謎多き、彼の人

その人に対する俺の評価は、
「見た目とは裏腹な男前」
が、しっくりくると思う。そして、
「いつまでも、謎めいた人」
に、違いない。

俺と彼は、ここでは比較的仲の良い方だ。
そもそも、俺が彼に、好意をもった最初の理由は、聖地にきて初めて、彼が俺を気遣ってくれた人だったからかもしれない。いや、そうではない。たぶん。俺は少し驚いたのだ。正直なところ、まるで女性のようだと思っていた人が、爽やかな普通の好青年だったので。

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「場違い・・・だな。」
と、俺は独り言を呟きながら、庭園を横切っていた。
綺麗に手入れされた花壇に咲き乱れる、優しい花々に蝶がひらひらと舞っている。
聖地にきてまだ日も浅い。この期間で慣れることなど、むしろ・・・と、自分を慰めてみる。だが、他の教官たちや、協力者たちに比べても、俺だけ圧倒的に場違いな気がするのは、俺の被害妄想ではないだろう。とにかく、美形、煌びやか、華やか!
中には、女性と見まごうばかりの美男子まで。とても無骨な自分の居場所は見つけられそうもない。
「いやいや、自分の居場所を見つけにきたわけではないぞ。ヴィクトール。」
そう。やることは沢山。山ほどある。まもなく、女王候補がやってくる。それまでに教官として何を教えるべきか、もっと内容を詰めておかなければ・・・
「随分と大きな独り言ですね?」
突然、何処からか、声がかかった。周りを確認するが、誰もいる気配はない。
「ここですよ、ここ。」
ひらひらと白い手が腰の辺りでちらついて、ぎょっと身を引く。
歩いていた道の傍らに続いていた茂みから手の甲がにゅっとまっすぐ生えている・・・わけはなく、どうやら、声をかけた人物は茂みの向こうで座ったまま、手だけ伸ばして、その位置を示しているらしい。上から覗き込むのも失礼かと思い、茂みの切れ目まで歩いて、その裏に回り込むと、そこには「女性と見まごうばかりの美男子」の一人が茂みを背に、その両足を地面に投げ出して座っていた。
「・・・リュミエール様」
その煌煌しさに、なんだか名前まで呼びにくい。
「こんにちは。ヴィクトール。良かったら一曲聴いていきませんか?」
片手に掴んだリラを少しだけ上に持ちあげて、美男子は微笑んだ。花が、ほころぶような、眩しい笑顔。いや、それは比喩だけじゃなく、本当にその髪や白すぎる肌が、眩しく光を反射しているせいもあるだろう。
そもそも、道端であって、「では一曲」。こういう吟遊詩人風のノリも、貴族社交界調のノリも、俺にはどうもついていけない世界だ。相手の気分を害さないようにうまく断る方法はすぐに見つからず、かといって聴いた後感想でも求められたら、俺の語彙力じゃろくな美辞麗句も思いつかんし・・・と冷や汗をかきつつ返答に困っていると、
「なに、ものの3分程ですみます。それに、私は賞賛されたくて演る訳ではありません。ただ聴いて下されば結構です。」
早口ですべてお見通し、といった言葉をかけられ、何を返す暇もなく、じゃ、いきますよ、と演奏がはじまってしまった。
が、それは意外にも民謡のような単純で荒削りな曲で、クラシック調の難しい曲が当然始まるものと思っていた俺は、些か拍子抜けした。ズンチャチャズンチャッと明るい、単調だがリズミカルで力強い演奏に乗せて、リュミエール様が目を半分ほど閉じ、若干肩を揺らし気味に歌い始める。ものの1、2分。区切りの良いところで歌い終わると、ジャラリ、と、終わりの挨拶代わりに弦をならして、にっこりとこちらを見上げられた。
「軍艦マーチみたいに元気の出る曲ですね。なんという曲ですか?」
自然に、言葉が出て、気になっていたことを聞いてみた。難しい音楽鑑賞はからっきしだが、軍歌や元気の出る民謡なら俺も好きだから、自然に言葉が出たのかもしれない。
「さあ?曲名はないのでは。昔、人が酒場で歌っていたのを聴いて、気に入ったので、たまに思い出して弾いているだけですよ。元気が出たのなら、何よりですね。」
酒場なんかにこの人も出入りするのだろうか、とか。人が歌っている曲をそんなにすぐに覚えられるものなのか、とか。色々と思うことはあるが、どうにも聞きにくい。とにかく、この人なりに気を使って下さっているのだ、ということだけは分かった。
「有り難うございます。ええ。元気が出ました。気後ればかりしていては、いけませんね。」
ひとまず礼だけは、と自嘲気味に伝える。盛大な独り言は、この人には新人の愚痴に聞こえただろう。
「ええ。貴方のような方が気後れするようなことは、ここには何もありませんから。」
腰を上げて、服についた草を払いながら、リュミエール様がまたこちらに微笑む。その微笑みに、
「いや、そのように華やかな微笑みに、気後れしているのです。皆様、あまりに現実離れして、お美しい方ばかりなので。」
思わず、本音が出てしまった。と、俺の言葉に一瞬、リュミエール様の表情が曇ったように見えたが、すぐに、明るい笑顔がそれを隠す。
「美しいとか。綺麗であるとか。男にとって、どれほど意味があることでしょう?それに、私は・・・。いえ、例えば。」
笑顔のままに、顎をあげ、遠くの空をみて、彼は力強く続けた。
「ジュリアス様が美しいのには、意味があると思いますよ。ジュリアス様はカリスマ的な存在であることに意味がありますから。リーダーシップを取るためには見た目も大事な要素でしょう。」
意外にも、少し合理的すぎるような組織論的な見解が淡々と述べられ、その美しい顔が、でもね、と俺の瞳をじっと捉えて、いたずらっぽく笑った。
「オスカーなどは、私が嫌悪感を持つことを知っていて『憂鬱な顔も美しい』などと、ふざけたことを言いますが、人には人のコンプレックスというものがあります。まあ、何れにせよ、顔は選べません。お互い、つまらないことは気にしないに限ります。」
と、俺の肩をすれ違いざまに軽く2度たたき、では、とひらりと。背中を向けたまま手を振って、その人は声をかけたときと同じ気軽さで、俺の返事も待たずにさっさと去っていった。

