冷えて固まった恒星の周りを周回する惑星には、当然ながら恒星からのエネルギー伝達がない。
このため、通常の肉体のまま、降り立つ事はできない。
守護聖がこのような惑星に降りる場合、精神体で降りるか、あるいは、ただ、船を着地させる。
船から特殊防護服を着て、生身で惑星に降り立つ事は技術的には可能だ。
けれど、特にその必要に守護聖が迫られる事はない。

なのに何故か。
オスカーは防護服を着て、大気を無くしてしまった惑星の上で、冷え固まった大地を、一切の生命を無くした大地を、茫洋とみやる。
それから、満点の星空を。
宇宙そのものをゆっくりと見上げる。
雪も雨も降らず、もう晴天を望む事もできない、その空っぽで美しい空を。

はっきりと見た。
オスカーのアイスブルーの中心にある、その小さな瞳孔に。
空っぽのタンザナイトと、無数の煌めく恒星、星雲が映り込むのを。

そして、オスカーの口が、防護服の強化ガラスの中。
精悍な顔が、表情を無くしたまま、小さく独り言を呟く。

「・・・・。」


優しく唄われるタンザナイトと、ある男の愛し方について】



「オスカーは成人が終わってから聖地来たの?」
「帯剣が終わってから、という意味ではそうだな。」
「リュミちゃんは?」
「さあ、さほど、成人ということを意識した事も無かったですが。」
「そっか。」
「なんだそりゃ。なんの話だ?」
「うんにゃ?何にも。」

カフェで三人。他愛ない話をしながら、アタシはこの間のオスカーの出張報告書の内容を思い出していた。
恒星が冷えて固まり、周囲を周回していた惑星はそのエネルギーの恩恵を受けられなくなり、生命体は移住を余儀なくされる。
『惑星の寿命が尽きた。』そう呼んでよいだろう現象。
総ての残存生命体は移住し、抜け殻の惑星が残る。
オスカーはそこに降り立って、最終的な状況を王立派遣軍と共に確認し、戻った。
出張報告は、いつもながらに、『宇宙の反映と存続のため』を志向した健全極まり無いモノで、だから、それはとてもオスカーらしいものだったと言える。
惑星は、その生命を終える時、『末期の水』とでも言うべきか、少々のサクリアを要求する。
その惑星の場合は、炎のサクリアだった。
そのタイミングで所望されるサクリアは、夢のサクリアだったり、闇のサクリアだったり、水のサクリアだったり・・・なんでもありうる。だから、別段、不思議な事じゃない。
ただ、それが・・・オスカーの故郷だったということを除いては。
守護聖の出身惑星と、末期の水に所望されるサクリアには特に関係はない。だから、それは単なる偶然だろうと思う。
オスカーの報告書にも、特にその事について触れた記述はなかった。

だから、あの夜ーその出張報告書を読む数日前ーに、アタシが見た夢の内容は、単なる妄想だと思う。
時折、オスカーが故郷の家族の事を話す時。
他の守護聖より、随分懐かしそうに、愛おしそうに話すもんだから。
少なくとも、アタシにはそう見えちゃってるもんだから。

本人よりも、アタシの方が勝手に感傷的になっている。
そうなんだと思う。

・・・そうなんだと、思う・・・?

あの日、オスカーは出張帰りに、アタシの私邸にふらりとやってきた。オスカーが、故郷の惑星の最期を看取った直後だったなんてことは知らなかった。それくらいオスカーは普通だった。
いつものように、オスカーは帰り道に入手したと言って、上手い酒を持って来たし、『疲れた』だの、『事前の会議での、あのリュミエールの反駁。お前聞いてたか?』だのと、いつも通りに愚痴ったり、執務について熱く語ったり、かと思ったら、女性談義に華を咲かせたり。
それで、いつも通り。自然にキスして、自然にベッドインした。
多分、誰とでも、互いの雰囲気がそういう風になれば、オスカーは抱くし、抱かれるんじゃないかとなんとなく思う。その場限りの享楽主義とか刹那主義というのとも全然違ってて、なんていうか、そういう時のオスカーの独特の感じを説明するのは酷く難しい。ただ、誘う気はなくてもアイツは自然と誘ってて、それで、誘われるがままに、こっちがその気になれば、自然に受入れる。そういう風に出来ている、そういう生き物なんだと、なんとなく理解してる。

