第三章 忘れてはいけない


ユルサナイ、オマエヲユルサナイ、オマエヲ・・・・

奴の精神世界にくだる、まさにその時。獣の咆哮が人間の言葉を形作ったように、俺の背中を追いかけてきた。ねっとりとした怨念が俺の背中をぞろり、と這い上がるのを感じた。
嫌な、予感がする。

ふと気付けば、暗い回廊をひとり、俺は歩いていた。

通路際に、ぽつぽつと等間隔に設置された燭台。その灯火に照らされて、高いアーチ型の天井が微かに揺らめいている。

暗い・・・。寒い・・・。。

服の下で鳥肌が立っているように感じて、ぶるっと、一度だけ、身震いする。
これがリュミエールの精神世界なのだろうか?心地よい音楽も、太陽の光りも入らない、むしろうす気味悪く、空気まで沈殿しているような、洋館。
床のセンターに敷かれた赤絨毯は、高貴さや勇気でなく、むしろ血の赤を連想させた。
どこまで続いているのか、廊下は先が見えない。

気が付いた時には、もう既に歩いている状態だったので、そのまま前へ前へと歩を進めているが、こちらで、果たしてあっているのだろうか?右にも左にも、脇道が伸びているのが気掛かりだった。
そもそも、リュミエールを引きずり戻せる方法なんて、ほんとにあるのか?何もわからないままに、俺はひょっとして、ヤバイところにきちまったんじゃないのか?
今更途方にくれるつもりはないが、俺らしくもない考えがちらりと、脳裏をよぎる。

ともかく、目的もなく歩くのは性に合わない。
「おーい、誰か居ないのか!!」
かといって、足を止めてボーッと待つのも性質じゃなかった。
「おーい!!」
背中で感じている悪寒をかき消すのにも、あるいは都合が良いかもしれなかった。声を止めると、館が沈黙を強制するような気配を感じる。だからできるだけ間をおかずに声を再びあげる。
だめでもともと、と声をあげながら歩いて、どれくらいたっただろうか、丁度声をだしつづけるのにつかれ始めたころ、

キラッ

と、暗く先の見えない廊下のさきで、何かが光ったように感じた。
頼りなげな瞬きが、一度、二度と続いた後、その光りは、歩みを一歩進めるごとに段々と確かな目映い輝きへと変化してゆく。思わず足取りはだんだんと速く、力強くなる。

俺がはやる気持ちをおさえきれずに、思わずかけだすと、その光が辺りをすべて包み込み、周囲の風景が白く消し飛んでいった。

足を止めて、そこにいるであろう者の名を呼んだ。
「リュミエールッッ!!」

意外にもあっさりと、光のむこうから探し人が現れた。憮然とした表情で、例のラフな格好のまま。右手が、長髪を乱暴にかきあげる。その細い髪が、周囲の光を細かく反射する。
俺は思わず眼を眇めた。
「こんなとこまで、一体何しに来たの?」

そのふてぶてしい言い様、ルゥの方、か。
そう思ったとたん、
「お前こそ、なんでここにいるんだ?」
不意に、予想もしなかった激しい憎悪、嫌悪感が俺の中で芽生え、声がふるえた。つい先程まで、こいつに何をされたかなんて、忘れかけていたというのに。
思い出した内容に呼応するかのように、身体がかっと熱くなるのを感じた。

「くっはははは!」
鼻頭に皺をよせて、奴が愉快そうに笑う。
「いいね、その眼。悔しくてたまらないって感じだ。普段の正義面より、よっぽど素敵だよ。オスカー。」
頭に血が上るのが自分でわかる。奴が言い終わるか終わらないかのうちに、
「俺の名を呼ぶな!!俺はおまえなど知らん!」
強く右足を踏み込む。一発殴らねば気が済まなかった。
繰り出した拳が左、右、と空を切る。
奴はフラフラと上半身を軽く捻ってパンチをかわす。
「チッ」
と、思わず舌がなった。余裕をかましているつもりか!踏み込んでいた左足を軸にしてそのまま回し蹴り中段!
予想どおり、奴が身体を開いてふらりと蹴りを躱そうとする。
と、見せかけて下段!!
繰り出しかけた蹴りをそのままに、軸足のひざを態と抜く。くずれた重心をカバーするため、両手を床につく。
ダンッッッ
撓るように俺の右足がやつの向こう脛に決まった。