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それが、俺が彼に好意を持ちはじめた、きっかけだったように思う。
それから、何度か、偶然が重なった出来事の中、俺はリュミエール様の意外な一面を次々と発見していった。
精神的なタフさや押しの強さ、口喧嘩のうまさから始まってその交渉力の高さ。そして、譲っているように見せながら、自分の意見や主張を曲げない強い姿勢。極めつけは、意外にもその華奢な外見とは裏腹に、腕が立つこと。
そう、周囲がそのたおやかな見た目から想像するのとは全く逆の強さを。流れる水のようなしなやかさを見いだして、俺はすっかりそのギャップに舌を巻いていた。
そんな気持ちもあって、女王試験が始まって4週も回った頃には、俺はリュミエール様とは廊下で出会えば、気軽に立ち話をするくらいの仲にはなっていた。
そんな頃。

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俺がジュリアス様へ女王試験に関する報告を提出しようと、それを小脇に抱え、廊下を歩いている時だった。俺の近くにあった扉の一つが勢いよく開き、中から弾丸のように、人が飛び出してきた。あまりの激しさに、よける暇もなく、どんっ、と突きとばされる。
右足を一歩引いて、衝撃を吸収すると、出てきた人物が、あまり得意でない人だと気づく。
「ヴィクトールか。すまん。」
執務服で判断したのか、人を突きとばした割には、顔も見ずに軽く謝られる。そのまま、自分の衣服の乱れだけを一瞬で確認すると、カツカツと音を立てて、足早に去って行こうとする。
そこへ、先ほど勢いよく開いた扉が、今度は重々しく、ゆっくりと開き、リュミエール様が現れた。彼の目は、いつになく鋭く、たじろぐ俺を通り越して、その赤い髪の青年の後ろ姿にささっている。
(まずいところに居合わせたか?)と一瞬いやな予感がよぎるが、俺にはどうしようもない。
「逃げるんですか?オスカー。」
予感が的中したのか、穏やかでない低い声と、台詞が、その後ろ姿に投げかけられる。その声に、ピク、と足早に去ろうとしていた彼が反応した。そして、後ろを向いたまま、
「お前に、卑怯者呼ばれする覚えはないな。少なくとも、俺はお前より卑怯者じゃない。そうだろ?」
とだけ言い、リュミエール様の沈黙を確認すると、再び、足を進める。俺には何がなんだかわからないが、ひとまず、かなり不味い場に居合わせているらしい。しかし、そんな俺にはかまわず、売り言葉に買い言葉のやりとりは更に続いた。
「今までは、そうだったかもしれません。でもだからといって、これからはどうだかわかりませんよ?少なくとも、今この瞬間は、私より貴方の方が卑怯な臆病者ですから。」
この言葉に、また歩みがピタリ、と止まる。あ、これはキレるだろうな・・・と俺はなんとなく予感した。が、普段勝ち気な、その人は数秒の沈黙の末、
「どうだかな。」
と、苦笑を交えて小さく言い、そのまま自分の執務室へと消えていった。
俺は、その場で、ほぉっと、小さくため息をついた。張り詰めた雰囲気に圧倒されて、思わず息も止めていたらしい。そんな俺に目をやって、リュミエール様はさっきの冷酷な顔つきとは打ってかわった、ふわりとした笑顔を見せた。
