6章:解放


その骸は、まだ暖かい。
俺はそれをぎゅぅと、抱き締めて、地面に寝かせた。
待っててくれ。
すぐに終わるんだ。お前が目を覚ます頃には、全部終わらせるから。
だから、ほんの少し、俺に。時間を。
リョウの手を胸の上で交差させるようにして、俺は血で濡れた手を服で拭って、一度、握り締めた。
待っててくれ、と気持ちを込めて。

正面に、いつもの執務服をきた、青い髪の男を捕らえる。
びゅっ、と一度、血に濡れたその剣を振るって、付いた血を払う。
お前は、リュミエールじゃない。
「リュミエール。帰ってこい。」
俺は唸った。
「サータジリス?お前・・・器の方か?お前に用はないぞ?」
口元に指先をやりながら、怪訝そうにリュミエールの声が言う。
お前が、その声を、使うな。
「リュミエール。帰ってこい。」
俺はそちらに、ジリジリと上段に剣を構えて、近づく。
「来い、剣よッッ!」
ゼーンは短く叫び、右手を脇に精一杯伸ばした。そこに、次元が歪むようにして、細身の剣が現れる。
俺に、剣技で勝てるとでも思ってやがるのか?俺は自分の口の端がぐぃ、と凶暴にめくれ上がるのを感じた。
間合いがいっぱいに詰まったところで、俺はフェイントをかけて跳躍した。
「らああああああああっっっ!!!!」
俺は吼えた。
真下へ振るった剣が、その刃で受け止められる。シャリリリッッと音をさせて、そのままその細身の剣の切っ先へ刃を滑らせ。態勢が崩れたところに、その勢いを使って、その胸元に足を伸ばし、思い切り蹴りを入れる。
「ぐ、ぅ。」
よろっ、とその身体がよろめき、いい声が上がる。
息が、できないだろ?
フン、と一度鼻先で笑ってから、
「帰ってこいっ!!リュミエールっ!!」
俺はもう一度、腹から声を出して、その瑠璃色を睨みつける。
「しつこいわっ!!」
ゼーンは姿勢を正して、剣を中段に構え直した。その動きに呼応するように、俺も中段に構えながら、間合いを取りつつ足を運ぶ。
と、その口元がニヤリと笑い、
「はぁっっっ!!」
剣で宙を切りつける。
ドォッッッ
衝撃波が俺を襲った。俺はとっさに腕を顔の前で交差させて、頭を守る。
ビビビビッ
そこいら中の皮膚が裂ける音がして、俺の剥き出しの腕や肩からピュゥッッと血が吹き出す。股も傷を負ったようで、パンツの一部が裂ける。だが、致命傷はない。痛みで判断して、俺は剣を構え直した。
目が自然にすぅと細まる。
衝撃波を何度も食らう訳にはいかない。
「帰って来いと、言ってるんだ。リュミエール。」
低く冷静な声でもう一度呼びかけてから、ゼーンの剣が苛立ったように一度ぶれたところを見計らって、俺は再度跳躍した。
一瞬、ゼーンは俺を見失い、視線を宙に彷徨わせる。

取った!!

その肩口に、剣をたたき込む。切っ先ではなく、柄を。だが、渾身の力と、体重を込めてっ!!
「・・・っっ!!」
骨の折れる感触。普通の男なら、気を失って倒れるその一撃を食らって。しかし、ゼーンは倒れなかった。
「き、さ、ま、にぃっ!!用はないっっ!!」
目を血走らせ、杖代わりに剣を地面に突き刺して。辛うじて、ゼーンはそこに立っていた。目と鼻の先にある。憎々しげに歪められたその顔。
剣を握り直し、地面から引き抜こうとする、その男を。

俺は哀れだ、と思った。

「帰って来いと。言ってるんだ。リュミエール。」
俺は、その瑠璃を見つめた。
剣をそのまま地面に捨て。その身体を掻き抱く。
耳元で、もう一度。
「リュミエール。俺は、ここだ。」

信じるのは、怖いか?
相手を?あるいは、自分を?

未だ止まらない俺の血で、リュミエールの執務服が汚れる。
俺は構わず、抱いた腕に、力を込めた。

「これは・・・なんの、冗談です?」

聞き慣れた声音が俺の耳元で、吐息まじりに呟く。

怖いのは、自分の肥大した感情だ。
何か、得たいの知れないものを。
相手に投影して、怯えている。
お前は、そうやって。自分の最愛の子を殺したんだ。
サータジリス。

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ったく。ここは一体どこなんだか。
真っ暗すぎて、上を向いてるんだか下を向いてるんだかも、分かりはしない。私は確か、さっきまで誰かの名を。
でも、もういいのだ。
返事はいつも、空虚な像を私に掴ませるだけ。

『お・・・・ぼえて・・・・ろよっ!』
『なぜ・・・なんだ?リュミ、、、エール?』
『な・・・んで泣いてる・・・?泣きたいのは・・・こっちだバカ・・・』
『消してやるよ』

頭が痺れる。もう、その声は・・・キキタクナイ。

『早く済ませろよ。』
『や・・・ばい気がする。なんか。やめようぜ、コレ。』
『知ってるさ。俺もお前が大嫌いだ。』
『こんなのは、ただのッ・・・せーりっゲンショゥッ・・・そ、だろ?』

いくら泥を塗しても、砕いても、しなやかな光を放つ。
硝子玉。

『いいから聞けって。その後、二人は幸せになったと思うか?』
『俺は炎の守護聖、オスカーというんだ。君は?』

神様みたいに・・・美しい。
私の・・・完璧な硝子玉。
なのに。
手に入れたと思うと、その瞬間には、もうその手を擦り抜けている。
欲しいなどと、思ってはいけない・・・
元々、手の届かないものだったのだ。

『何故だ!!何故、セリーンっっ!?』
『駄目だ駄目だ!!第一我らは戦をしておるのだぞ?なぜよりによって、あの一族の男なのだ?!分かっておるのか!!』

『相手は、神だぞ?馬鹿げたことを言うな。ゼーン。』
『サータジリス様は、いらっしゃいません。共に行けなくなった、と。ご伝言です。』
『ゼーン、お前には、こんなにも素晴らしい許婚がいるではないの?何が不満だと言うの?』

『まあ、素敵な瞳の色!珍しいわ。銀に近い・・・アイスブルー?』
『愛しいセリーン。お前のためならば、なんでもしようぞ。』

手に入らない。
本当に愛しいものは。手が届かない。
なのに、眺めているだけでは・・・「足らない」。

貴方も、そうか・・・。ゼーン。

どうすれば、いい。
この乾いた心を。
どうすれば、いい。
この飼い慣らせない、欲望を。
どうすれば、いい?