「ッッ!!」
声ににならない悲鳴を聞き、相当痛ぇだろ、と思ったら少しすっきりした。

「リュミエールはどこだ!!」
一喝する。
奴は目頭に手をやりながら、
「ったいな、だ・か・ら、『僕』がリュミエールだ!!」
血走った目が、乱れた髪の向こう側から、ぎらり、とこちらを睨んだ。

え?

不意に、身体が持ち上がるような妙な感覚がして、思わず足下を見る。
いつのまに涌いて出たのか、透明なジェルのようなものが俺の膝下をドーム状に覆い、俺の身体を上へと持ち上げている・・・なんだか妙に足下が冷たい・・・

「違う・・・水か?」

と思ったのも束の間、足下から突如涌いてた水は直径20センチはあろうかという、チューブ状になって、俺の身体を縛り上げ、上へグイと1メートルほど引き上げた。
「ンだこりゃぁ?」
まるで意志を持った植物に抱え上げられたような・・・
しかも、このチューブは、勢いのある水流で作られたものなのか、身体の触れられた部分を冷たい水流で洗われているような感覚になる。

まずい・・・んじゃないか、これ・・・

「体温が下がってきちゃったんじゃない?」
間の抜けた声が下から掛かる。やや天井を向くように持ち上げられた俺からは見えないが、また例の底意地の悪い笑みを浮かべているに違いなかった。
我に返って、身をよじろうと右上半身を大きく振る、と、動作の途中で左腰から右肩に張り付いた太いチューブの先が細く細かく割れ、シュルシュルと伸びて、あっというまに俺の右手の先までがんじがらめに固定してしまった。
細い方から太い方に引きつけられるように力がかかって、渾身の力を込めても俺の右肩から先はぴくりとも動かなくなった。ザワワワワワッと、細い水の管が水流で毛羽立つ。

「『心の中』って便利だね。最初からこうすればよかった。」
と奴の声。精神世界なら、なんでもやり放題って事だろうか。だとしたら俺にそもそも勝ち目などない。
服はずぶ濡れになり、肌が露出していて、水にさらされているところは、もはや感覚がない。
当たり前といえば当たり前だった。ずっと身体を滝にさらしているようなもんだ。
突然の生命の危機に、身体が省エネモードに入ったのか「寒い」という感覚がだんだん麻痺していく。なんとかしなけりゃ・・・な、と頭が冷静に考えていたが、良い案は一向に浮かぶ気配がなく、そのことが焦っても無駄か?と俺を妙に冷静にさせていた。
「何が目的なんだ・・・てめぇは・・・」
声を出すためには空気が必要で。冷えた身体から肺に残った暖かい空気が抜けていくのを、
「このまま我慢してもどうせ結果はたいしてかわらんさ」と見送る。
最悪、外のルヴァ達がどうにかできるかもしれない。だったら、聞きたいことを聞いておきたかった。

「ふふ・・・」
と、笑い声がし、一瞬身体の締め付けが緩み、ガクッッと急に身体を下げられる。俺の顔がやつの顔より少し下の位置で突き出され、跪かされるような格好になった。どうせなら、地面に投げ出してくれりゃあいいものを、そこはちゃんと50cmほど宙から浮いたままだ。
なんだったか、こういう格好を見たことがあるような・・・となんとはなしに思いをめぐらす。
そう、たぶん王や皇帝の前に引きずられて突き出された囚人のような格好に違いなかった。
囚人を召し出す警備兵よろしく、例の水流チューブがギシッと俺の両の腕を後ろにひっぱり、背中を前へと押し出す。肩にぎりぎりと負荷がかかる。
「イテェな・・・」
言っても無駄であろう言葉が、ついでとばかりに口から漏れてしまった。
筋肉を緊張させていても疲れるだけで、ケガをする可能性も高くなるので、いっそのこと総ての筋肉をできるだけ弛緩させた。