「お見苦しいところをお見せしましたね。」
なんといっていいのか、分からない。
「えぇと、喧嘩、ですか?少しびっくりしました。」
美人が怒ると怖い、と聞いたことがあるが、先ほどのリュミエール様は睨まれたものが凍り付きそうな形相だったのだ。本当のところ、かなり驚いていた。普段の穏やかな表情からは想像もつかない。
「えぇ、まあいつもの事ですが。あの人とは昔からこうなんですが、近頃特にひどいので。」
珍しく、苦虫をかみつぶしたような顔をして言う。その顔があまりにも苦々しくて、思わず笑ってしまった。
「いや、失礼。あまり珍しいお顔をなさるので、つい。オスカー様のことになると、リュミエール様は表情豊かになられるのですね。」
仲が悪いように見えて、実はいいのかもしれない、と俺は思った。そして、そんなことを言っているうちに、笑い顔を引き締めようと思ったのだが、リュミエール様が更に珍しい表情を見せたため、試みはあえなく失敗に終わった。
「表情豊か?変なことを言わないで下さい。険呑になる、の間違いでしょう。」
眉が一瞬ぎゅっと寄って、ふん、と人を馬鹿にしたような顔をする。
「はははっ。」
「何を笑っているんです。」
「いや、すみません。申し訳ない。」
笑いながら、なんとか謝る。しかし、笑いが止まらず困っていると、ふと、険呑な顔をしていたリュミエール様がふっと軽く息を吐き出しながら伏し目がちに微笑した。
「あ・・・」
さっきまでのコミカルな表情とは同一人物と思えない、完成度の高い笑みが再び現れる。俺は驚いて止まってしまった笑いと、なんで出たのかわからない自分の声にたじろいだ。
その間抜け顔に眉を上げながら、
「いえ。私らしく、ないのかもしれないと思ったのですよ。このような態度は、ね。」
自嘲気味に続いた言葉に、思わず俺は反射的に答えていた。
「いえっ、なんというか、俺は良いと思いますよ。そうやって、ぶつかったり、怒ったり、また尊敬したりして、だんだん人は分かり合っていくように思います。て・・・的外れなことを言っているかもしれませんが。」
言っているうちに、言いたいこととずれて行く。いつもの、何事にも柔らかく卒なく処するリュミエール様も尊敬するが、人間らしく怒って入るリュミエール様も、なんだか親しみが持てて俺は好きですよ、と思ったのだが、後半がこっ恥ずかしくて回避したら、なんだか訳のわからない台詞に・・・
「ふふっ。私は彼のことを尊敬しませんが・・・的外れではないと思います。」
実はちょっとひどいことを言っているのに、明るい表情で、にこりと笑われて、俺は、意味不明な台詞は聞き流して頂けたようだ、とそっと自分の胸を撫で下ろした。

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この一件で、俺はリュミエール様のまた新たな一面を見たなあ、と思った。見た目とは裏腹な男前だけじゃなく、どうも、感情豊かな人らしい、と。それで、俺はその評価にこう加えることにした。
「見た目とは裏腹な男前」そして「感情豊かな人。ただし、特定の事柄に限る」と。
能力的に優れた人が、人間らしい感情を持っているという事実は、俺の中で彼への好意が更に増すことにつながっていた。
しかし、その印象はすぐに様変わりすることになった。
それも、その日うちに。