『帰って来い。リュミエール。』
呼ぶな。私を。
『帰って来いと・・・言ってるんだ。リュミエール。』
呼ぶな。どうせまた・・・逃げるくせに。

『俺は、ここだ。』
・・・。

暖かい、感触。
噛み千切っても、叩き砕いても、壊れない。
確かな、腕(かいな)の。

「これは・・・なんの、冗談です?」

ふっ、と。笑いが込み上げてくる。
と、同時に肩口から凄まじい痛みが襲ってきた。
ったく。一体何をしでかしてくれたんだか。
貴方と違って、こちらは、繊細に出来てるんです。無茶は、やめて戴きたいですね?
せっかく、貴方の硝子玉を、久々に見た気がするのに。
また・・・気が遠く・・・

無理やり、遠くなる意識の中、その緋色の髪に手を伸ばして、口づける。

ゼーン。
息ができないのは、自分を信じていないからだ。
貴方は伸ばした腕を振り払われたことで。
私は自らの昏い澱によって。

そして、見ないふりをした。
欲しいものを、手折った時。相手が顔をしかめたことを。
だが、どうせ、その美しさには抗えない。
手折っても、穢しても、砕いても、その美しい者は自分たちの処には下りてこない。
だから。
相手が苦痛に顔を歪めても。怯えて、威嚇してきても。
最後まで、伸ばした手を、離してはいけない。

手折られた華が。
土を失い、水を失い、悲鳴を上げても。
乞い続ける。手を伸ばして。
自分の元に、下りてこいと。
乞い続けねば・・・。
その声が絶えたときに、華は手をすり抜けるのだ。

貴方は、そうして。
最愛の女を。
愛娘セリーンを失ったのだ。

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「んんっ・・・・はっ」
突然、首ごと引き寄せられ、口づけられて。角度を変えて、また求められる。しかもその舌が歯列を確かめるように、忍び込んできた。
俺は、驚愕のあまり固まっていたが、その感触に我を取り戻して、抱いていた身体を突き放そうとした・・・ところで。
がっくりと、その身体が突然、体重を俺に預けてきた。

「お、おい。リュミエール?」

俺はその半開きの瞳を覗き込む。
その瞼が。微かに痙攣して、すっ、とまた覚醒するように開いた。リュミエールの眼差しと、それは少しだけ、違っている気がして、俺は身体を強ばらせる。
また、ゼーンか?
「お前・・・オスカーと言ったな。」
その口調に。
俺は絶望的な思いで、腕を離そうとした。が、逆に強い力で抱き締められ、耳元で囁かれる。
「待て、早まるな。私はサビーナ。」
「サビーナ?」
サータジリスの娘・・・この上まだ怨霊が出てきやがるのか?
が、サビーナと名乗ったリュミエールは俺を抱き締めている力を更に強くした。愛しいものの、身体を抱くように。
「母様・・・サータジリスと、ゼーンを討つ。私と、セリーンにしか、彼らを討てない。力を、貸して欲しい。」
止めを、させるのか。奴らに?
「どうすればいい?」
俺も耳元で囁くように聞いた。
「セリーンに、その肉体を貸せ。お前と、セリーンでシェアするんだ。こちらは、私と、リュミエールとやらでシェアしている。表出すると、痛みを直接感じるので、今は、彼は外には出れないが。私は・・・ゼーンとは違う。」
真剣な瞳は、嘘を言っているようには思えない。
何より、俺は彼奴らを討ちたかった。自分の手で。
俺は、大きく、ゆっくりとうなづいた。
「ありがとう。では、借りるぞ。」
かぁっ、と一瞬頬が高揚する。
おいおい。優しい笑みを含んで、ありがとう、などとその声で言わないでくれ。吃驚するじゃないか。
「・・・セリーン・・・」
サビーナは俺の斜め後ろ辺りに向かって声をかけた。
セリーンと呼ばれ、自分の意識が身体から少し離れる。まるで、身体という器から離脱するように。
自分の背後霊にでもなった気分だ。自分の身体を外から眺めている。
身体を抜け出た自分の手のひらを見れば、うっすら透けて地面の草までが目に入る。
だが、身体の知覚は、サータジリスに乗っ取られた時とは違い、緩く伝わってくるらしい。手袋ごしのような感覚で、自分が再度リュミエールの身体を抱き締めたのが分かる。
「サビーナ様・・・」
俺の声が、愛しげに、その女の名を呼んだ。そしてゆっくりと、うっとりとした表情で口づける。
「××××!?!?!?」
いや、貸すとは言ったが、そんなことをしていいとは言ってないぞ!!
「そんな顔をするな、オスカー。久々に我らも肉を伴って、若干興奮しただけだ。」
サビーナは、俺の方をしっかり捉えて、悪戯っぽく笑った。
あっちには身体を持っていない俺達が見えているらしい。
「それに、お前達も恋人同士なのだろう?さっきは当てつけられたぞ?」
くす、と笑って、今度はサビーナは、斜め後ろ・・・俺と同様に背後霊状態になっているリュミエールを振り返った。
アンタ達、見てたのかよ・・・と、俺はうつむいて眉間に指を当てる。
「え?ええ、まあ。」
しかも、リュミエールは勝手に意味不明な答えを返す。
だが、えらく久々に、いつもの表情のリュミエールを見た気がして、俺は怒るより前にほっとしていた。
が、ほっとしている暇はないらしい。サビーナのどこか冷めたような声が言った。
「ふむ。母様達をいつまでも待たす訳にはいかない。彼女らも新たな器を見つけたようだ。」
器を?
「行くぞ。セリーン、オスカー、リュミエール・・・」
抱いていた手を緩め、サビーナはリュミエールの執務服の裾を少々裂き、それを紐変わりにして、髪を高い位置で括った。
なんていうんだっけ、こういう表情。そう、髪を上げているリュミエールは「凛々しい」んだと、気付く。女顔が引き締まって、いつもより、切れ長の目を引き立てるからかもしれない。