グラスを取り上げて、代わりに唇を塞ぐ。
オスカーの骨張った手が、アタシの後頭部に回って、それで縺れるようにソファに二人倒れ込む。
互いに、まるで苛立ってるみたいに、互いの服を取り去って。
欲に濡れるアイスブルー。
快楽に唇からチロリと舌が覗く度、いっそ呼吸を奪い取るように口づける。
処構わず跡を付けて、
「ゴメン。」
と反省するつもりもないのに小さく謝り、
「どうせ見えない。」
という応答に、却って煽られ、見えるトコに付けてやろうかと暫し格闘紛いのやり取りをする。
背中に爪を立てては、言外に『もっと』と強請られ、足の先が丸まって痺れる程の快楽をやるのに、ちっとも満足しやしない。
顎を伝う汗が、オスカーの唇に落ちる。それをペロリと舐めて片眉を上げる男。
「塩辛い。」
淡白な感想に、鼻先をくっつけて噛み付くように言ってやる。
「たまには口でオネダリしてみな。」
フッ、と笑う無駄に自信ありげな男。体勢を腕力でひっくり返され、ゴムを乱暴に外されて、一気に分身を口に含まれ、思わず呻く。
「そーじゃなくて!」
下半身で含み笑うような気配と、直接的な刺激に目眩する。
そうこうして、裸のまま、抱き合って眠った。アタシの寝室で。
汗に塗れたまま。

それで、『その夢』を見た。
アタシは、珍しく、オスカーより先に起きた。まだ外は暗くて、アタシは夢にみた、空っぽのタンザナイトが、そこにあるんじゃないかと思って、それで、窓の外を見たくなかった。
その夢はただ美しかった。特に哀しい、という雰囲気でもない。だけど、アタシの心は何故か酷く痛んでいた。
何処からか、遠く、微かに、唄が聞こえた気がする。
星の瞬きのような、深淵に何もかもを優しく、無慈悲に吸い取っていくような、哀しく空虚な旋律。
ごそりと、隣で身じろぎするオスカー。
ーーーああ、あったかい。
アタシは安心して、再び隣に潜り込んだ。

その時は、その夢に特に意味があるとは思わなかった。
だけど、その後、出張報告を読んで、それで・・・。アタシは、その夢が、余計に気になっている。
アタシはクラヴィスやメルじゃないから、先見や遠見なんてことはできない。
分かってる。
分かってるのに、何故か意味を探している。

「・・・ヴィエ。・・・オリヴィエ?」
ハッと我に返って、声の主を見やる。リュミちゃんが、ちょっと困ったような顔で、僅かに首を傾げていた。
「ああ、ごめん。なんだっけ?」
「いえ、大した話はしていません。それより、気分が悪いのでは?」
カップを傾けていたオスカーが、動きを止めて、瞳だけでアタシを見やる。
「え?なんで?」
短く問うと、
「顔色が。あまり・・・。」
控えめに笑んで言うリュミちゃんに、オスカーがカップをソーサーで受け、笑う。
「化粧でコイツの顔色なんて分からないだろうが。」
ムッとしたように、リュミちゃんが、
「貴方はどうしてそう・・・。オリヴィエ、気分が悪いなら、こんな人など気にせず私邸で休まれた方が。」
「こんな人とはなんだ!こんな人とは!!」
私は、いつも通りのやり取りに、ハッと思わず声を上げて笑う。
一体、何を気にしているンだろーか。こんなに、聖地は平和だってのに。
「うんにゃ、気分は悪くないよ。ちょっと、くだらない事が気になってて。」
「くだらない事、ですか?」
リュミちゃんが、きゅ、と眉根を寄せる。庭いじりでもしていたのだろうか。今日は緩く髪を左肩で一つに纏めている。その事に、今更気づいた自分に、相当「注意力散漫」と内心で自嘲する。
「うん・・・。本当、ちょっとしたこと、なんだけど。」
アタシが濁していると、リュミちゃんが、スッと瞳を伏せて、
「実は私も、少しばかり、気になっている事があるのです。」
と言う。能面になってしまったので、彼の表情からその内面を読み取る事はできない。
「くだらない事なら、忘れたらどうだ?」
役者ぶったいつもの仕草で、オスカーがひょい、と肩を竦める。
「そう、忘れたらいい。忘れたらいいのかも。」
何がそんなに気になっているのか分からず、アタシは独り言のように受けた。・・・けど。
リュミエールは表情を失ったまま、ジッと私を見つめる。リュミちゃんの深い青色の瞳は、能面で見つめられると綺麗すぎて落ち着かない。
「せっかく3人でこうして珍しくも昼間から集まっているのです。良かったら、私の家に来ませんか?オリヴィエにも、休みたくなったら、そのまま休んで頂けますし。オスカー、オリヴィエ、この後のご予定は?」
やや強引な誘いに、いや、特にないけど、と答えると、オスカーが無言で再び肩を竦める。
「では、決まりです。」
リュミエールは、ニッコリと、いつもの完璧な笑顔を見せて、肩に掛けていたショールを首に巻き付け、先に席を立った。