「あれ?抵抗諦めちゃったの?面白くないなぁ〜。」
俺が力を抜いたのが分かったのか、すぐ額の先でやつの声がする。と、前髪を鷲掴みにされて無理矢理上を向かされ、奴の視線が俺の目を捉えた。
目があった瞬間、反射的に唾を飛ばしてしまう。左頬に命中したが、そこで「やった」と喜べるほど俺もお気楽じゃなかった。奴の目に憎悪の火が点るのをまともに見てしまったからかもしれない。
奴がゆっくりとつけられた唾を左手の甲でぬぐい、その甲を俺の頬にギリリ、と思いっきりなすりつけた。あ。やっぱり・・・と思った通り、やつの腕はそのまま振り上がる。
バキィッ
と、俺の右頬が鳴る。鉄の鈍い味が口の中にジワと広がる。ペッとはき出したが、新たに沸いてくる血が口の端からタタッと、溢れた。腫れるな、こりゃ、とどこか他人事のように思う。昨晩からこっち、次から次に、よくもまあ傷を作ってくれる。
「な・・・にが目的なんだって・・・・きいてんだよ・ッ・・!」
ドスを効かせたつもりが、声を出すのが精一杯で、よれた貧弱な声になる。しかも血を飲んじまった。
顎の下から口元に這っている四本の細い水の管が顎を上向きに支えてくれているので、脱力した状態でも奴を睨み付けることができるのがせめてもの救いといえば救いだった。せいぜい睨んでやる。
だが既に肺から鼻に抜ける息が冷たい。内臓が冷えてきた証拠だった。
黙って奴も俺をにらみ返していたが、再度俺の前髪を掴んで顔を近づけると、ふっと表情を弛め、
「目的?目的なんて、ないんじゃないかなあ?僕は、恨んでる。ただそれだけさ。」
と、奴は俺の顎先から滴る血液を指先ですくい、寒さでおそらく紫になっているだろう唇に塗りつける。麻酔で麻痺したかのように、その感覚は鈍い。
「だ・・・れを・・・・?」
雪山で遭難すると眠くなるらしいが、眠いというより、今の俺は脳みそに血がたりなくて、単純にブラックアウトしかかっていた。目は開いているはずなのに、もう奴の顔が見えない。
「決まってるじゃないか、『誰も彼も』だよッ」
憎々しげに吐き捨てられた言葉なのに、何故か、声もなく泣いている奴の顔が見える。いや、見えるわけはないから、これは幻か・・・?心の中で幻なんてあるのか・・・

「な・・・んで泣いてる・・・?泣きたいのは・・・こっちだバカ・・・」
こいつの前で意識を放ったらろくな事がないんだ。だから・・・

 ユルサナイ、オマエヲユルサナイ、オマエヲ・・・・
 オモイダサセテヤルッッッッ!!!!!!

また、遠くで獣の呻き声がした。悪寒はもうなかった。なんでか、声の主も泣いている気がしたからかもしれない。
奴と、同じように。

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「泣いてる?誰が??・・・あーあ。また気をやっちゃった。」

気を失ったオスカーを見下ろして、遊んでいたおもちゃが壊れたかのような気楽さで、彼が言う。
どうして・・・
自分をきつく抱いた腕に、思わず更に力を込める。爪が、自分の腕に食い込むのを感じながら、もう一人の自分から目をそらすこともできず、私は震えていた。彼の存在を心のうちに感じてはいたものの、目の前に対峙するのはこれが初めてだ。
「どうするんです。これ以上この人を、どうしようっていうんです?」
問いかけた声はどうしても責め立てるような声になった。もうオスカーには関わって欲しくなかったし、これ以上罪悪感の種を蒔かれるのは堪えられなかった。だいたい、何故あんな目にあったオスカーがここにいるのか?彼のことだから、例の下らない正義感で、助けにきたつもりだろうが、彼の神経を疑わずにいられなかった。

