第2章 鳥になって


ベッドサイドのテーブルで、チチチ・・・・という鳥のさえずりを聞き、目が覚めた。いつからこうしているのか、見当もつかない。
身体中の関節の痛みから、昨日一日、ベッドで寝ていないということは間違いがなかった。
「やっと朝か。あの者から解放されたのだ」と、清々しい気分を感じる。
が、ベッドの上の人物を認めて、
「これはひどい・・・」
と、思わず声を発せずに居られなかった。
白いシーツを、しわくちゃにして、ぐったりと、死んだようにうつぶせているオスカー。両手、両足が拘束され、裸のまま、傷ついた四肢を放りだしていた。何があったのかは一目瞭然で。
「とにかく、手足を自由にして、手当をしなくては。」
はっと我に返り、自分のすべきことに思い当たる。

いつもは憎らしく、どちらかといえば鬱陶しい存在だったが、ここまで傷ついているのを見るのは、さすがに気の毒だった。
それも、自分がここまで彼を痛めつけたのだと思うと、胸が痛む。ベッドの脇に立ち、呼吸を確認する。大丈夫、ただ気を失っているだけだ。
思わず、ほ、と小さく吐息が漏れる。眺めるだけで観察できる、一つ一つの傷の具合を確認していく。最もひどいのは、手足を拘束しているバングルによる内出血、それから、肛門周辺の出血。次にひどいのが、左耳たぶの出血で、消毒が必要なのは、肛門と耳たぶの切り傷だけのようだった。他にも体中に赤い瘢痕はあるが、それらは見た目ほど問題ではなさそうだ。
彼の傷をみていると、昨夜の出来事が断片的に、自分の頭でフラッシュバックする。けれど、「思い出したくない」という気持ちが、それらを整合するように、一つのストーリーに組み上げることをを妨げているのか、具体的に彼と彼の間で、どんなやり取りがあったのか、何が起こったのかを順序立てて思い出すことは出来なかった。
彼は、オスカーに何か話したのだろうか。

彼の自由を奪っているバングルには、二度と見たくない、かの家紋をモチーフにした装飾が施されている。思わず一度目をそらす。
しかし・・・
「困りましたね・・・外し方が分からない・・・」
このバングルはプラチナ製、簡単には壊せないだろうし・・・
外し方は、今となっては彼しか知らないだろうと思えた。しばし思案していると、バングルをベットに固定しているチェーンは、どうやら銀製であることに気づく。
これくらいなら、あるいは・・・・
「はっ!」
と、チェーンの根本の弱い部分目がけて掌底を繰り出すと、ぐにり、とチェーンの輪が曲り、壊れる。少々荒っぽいが、仕方がない、と4カ所すべてをその方法で切り離す。

これで、彼の自由は取り戻した。次は手当をせねば。この部屋の洗顔室に簡単な応急箱があったはず、と部屋を移動しようとした時、
「うっ・・・」
と、背後で声がした。オスカーが気づいたのだ。見れば、自力で無理矢理起き上がろうとしている。
「オスカー!動かないでいてください。今、救急箱を取って手当をします。傷がひどくなってしまう!」
それを制止せんとして、あわててしまい、少しヒステリックな言い方をしてしまう。
身体を起こそうとしていた彼は、びくっと身体を強ばらせる。こちらを振り返ることのないまま、おとなしく言うことを聞き、身体から力を抜く。
素直な・・・と思って、それがすぐに思い違いだと気づく。彼は、私に怯えているのだ。逆の立場だったらと想像すれば、その気持ちは嫌というほど分かる。
「そのぅ、なんといえばいいのか、オスカー。あれは、私であって、私ではないのです。とにかく、傷の手当てをしますから、そのまま楽にしていてください。」
と、言い捨てると、洗面台に走る。とうとう、他人を傷つけてしまった。私の暗闇に、引きずり込んでしまった。という罪悪感が、どうしようもなく内側へと向かってわき上がってくる。
洗面台の上の棚に手をやり、応急処置の道具を取ろうとしたとき、鏡の中の自分と一瞬ぴたり、と目が合う。彼が、鏡の中で笑った気がした。
「昨日は、楽しかったよ。」と。
ぞくっと、背後に悪寒が走るのを感じるが、今はそんなことを考えている場合ではない。

小走りで戻ると、オスカーはうつぶせから横向きに寝返りをうっていた。やはり、傷の痛みがひどく、身体を起こすことは叶わなかったのだろうが、ベッドの端に丸められていたタオルケットで、身体を隠している。