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気持ちがいい夜だな、と俺は思った。
空に浮かぶ月は満月に近いらしく、周囲の星々が霞んでしまうほどに輝いていた。風は涼しく、少し薄着が過ぎた俺には肌寒いくらいだが、歩きながら考え事をするには、まさに最高のコンディションだ。
携帯用のウィスキーボトルを片手に、昼の一件のこともあり、俺は鼻歌まで出そうな気分で。だが頭では、女王候補たちへ伝える内容に、足りていないことはないかを考えつつ、森を散策していた。
紙もペンもないところで、体をすこし動かしながら、頭を働かせると、普段細事にまみれて見失いがちなことを見つけることができる。

目的もなく、気の向くまま歩いていると、きらり、光の粒が視界に入った。考えが深まってくる時にはいつもそうであるように、足元に落ちがちだった視線をその方向に向けると、森の切れ目の先に、大きな湖があるようだ。湖面が明るすぎる月光を跳ね返して、きらめいていた。
こんなに大きな湖もあるのか・・・と、何げなく、足を止めて森の中からぼんやりとその様子を見やっていた。
光の反射の仕方が、風に揺らめく湖面の加減で、とても美しく変化して、目が離せなくなってしまっていた、その時。
突然、その湖面がバシャン、と一度、大きく撥ね上がった。跳ね上がった水面から何か魚のヒレのような、蛇の体のようなものが見えた・・・ような。

『お前ら、知ってっか?あの森の奥にはな、でっけぇ湖があるんだ・・・そんでな、そこには・・・』

通りすがりに耳にはさんだだけの、ゼフェル様の声が突然心に思い浮かぶ。あんなに大きな生き物は・・・

『化け物がいるんだよ。すっげぇでかいんだぜ!マルセルなんか一呑みにしちまうくらいのな!でーーーっかい化け物が!!』

まさかな、とは思いつつ、その心中に反して動けずに、目を離せずにいた俺は、その湖面をじっと凝視していた。
と。湖面の中央から、何か丸いものが、つつつ、と音もなく隆起してきた。こちらにゆっくりと向かってきながら、だんだんとそれは高く盛り上がってくる。月光を真っ白に反射した、それは。
白い海蛇?と、一瞬、その見た目から、とんちんかんな連想をする。
ザバァ、と音を立ててその全身が見え、俺は些かほっとしていた。それは、おそらく、人だった。
おそらく、と付けたのは、先程の動きが人間とは思えないそれだったのと、月光を照り返し、湖面の光を背後にしたその身体が、まるでそれ自体、ボゥ、と発光しているように見えたからだ。その姿は美しくはあったが、幽霊だとか、妖怪の類い、とにかく人でないもののように、感じて。俺は再び、じっとりと嫌な汗をかいていた。

しかし、全裸で、この肌寒い日に、水浴びとは。俺がその暴挙に恐れ入っているうちに、その白い生き物は、こちらに向かってズンズンと歩みを進めてくる。
俺は、それが近づくにつれ、自分の見知っている人物の一人であることに気づいて、身じろぎもできずに、そこに立ち尽くしていた。

リュミエール、様・・・?

相手は森の陰に入っている俺が見えないのか、全く俺の存在を意に介さず。森と草原の境目辺りで腰をぐいと折り曲げて、そこに放り投げてあったらしい衣服を身につけるべく、布を持ち上げた。もう足を踏み出して、手を延ばせば届いてしまうような距離だ。
俺は、声をかけるタイミングをすっかり逸してしまった。声をかけなければ、と、意を決して手を上げようとした、が。