リュミエールの私邸は、休日のせいか、いつもよりもずっと家人が少ない。応接室の一つに通されて、L字に配置されたソファに、それぞれ、オスカーとアタシは腰を落ち着ける。ソファの置かれていないところに、ハープがデンと構えていて、そのすぐ側に、演奏用の丸椅子。運ばれて来たお茶を、
「また草か。」
「文句言わないの。」
等とせんないやり取りをしつつ、アタシ達は口に運び始める。リュミエールはそれを気にする様子も無く、丸椅子に腰掛け、黙々と演奏の準備にかかる。
やがて、ポロポロとつま弾いていた、音の羅列が、旋律へと、形作られていく。
綺麗で、ただ、美しいソレ。けれど、その旋律は・・・。
哀しく空虚な、ソレは・・・。
目を伏せ、リラックスした様子で聞き入っているオスカーとは対照的に、アタシは脳裏に『その夢』がチラついて、お茶どころじゃなくなる。
旋律がリフレインし始めたところで、リュミちゃんの歌声が、そこに静かに乗せられる。

夢で見たビジョンが蘇る。
空っぽのタンザナイトを映すアイスブルー。
宇宙の深淵で、チカリと瞬く恒星の輝き。
やがてそれは生命を失う。
当然の理。
その理を、精悍な顔で無表情に見送る男。