アイスブルーの瞳は、いつもの自信に満ちた光を失って、どこか焦点の合わないような、ぼんやりとした眼差しを、虚空に投げている。その様子は、傷ついて戦う気力をなくした猟犬を彷彿とさせ、痛々しかった。
救急箱を持って、ベッドに近づこうとすると、オスカーがまたも、怯えたように身体を震わせている。しかし、構ってばかりいるわけにも・・・と、構わず歩みを進める。彼の胸元辺りに救急箱を置き、自分もベッドに腰をおろす。こういう時は、いくら相手のことを信用していなくとも、背後などの死角から接されるより、目の見えるところに相手がいる方がいくらかマシだということを、私は経験的に知っている。
脱脂綿にオキシドールをしみこませピンセットでつまみ、まずは左耳の切り傷を消毒する。ピアスが、きらりと力なく揺れた。
「っ!!」
オスカーが、声にならない声を上げるが、変に手加減するより一気に済ませてしまおうと、治療に専念する。オスカーはたまに痛みに反応する以外は、されるがままに、相変わらず虚ろな瞳を遠くに投げている。
せっかく布で隠したものを、また明るみにさらすのは気が引ける・・・けれど、消毒せねば今日明日、余計辛い思いをするのだから、と思い切って、ばさっと、取り払う。オスカーが震えるので、
「消毒するだけです。」
ときっぱり伝える。先ほどは、うつぶせだったので見えなかったが、乳首も生々しい噛み跡が残されている。乳首、肛門を新しい脱脂綿でぬぐう。痛みがひどいのだろう、脱脂綿が肌に触れる度にオスカーが身体をよじる。動くと余計辛いのだが、力で押さえつけてしまうと、きっと精神が辛いだろうと、
そのままにさせておいた。
消毒が一通り終わると、ばさっと、また彼の身体の上にタオルケットを戻して、道具をしまう。掛け時計に目をやると、もう7時を回っていた。
「たしか今日の9時から、陛下が呼集しているのでしたね。私はすぐに支度をして、出ます。10時頃に執事が別館からやってきて、家のことをしますので、それまでの間に、服をきて、貴方の邸までお帰りなさい。馬車小屋の馬車を使っても構いません。」
答えないオスカーに、
「陛下や他の方には、私から貴方が体調不良で宮殿には来ないと伝えましょう。」
と続け、部屋を出ようと、ベッドから立つ。早く一人にした方がいい、私の顔なぞみたくもないだろうし、声なぞこれ以上聞きたくもないだろう、そう思った。しかし。
「なぜ・・・なんだ?リュミ、、、エール?」
意外にも、渇いた力ない声が背後からかけられた。いつもの高圧的でない呼ばれ方が新鮮だったためか、なんなのかはわからないが、一瞬丹田の辺りから、かっと熱いものが込み上げるのを感じた。

いろいろな取りようのある、その曖昧な問いに、ほんの一時、考えてから、私は振り返らずに、一つだけ、忠告をした。
「新月の夜には、私に近づかず、構わないでください。オスカー。そうすれば、もう二度と、貴方に迷惑をかけることはないでしょう。」
逃げるように、私は部屋を出た。

どうして、こんなことに。と思わずにいられないのは、私も一緒だった。
何故、オスカーが新月の夜に、私の邸に来たのか。
何故、それが人払いが済んだ後だったのか。
何故、私は彼に抗えなかったのか。
何故、私は・・・・・彼に支配されたままなのか。

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遅れて会議室に入ると、もう既に話は佳境にさしかかっていたらしく、上座に座っているジュリアス様が俺をギロリ、と睨むのが分かった。目だけで「申し訳ありません」と謝罪し、空いた席に座る。
身体全体がギシギシと音を立てているのじゃないか、というくらい、一つ一つの所作をする度、節々に痛みが走る。

会議室中央の3Dモニターに映し出されているのは、いくつかの周辺惑星の生態系バランスが崩れている様子だ。
「・・・今回私が皆さ・・・皆に示したかったのは、これらのアンバランスは、他の外部要因でなく、我々の内側から引き起こされているということです。」
就任したばかりのアンジェリーク、陛下がたどたどしくも、真摯な態度で皆の瞳を順番に見つめる。今の俺には、まともに瞳を交えることができない。
「これらの現象は一定の周期で起こっています。誰か特定の方のサクリアの影響ではなく、私は皆の問題と思っています。まだ、私の女王としての働きが不十分なことも無関係ではないでしょう。」
最後の一言に、ロザリアが異を唱えたいのか、
「それはっ・・・」
と声を発したが、陛下はそれを片手で制止し、
「ですから、皆さんもお互いに気を配って、注意してください。また、何か情報があれば、提供して下さい。今日は、これまでです。」
最後に、にこっと自前の健康的な笑顔を見せる。ふっと会議室全体の空気がゆるむのを感じる。相変わらず、不思議な力だ、と感心する。
思えば、彼女は女王候補としてここに来たときから、不思議な力を持っていた。見た目や、物腰、下馬評では明らかに優勢だったロザリアでなく、彼女が女王になったときも、なるほど彼女なら、と不思議に納得したものだった。

会議室の照明がつけられ、皆がつぎつぎに席を立つ。ふと、目の端に、ペールブルーの長い髪がきらりと光ったような気がして、思わず目をそらす。
「オスカー!話がある。執務室に。」
と、いきなり近くで大きな声をかけられ、びくぅ!!と席を立つ。
ジュリアス様だ。『遅刻のお説教だな』と思いつつも、
「はっ!」
と背筋を正す。

すたすたと前を歩くジュリアス様の後を付いて、歩く。いつもなら、なんなくついていける早さだが、今日ばかりはジュリアス様の早足がつらい。
200Mも歩かないうちに、ぜぇはぁと息が上がってきた。
その様子に気づいてか、前を歩いていたジュリアス様が立ち止まり、振り返る。
片眉が怪訝そうにつり上がっている。
「体調不良、というのは本当の話なのか?」
そうか。リュミエールが、と思い当たる。
「え、えぇ。まあ。」
「あの雨の中、馬を走らせて行ったそうだな。其方、守護聖としての自覚があるのか?自己の危機管理を全く考えていないとしか思えないが!」
結局、ここまできて公衆の面前でお説教ですか。と泣きたい気持ちと、どうせなら、もう少しまともな言い訳はなかったのか、リュミエール、という泣きたい気持ちが襲ってきたが、
「はっ!申し訳ありません!以後、気をつけます!」
反射的に気をつけの姿勢になる。
ジュリアス様が、ふぅとため息をつき、「わかったのなら、良いのだが・・・」
と床に向かってぼそりと漏らす。その厳しく、美しい顔に、仕方のない奴だ、という優しい表情がちらりと浮かぶ。「以後、気をつけ・・・・」るように、と続くであろう言葉の途中で、俺の顔を見上げたジュリアス様が突然、唖然とした表情になる。
「???」
なんだろう、と思っていると、わなわなと肩をふるわせ、
「其方っ!!其方を見損なったっっ!!!二度と!!二度と私の前にその顔を見せるな!!!!」
耳の鼓膜がやぶれそうなぐらいの剣幕で怒鳴られ、ジュリアス様はさっと踵を返し、足早に立ち去る。足音からも怒りの剣幕が聞こえてきそうだった。
「番犬も番犬で大変だぁナぁ。」
「オツカレェー☆」
と、ぼそっと余計な一言を発しながら、ゼフェル、オリヴィエが脇を通り抜けていく。
すっかり注目の的だったのか、遠巻きに見られていたらしい。