「オスカー?」

その僅かな動きに気づいたのか、リュミエール様が、顔を上げてこちらの方角を見る。いや、違います。ヴィクトールです。というより、なぜここでオスカー様?・・・と言いたかったが、喉が張り付いたように動かず、
「っ・・・」
息を飲むばかりで、声にならない。まだ俺の姿が見えないのか、焦点の合わない目でこちらを見据えたまま、すい、と一気に間合いを詰めてきた。
何を思う間もなく、上唇がねっとりと暖かいものに包まれる。何が起こったのかよくわからないうちに、随分時間が立ってしまったように感じた。もしや・・・これは接吻・・・とようやく脳みそが思考を開始したと同時に、相手も何かに気づいたのか、突然身体を離して、俺を服ごとひっぱって、月光の下に引きずり出した。
明るい光の下、やっと俺に身体の自由と、口を聞く自由が帰ってきた気がしたが、今度はかける言葉が見つからない・・・
方や、全裸の相手は片手を腰に、もう片方の手を額に手を当てて、困っていた。
「紛らわしい・・・」
リュミエール様が呟くように、呻くように言った。何が何と紛らわしいのだろう。俺には知る術もない。
「あ、あの・・・」
俺は、無理やりに声をかけて、とにかく、自分の覗きまがいの仕打ちを謝ろうとした。が、今度はリュミエール様は驚いたように突然ピクリ、と眉を上げ、
「しっ!!」
と、俺の口を塞いで、身体を背後にあった木へと押し付ける。今度は一体なんですか・・・と俺が目だけで天を仰ぐと、
ガサガサっ、ガサガサっ、
と、乱暴な足音が近づく気配がした。この気配に彼は俺より先に気づいたということだろうか。だとしたら、相当耳が良いことになる。
その足音の主は、俺達から3、4メートル離れたところを通り抜けて、湖の際に立ち、何やら湖面の方をずっと見ていた。俺達は、彼が十分離れるのを待ってから、じりじりと森の中へと後退する。
月光に赤い髪が照らされていた。今度こそ、オスカー様だ。二人は待ち合わせでもしていたのだろうか。今日の俺は本当に間が悪いようだった。

俺は木とリュミエール様に挟まれて、身動きできない。まさか突き飛ばす訳にもいくまい。そんなことをしたら、余計に事態は悪化しそうだ。
途方にくれつつも、俺とリュミエール様は、じっと息を殺して、彼が立ち去るのを待った。彼は俺達のそんな思惑を知ってか知らずか、そのままそこに腰を降ろして、
「タララ〜タララ〜タラッタラッタ〜・・・」
小さな声で少し調子外れの歌を歌いながらそのままゴロン、と仰向けに寝転んだ。
向こうからは陰になって、こちらが見えないことは分かっているが、それでも少しどきっとする。しかし、俺が肝を冷やしている間に、全裸の人物は、音も立てずに腹筋を揺らした。笑っているのだ。
何がそんなにおかしいのだろう。不審に思っていると、俺の耳に思い切り、その口が近づいて、意味不明の単語が囁かれた。
「オンチ。っ・・・・」
吐息交じりに言い終わるとまた腹筋が動いている。笑いをこらえ切れないのだろう。オンチ・・・音痴?と思い当たって、オスカー様が歌っている歌が、いつかリュミエール様に歌ってもらった曲名のない曲に似ていると気づいた。歌詞が分からないのだろう、旋律だけを真似しているらしい。
こ、これは確かに・・・いや、笑ってはいけないが。と破顔しかけた顔を無理やり引き締めにかかる。

パキッ

そんな楽しげな空気を引き裂くように、不意に、俺達の近くで、木の小枝が弾ける音がした。小動物でも居たのだろう。だが、その偶然は俺達にとっては最悪のタイミングだった。

弾かれたように赤い髪の守護聖は跳び起きて、こちらの方角をみた。
目を凝らすような気配があって、ざざざっと一気にこちらに向かってくる。
まずい。
何がどう、まずいのか、自分でも分からないまま、俺はリュミエール様をとにかく自分の身体から引きはがそうとした。が、リュミエール様自身もとっさに俺から離れようとしたのだろう。お互いの所作の不協和音で、その場にワタワタと二人、崩折れてしまう。