「オスカー様!リュミエール様っ!?・・・ですよね?」

突然、背後から声がかけられた。振り返るとランディだ。少しだけ間合いを取って、護身を図りつつ、こちらの様子を伺っている。
俺はとっさに、
「セリーン、一旦身体を返してくれ。」
と言った。セリーンは俺の方をみて、柔らかくほほ笑み、すい、と俺とすれ違うようにして、身体から外に出た。若干違和感を覚えつつも、俺は身体を取り戻して、ランディに微笑む。
「ああ。俺だ。どうした?」
ランディは、その様子をみて、大きく息をついて、
「ああ、良かった。やっぱり戻られたんだ・・・。ジュリアス様、オスカー様です。今から例のもの、渡しますね。」
右耳を押さえつつ言った。俺達が惑星でつけていたトランシーバと同じものをつけているらしい。
ランディは、俺達にかけよって、手を差し出した。その掌の上には、二つの小さなトランシーバ。
「オスカー様と、リュミエール様の分ですが・・・まだ・・・何かなさるんですよね?」
その言いように、俺は周囲を見回した。俺達のこれまでの様子を、みんな、ずっと見ていたのか・・・?
今、気付いたが、随分仰々しい事態になっているみたいだ。テントに、ライトに・・・
俺は、自分の様々な失態を反省するのを意識的に後回しにして、ランディの手からトランシーバを取り、耳に装着する。
「有り難うな。後少しで終わる。これはブロードキャスト(一対全員の通信の意)だな?」
「ええ。あと、長押しで繋ぎっぱなしです。」
「分かった。いい子だ、離れてろ。」
短く確認して、俺はランディの頭を乱暴に撫で、いつもするように髪をくしゃっと掴んでその顔を覗き込む。言うことを聞けよ?といい聞かせるように。
「あ、あのでもリュミエール様の分・・・」
戸惑うように、ランディは俺の隣に立つサビーナを見やった。
「話すと長くなるが、こいつはリュミエールじゃない。でも味方だ。すまんが、あまり時間がない。」
サビーナは、にこっとランディに愛想笑いをした。それは、偶然にもリュミエールのそれにそっくりだ。
「あ。は、はい。じゃあ俺。あっちで待機しますね!」
ランディは、リュミエールの様子を気にしつつも、テントに向かって走り去って行く。
俺はそれを見送っていたが、
「来るぞっっ!!」
というサビーナの低い声にはっと我に返る。
「オスカーさん、借ります!!」
おそらくセリーンだろう・・・の意外にもしっかりとした、凜とした声がして、俺は、自分の身体に他の人間の気配を感じた。だが、さっきとは違い、俺自身も身体の中にいる状態で。
「え?俺・・・」
自分で声を出せる。
「うまくシェアできたみたいですわ。」
自分の声が答える。なんだか不思議な状態だった。というか、俺の声で女言葉はちょっと・・・と下らぬ考えが頭を過る。
しかし、身体が自由になるのは有り難い。俺は、身体を乗っ取られなかったことを幸いに、地面に放り投げていた剣を拾い上げて腰に戻し、トランシーバのスイッチを入れた。
「ジュリアス様!皆!これからゼーンとサータジリスが新しい器を伴って襲って来るらしく、説明すると長くなりますが、セリーンとサビーナという、二人の娘と今それを迎え撃ちますっ。」
事情を簡単に説明している間に、俺とサビーナに、何か得体の知れない生暖かい風が吹き付けて来る。おそらく、ゼーンとサータジリスだ。直観的に思った。
新しい、器だと?一体今度は誰を乗っ取るつもりだ・・・これ以上・・・
「来るぞ・・・・」
俺のいやな思考を断ち切るように、もう一度言ったサビーナは、湖面を凝視して、それに近づいて行く。湖面がざわざわと、不自然な調子で乱れて、毛羽だっていき、やがてそれは渦のようになって、湖の中心を凹状にする。まさか、この、中から?!
「来い!!!!バーミリオンッッッ!!!!」
サビーナは天に向かって、腕を突き出し、掌を開いた。と、同時に、湖の底から、ちらり、と何か、白く長いものが一度渦の中で光る。
まさか・・・
やがて・・・思った通り、白い竜が大きな首をもたげ、現れた。
銀色の鱗が、背後から照らす照明を受けて、ギラギラと光を放っている。

夢の中の・・・こいつが、器?

バーミリオンと呼ばれた炎の剣が、サビーナの手に形作られるのが先だったか、とぐろを巻く竜が、その全貌を明らかにしたのが先だったか。
俺は、その竜から放射されるように吹き付ける強風に、思わず顔を腕で覆った。

これが、バーミリオン・・・。
俺は、風を腕で受け止め、足の指と裏の筋肉を使って自分の身体を地面に繋ぎ止めながら、リュミエールの薄い色の髪に、その炎の色が映り込むのを見ていた。
炎の剣、というよりは、ただ炎が偶然に、剣の形を作っているようにしか見えない。時折プロミネンスのように火の粉を踊らせる炎そのものを、手に握り締めて、涼しそうな顔をしているその横顔は。妙に神々しく、俺はそこから目をそらすことが出来なかった。

「母様。もう十分でしょう?カーマインを殺し、民は滅びた。まだ足りませんか?」
竜の、銀と瑠璃の瞳を見つめて、サビーナは問うた。
「父様も。もう十分でしょう。お休みなさいませ。」
俺の声で、セリーンも静かに言った。

『・・・何故・・・我らは・・・グァァァァァッッ』

地を這うような低音が、鳴いた。
竜は、叫び声を上げながら、その鉤爪を徐にこちらへと伸ばす。俺は、剣を抜いた。
セリーンとサビーナが攻撃を逃れて、同時に後ろに跳躍する。