「他人事みたいに言うね?僕はお前で、お前は僕なのに?」
鏡に映したような自分が、けれど、見たこともない残忍な顔で笑いかける。血のついた彼の左手を見て、
「私は貴方なんかじゃない!!私はそんなことしたくない!!」
反射的に耳をふさいで叫んだ。何もしたくない、何も起こらないまま、ずっと静かにあのまま、忘れたままでいたかったのに!
私にとってそれは当たり前の気持ちだった。だから、この言葉に相手が強く反応するのは意外だった。

「貴方じゃない??そんなことしたくない??」
みるみる、彼の目が憤怒に染まる。わなわなと震える口元が一気にまくしたてる。
「お前のせいだよ、お前が忘れたがるからいけないんだ。他の誰もが見ないふりをして、僕だけがあの痛みを抱えて、ただ、それが通り過ぎるのを待っていたのに・・・とうとう自分まで信用できない!!お前が裏切ったから!!お前の都合が、僕をつくったのに!!」

昔。なんのきっかけだったか、何もかも忘れたくなって森の泉に行った。そしたら、それまでの嫌なことを忘れて、なかったことにできた。ただそれだけだった。つい最近までは、忘れていられたのに。
なのに、新月の晩にもう一人が現れるようになって、嫌な出来事を思い出してしまった。
もう素敵な魔法は解けてしまって、今はこの訳の分からないもう一人をどうやったらここから追い出せるのか分からなくて途方に暮れている。
『もう一人』をつくった覚えも、裏切った覚えもなく、彼の言っていることの意味が分からない。

「私が・・・・つくった?」
半ば呆然として、口が勝手に聞き返してしまう。それは呟きのような、小さな声ではあった。あったが、
「まだ、結局思い出してないんだろ?何故、僕がここにいるのか。僕が誰で、お前が誰か。知ってるよ。お前はこの期に及んで、まだ『思い出したくない』んだ。僕に押しつけたままで、いたがってる。それがどういうことか教えてあげようか?『リュミエール』?」
彼には充分聞こえたようだ。しかし何を言っている?よくわからないまま、ただ投げられた視線に自分の視線を絡めると、その顔が、呆れたように笑った。
「ハハッ!それなら、僕はずっとこのままさ。あるいは、お前の方が消えちゃうかもね。どうせなら、消えちゃうまえに、お前がしっかり思い出すまで、周り中、めちゃくちゃにしてあげるよ。そう・・・手始めにオスカーに例の続き、しようか?前のは生ぬるかったよね?もっと『事実を忠実になぞるように』嬲ったら、いい加減、思い出すんじゃない?」
口調は面白げに聞こえるのに、彼の表情は苦痛に耐える時のそれだった。
「もう私だって十分思い出していますッ!今更そんなことをする必要などありません!」
そんなこと、繰り返すまでもない。もうこれ以上思い出したくもなかった。
「もう『自分だけ』だったのに。なのに裏切ったこと、忘れてるじゃないかッッ!!」
彼の悲鳴。
忘れてると言われれば、そうなのかもしれなかった。裏切った記憶などないのだから。
自嘲気味に彼が続けた。
「もういいよ。どうせ、結果は同じ事だ。どうせお前は思い出さない。だって、忘れたいんだもんね?いいよ。もう。お前なんか『要らない』。」
憔悴した笑みがこちらを見る。その瞳に、絶望が宿っている。焦点の合わないような、空虚な瞳。こんな顔。遠い昔に誰かが・・・
「イラナイ」
もう一度、今度は低い声が、私をはっきりと捉えた。彼の目が、何か得たいの知れないものに、飲み込まれていくのを見るようだった。彼の瞳の色がみるみる赤く染まって行く。緋色の瞳。
肺の辺りがキュウと締まるのを感じて、ああ。アイツの目、そういえば、真っ赤に見えたっけ・・・と思い当たる。
『まだ思い出してない』
彼の言う通りかもしれなかった。そうだ。だって思い出したくもない。
思い出したく・・・ない。