「・・・っ。」

がさっと、こちらに陰を落としていた枝を持ち上げ、彼はこちらを見下ろしていた。こちらからは逆光でその表情は見えないが、向こうからは、丸見えだろう。俺の困ってはいるが、どうしていいのか分からないまま、途方にくれた顔も、リュミエール様の白い身体も。
俺は後ろにひっくりかえり、リュミエール様はそのまま上に被さるようなポーズで。俺はここから何を想像されるか、脳みそにこびりついた理性でなんとか考え、
「ご、誤解です。オスカー様。」
と、絞り出すように言って、片手を上げた。
何が何と誤解されてるんだ!?これじゃあ余計怪しいっ!!
お前ら、ホモか?とか、何遊んでるんだ?とか、いつものニヒルな顔で言われるか、嫌悪感でそのまま無言で立ち去られるか・・・俺は次のオスカー様の対処を予想して、そのどちらも嫌だ、なんとかせねば、と焦燥感を募らせた。が、
しばらく(長いように感じたが、実際はすごく短い時間なのかも知れないが)彼は、無言で俺たちを見下ろし、
「邪魔・・・、したな。」
と小さく、短く。掠れるような声で言って、そのまま森の中へ、大きな物音をさせながら、立ち去っていってしまった。

俺は呆然としていた。なんだったんだ、今のは、と。少なくとも、されたくない最悪な誤解は、ばっちりと、されてしまったようだった。そのことを思いついて、俺は項垂れた。
一方、全裸だったせいで、どうやら倒れ込むときに、あちこち擦りむいたらしいリュミエール様は、傷に付いた草や土を払い落としながら、
「大変な目に、合いましたね。」
と、淡々と言った。そして、彼はそのまま明るいところに這い出て、湖の水で傷口を大ざっぱに洗ってから、やはり服を着ずに、片膝を立てて湖の縁に座った。俺は、なんとなく、そのまま彼を置いて行くのもためらわれて、その側に所在無く、彼の髪の透き間から覗く、骨張った項を見下ろして立った。何故か、その全裸はエロティックな感じも、だらしない印象も与えない。それが彫刻のようにバランスが取れているからなのか、彼があまりに恥ずかしがらずに、そうしているからなのかは分からないが。
だが、やっぱり服を早く着た方がいいとは思う。何も服が必要なのは見た目だけの問題じゃない。体温や皮膚を守る役目だってあるのだし。
「服を、着ないんですか?」
俺は、おずおずと、いってみた。しかし彼は、それを聞いているのかいないのか、その立てた膝の上に肘をついて、髪をシャラリ、と掻き上げた。
「・・・・っっっ!!」
声にならない呻き声を聞いた気がして、俺はリュミエール様の服を拾って来て、その肩にかけた。そして、両膝をついて、横から、様子を伺った。
泣きそうな顔をしているのだろうと、俺はなんとなく思った。そう思った理由はよく、わからない。ただ、なんとなく。だが、違った。
リュミエール様は、氷のような、綺麗で澄んだ、だがどこか恐ろしい微笑を浮かべて、湖面を睨んでいた。その目が、すい、とこちらを振り返って見上げた。

俺は、チリチリと、背中や首筋が、恐怖と焦燥感に、焦げていくのを感じていた。
今まで、こんな刺すような視線を、俺は受け止めたことがあるだろうか。自分が唾を飲み込む音が、ごくっ、と耳に大きく響く。
まるで蛇に睨まれた蛙、とばかりに俺は、動けなくなり、後悔していた。さっさと立ち去るべきだったのだ。さっきの時点で。
さっきまでの、笑い転げたり、人違いに困って額に手を当てていた人物とは思えない、その瞳が、じっと、こちらの瞳の奥をとらえていた。強い光を放って。だが、物でもみるような視線は、やはり、人以外の何かのようだった。

すっと、その白く細い手が、掻き上げた髪を手放して、俺の左頬に向かって伸びてきた。俺は、触られる前に、その動きだけでビクリ、と一度肩を強ばらせ、そのまま、ただ、その手が俺に触れるまで待っていた。
もし、動いたら、そのまま心臓を鋭く、一突きにされてしまうような空気が、俺から身体の自由を奪っていた。情けないことに、俺は今、ビビっているのだ。この人に。と脳裏で理解した。

怖い。

一度認識した恐怖心に、胸がぞくり、と波立った。
「私が、怖い・・・」
疑問形ではない。確かめるようにそう言って、彼はうっとりと、微笑を深めた。そのまま、後頭部に這い上った手が、くくっと、俺の頭を下に引き寄せる。唇を、ゆっくり、確かめるように奪われた。
俺は、今度は明るい月光の下、その整った顔がはっきりと俺に近づいてくるのを見て、目をつぶることもできず、なされるがままになっていた。焦点が合わなくなるほどに近づいてきた顔が、やはり目を開けたまま、何事もなかったように離れていく。
「アレが、欲しい・・・」
その表情を無くした顔は、無機質にそう言って、とん、と。俺の胸を軽く突いて、俺を仰向けに寝転ばせた。