「その・・・・オ、オスカー様、俺なんかがいうのもアレなんですけど・・・」
と、おずおずと赤い顔をしたランディが近寄ってくる。
ちょいちょいと、耳打ちしたそうに指で招くので、ちょっと身体を傾げて、右耳を貸してやると、
「首に・・・ついてます。えっとその・・・キスマークが。」
ばっと俺が身体をランディから剥がすと、ランディが赤い顔を一層真っ赤にしてうつむく。
反射的に首に手を当てるが、当てたところでどうにもならん。なるほど、それであの剣幕か。バングルは服で隠してきたが、首にまで支障をきたしていたとは知らなかった。
はぁ、と俺は天を仰いだ。
「はは・・・なんて言って取り繕お・・・」
頭の痛い問題が一つ増えたな、と俺はため息をもう一度ついた。

問題のもう一つは、バングルだった。キスマークはいずれ消えるだろうが、このバングルは、外し方が分からず、厄介だった。リュミエールに相談するしかないのだろうが、しばらく奴とは話したくないし・・・かといって、このままずっと放っておく訳にもいかないし・・・
と、考えて、一つのアイデアが浮かぶ。

困ったときのルヴァ頼みってやつだ。

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「何故です?陛下?」
「ロザリア、二人の時はアンジェリークよ。」
「では何故なの?アンジェリーク!」
私は苛立っていた。
「何故、原因が誰か分かっているのに言わないの?」
ここのところの周期的なアンバランスは、水の守護聖リュミエールがもたらしたものだということは、研究所のデータから明らかだった。
実のところ、森林被害などが多いため、被害の実情からはマルセルが疑わしかった。しかも、彼は就任して間もないということもあったし、最初はそれが妥当な結論のように思えた。
けれど。
まさか、と私たちも疑ったが、二人で丁寧に資料を洗った結果、やはりそれ以外の結論を見出すことができなかったのだ。
「今、リュミエール様を糾弾してもしょうがないわ。きっと、彼にだって、原因は分からない・・・」
アンジェリークの明るい緑が、明るい金が、大窓の外から降り注ぐ光を受けて美しく光る。入ってきた光を、中に囲い込むように、伏し目がちにされた目に、長いまつげがぱさりとかかった。
「けれどっ!」
彼が原因だと分かれば、他の守護聖だって、彼自身だって原因の特定が容易になるだろう。その情報を彼らに伏せるのは得策とは思えなかった。
「ここのところ、アンバランスさ、増しているでしょう?」
アンジェリークの大きな瞳がじっと私を見る。
「え、ええ。でもだからこそ・・・」
「でも、何故か、いい方向に進んでいる感じがするの。ロザリア。不思議だけれど。」
大きな新緑色の瞳の奥は、うちに秘めた決意を物語っていた。彼女は、打てる手は打ったのだから、と。
後はもう守護聖に賭け、その結果をたった一人で、被る覚悟を決めているのだ。
なんという重責。
軽い目眩を覚えそうになった。

貴族は庶民とは比較にならない重責を負う。生まれながらにして。
私とて、カタルヘナ家の娘として、庶民が負わない重責を負い、いくつかの重要な局面で、決断をし、責任をとってきたつもりだ。だからこそ、私が私であるだけで、私は自分に誇りを持つことができた。
けれど、宇宙の、すべての生きとし生けるものたちの運命を、彼らの自浄作用に任せる、という決断とそれに伴う重責の前では、私の今までの決断に必要とされた責任感など、取るに足らない・・・

以前なら、羞恥心で彼女に捨てぜりふの一つ二つを投げ付けてもおかしくないこの状況で、何故か私の心は妙な清涼感と心地よさを感じていた。

貴方が、そう決めたのね。アンジェリーク。それならば。
「信じるわ。」
「貴方が、そう感じるのなら。今、私たちが持てる情報で闇雲に動くより、彼らに、運命を託した方がよいのだと。私も、信じるわ。」
先程まで、アンジェの身を、心を案ぜずにおらず、ざわめいていた胸の内がすぅと、収まって行くのを感じる。
まっすぐに彼女をみる。
彼女の意に心から賛同するときの、私のくせだった。
「ありがとう、ロザリア。」
静かに彼女がうなずく。
「でも、それにしてもちょっとひどいわぁ。結論を出す前に相談もなしだなんて!」
と、よく見知った友人にしか見せないような、おおげさな演技をしてみせる。
ぱっとアンジェの顔が幼い娘の表情にもどり、
「だって、ロザリアが普段厳しく教育してくれてるのに、こういうときに、甘える訳にいかないとおもったんだもの!!」
ぷくっと頬が膨らむ。
そのむくれっつらがおかしくて。
「ぷっ」
と思わず吹き出してしまうのを堪(こら)えられない。口元を隠し、横をむいて無意識のうちに、はしたなさを軽減しようとする。けれど、
「ぷっうふふふっ」
アンジェが、以前と変わらない笑い方をする。瞳には、緊張がほぐれたからか、うっすらと光るものが浮かんでいる。
「ふふふふふっ」
普段は、荘厳な気配に包まれている謁見室に、いっとき、笑いが満ちる。互いが、女王候補生だったときのことが、思い出された。彼女が、湖でホームシックにかかって泣いているのを見つけた時の驚き。与えられた使命を全うする前に、ホームシックだなんて!と呆れる反面、競争相手だというのに、何故か私に「ああ、この子の力になろう」という気にさせた。

たとえ、このことで、想像し得ないようなアクシデントが起こったとしても・・・私が、貴方を守るわ。

事態は変わったように思えないのに、何故か、気持ちがしっくりと座った。
貴方は、とても不思議な人ね。アンジェリーク。

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トントンっ!