彼の言葉に呼応するように、自分の思考が四散していく。と同時に、自分の実態も霧散していくのを感じていた。
痛みはなく、むしろ暖かいものに包まれるような感覚だった。周囲の空気に解けて、徐々に自分がなくなっていく。
オスカー、起きてください、逃げて・・・と言おうとしたが、もはや声も出ない。
私も、もう何もかもどうでもいいような気になってきた。不意に今日の会議を思い出す。生態系のバランス・・・崩れた部分はどうなるのだろう?きっと私のこの様で、もっと深刻になるだろう。おそらくあの原因は私に違いない。
だが、この『もう一人』に守護聖の力がなければ、新しい守護聖がきて、何もかも元通りになるかもしれない。
所詮、替え玉の効く存在だ。どこかに既に候補者もいるだろう。だが、この『もう一人』に力があったらどうなるのだろう?
最後の思考の欠片で。
『ごめんなさい・・・』
と謝った。何に?誰に?自分でもよくわからない。よく・・・わからないまま、そこでぷつりと、思考が途絶えた。

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湯船につかってるみたいにあったけぇ・・・と、暖かい液体の浮力を感じながら、心地よく微睡んでいると、頬を誰かの指の背が優しく撫でた。くすぐったい。
誰だったかな。寝起きにこんな仕草をする女性(ひと)がいた。えぇっと・・・
名前は・・・
さらりと、今度は髪が反対の頬を撫でる。ストレートの長い髪。日焼けした肌。
そうだ、黒髪の彼女は・・・
「ん・・・ローザ・・・」
あ。しまった。声が出ちまった。こういうときに名前を呼ぶのはよくないのに。これで何度失敗したか分からない。十中八九、ビンタされるのを覚悟しながら、それでもあまりの心地よさに、この微睡みを自分からやめる気になれずに寝たふりを続ける。
「いい夢みたいだね?」
笑いを含んだ男の声に、急激に正気に戻される。
起き上がろうと、バスタブの縁をつかもうと伸ばした腕が宙を切り、バランスを崩した。縁が・・・ねぇ!!
ガボボッと湯を思わず飲む。むしろ、縁どころかバスタブの床すらなかった。
「わあ。暴れないでよ!!」
奴の声と同時に湯の圧力が増して、身体がまたぎっちり固定される。みれば、肩と両腕、首だけを残して、人肌より少し暖かい湯の固まりが包んでいた。
「な・・・んだこりゃ?!」
容器もないのに、でかい水の固まりが身体を包んでいる。例の水流のチューブの時のような水の流れはなかったが、中の水圧は奴の思うままに調整できるようだった。その水のかたまりの外から奴が俺の横顔をまじまじと眺めていた。
というか、また・・・・全裸・・・かよ・・・とはいえ、例のバングルだけは4カ所とも、忌々しくついたままだが。心を読んだように、
「服を脱がせたのは、服がびちょびちょだったから、効率よく身体を温めて上げるためだったんだけど・・・」
と奴が言いながら、こちらに手を伸ばす。反射的に身体が強ばる。体中に残された赤い痣に
「前も思ったけど、思ったより細くて魅惑的な身体だよね?」
ヤローに思われても嬉しくねぇ!!と暴れたかったが、身体が強ばって言うことを効かない。タダでさえ、自由になるのは肩から腕だけだった。