「オスカー!こっちには麻酔弾がある。対猛獣用の!動きを止められるかもしれない!!10時方向よ、確認して!」
トランシーバにオリヴィエの声が響いた。
とっさに確認すると、湖の対岸、10時方向で光が左右に揺れている。
あそこか。あそこなら、竜を背後から仕留められるかもしれない。考えがまとまるより先に、口が動いていた。
「サビーナ!!俺がやつを引き寄せて、動きを止める。その隙に、行けるか?」
俺は真上から、闇雲に地面を踏み付け、俺達を押し潰そうとする竜の腕を跳躍して避けながら言った。
「分かった!!」
サビーナも、跳躍して振り回される竜の爪を避けつつ、バーミリオンで切りつけながら短く返す。
「俺の『打て』の合図で放て!オリヴィエ!!仕留めろよっ!!」
「まかせときっ!」
俺はトランシーバの返事に微笑して、叫んだ。
「サータジリスッッ!ゼーンッ!お前の相手は俺だ!!」
俺は剣を頭上で構えながら、オリヴィエの方向に向かってまっすぐに走った。
竜は、俺を踏み潰そうと、その長く巨大な身体を後ろに引きながら、腕を地面に振り下ろす。

ドガァッッッ
右に跳躍して逃れ、走る。
後ろから、サビーナが軽快なリズムで足を運び後に続く。

ズバァァァッッッ
左に跳躍!
走る!

ドゴォォォッッッ
後ろに少し跳躍!
間髪いれず前に跳躍して切りかかる!!
「てぇッッッッッッッッッ!!」
俺は、オリヴィエの鼓膜を破るつもりで叫んだ。

ドシュッッッドシュドシュドシュッッッ
一体何発見舞ったんだか、良く分からないくらい音がして、白竜は背中を衝撃に震わせた。
効け!!
俺は祈りながら再度叫んだ。
「サビーナァァッッッ!!」
その声がかかる直前くらいから、サビーナは弾丸のように駆けていた。白い竜に向かって・・・にしては、少し軌道がずれているが。何か考えているのかもしれない。
巨大な竜は、頭を天にもたげたまま、動きを止めていた。
人が、痛みに耐えて、天を仰ぐように。
どうやら、少なからず、麻酔は効いたらしい。
俺が顔をサビーナの方向に戻すと、彼女は、弾丸のような勢いはそのままに、俺に激突する勢いで近づいてくる。
こっちじゃないだろ!俺は唖然として固まってしまう。が、サビーナの口元には不敵な笑みが浮かんだままで。
距離が完全に縮まると、サビーナは、猛禽類が獲物をかっさらう時のような要領で、俺の身体を左手一本で楽々抱え上げて、大きく跳躍した。
と、「ヴァサッッ」という布を広げるような大きな音がして、身体がふわりと宙に浮く。

んんん?!?!

見る間に、地面が遠ざかって行く。呆気に取られて、上を見上げる人々の顔が小さくなる。
俺は、サビーナの横顔を見た。得意そうにニィと笑ったその顔。リュミエールの背中には服を破って蝙蝠のような翼が生えていて。時折バサッと、それは鳥の翼のように撓る。
「討つぞ、セリーン。カーマインの敵(かたき)を。」
ああ。そうか。そういえばサータジリスの背にも翼が・・・
「ええ。とうとう。」
展開についていってない俺は、器から追い出されたらしい。例の手袋ごしの感覚で、リュミエールの腰を、きゅっと愛しげに抱く感触が伝わって来る。
大きな竜の瞳の真上まで上がって、サビーナは滞空飛行に切り替えた。その斜め後ろにリュミエールがいる。
俺は、霊体の状態で、握ったままになっていた、剣をきちっと握り直して、夜空に半透明に浮かび上がった、リュミエールに近づいた。
「風が・・・気持ち良い・・・」
リュミエールは、固く抱き合った俺達の器と、その先にある切なげな竜の大きな顔を、無表情に見下ろしながら言った。
そのぼんやりと光を放つ錦紗のような髪が風で夜の紫に舞って。なにかお伽話のような雰囲気を醸し出している。
俺はゆっくり、その左腕を取って、俺の剣にかけさせた。
リュミエールは怪訝そうに一度、片眉をあげたが、
「最期ですしね。」
と、自然に少し笑った。
「ああ。」
と俺は返す。足元では、同じようなやり取りがあったのか、バーミリオンをサビーナの右手と、セリーンの左手が、しっかりと握り締めていた。
二人の愛しげに見つめ合った瞳が、コクン、と一度何かを確認するように、頷く。
すい、とその切っ先が一度天を向き。
ブンッ、と真下に向きを変えて、

「ぉぉぉぉぉぁあああああああッッッ!!!!」
「ぃぁぁぁぁああああああああッッッ!!!!」

4人分の咆哮と共に、大きな竜の瑠璃色の目と銀色の目の間。
眉間のど真ん中に剣が、突き刺さる。

『クォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォンッッッッ』

夢の中と同じような声で。竜が、鳴く。
身体を尾まで真っ二つに裂かれるようにしながら。
しかし、裂けた身体で俺達四人を通り越し、天に昇っていった。

終わった・・・のか。
ほぅ、と安堵のため息が口をついて、急速に疲れが襲って来る。

何かの支えを失ったような、急速な落下の感覚の中、サビーナの声が脳裏に響いた。
『お前達が見つけた墓所で、炎の杖に炎を灯し、水の杖に水を捧げ。そして、「調和」と唱えよ。』
セリーンの涼やかな声が繋ぐ。
『私達「水流」が秘匿していた、生命の水が手に入ります。ヒトに、分けてください。子が出来易くなります。』
リュミエールが答えた。
『まったく。人使いの荒い人達ですね。』
サビーナが返した。
『いいさ。生命の水は、積もり積もった親への恨みを、晴らす機会を与えてくれたお前達への礼だ。いらぬなら、捨て置くがいい。』
セリーンが笑った。
『ああ、そうそう。良いお酒もできますよ。』
二人は年頃の娘がそうするように、ころころと笑いながら、現れた時と同じような唐突さで、何処かへと去っていった。

激しい疲労感の中、俺はリョウの事を考えていた。
終わったぜ。
今・・・戻るから。

待って・・・ろ・・・

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「なるほどぉ。」
私はほぅ、と息をついて、その革張りの大きな書籍を閉じた。つまり、欠けていた話があったということだ。伝承の歌には。
伝承の歌では、ヒト、火竜、水流の一族が存在し、ヒトと水流が争っているところにヒト側に火竜が加勢する、という話しになっていて、火竜の一族の少年と水流の一族の少女が恋に落ちる、というのがストーリーだが、その一世代前にも、恋物語があったと。
神と解釈されていた火竜の、翼を持った一族の娘と、生命の水の力で、ヒトより強い力と生命力を持った水流の一族の王子。
だが二人は、互いに恋いこがれているのに、すれ違ってしまう。 「いやぁ、ロマンですねぇ。」
頭の半分は、実は別のことを考えながら、今回の内容を反芻して。
「終わりましたねぇ・・・」
呟いて、私は椅子の背もたれに身体を預ける。

コンコン!