・・・

トントン!!

執務室をノックするが、返事がない。一瞬ためらってから、ノブに手をかけると、きぃとドアは抵抗なく開いた。
つん、と紙とインキの匂いがする。

部屋には相変わらず古文書やら、よくわからん図鑑やら、分厚さを競うためにかかれたんじゃないかと思えるような分厚すぎる本が所狭しと並べられている。

「ルヴァ!おーぃ!いないのか!ルヴァ?!」

と、ずかずかと奥に入る。一歩入っちまえば、入ったという意味では同じだしな。
うーん。居ないのだろうか。それにしては鍵があいていたしな、と思案しながら、暇つぶしに、そこらじゅうに置いてある本の分かりもしない文字を追う。手前の本の物置と化している小さめのテーブルに、放り投げるようにして置いてある本の背には、キリル文字が書かれていた。ロシア語だ
ろうか。
少しだけやったが、もはや発音の仕方すらわからん。なんと読むんだったかな・・・Cがesということだけは覚えているのだが。Kはkaだったか??
ということは、か・・・・と一音を解読しかかったところで、奥から、小さな籠もったような声がした。
「オスカァー?オスカーですかぁ?ちょうどいいところに!こちらにこちらにきてください。」
ルヴァの、例の気の抜けた、嫌失礼、いつ何時聞いても安心できる声だ。
声のした方に来ては見たが、姿が見えない。

「オスカー?どこです?助けてください。ここです。ここー!」

だんだんと声がせっぱつまった緊張感を帯びてきている。なんだろうなんだろう。ひょっとしてこのまま俺は何もしない方が面白いものが見られるのだろうか・・・

「あっあっああああああああーーーーーーー!!!!」

突然、甲高い声がして、目の前にあった書物、正確には巻物の山が雪崩をおこし、その向こう側に、頭から巻物を2本かぶり、尻餅をついたルヴァが現れた。
やはり面白いものが見られたか・・・

「オスカー、せっかく来てくれたのでしたら、助けてくれればいいものを。見損ないました。あーあ。高価な経典なのに・・・」
今にも、ぐすん、と泣き出しそうな表情で、頭に載せた経典とやらをおそるおそる取り上げ、くるくると巻く。よっぽど大切なものだったのだろう。
「そんなに大切なものなら、こんなに高く積み上げなけりゃあいいじゃないか。」
と、言いながら、床に散らばった巻物の一つを拾い、俺もくるくると巻いてやる。はーぁ、と大きなため息をつきながら、
「そうですけれどねぇ。ついつい夢中になって、周りがみえなくなってましてねぇ。これ、続き物なんですよ。それで次々に読みふけっていたら、いつの間にか、今にも崩れ落ちてきそうな、うず高い経典の山ができあがっているじゃあありませんか!!もーびっくりしましてねぇ。その時に、貴方が都合良く現れたというわけですよ。これはもう、オシャカ様の力だ!と思って感動しましてね。けれど、肝心の貴方が助けてくれないとは・・・はぁ。」
こういう、あほくさい話を真剣にするのがルヴァの面白いところだ。しかし、今回のは、オチがよくわからなかった。
「オジャカ?なんだそれ??」
「ご存じないですかぁ、東洋のキリストみたいな人で、悟りを開くために苦行しなくてもいいって言った人ですよー。私のような凡人には有りがたい話です。」
「サトリ?」
「えぇえぇ。まあきっと、オスカーには興味のない話でしょうけれどねー。」
途中で説明をする気が失せたようだ。
「それで、今日はなんのご用です?前みたいに惚れ薬をよこせとかじゃぁないでしょうねぇ?」
にこにこしながら、俺をちろりと見る。む。あれは冗談で言ったのに、意外と根に持っているな・・・
「い、いやその・・・」
しまった。なんていって切り出すかを考えていなかった。頭をかきながら、なんていおうか、と考えていると、さっと、ルヴァの表情が変わる。
「オスカー、あなたそれ・・・」
ルヴァの視線の先を追うと、袖もとからちらりとバングルが覗いていた。
「知っているのか?これのこと!」
思わず過剰反応をしてしまう。