ちゃぷん

と、音をさせて、奴はその腕を水のドームの横から差し入れた。すっとその指先が乳首をなでて、そのままとぷん、と音を立て、水の外へ去る。
「んッ・・・」
ガチガチに緊張していたからか、何をされたというわけでもないのに、身体が飛び跳ねる。羞恥に目頭が熱くなる。
「テ、テメェ!!」
声を出すことで金縛りが解け、自由になる拳だけでも振り回そうとすると、
「ほんっと、学習能力ないなあ・・・」
呆れた声。と、同時にドームの中から二つの水の輪が凄い勢いで飛び出し、それぞれ俺の手首を拘束すると、あっという間に例の水流のチューブで両腕が上でひとまとめに拘束された。あまりのスピードでねじ上げられ、肩がはずれそうになる。
「ガゥッ!」
思わず悲鳴を上げたが、瞬間、力を抜いたせいか、なんとか外れずに済んだようだ。
「やろうと思えばね・・・この水をちょっとだけ使って、君の鼻と口を塞いだらさ。窒息死なんてさせるの簡単だよね?それとも、そのまま肺に流し入れてもいいよ?そしたら溺死・・・ってことになるかな??」
言われていることの意味はわかった。つまり、どうにでもできる。奴の指先一つでってことだ。やっぱここに来たのは大失敗だった。それだけがわかる。
絶望も束の間、顎をつかまれ、奴の方を無理矢理向かされる。ほぼ真横を向く形になり、首がよじれた。奴の瞳がぐぐっと近づいてくる・・・ん?
「お前、その目、どうしたんだ・・・」
「目?この目はね・・・悪魔と取引した証拠、とでも言っておこうか。」
赤く変色した瞳の中の、更に赤黒い瞳孔ががキュゥっと細くなる。息づかいが肌に感ぜられるほどに近い距離。
目が真剣すぎて笑えない。
「さっき、僕に目的は何って聞いたよね?オスカー?本当のところ、僕に目的なんて、なかったんだよ。あえて言えば、汚物処理を僕だけに押しつけた僕の片割れに、その処理を一緒にやってもらおうってくらいの気持ちでさ。もともと一緒にやってたのさ。だから僕が正論で。僕が自然。でも、その片割れももう・・・『なくなっちゃった』」
顎を掴んだ指を振り払おうとしたが、すごい指圧で顎が抑えられているのか、力の均衡でブルブルと震えるだけだ。
仕方なく、そのままに奴を睨み付ける。
「リュミエールに何をした・・・」
低く唸るような声が出る。奴の台詞は、全く全然意味はわからなかったが、最後の一言だけは聞き捨てならなかった。片割れ、がリュミエールの事だということぐらいは俺にも分かる。遅かった・・・のか?頭にもたげた嫌な予感を早く振り払いたかった。
「『リュミエール』ね・・・僕は何もしてないけど。あえて言えば、オスカーのせいで僕が生まれたとも言えるし?まあ概ね、君の言う『リュミエール』の責任が大きいけどね。」
「何をしたって聞いてんだッッ!!」
遮るように叫ぶと、奴が急に顎を掴んでいた右手に加えて、左手を俺の首にかける。
「イライラするなあ・・・僕は何もしてない。元に戻りたかったのは、僕の方だ。でももうそれも出来ない。だから・・・オスカー、君が付き合ってよ。この汚物処理にさ・・・」
喉の気道を抑えられて、息ができない。戻りたかったのは僕の方だと?何を言ってる・・・
目の前で赤信号がチカチカ点滅してるみたいだ。体中の血液が酸素を求めて暴れ回って始める。身体の先が震える。
ああ。まただ。またこいつが泣いてるみたいに見える。なんなんだ一体。お前どうしたいんだよ・・・

ガハッッッ

気を失いかけたところで、顎と首の両方からいきなり手が離された。いきなり大量の空気が気道に押し寄せ、暫く身体がパニック状態になる。呼吸を整えながら奴を伺うと、やっぱり奴は泣いてなんかいない。むしろ感情など読み取れないくらいの仏頂面だった。
何がなんだかさっぱり分からなかった。

もしかして、俺達は何か考え違いをしてるんだろうか?コイツは、一体何者なんだ?リュミエールがこいつに、精神面で打ち勝って、それで元通りじゃあないってことなのか?結局、今の俺にとって、情報ソースは、目の前に居るコイツしかいない。コイツから情報を取る?どうやって??例えば、頭下げるとか??こんなやつに頭下げてまで、なんで俺が、リュミエールを元にもどさなきゃ行けねぇんだ。しかも、こいつが仮に協力したとしても、こいつの情報の信憑性なんて、無きに等しい。
やっぱり、俺が来たところで、リスクに見合った結果なんて得られない。それどころか、ただのくたびれ損だ。やめだやめだ。全く持ってバカバカしい!何もかもさっさと諦めて俺の方こそ、もどりてぇよ・・・俺の私邸(うち)にな!!・・・と思い始めていた。
・・・なのに。
「おい、お前。俺にも分かるようにしゃべれ。どうすりゃ、元に戻るんだ?お前が知ってることを教えろ。」
俺の口がなんだか結論と正反対の事をしゃべりだす。完全に棒読みだ。当たり前と言えば当たり前だ。
なんてったって、心にもないことをしゃべってるんだからな。