アレとは、誰だろう。
何だろうではなく、誰だろう?と思ったのは何故か。それも分からなかった。

俺はこの後、何がなされるのか少しは見当がつきつつも、その現実が実際に俺に及ぶとはにわかに信じがたい思いで、覆いかぶさるように近づいてくる肩先、顔にゆっくりと近づく指先を、呆然と見つめていた。
つ、と。俺の唇のトップをその細い指が撫でる。
ビクっと、いくらなんでも大げさすぎだ、と思うくらい、身体が跳ねる。指の感触に驚いたのではない。その先にある、さっきまでの無機質な瞳が、うっすらと潤んでいて。それに欲を感じて、驚いてしまったのだ。

「私が、怖い?」

今度は、聞かれる。怖い・・・恐怖で口が聞けないなど、初めてのことだ。真上から俺を見下ろす端正な顔に、俺は死に神がいたら、きっとこんな顔をしているに違いないと思っていた。
唇の上にあった、指が、すいと頬を撫でて、もみあげから髪の中に分け入っていく。目を離せずにいたその顔は、俺の髪をわしゃっと一掴みにしたところで、ゾロリと一度、舌なめずりした。
ぞくっと、何か得体の知れないものが身体を駆ける。
「怖いだけでは、ないでしょう・・・?」
耳に息をふっと吹き込まれ、その得体の知れないものが、恐怖だけではないと、気付かされる。

こんなところで、俺は一体、何を・・・と、今更のように帰って来た常識的な思考が、俺を責め立てる。だが、動けない。目を反らせない。
この魔物のような、美しい男から。

もう片方の手によって、ごそり、と胸元を弄られ、服の中に外気に冷えた指先が忍び込む。
「ふっ・・・」
思わず漏れ出た吐息に、俺は心でギャーと叫んだ。が、耳たぶを舌で擽られ、髪と胸を同時に嬲られて、その理性がまた遠くへ行こうとする。水に濡れた髪が、その男の頬にへばり付いていて、それが湖面から照り返した明かりで、キラキラと細く光る。そこだけが、唯一乱れていて。整いすぎた身体や、整いすぎたその顔立ちを扇情的に魅せていた。
髪を玩んでいた手が、するすると下に這い下がって、それを、布の上からやんわりと握った。そこが、反応している事実がまざまざと露呈されて、俺は自分の頬が紅潮するのを感じた。そもそも、俺はあまりこういう事はしない。だから・・・、と誰も聞いていない言い訳を心で必死に唱えた。
「んっ・・・」
きゅっと握り込まれて、痛いくらいの刺激に声が出た。思わず眉が寄る。その手が、ごそごそと入り口を探し、ジッパーを見つけると、ジリジリと焦らすようにそれを下げる。まるで、別の生き物のように。
その動きに、俺が気を取られていると、なんの脈絡も無く、
「赤い髪・・・」
クス、と鼻で笑いながら、髪の生え際にキスが落ちた。
その一言に、遅まきながら、俺の中で一本の道筋が見えた。それはただの、予感にすぎない。だが、
「『アレ』とは、オスカー様、ですか・・・?」
口にしてみて、確信は持てた。ピクリと、すべての動きが一瞬、止まる。そして。
「んんんっ!!」
噛み付くようなキスをされ、同時に、下を直接、強く扱かれて思わず声が上がった。その勢いに思わず瞑ってしまった瞼を開けて、俺は見なければ良かった、と後悔した。
とても人のものとは思えない、暗く、恐ろしい瞳がそこにあって。それは怒りを孕んだものには見えなかった。むしろ、そこに奈落が潜んでいるような。だのに、両手や舌は、飢えて行き場を失った欲に駆られるように、熱く乱暴に身体を這いずり回っている。