「え、えぇ。一度だけ。少し見せていただけますか?」
さすがルヴァ、と心中、舌を巻かずにはいられない。あんた知らない事なんてこの世になんにもないんじゃぁないのか?と聞いてみたかった。
俺の手首を、そっと下から支えて、バングルを真剣な瞳で観察している。俺の内出血はかなりのもので、正直自分でもグロイな、と思うほど、どす黒く腫れ上がっていたが、興味の対象の前では、有りがたいことに彼の目には入らないようだ。
すっと細められた目と、細くながい睫は、彼の真剣さと、知性の高さを象徴しているように見えた。
いつも、こんな顔してりゃあ、俺にアンタ呼ばわりされることもないだろうに。
と、その横顔をぼんやり眺めていると、ルヴァが突然口を開いた。
「・・・・我、地に平和を与えんために来たると思うか。」
「???」
「ルカ伝ですね。福音書、ルカ伝。」
「???俺にも分かるように話してくれ。」
「ここに書いてあるんですよ。オスカー。けれど、途中で終わっていますがね。」
と、きっぱりと言う。
書いてある??どこに??俺もまじまじとバングルを見直すが、アラベスク紋様風の植物模様がミミズのように細工してあるだけで、文字のようなものは一切見あたらない。よーくみると、ふちがふにゃふにゃした植物の大きな葉、二枚が三本の矢じりを包んでいるようなエンブレムが仕込まれていることに
気づく。
「俺には葉っぱと矢じりみたいなもんしかみえんが・・・」
というと、
「モチーフに隠れるように、螺旋状に文字が配置されているんです。パズルみたいなものですね。これは・・・」
真剣な瞳が、突然、きっと俺を見上げた。青灰色のそれがキラリと、光を反射する。
「?」
「大変面白い!」
ずるっとずっこけたかったが、そこは守護聖きってのプレイボーイの俺がゆえ、なんとか堪える。俺のがっかりした様子を見て、ルヴァは、にこっと微笑み、
「冗談ですよ。」
と、ふっと吐息を漏らした。うーん。天然なのか、そうじゃあないのか。
「で?これをいつ、どこで手に入れたんです?」
「えぇと・・・だな。それは・・・今日の朝、起きたら突然腕と足にまきついていたんだ!」
「・・・・・」
疑わしげな眼差しが痛い。
「まあ、そういうことにしておきましょうか。」
思わず、忝ない、なんて時代錯誤な言葉が口の端をついて出そうだった。
「・・・外せなくて、困っているんだが。外し方を知らないか?」
情報を渡さずに、一方的にねだるばっかりなのは、正直気が引ける。しかし、これを聞かねばなんの為に、ここに来たんだか分からない。
ふーむ・・・と、ルヴァは暫く唸っていたが、やがて、重たそうに、口を開いた。
「正直に申しますとね。私がこれを見たのはクラヴィスのところなのですよ。」
「クラヴィス様が?」
「ええ。でも、私が別の用事で彼のところを尋ねたとき、彼のデスクの上にこれが置かれていた、というだけですのでね。詳しいことは分かりません。」
そうか・・・ということは、これは本当はクラヴィス様の持ち物なのだろうか?
「それとですね・・・これは、私が構造をみて、勝手に考えていることですので、的外れかもしれませんが・・・」
「?」
「このバングルは外せません。」
的外れかも、とは言いながら、きっぱりと言い切る。マジか・・・と思わずため息が出る。
「でも、どうして分かるんだ?」
「これが、現物じゃないからです。」
また、意味のわからんことを・・・頭が理解することを拒否して、天を仰いでしまう。
「いいですか、分かりやすくいいますとね。オスカー。」
そこまでいって、ルヴァは一息ついた。
それなら最初から、分かりやすくいってくれ!と言いたかったが、教えてもらっている立場だ、文句は言えない。
「バングルのこの部分を見てください。ここからここまでが一つの模様になっていますね?」
と、バングルの縁を、つつつっと、細い指がなぞり、一周手前のところで止まる。
言われてみると、確かに、そこで模様がいったん終わっていた。また、そこから新しく2センチほど、模様の繰り返しになり、模様の中途半端なところで、一周回りきる、という風になっていた。うーん。他の部分が凝ってる割に継ぎ接ぎしたみたいで、変なデザインではあるが・・・
「ご存じだと思いますが、普通バングルは、拳が通るサイズのものでなければ、装着できません。あるいは、バングルの一部分が欠けているデザインのものか。」
なるほど。言いたいことが少しずつわかってきた。
「つまり、元々これは後者の、一部分が欠けているタイプのデザインだったのか?」
よくできました、といった表情で、ルヴァが強く頷く。
「えぇ、おそらく。オリジナルのものはそうなんでしょう。けれど、これは、たぶんそれを模したもので、現物ではないのですよ。私は苦手な分野の話になりますが、何か、特別な力で、外せないように無理矢理くっつけてあるのでしょうね。」
「それと・・・その葉っぱはルベーブの葉ですね。矢じりを包んでいる意味は分かりませんが、どこかの紋なことは間違いないでしょう。」
言ってから、ルヴァは俺から少し目をそらし、何か思案している。
「ルベーブの葉」「矢じり」「紋章」「福音書ルカ伝」今までの手がかりを並べてみても何が何だかさっぱり分からなかった。
一生これをはずすことができない、なんてここたぁないよな・・・と暗い想像が芽生える。明日には内出血はもっと腫れるだろう。そしたら、バングルに食い込んで・・・思わず、うげぇ、と舌を出す。想像するだに、グロテスクだった。
「訪ねてみますか。」
と、心配そうな顔が覗込むように見上げていた。
「誰を?」
「呪術とか占いが得意そうな人が、ここにはいるじゃないですか。」
「あぁ!」
俺が、ぽん、と手を打つと、
「えぇえぇ。」
と、ルヴァがまた教師のような顔でにこにことうなづく。
占いが得意といえば!ぼんきゅっぼんの・・・
「サラのところか!」
ずるっと、ルヴァのターバンがずり落ちる。どーも、ルヴァと話すと漫才みたいになって、いかんな。
「どうして、そうなるんですか!訪ねるなら、クラヴィスのところです。」
ちぇ。おもしろくない。まぁ俺は人の女には興味がないが。
「クラヴィス様か・・・苦手なんだがな。」
と、渋る俺をまったく無視して、
「私も少し彼に尋ねたいことがあるんですよ。この後、時間はあるのでしょう?さあさあ、一緒に行きましょう!」
と、俺の背を無理矢理引きずって行こうとする。
あまり気がすすまん・・・とは思いながらも、一方で、俺一人で解決できるとも思えなかったので、観念して引きずられることにした。