固い音で執務室のドアが鳴る。開かなくても分かります。この音は。
「入るぞ。私だ。」
やはりジュリアス。
「どうしました?」
私は、その苛ついた表情になんとなく察しは付きつつも、確認する。
「オスカーがふさぎ込んでいてな。見ておれん。」
ジュリアスが愚痴とは珍しい。
だが、
「仕方がないでしょう。自分の責任で部下を失ったら、誰でもふさぎ込みたくなりますよ。」
私はため息交じりに言う。ジュリアスは案の定、キッとこちらに鋭い視線を投げ、
「責任というなら私の責任だ!オスカーの指示で彼は行ったのではない。私の指示に従ったのだぞっ?!」
腰元で天井に向けた自分の手の平に、ぱちん、と自分の拳を振り下ろす。「彼」とはオスカーの部下、リョウ・ムライ。主人を救った英雄として、先日弔いが終わったばかりで。
なんという・・・ことだ、と私も嘆いた。が、全員が悲嘆して居れば、彼が返ってくる訳でも、残念ながら、ない。
「それを言い出すと、彼は結局誰の命令にも従わなかったのですけれどね。」
そんなことは、誰だって分かっている。
オスカーも、ジュリアスも。
人が殉職するのは決して珍しくはない。ここ聖地では。
ただ、珍しくない、という理由で命に対する責任感が軽くなる訳ではない。だから、苦しんでいるのだ。
・・・それはある意味、当然の痛みとも言える。私にだって、どうしようもない。
「わかりました。様子を見に行きます。恐らく、無駄でしょうが・・・」
しぶしぶ、返事をする。貴方が求めていた言葉はこれでしょう?という意味を込めて、少し苦笑しながら。
「そうか!いや、礼を言う。すまないな。頼むぞ。」
自分は恐らく足繁くオスカーの元に通っているのだろう、首座の守護聖は。その豊かな金髪を、うむ、と頭を振るって盛大にきらめかせる。
私は、ふぅ、と息を吐いて、腰を上げた。

あまり、私向きの仕事とは思えませんがねぇ。
思いながら、拳を軽く作って、腰の当たりを二度、トントン、と叩く。これで、滞った血流が目を覚ます。
確か、こういうのは「ジジクサイ」んでしたっけねぇ、と窓の外の明るい光をぼんやりと見上げた。

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オスカー邸は、頑健な作りに比して、装飾品が少ない。
固くて素っ気ない・・・まるで男性に対するオスカーの態度の様だ。
館の廊下を歩きつつ、知らず分析を始めてしまう。
「こちらです」と案内した男性が部屋の前で振り向く。考え事をしていて気づかなかったが・・・
「貴方は・・・?」
あまりにも、「彼」にそっくりだ。彼と違って短髪でなく、後ろできちっとまとめているが、髪形以外は全く同じと言っても良い程に。
「件の『リョウ・ムライ』の弟のリュウと言います。兄の後任で雇っていただくことに。」
鳶色の瞳が少し、困ったようにきらめいてから、笑顔を作り、彼は言った。
こういう反応に慣れているのだろう、と私は思った。
それにしても、これはあまり精神的によくないような・・・いや、この方には失礼な話なのだろうが。
「オスカー様に、会われないので?」
じぃっと見入ってしまった私に困ったように、黒髪の青年は促した。
「え?はい、ええ。いや、会いますよ。会いますとも。」
考え事をしていると、判然としない返事を返すことがあるのは、私の悪い癖だ。
青年はドアを二度ノックして、「ルヴァ様、いらっしゃいました。」と短く告げ、すい、と扉を開いた。
扉の向こうに、大きなベッドの中で上半身を起こし、窓の外をぼんやりとみやっているオスカーが目に入った。顔の頬などにあった擦り傷は、一通り癒えたようだが、窶れているように見える。
ゆっくりと、こちらを見て、「あんたか。」と、緩くほほ笑みを返した。
私が部屋の中に入ると、ぱたん、と背後でドアがさりげなく閉められる。

