自分の口の端がぐっと上がるのを感じた。
苦しげな表情が、更に顰められて、ちょいちょい、と奴の人差し指が、俺を呼ぶ。
ああん?
俺は仕方なく、しゃがみこんで、耳を奴の口元に近づける。
「・・・エロスギル。」
小さな吐息交じりの呟き声が、俺の耳を擽った。意味わからん。
エロ・・・すぎる?
はぁ?!?!
俺は意味の解析が終わると同時に、怖気立って立ち上がろうとした、が。
拘束された二の腕を突然強い力で引かれてバランスを崩す。
どん、という肩が床に落ちる音に合わせて、しゃらん、と鎖が微かに鳴った。
俺の股の上に馬乗りになって足の動きを封じ、上からリュミエールが見下ろす。床にほとんど直接叩きつけられた右耳が、悲鳴を上げ終わるのを待って、
「卑怯者。」
俺は目を伏せて呻いた。
「それは、どうも。」
実に嬉しげな声が答える。
「褒めてねぇっっ!!」
両の眼をカッと開いて喚くが、いっそ無邪気な笑顔は崩れる気配がない。
「そんなもの付けて、素っ裸で暴れまわらないで下さい。気が散る。」
くすくすと目を細めて、おかしげに首を傾げられる。
気が、散る!?!?言うに事欠いてなんだそれは!!
「誰のせいだと・・・」
俺は眦をきつく上げて抗議しようとした。と、奴はそれを遮って人差し指で俺の左目の目許を指し示す。
「それ。その顔です。」

「なんだって?」
片眉がつり上がる。
「その顔とか。」
むす、と奴は唇を尖らせた。
「まった、意味のわからんことを。」
俺は匙を投げかける。
「やっぱり誘ってるんですか?その顔。」
・・・。
俺は自分の口が阿呆のようにあんぐりと開くのを感じた。
気を取り直すまでしばし時間を要する。
「待、待てよ。誰が?なんだって?」
「ですから、貴方が、私を、誘っているのか、と。」
指さし確認しながら。憮然とした表情が、どこかコミカルに言い放つ。
「あのなあ、俺は視線で殺されるかと思ったとか、目付きが怖くて近寄れないと言われたことはあっても、そんなこと言われたことないぞ。お前が変態過ぎる。」
俺は奴の方に視線を当てないように、床と平行に視線を泳がせて言った。
リュミエールは、しばし考え込むようにして、沈黙し、
「例えば・・・生意気だから、とかいう理由で難癖をつけられたり、呼び出されてリンチされたり、なんてことは?」
話の飛び具合に俺は目を点にしつつも、
「そんなのは士官学校時代じゃ、多かったけどな。まあ、大方返り討ちだ。決闘の申し込みも片手じゃ足りねぇよ・・・。って一体それがなんの関係が・・・。」
リュミエールは、焦れたように、溜め息をついて、俺を見下ろす視線をきつくし、チェーンを左手で軽く、ぐいと引っ張った。
「でででっっ!!何すんだ、この、ド阿呆っ!!」
俺は突然の激痛に顔を顰め、身を捩る。
「阿呆は貴方でしょう。」
剣呑な声で短く言って、
「今の一言で決定です。やはりゼーンの一件も、貴方が悪い。」
一言って・・・、
「ドアホウ、の一言で?」
俺の一言はどうやら余計だったらしい。
「黙って。」
触れればすっぱりと音もなく切り捨てられそうな鋭い視線と共に、ご機嫌が最悪な時の決まり文句が俺に短く投げ付けられた。

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「床で寝ないで下さい。」
「んん・・・。」
そんなこと言ってもな、俺は両手が・・・、と事後の強い睡魔に襲われて、俺は口を動かさずに脳内で反論する。
「今ほどきますから・・・」
うっすらと瞼を開けると、細く白い二の腕が目に入る。女のようにきめ細かな肌。この腕の持ち主が、俺より握力があるだって?大した悪夢だ。
楽器の演奏ってそんなに握力付くもんだろうか。指筋は分かるとしても・・・微睡みの中で握力強化用のメニューをぼんやりと思い描く。
俺は肘から先だけは、さすがに男らしく少しだけ太くなっている腕に視線を走らせる。奴は、その肘から先で、体重を支えながら、俺の背にもう片方の腕を延ばして、戒めを解いた。
鼻先で、白い胸から、奴の香りがする。ますます、俺は夢の中に誘われていく。
「ほどきましたよ。眠るのなら、ベッドに。」
耳元で静かな声が囁く。細く少しだけ冷たい指先がこめかみから後ろに髪を鋤いた。さらさらと、奴の細い髪が耳に落ちて来る。
「ここで、良い。」
ほとんど呻き声で答える。眠い。
俺は痺れきった腕も、背中で延ばして、血が通うまで、そのままに放っておくことにした。
はぁーーー、と深く長いため息がして、奴が上半身をしぶしぶ起こす気配。そのまま、俺の上半身を抱いて、ずりずりと、床を引きずられる。
負傷兵を引きずる衛生兵みたいだぜ。俺は縁起でもないことを思いついて、頭の中で笑う。
ベッドの側で、一度ぐぐ、と持ち上げられて、ベッドの上に投げ捨てられた。上半身だけベッドにのしかかった俺は、ずりずりとその上に這い上る。
「ったく、重いったらっ!」
苛立たしげな抗議の声。どさ、と側に腰を降ろす音。悪かったな、お前と違って満遍なく筋肉がついているもんで。俺は夢に皮肉を唱える。微睡みとリュミエールからの刺激が交互に俺の頭の中にやってきて、夢と現実の境目が曖昧だ。
髪を鬱陶しそうに掻き上げるリュミエールが、その重さに耐え切れずにぴったりと閉じた瞼の裏に映った。
傾きかけた茜色の光線に浮かぶ、白い裸体。いつもは不健全な感じがして、まっすぐ見れないその身体を、夢の中だからか、まるで石膏で出来た彫刻でも鑑賞するかのように、俺はじっと見た。
細い骨格の上に、筋肉が、比較的付き安い肩と、肘の先だけに集中してついている。髪を掻き上げたままに、すっと伸びている腰から肘のラインに、あばら骨がうっすら浮き出ていた。うん、病的に見えないギリギリの量だけは肉が付いている、と評して俺は苦笑する。
そして小さく息を付く。
周囲からぽつん、と浮いて出た、その美しい白は、多分、これから先もずっと周囲の色と混じらないのだろうと、なんとなく思えて。
疲れた、とばかりに髪を掻き上げた仕草をしたまま、やや上を見上げていたその顔が、振り向いて、こちらに手を伸ばし、ゆっくりと髪を漉く。
俺は、そこから、優しげな歌が微かに漏れるのを聴いた。
・・・ララバイ?
どこか、悲しい。優しい歌が。
途中で途切れて、何かを思いついたように、髪を漉く手がとまり、引っ込められそうになった。俺は慌ててそれを耳元で掴む。

リュミエール。

俺は、名を呼んだ。

くすり、と笑い声が応えて。
ララバイが、再び俺の髪を梳いた。


終。
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