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こんな湿っぽい日は、より一層、重ったるく感じるビロードの帳をよけて、その暗い室内に入る。
「おじゃましますよー。クラヴィス。」
といって、勝手知ったる様子でずんずんとルヴァは中に進む。
俺は嫌な予感を胸に感じながらも、その後をのろのろとついて進む。
「何の用だ、其方たち。」
と、更に奥に見えている帳から、例のずるずるを引きずって、クラヴィス様が現れた。相変わらずの陰気っぷりだ。それに、妙に辛気くさい香りがふわりと漂ってきた。香でも焚いているのだろうか?
「おや、取り込み中ですかね?改めても良いのですが。こちらも少々急いでいるもので。というのも、これのことで。」
と、遠慮しているのか、無遠慮なのかよく分からない態度で、ルヴァがぐいと、俺の手首を掴みあげて、クラヴィス様の前に突き出す。
いてぇよ!!と言おうとするが
「☆△×≠∴√!!!」
声にならない。顔を上げると、見たこともないような表情のクラヴィス様が目に入った。こめかみに、青筋が立っている。
暫く、耳鳴りがするくらいの沈黙が辺りを包んだ。
「そうか。其方が・・・それを・・・。」
と、沈黙を静かにやぶり、彼が呟く。
「ならば話がはやい。こちらへ。」
ばさっと、衣の裾を翻し、青筋を立てたまま、クラヴィス様が俺たちを奥に誘う。俺とルヴァは、意味が分からず、
「???」
と顔を見合わせたが、まあとにかく、と後に付いていくことにした。

中に入ると、思わず足がすくみそうになる光景が目に飛び込んできた。
「リュ・・・・」
ミエール・・・と言うつもりだったが、最後までは声にならない。
部屋には、コの字型に濃紺のソファとカウチが設置されており、奥の黒い壁に取り付けられた小さな丸窓から明かりが少し取られていて、他に明かりはフットライトがいくつか用意されているだけだった。暗く、静かな、室内。黒い床、黒い壁。濃紺の帳。
何故か、雰囲気は全く違うのに、潜水艦を彷彿とさせる。

その、カウチの一つに、リュミエールが横たわっていた。普段白い顔が、一層蒼白になり、周囲の闇の中で、そこだけ白く浮かびあがっているようだ。
目をつぶり、両手を腰の上辺りで組んでおり、その表情が苦しげでなかったら、まるで死んでいるように見えただろう。
『もう一日くらいは、こいつの顔だけは拝みたくなかったがな・・・。』
我ながら情けない言葉が、胸をよぎる。

「・・スカー?オスカー??」
ルヴァが俺の肩を乱暴に揺さぶる。
「ん?なんだ?」
と、なんともないフリで答えるが、
「すごい汗です。顔色もひどい。大丈夫ですか?」
どうやら、そうとう動揺している様子が伝わってしまったようだった。
実際、言われてみれば顔や首の後ろ辺りから嫌な汗が噴き出しているのを感じる。しかも、握った拳の中もねばねばと湿っぽい。ここに人の目がなかったら、ふらりと、倒れ込んでいたかもしれなかった。

「会議の内容を報告をしに来たらしいのだが、気分が悪いといって、すぐに倒れてな。」
と、リュミエールの方に視線をやりながら、説明してから、クラヴィス様が俺の目を見て、言う。
「お前は・・・『あの者』に、会ったのだな。」
疑問形ではなかった。
「ええ。たぶん。」
ヤツに会ったか、という意味だろう、と解釈して答えた。
「誰のことですか?いったい何のことです?」
と、少し攻めるような口調で俺に問う。
ルヴァは、明らかに様子のおかしい俺と、リュミエールを見て、何か大変なことが起こっているに違いない、と想像しているのだろう。
けれど。ヤツが誰か、俺は知らない。
ヤツは何なのか、俺は知らない。
俺が答えられずに黙っていると、
「クラヴィス。何のことですか?」
「・・・・黙っておくわけには、ゆかないのだろうな。」
クラヴィス様はリュミエールに心配そうな、許しを請うような瞳をやる。
なんだか、不思議だった。この人でも相手がリュミエールであれば、こんな顔をするというのは。
「リュミエールの心は、今、二つに・・・裂けているのだ。」
俺たちの方に向き直って、きっぱりと言い放つ。
やっぱりか。と思った。あの朝と夜の変わり様は、二重人格ってやつなんだろうとは思わなくなかった。今まで、実際にお目にかかったことはなかったが。
「な・・・んですって?」
ルヴァが、驚きをかくせずに言う。