オスカーの様子に、確かにジュリアスがあの調子になるのも分からなくはありませんねぇ、と私は思った。雰囲気が・・・なんとも痛々しいのだ。覇気のないオスカーはオスカーとは呼べまい。
「元気がないと、聞きましてね。」
言いながら、私は、勝手にサイドテーブルに付いている簡単な椅子をひいて、ベッドの隣に位置を変え、座った。
「あんたまでそんなことを言うんだな。」
ふぅ、と息をついて、
「俺は、部下を失うのは初めてじゃない。」
はっ、と笑い飛ばしながら、彼はその赤い髪に額から、さっと手を入れ、大袈裟な仕草ですいた。そういって、こちらを見た瞳は。見当違いな怒気を孕んで、かえってこちらを心配させる。
「そうでしょうねぇ。回数を重ねれば、慣れるものですか。その感覚には。」
私は、窘めるつもりで、ゆっくりと言って、その瞳を微笑みでやんわりと押し返す。
オスカーは、少年のように素直だった。
「・・・すまない。今のは忘れてくれ。」
視線が、自然に自分の腰の当たりに落ちている。困ったものだ。そろそろ、傷も癒える頃だろうに。
「リュミエールも、そろそろ身体の傷が癒えるそうですよ。あばらやら、鎖骨やら、あちこち骨を折っていたようですが。」
息を飲む気配。気になっているのに、気にならないふりをするのに必死、というところでしょうか。
「貴方の方が落下時の骨折で重症だったらしいですが。まさかリュミエールより貴方が回復力で劣る、なんて事はありえないでしょう?元気になったらリュミエールを見舞ってやってくださいね。」
若干ストレートすぎる焚付け方をしたかもしれない。
ばさっ、とオスカーは布団を捲り。
「傷なら癒えてる。執務もここでやってるさ。」
元気さを証明するためか、勢いよくベッドから向こうの降りようとして・・・足首をがくっと抜いた。態とかと思ったが、ただ筋肉が戻っていないだけらしい。
「筋肉はまだ、戻ってないが・・・」
乱れた薄いシルクのローブを、整えながら振り向いて、らしくない微笑を再度、こちらに返す。
うーん。困りましたねぇ。だんだん目の前の解決出来そうにない問題を、思考回路が拒否し始める。代わりに、脳裏で全く関係ない荒野と水流の惑星のその後の事などを考え始めてしまう。
「・・・い、おい?ルヴァ??」
大きな声で呼ばれて、はっと我に返る。
「は、はい?何か?」
「あんたな、見舞いに来たのか考え事しに来たのかどっちなんだ?」
吹き出してから、オスカーは呆れた表情を作ってこちらを見た。
「ええ、貴方はそんな顔が似合っていますよ。」
私も思わず笑う。
「ふん・・・飲み物、何かいるか?って聞いたんだ。アンタはお茶だっけ?」
「いいですよ。貴方と同じもので。」
「それじゃカプチーノを。・・・すまん、カプチーノ二つ。」
内線に声をかけてから、オスカーはこちらに戻って、ベッドに腰をかけた。足をゆっくりと組み、
「俺は別に・・・」
と何事か話そうとしたところで・・・
「困りますっっ!!あ、あの今確認を取りますから。ほんの1分だけお待ち下さ・・・わぁっ!!」
外で先程の後任秘書の叫び声がして、私達は自然にそちらを振り向く。
寝室の扉が些か乱暴に開いた。

バンッ!!

薔薇の花束のお化けが、そこに居た。薔薇の大きすぎる花束に、足がはえているのだ。
なんだろう、この生き物は・・・私が凝視していると、
「これを差し上げます。」
素っ気ないリュミエールの声がして、ずんずんとそれは私達の方に近づき、ベッドの上にその花をばら蒔く。
薔薇がきれいに取り去られ、中からリュミエールが現れた。
確かリュミエールは切り花は好まないんじゃあなかったですかねぇ・・・とまた関係のない思考が走り始める。
「おや、ルヴァ様もいらしていましたか。」
ふふ、と愛想よく笑われて、我に返った。
「いえ。私の方は用は済みました。」
私は椅子を立って、トントン、と二回腰を叩く。
「リュミエール、貴方の方がよほど元気そうですねぇ。オスカーに是非ハッパをかけてやって下さいな。」
笑いかけて、出入り口を見やると、扉を開いたまま、秘書が所在無さそうに立ちっぱなしになってこちらを窺っている。
「気になさらないで下さい。これで良いんですよ。」
と、彼にも笑いかけ、私は部屋の外に出てから、彼に扉を閉めるように促す。
「あ。おいカプチーノは?!」
助け舟を求めているのは分かったが、私はそれを黙殺することに決めて、その館を去った。

しばらくこちらは水の守護聖の優しさにまかせてみましょう。
実は先程考えていたことがあるので、私はその続きを先に結論してしまいたいのですよねぇ、と雲一つない空を見上げつつ、続きを考える。

そう。考え事は、歩きながらが一番。

いや、良い天気です。
おや、アンジェリーク。貴方も散歩ですか?
え?私を捜していた?そうですかぁ。それにしてもこんなところで私を見つけるだなんて、貴方の情報収集能力は若干驚異的の部類に入りますねぇ。
褒めてくれなくていい?いえ・・・褒めているわけでは・・・まあいいことにしましょうか。
どこへ行くのか・・・って私は今考え事をしているんですよ。ですから、王立研究院に向かって歩き、出した結論を裏付けるデータがあるかどうか、着いてから確認するのがいいでしょう。
なに、着くころにはちゃんと結論が出ています。問題は、早く結論が出過ぎて別の考え事が始まってしまい、研究院についたときに、何故研究院についたのか忘れてしまうことくらいで・・・
え?肝心の考え事はどうしたかって?いえね、例の惑星の出生率が、あの水の効力で向上する見込みがどの程度あるのかを試算するための方法についてなんですが・・・
興味がない?仕方ありませんねぇ、それじゃあ私一人で考えますから、貴方はただ隣を黙って歩いていて下さい。
なかなかおもしろいものですよ。二人で寄り添いながら歩いているのに、互いに違う事を熟考しているんです。きっと外界の刺激を共有している分、時折、思考の内容やアイデアが交錯して・・・

えぇっと、それで、なんの話でしたっけ?