この人は、狂っているのかもしれない。

息を上げながら、目尻に生理的な涙を滲ませながら、俺は、どこか冷静さを取り戻しつつあった。
「はっぁっ!」
キスの合間に吸う空気が、求める量に満たないのに、また口を塞がれる。下腹部に溜まって来た熱が、外に出たがっている。だが、まだ許さない、とぎっちりと掴まれて、
「んぅんんんっ!」
唸り声が漏れる。どちらのものか分からない唾液が頬を伝って行く。
周囲の草を、土を、闇雲に拳の中に握り込んで、俺は抵抗したくなるのに必死で耐えた。その我慢も限界に達したころ、その先端を爪でカリッと軽く引っ掻くように刺激されて、俺は痛みに、身体を飛び上がらせた、が、その瞬間に戒めを解放されて、達する快楽に、その痛みが甘く流される。
「ぁあ・は・・ぁっ!」
呻き声か喘ぎ声か分からないような音が、自分の口から唾液と共に漏れ、その余韻が俺の身体にじんわりと染みこんでいく。

その魔物は、それを見届けると、すい、と俺の身体から離れた。そして、俺がけだるい上半身をなんとか起こしたのを見て、手を差し伸べて来た。
その手は、俺の熱で汚れている。月光がその白い物をキラキラと跳ね返していて。
何故、そうしたのか、やはり分からない。だが、少なくとも「そうしろ」と、命じられている気がして。俺は、おずおずとその手に舌を這わせた。
ペチャ、と舌を使うたび、奇妙な音がする。森のざわめきが、度々途切れるのが耳に痛い。苦みが口の中に広がり、吐き気が胸から込み上がってくる。だが、俺は舌を休めなかった。
恐怖に突き動かされて?どこか、違う。
人の中に、紛れ込んで、人のふりをして息を潜めている、この魔物を、俺は、どこか気の毒に思ったのかもしれない。

それは、一通り自分の手が清められたのを知ると、服を頭から乱暴にばさり、と被って、何も言わずに立ち去って行った。ひらり、と一度、後ろを向いたまま、手を上げて。

俺は、何か得体の知れないものから、ついに解放されたことを知って、こめかみを揉んで、ふぅ、と安堵のため息をついた。
我慢していた吐き気を、地面に吐き出して、俺は咽せこみながら、それを手で埋める。冷たすぎる、湖の水で、顔を洗い清めながら。月明かりの強い日は、夜歩きなどするものじゃないな、と俺は一人ごちた。

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何度考えても(といっても、あの日の記憶は、なんだかぼんやりとしていて、よく思い出せないのだが)、やはり、あの日の俺は何もかもおかしかった。
うーんうーん、と唸るものの、その後もリュミエール様は至って普通に接して来ていて、俺は最初は戸惑ったものの、すぐにその空気になじんでしまった。多分、あれは夢か幻か何かだったのではないか、と考えれば考えるほどに、思えてくる。
ただ、唯一。オスカー様の態度だけが、あの日の出来事が、現実だった可能性を指摘するのだが。と、いうのも、あれ以来、俺は明らかにオスカー様から避けられている。今までは、廊下ですれ違う時も、他の者と同じように「よぉ」と気さくに声を掛けられていたが、今は、あからさまに顔を逸らして、ひどい時には、くるり、とそれまで歩いていた向きを変えられたこともある。
面と向かって声を掛けられても、何をいっていいのか分からないから、こちらとしても、それを指摘しにくく、結局そのままとなってしまっている。

いずれにせよ、俺はあの一件から、リュミエール様のプライベートには、絶対に足を踏み入れないようにしよう、と心に決めた。生半可な気持ちで係わりあえば、返り討ちにあって、恐ろしい目にあってしまうと、そう思ったからだ。
あれがもし、現実のことだとしたら、彼の闇は相当深い。俺には、それを救いあげる力など無いだろう。

俺自身の闇ですら、拭えぬまま、ここに抱いているというのに。

そして、俺は彼の評価をこう、改めることにしたのだ。
「見た目とは裏腹な男前」そして、人の世界から逸脱した闇を抱える、「謎めいた人」と。
その謎を、俺が解く日は・・・多分、来ない。

そのことに、少しだけ心残りを感じ、大方、安心して。
窓の外から差し込む明るい光に、ふっと、目を細めた。その明るさに、
「タララ〜タララ〜タラララッタラッター」
知らず、俺は例のメロディーを口ずさんでいた。

終。
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