「この者がまだ聖地に来る前のことだが、ある出来事があった。これはその時のトラウマを背負ったまま、この地に来たのだ。それが、あるきっかけで、吹き出し、その事件の記憶がこの者から消え、その記憶を引き受ける、もう一人のこれが生まれた・・・」
訥々と、だが淡々と、一際悲しい出来事を人に聞かせるときのやり方で、クラヴィス様が語る。
ようは、事件とやらで、重い心の傷があるまま、聖地に来て、きっと環境の変化なんかも影響して、その傷が原因で、二重人格になっちまった、ということだろう、と俺は理解した。
「貴方が仰るとおりなら、リュミエールは聖地に来てからずっと二重人格だったということになります。私たち全員がそれに気づかなかった、と?」
ルヴァが尤もな疑問を口にする。
「・・・そうだ。私は、偶然にそのことを知ることになったがな。少なくとも、昨日までは全員が気づかなかったということになる。」
クラヴィス様の最後の言葉と、すっとこちらに向けられた眼差しに、ぎくり、と身体が強ばり、思わず目をそらしてしまう。
『昨日』までだって?まさか、昨日のことを・・・
「どういう衝突がもう一人のこれと、お前の間であったのか知らぬが、昨夜は新月だったから・・・な。」
と、今度はクラヴィス様が目をそらした。
内心俺は、ほっと胸をなで下ろした。何があったかは知らぬ、というのが、本当かどうかなど知るよしもないが。
新月。そういえばリュミエールも新月がどうとか言っていた。
「そんなことが、ありえるのですか?彼が二人いることに、周りの誰もが気づかないだなんて。」
「・・・だとするならば、私たちが接していた彼の人格は、いつも一人だった、ということでしょう?何故オスカーや貴方だけが、もう一人の彼・・・言いにくいので、愛称形をとって「ルゥ」と仮称しますが、そのルゥと会うことになったのですか?」
まるで、ルヴァは自分も会ってみたい、と言い出しかねない勢いだ。
「本人ですら、気づかなかったのだ。ルヴァよ。あの者の存在について。ごく最近までは。」
「最近になって、突然リュミエールに、失われた記憶が戻り、同時期に、あの者は自由に外に出、身体を操ることができるようになったのだ。それも、新月の夜にだけ。
 そして、私があの者の存在を知ったのは、あの者に「会った」からではない。以前、気分が優れないというこの者の内を、少し、覗いただけのことだ。」
何故か直感的に、「覗いた」という言葉がひっかかった。
「私が、甘かったのかも知れぬ。時が、この者の心の傷を癒してくれようと思っていた。けれど、最近これの新月の苦しみは、より深刻なものになっていたのであろうな。和らげてやることは、できなかったが。」
その能面のような表情から感情を読み取ることは出来ない。
一つだけ、気になった単語があった。

「覗いた・・・」
思わず、気になった単語を口で繰り返してしまう。
「フッ」
と突然、クラヴィス様が自嘲めいた笑いを漏らす。
「誰の心の内も覗けるというわけではないが、本人に望まれれば、少しはな。今は、これの心が向こうへ引きずり込まれないように見張るのが精一杯で、こちらに引きずり戻すことは出来ぬがな。」
そうか。
「違う。そう、貴方・・・知っていて、黙っていたのでは?」
「・・・」
クラヴィス様の肩眉がきゅっと引き上がる。
思いつきが、確信に変わる。
「貴方は相当前から、もう一人の、ルゥの存在を知っていて、それをリュミエール本人に知らせなかったのではないのですか?」
「・・・人が何かを忘れるということは、その記憶が負担であるからではないのか?」
事実上認めたも同然のことを言う。口調からは、静かな怒りが伝わってきた。
だが、こちらも納得がいかない。
「貴方が問題を知りながら放置したことで、事態がかえって深刻化したとは考えないのですか!」
せめて、ジュリアス様や、陛下に相談するとか・・・と他の可能性を考えると、つい攻めるような口調になる。

「まぁまあ、言い争いはやめましょう。それより、リュミエールは、彼は今どういう状態なんですか?オスカーのバングルも外さなくては。問題はそこでしょう?クラヴィス。」
ルヴァがなだめる。俺はクラヴィス様をもっと追求したい気持ちが残ってはいたが、ルヴァの言っていることは尤もだった。
「・・・」
クラヴィス様も怒りさめやらぬ様子で、こちらを一瞥するが、ルヴァの質問が的を射ていることは変わりがない。
「この者の内では、二人が今争っている状態だ。どちらが、身体の主導権を握るか、でな。何故かあちらが圧倒的優位に立っている。今はまだ私が看ているから良いが、このままでは私が衰弱した時にあちらに身体を持って行ってしまうだろう。」
「どうなるのですか?持って行かれたら。」
「さあな。リュミエールの人格が残るのか、消えるのかも分からぬ。ただあの者は、リュミエールを憎んでいるようだ。消せるものなら、消したいであろうな。」
リュミエールが消えて、居なくなる?
「・・・状況は分かりました。貴方が見守るというのと、リュミエールがルゥに打ち勝つよう願うというのと、他に今分かっている、我々にできることはありますか?」
ルヴァは冷静だ。

「・・・・」
今までに見たこともないくらい、しゃべり倒していたクラヴィス様が、ここにきて、思案げに、押し黙る。
「いったい、何があるんです?」
黙っていては分からない。
「あの者と、直接、これの内に入って、話をすることができるかもしれぬ。」
らしくもなく、おずおずと、クラヴィス様がいう。自信がないのだろうか。
「は?」
意味が分からない。
「中に入って、話をしたいのだ。直接。あの者と。何が気にくわないのか、なぜ、これを元のリュミエールをそこまで憎むのかをな。だが、入ろうにも、こちらと、リュミエールの精神をつなぎ止めるのに私は手一杯の状態だ。」
だから・・・誰かが入れと?
ルヴァが、こちらをじっと見つめているのが分かる。
「何で俺なんだよ!!」
と抗議の声を上げるが、そんなのは全く聞こえないとばかりに、ルヴァが関係ない話を始めた。