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「なんの用だ。」
俺は届けられたカプチーノに口を付けつつ、聞いた。
全く・・・ベッドを使えなくしやがって。
仕方なく、リュミエールの方向にむけて、俺は立ったままそれを口に運ぶ。
うまい、はずなのだが、何故か味がしない。
俺は振り向いて、壁に体重を預け、腕を組んだ。
「もう、大丈夫なのか?身体は。」
ベッドの前に立ち、こちらを向いている男に聞く。ちらりと視線を上げると、いつもの執務服は、どこも破れたりしておらず、新しく誂えたもののようだ。あれから1週間はたつ。当たり前か・・・
「私はこの通りですよ。」
男は、腕を軽く広げて失笑した。そして、こちらにゆっくりと、近づいてくる。
この男と、二人になるのは、苦手だ。多分、相性が良くないのだ。俺は、うつむいて、組んでいた手を解き後ろの壁に這わせ、息を吐いた。
俺の目に、やつのずるずるの裾と、ちらりとそこから覗く足が目に入る。足の先まで、お前は白いんだな、となんとなく思った。
す、と頬から、頭にリュミエールの指先が伸びて、触れる。
「リョウが、死んだ。」
俺は微動だにせず、うつむいたままに呟いた。
「知ってます。」
奴はほとんど声を出さずに言った。当たり前だ。お前も弔いの場に居た。
頬に、唇がそっと触れてくる。奴の細い髪が、首やら鼻先やらに触れる。植物か石鹸かよく分からない香りがする。
「死んだ・・・」
俺はもう一度、言った。
すごく良い奴で、働き者で、リシアからの預かり物だったんだ。
「知ってます。」
少し下から、瞳を覗き込まれる。瑠璃が、俺が落ちてくるのを待っているように、そこにぽっかりと穴を空けていた。
涙は出ない。
寧ろ、乾くんだ。
「知ってます。」
もう一度つぶやいて、奴は俺の髪に指をいれ、引き寄せた。額と額が、こつ、と当たる。
互いの全身の体温が、その僅かな面積を伝って行き来しているような感覚がした。
「目を閉じて。」
呟かれ、俺は、目を瞑った。
「息を吐いて。」
息を吐く。
「イキテ。」
?意味が分からず、瞳を開けようとした時。不意に額の感触が外れて、かわりに唇を湿った柔らかい感触が包む。
ゆったりと近づいて、やがてそれが離れようとするのを、すこし追いかけるように、本能的に首が前に出る。
それが躊躇いがちにそこに止まり、またゆっくりと俺に近づいてしっかりと触れた。
口が自然に少し開いて舌を待つ。
俺は壁について体重を支えていた手を、片方リュミエールの腰骨あたりに添えた。
一度唇が微かに離れ、
「途中で止めろと言っても、止めませんよ?」
と小さな声が問い、唇の動きが俺を刺激する。答える代わりに、俺は微かに開いたままになっているその唇に舌を滑り込ます。
緩く舌を絡めとって吸い、それを離して口内の形を探る。リュミエールの舌がそれを押し戻すようにこちらに入り込んで歯列を弄ぶ。

リョウに恋人は居たろうか。
人懐こい笑みが、勝手に胸に浮かぶ。

じわじわと激しくなっていく感覚に、だんだん脳が痺れて何も考えられなくなっていく。
「ふ・・・っく・・・んっ」
どちらの吐息か、あるいは二人の吐息か分からない音が漏れた。
自然に、糸を引きながら唇が一度離れる。再度それが重なる直前で、
「ベッドへ。」
リュミエールは囁いた。半ばあっちの世界に旅立ちかかっていた俺は、意味を理解するのに一瞬を要する。ってでも・・・ベッドは・・・ぼんやりと見やると、リュミエールの顔の向こうに赤い薔薇に埋め尽くされたベッドが見えた。
「いいから。」
無理やり身体を壁から引きはがされるようにして、ベッドにとん、と軽く突き飛ばされる。
特に抵抗せずに背中から倒れると、ぐしゃり、と背中で薔薇が潰れる感触がした。花びらが、少し舞う。
「まるで埋葬される人のようです。・・・貴方が埋葬されるときは、きっと深紅の薔薇で棺が埋め尽くされるんでしょうね?」
上から覗き込む瞳が、柔らかく笑った。落ちてきた細い髪の一束が、俺の頬にさらりと掛かった。
俺は、その髪をきゅ、と握りこんで、その瞳から目をそらす。
「俺は、自分の死に方は路上でのたれ死にって決めてるんだ。埋葬なんかされないさ。」
ご大層に埋葬なんてされてみろ、俺はますます天国から遠ざかっちまう。天国ってものが、あるなら、の話だが。
「それは初耳です。」
くす、と失笑して、リュミエールは俺の額に唇で触れた。
その感触に、何か、苛ついたときのような妙な衝動が俺の中を駆ける。ほとんど無意識に、奴の首に手を添えて、唇を求めようと身体をずり上げる。
視線が交錯した次の一瞬に、リュミエールは俺の唇に人差し指を当て、俺の動きを止めると、もう一度失笑した。
「積極的なのは・・・結構なんですが。」
一度、ふっと息をついて、
「何かを忘れるために無理にしているなら、無駄ですよ。きっと。」
何を言われたのか理解する前に、かぁっと全身に血が上り、心臓が強く掴まれたように一度、跳ねる。
「俺は、別に・・・」
何を言い訳しようとしているのかよく分からない。
顔の両際につかれた腕が邪魔で、逃げ出せないことに気づいて、逃げたいのか、俺は?と自問自答する。
その様子に、珍しくリュミエールは困ったような笑い方をした。
「いや、忘れたいというなら協力してもいいんですが・・・私が言いたいのは、多分、性格的に無理ですよ、という意味で。」
変に柔らかくなったリュミエールの声音に、俺はその瞳を正面から捉えなおした。
そして、その海色に導かれるように、俺は言った。
「カーマインの瞳の色は、ゼーンと同じだ。だから、サータジリスは・・・。」
「サータジリスの銀色と、セリーンのアイスブルーを、ゼーンも重ねて見ていましたよ。」
口元に優しい笑みをたたえて、リュミエールは俺の瞳を覗き込んだ。
「俺はサータジリスの大馬鹿と一緒だ。己の感情が怖い。認めたくもない。だが、そんなつまらないことのために、リョウを失うなんて・・・ありえない。」
どっ、と何か重みを持った風のような、嵐のようなものが、俺の胸の奥からわき上がってくる。
「それで?貴方は認められたんですか?」
きっちりと追い込まれて。俺は混乱する中、目を閉じて精神を統一し、なんとか言葉を継いだ。
「お前を・・・無視できない。」
『どうやら君に惚れちまったみたいなんだ。』
『側に居させてくれないか?今だけでもいい。お願いだ。』
『本気なんだ。君に。』
自分が馬鹿みたいだ。これまでの俺は一体何だ。俺は、いつだって、本気だった。遊びだとか、思ったことはない。なのに。
これまでの恋愛の高揚感なんか、今はこれっぽっちもない。
ただ、追い詰められて、人としての矜恃も、男としての矜恃も、何もかももぎ取られて。
こんなに不安定な足場の上で、うまくダンスを踊れるだろうと、俺は信じていたんだ。
大した道化だ。立っているだけでも、精一杯だってのに。
これが思慕の情なら、俺はこんなもの要らない。
他人に厳しく、自分に甘い。人でなしと呼ぶなら呼べばいい、そう思った。
俺には、受け入れられない、と。
でも、だから。無視しようとした。相手を、自分を。