奴、ルゥは完全にきょとん、とした表情になり、目をしばたいて居る。
チッ、と舌が鳴った。
「お前を信用する訳じゃないが、他に情報がねぇ。他にどぉしようもねぇだろうが!」
完全に自棄(やけ)になって、素っ裸で拘束されてる情けない格好ではあるが、声だけでも格好つける。
ぷっ・・・アッハハハハハハハハハ!!
一度吹き出したら笑いが止まらなくなった、という体でやつが笑い転げる。ひとしきり笑い終わった後でも、ヒーヒーと腹を押さえながら引き笑いと呼吸を繰り返す。
笑いたきゃ笑えよ、と思った。俺だって自分で自分の行動の意味がわからん。だが他にすべきことの候補も見つからなかった。何をすべきかわからないときは、できることをやる。せいぜい、後悔しないようにだ。

笑いすぎて、にじみ出た涙を指先でぬぐいながら、ルゥが言った。
「ほんとはね、オスカー。無理矢理に君にやってもらおうって思ってたことがあってさ。でもまあいいや?なんだかご協力願えるみたいだし??」
そこまで、言ってから、またツボに入ったのか笑い転げる。
「あのなあ!なんだか知らねぇが、それに協力したらリュミエール帰ってくるんだろうな?ホントにお前、リュミエールを元に戻すのに賛成なんだろうな?」
最後の辺りはたぶん聞いても無駄であろうことを聞く。こちらには確かめる術もない。むしろただの俺の日和見根性の現れかもしれなかった。
「はー・・・おなかが痛い・・・ふー。えっと、だからあれだ。戻ってくるかどうか保証ないよ。そのリュミエールはね。でも少なくとも、こんだけこじれた怨念の原因は分かるし、なんで君がこんな目にあってるのかも少しは分かるんじゃない?僕の「お祓い」の方法も思いつくと思うよ。たぶん。」
これだけリスク対効果を低く見積もって、やってやろうというのに、またここでも期待値は下がる一方だ。でも「怨念の原因」とやらには興味があった。殴られた以上、なんで殴られたのかくらいは知りたいのが人情ってものだ。
殴られるより、実際はもっとずっとひどいことになってはいるが。問題は、「お祓い」の方法まで実際にたどり着くかどうかだったが、それもやってみないことには万が一の可能性もない。
俺の沈黙を、思慮の上の了解と取ったのか、
「なんかすごいね・・・予想以上にオスカーって。」
予想以上のバカ、予想以上に向こう見ず、予想以上に・・・・他に思いつかん。つまり褒められてないことだけは分かる。
いざとなったら、ギブアップしてルヴァに引き上げてもらおう。ていうか、あいつら状況把握できてるんだろうか・・・そもそも、リュミエールを支えるとか言ってたのに、もはやリュミエールはこいつの話によると存在が消える寸前というか既に消えかかっているが、どうなってるんだよ・・・
ああだめだ。やつらにも期待できない。やっぱり帰りたい。絶対帰ろう。今帰ろう。
「で、どうすりゃいいんだ・・・」
・・・・俺のバカ・・・・・
「何もしなくていいよ。ただ夢を見てくれれば。」
ルゥがこちらをみて、子どものような素直な笑顔を見せる。嫌な予感、いやこれは悪寒だ。悪寒がする・・・・
リュミエールの器用そうな長い指が、俺の瞳に近づいて、瞼の上をすいと撫ぜた。それに合わせて、じわ、っと腰骨の当たりから背中に、心地よい眠気が這い上ってきた。
暖かな湯のドームは、身体を柔らかく支えて、良い夢を誘いそうな予感をさせる。この心地よさが裏切られることがわかりすぎているからだろうか。眠気も、湯の暖かさも心地よいのに、まるで悪寒がとまらない時のように、鳥肌が立っていた。

見る夢が綺麗な女性とのデートの夢だったらいいのに、いや、デートの後の夢ならもっといい、と、俺はせんのないことを考えていた。


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