「そのぅ。気になっているんですよ。クラヴィス。」
「何がだ?」
「オスカーのつけているバングルの正体です。おそらく、ルゥに出会ったときの、彼の置きみやげなのでしょう?オスカーは言いたがりませんけど、ね。」
チロリ、とこちらに視線をよこすが、俺は狼狽えるだけで、答えることができない。
「もともとは誰のものかわかりませんが、私はこれを、貴方の部屋で見たような気がするのです。一度だけ。お話しを聞くに、新月にルゥがリュミエールの身体を乗っ取ることができるようになったのは、最近とのことですが、私が、それを見たのは三ヶ月ほど前です。ルゥが現れるようになったのは、それより前ですか?後ですか?」
「さすが・・・というべきか。三ヶ月ほど前だな。あの者が現れるようになったのは。そして、同じ時期に、私の執務室のデスクの上に、それが置かれていたのだ。この者に関係のあるものであるとは分かったが、なんのために置かれたのかはわからない。誰か私の近しい者が置いていき、そして、昨日それを持ち去ったのは間違いがないが。この部屋で保管していたのだがな。」
感嘆としたように息をつきながらいい、「近しい者」と言うときに、リュミエールにちらりとまた視線を投げる。
リュミエールか、あるいはルゥが持ち去った、ということだろう。
「良かった。ただの論理の飛躍に過ぎませんが、無関係な出来事ではなさそうだと思いまして。」
「このバングルとルゥは同じ時期に現れたって事か?」
「そういうことになります。つまり、何かの現れなのですよ。きっと、どちらの出来事も。」
「そして、もう一つ、気になっていることがあります。その紋章です。」
ルヴァは俺の手首を指さし、その指をそのまま顎の右下に持っていくと、ゆっくりと歩き周り始めた。哲学者は散歩しながら考察すると言うが、識者というのは、こうやって考えを深めるものなんだろうか?
「ルベーブの葉と、三本の矢尻。三本の矢尻は、リュミエールの出身である海洋惑星の王家の紋章ですね。しかもこのバングルの材質はプラチナ。元はよっぽど高貴な人の持ち物だったのでしょう。そして、ルベーブの葉。これは屡々「知性」のモチーフとして用いられますが・・・」
同じ物を見て、これだけの情報がよく次から次へと出てくるもんだ。本当にルヴァの博識は半端じゃない、と心から思う。
「そこから考えるに、おそらく、ですが、これは教会か議会か・・・何か知性を象徴するような王族に関係する機関の紋章ではないでしょうかね。」
ルヴァがそこまで言い切ってから、クラヴィス様を振り返る。
「・・・」
また、だんまりか・・・、解決に協力して欲しいんだか、なんなんだか、本当にはっきりしない人だ。
「リュミエールは庶民のお家で育ったと聞いています。となれば、この元々のバングルの持ち主は、リュミエールの心の傷に係わる『出来事』に、関係あるんじゃないですか?クラヴィス?人の心の内に入るというのが、どのくらいのリスクを負うのかにもよりますが、オスカーには教えてあげてもいいのでは?」
だから俺は行かないって。
「フン。仕方がないのだろうな。」
いや、だから行かないって。と、ぶんぶん頭を振ったが、全く気に留めてもらえない。
「このバングルの紋章は、おそらくリュミエールの養父に関連するものだろう。」
「ようふ?」
聞き違いか?と、思わずオウム返しをしてしまう。
「リュミエールのお父様に・・・何かあったのですか?」
ルヴァが、静かな声で問う。
「これ本人も忘れてしまっていたことだが、これは母を除いた、すべての家族を、なくしている。」
「な・・・んですって?家族、確か沢山居たって・・・」
背中から何か嫌なものが駆け上がってくる。
「わからぬ。私とて、手持ちのピースを組み合わせて、憶測をしているにすぎぬ。おそらく事故だと・・・私は思うが。」

事故で、家族のほとんどを・・・なくしていた。

・・・どこかで、ルゥの存在は、ただの逃避の感情から生まれたのじゃないかと、俺はリュミエールを疑っていた。
聖地に来てすぐは、突然の環境変化にホームシックにかかる連中が多い。
嫌な思い出の一つ二つは誰だってある。
ただ、リュミエールが神経質なだけじゃないのか?と、俺はどこかで、そんな奴の「弱さ」がルゥを生み出したのじゃないのかと、疑っていた。
正直なところ、そんな自分勝手な問題に巻き込まれて、こっちはいい迷惑だ、という怒りがあった。
けれど、家族のほとんどを一度になくしていたとしたら、忘れたい記憶を、葬ってしまう気持ちはわからなくもなかった。自発的な記憶喪失と、その副作用の、二重人格。
リュミエール・・・

「さて、オスカーも行く気になったみたいですし。始めますかね?」
と、ルヴァが口の端に笑みを浮かべながら、興味深そうに俺の顔を覗き込んでいる。
「あんた・・・・まさか・・・・」
俺は・・・まんまと乗せられたんじゃあないだろうな?
「いやいや、どうせ行くなら、行く前に情報収集しておかないと、きっと相手は手強いでしょうからね。気丈なリュミエールが、苦戦するくらいですから。」
リュミエールが平均と比べて気丈かどうかは俺には分からないし、はっきりいって、ルゥには二度と会いたくなかった。顔も見たくない。声も聞きたくない。

だが俺にもルゥに直接聞きたいことはあった。
何故なんだ?
と。

ふふふ、と笑ってルヴァが言う。
「私は、貴方のそういうところ、嫌いじゃないですよ。オスカー。」
「あ?」
何の話だ一体。
「いいえぇ、シンプルで、まっすぐで、正義感が強いところ、ですよ。」
「最後以外は思いっきりバカにしてるだろ。」
「とんでもない!うだうだ考えるのが必要なときもあれば、そうやって分からないなりに前に進む力も必要ですよ。」
うんうん、と頷く。
やっぱりバカにしてるじゃないか!とは思うが、悪い気はしなかった。
ふっと、微かに、クラヴィス様までが、笑ったような気がした。
「では・・・始めるか・・・」

引きずり戻してやるよ、リュミエール。
お前が帰ってきたいと思っているかどうかは分からないが、俺たちには、お前の力が必要だから、な。


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