「俺は・・・多分お前に惹かれてる。」

最後の引き金を自分で引く。
ここまできても、まだ怖い、と思った。自分の気持ちが、言葉にすることで、よりリアルになるようで、怖い。
だが、サータジリスの馬鹿と決別する方法は、これしかない。
おそるおそる、目を開ける。
リュミエールの深い色の瞳が、こちらをじっと静かに見ていた。
「私も、貴方を無視できない。ずっと、以前から。」
最後の方に、狂おしい音が混じって。瞳が苦しげに歪められる。だが、目は逸らされなかった。
「時折、自分が抑えられなくなるくらいに。・・・欲している。」
なんちゅう言葉遣いだ、と俺は目の端に朱が上るのを抑えられない。
「貴方を、穢して、貶めたいと、いつも願っている。何故か、分かります?」
吹っ切れたように笑った瞳を、俺はよく分からずに見上げる。
「でもね、もう、一度伸ばした手を引っ込めるような真似は、しません。私は、自分から貴方を離したりしません。貴方がどうしても私から逃れたいと言うのなら、力ずくでそこから這い出してください。ゼーンのように、勘違いから自分で自分の首を絞めるのは真っ平ですから。」
得意げに笑った顔は、どこか少年のようだ。
「ゼーンの勘違いって何だ?」
「どうやら、サータジリスに振られたと勘違いして、無理矢理諦めて許嫁と結婚したようです。」
つまらなそうに、リュミエールは息をつく。
つまらない勘違いで、民や、子孫が巻き添えを食う。割に合わない。
だが、割に合わない力を、サータジリスもゼーンも持っていた。自分で選んだわけではなく、生まれながらにして。

そして、俺とリュミエールも、その力を持っている。

俺の力加減で、惑星が荒廃し、滅亡する。
今まで覚悟を決めて使っていたつもりの力や立場が、ひどく恐ろしいもののように思える。
そんなことがあってはいけない。
だが、今回、それは既に起こり、リョウはここに居ない。

「オスカー。」
名を呼ばれて、我に返った。
「忘れる必要はないでしょう。ただ、抱えて生きればいいんです。今までも、そうしてきたのでは?」
どこか、水をかけるような口調でそう言われてぐっと言葉に詰まる。

ただ、抱えて生きる・・・
「あぁ。」
俺は、短く言い、挑戦的に、その瞳を見つめ返した。

そう、そんなことは言われるまでもない。
苦しい?難しい?そうさ。だが、それは当然の痛みだ。
すまない、と何万回。この先、今のように唱えても、彼奴は帰ってこない。
だとしたら・・・俺に出来ることは?

俺の瞳をじっと食い入るように見て、リュミエールはため息をついた。
「困ったものです。どこか喧嘩腰でないと、どうやら私は相手にしてもらえないようですね。」
俺の眉を、すい、と指先で撫でて、
「抗えない。」
とボソリと呟いて、ゆっくりと口づける。口づけが深くなるのと同時に、スルッとローブの腰紐が解かれる。
「ふ・・・んん・・・あらがえな・・・って・・・?」
キスの隙間から問うが、答えは、
「こちらの・・・話です。」
という素っ気ない物だった。
何故、こんなことをするんだ。切っ先の上でダンスを踊るように、困難な事のように思えるのに。
過ぎった思考を、甘い痺れが上書きするように、掻き消していく。
「んっ!!」
何故、よりによって、この男なんだ。
俺は自分の胸元を吸うその男の顔をそっと見下ろす。伸びた舌先の動きに、びくっと、身体が反応して、背中の薔薇がシルク越しに悲鳴を上げる。
「ぁっ・・・」
声を堪えようと、手の甲を口元に押し当てて、薔薇の山に埋める。噎せ返るような香りに、くらりと目眩がする。
くそっ・・・
刺激から逃れようと捻った身体の、肋骨を舌先が辿る。たまらず、リュミエールの肩を掴んで、ぎゅっと力を込める。
だが、寧ろそれを合図にしたかのように、リュミエールは臍を辿り、その下に向かって舌先を動かす。
「んんっ!」
口元を塞いでいるせいで、くぐもった悲鳴が自分から上がる。いたずらするように先を弄ぶ舌と、明らかにこちらを見上げているリュミエールの気配に、頭に血が上る。
「なに見てんだっばっ・・・かがっ」
くわえ込まれて、声が上ずる。と、口を離して、先に唇を触れさせたまま、
「いや、くぐもった声が更に扇情的だなと・・・」
しゃべられる。
くすぐったい、なんてもんじゃ・・・って、なんだって!?
俺はあわてて口元を塞いでいる手を離し、周囲の薔薇に埋もれているシーツを握りしめる。
と、同時に再度くわえ込まれてキュウと吸い上げられ、
「あぁ・・・・くっ」
耐えきれず声が上がる。奴が笑っている気がする。
「やっぱり、止めた。」
突然、これまでのムードとはかけ離れた声がして、奴がずりずりと俺の身体を這い上ってくる。
そして、俺の顎先に、自分の顎をコツ、と乗っけて、てこの要領で鼻先を近づけると、目を開けたまま、キスをしてくる。
「最初から、一緒に。」
誘われるような台詞に、お前・・・その口はたった今ゴニョなあれで・・・つまり色々と問題が・・・とは思いつつ。
抵抗感を感じながらも、なされるがままになっているうち、だんだんそれもどうでも良くなる。
俺は、シーツを握りしめていた腕を片方、リュミエールの背に回した。もう片方は、夜空に映える、あの錦紗の髪の中へ。
リュミエールの目が、一度。より大きく開いて、笑っているかのように細められ、舌が激しさを増す。
「目ぇ・・・つぶれっ・・んん・・よ・・・!」
息継ぎの中、必死に行った抗議は、
「んんっ・・・ぁ・・・貴方だって・・・開けて・・・るでしょう・・・!」
あっさり却下された。
やがて身体の熱さと、脳みその沸騰具合に、目を開けているか瞑っているかも、わからなくなるまで。
俺たちは互いの瞳を睨み付けていた。
その奥の何かに、まるで囚われてでも、いるかのように。

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