「もう、・・・いい。もういい!・・・止めて。・・・止めよう!」
美しい旋律は、アタシのほとんど叫ぶような声音に、中途半端に途切れた。頭を振って、両耳を塞ぐ。
「・・・どうした。」
問うているのかいないのか、はっきりしないような声音で、オスカーは私を見やって言う。
その顔に表情は無い。
動悸が止まらない。なんで、何故、どうして。あの夜に聞いた唄がリュミちゃんのものであるなら、私の邸宅までそれが聞こえるはずがない。
だから違う。
だから。だから・・・。
「オリヴィエ。貴方はとても優しいのですね。」
ひたり、と温度を失ったような声で、リュミエールが言う。私は耳を塞いでいた手を下ろして、ぎくしゃくとリュミエールを見やる。
「けれども、こういったことはキチンとすべきではないかと、私は思うのです。」
何かの罪を裁くように、リュミエールははっきりとした口跡で述べる。まっすぐに、アタシを見る、深い海色の瞳。
アタシがまだ捕まえ切れていない、『何か』の正体を、リュミエールは既に知っているのだと知る。
海色の瞳は、アタシから、するりとオスカーに視線を定める。
オスカーは、仕方なさそうに笑んで、その視線を受け止める。まるで、己の罪は分かっている、とでも言いたげな様子に、アタシはほとんど喉元で心臓が鳴っているような感覚に陥る。
「俺は、それほど落ち込んでないぞ。」
静かに、オスカーは言った。
ーーー通じちゃうのか。
高くヒステリックに鳴る鼓動はそのままに、アタシはどこかで、落胆している。『通じる』ということは、私の胸の痛みの原因を、オスカーは知っている。リュミちゃんが『キチンとすべき』というものが、『何か』も。
・・・つまり。・・・つまり。
リュミエールは、まっすぐにオスカーに視線を投げたまま、
「それが問題なのだと、私は思いますが。」
能面のままに言い放つ。『美人が怒ると怖い』という言説のままに、それはかなりの迫力。なのに、オスカーは平然と肩を竦めて笑う。
「どうしろと?」
ギュ、とリュミちゃんは、痛みに耐える顔で唇を引き結ぶ。胸が痛い。アタシも、きっとリュミちゃんも。ただ独りの男を除いて。
除いて・・・?
本当に、そうなんだろうか。
フッと、オスカーが吐息だけで微かに笑い、もう一度。アイスブルーを眇めるように細くして、今度はアタシを見やり、問うた。
「どうしろ、と?」
ドッドッドッドッ。心臓の音は鳴り止まない。
「夢を、見たんだ。」
唐突に、意図無く話し始めた自分を訝しむように、けれども、とにかく、多少縒れてしまった声で続ける。
「夢を見たんだ。夢ではさ、アンタは、生身の身体で、防護服を着て、あの惑星に降りた。」
えぇい、と、アタシは右手で自分の髪を掻き上げて潰す。この話が何処に行き着くのか?・・・知らないね、とどこか唇を動かし続ける自分を冷静に眺めている自分が居る。
「それで・・・。それで、冷えて固まった大地を見て、それから、宇宙(そら)を、見上げてた。なんの感慨もない、そんな感じの顔で。」
思い出すようにしているせいで、ほとんど瞼が落ちてしまっている。痛い程、視線を感じる。オスカーと、リュミちゃんの。
「それで。宇宙が、映ってた。アンタの、瞳に。そう、そこで、アンタが、何か言って。それで目が覚めて。」
一度目を強く瞑ってから、
「アタシには、どっかの占い師と違って、遠見なんかできやしないから。だから、意味なんかないと思ってる。だけど、だけどさ。」
吐き出すように言って、オスカーに視線をやる。・・・と、色の無いアイスブルーが、ピタリ、とこちらを見つめたまま、徐にアタシの言を遮る。
「降りた。」
「・・・は?」
「降りたんだ。俺は。あの惑星に。お前の夢の通り。」
オスカーはただ、淡々と無表情に、私を見つめて言った。それから、ふ、と表情を柔らかくして、
「自分の顔は、自分じゃ見れないから、俺がどんな顔してたのかなんて、知らないがな。」
とだけ言って、口を閉じた。
言葉を失っているアタシに、
「流石は、夢の守護聖・・・ってとこか?」
ニヒルに笑ってみせるオスカー。
「何故、降りたのですか?」
「さあな。降りたかったから・・・か?」
リュミちゃんの端的な問いに、疑問符を付けて、オスカーが答える。
「答えになっていませんね。」
表情を失ったまま、リュミエールがキッパリと言い、薄い色の髪を掻きあげる。
いつもみたいに険悪な顔つきで、二人が暫し睨み合う。
眺めているうちに、いつもの呆れた気持ちになってしまい、ふふ、と思わず失笑してしまう。指をピンと伸ばして、両手を膝の上で組む。
「そっか・・・。」
なんとなく、ふぅ、と安堵の息を吐く。
「・・・?」
仲良く同時に、怪訝な顔つきでアタシに視線を集中させる二人に、片手をヒラリと振って、苦笑する。
「ううん。なんて言えばいいかな。」
ますます、二人が眉間の皺が濃くしている気配を感じて、また笑う。
「良かった・・・。そう、良かったンじゃない?」
もういっそ、その怪訝な顔に納得感を与えようって気は、アタシにはなくなってしまった。いつの間にか、バクバクと五月蝿かった心臓の音も、遠くなって、気にならなくなってることに気づく。
「末期の水に選ばれたのが、アンタのサクリアで。アタシは、良かったと思うよ。」
うん。そう、良かったンだ。と、アタシは内心で噛み締める。
「アンタは、きっと、もう十分なんだ。十分、悲しんだ。だから、見送ってあげられる。」
そうでしょう、とオスカーに微笑む。それで、男はムッとした顔になった。
「なんだそりゃ。」
呆れたように、男は吐き出して、ガシガシと頭を掻き乱す。
「そうですよ。独りで解決しないで下さい。」
珍しくも、リュミちゃんまで、ムゥ、としたコミカルな表情。アハハ、とアタシは笑う。
「だってさ。だって、終わりがあるから、始まりがあって。眠るから、目覚めがあって。夜の帳が降りるから、明けの明星は輝く事ができる。そうでしょ?」
ムムム、とリュミエールが不服そうに顔を顰めて、それから、ハァ、と溜め息を吐く。
「異論はありません。」
キッパリと言ってから、視線を落としてリュミエールは続ける。
「けれども、それでも。私は、悲しむべき時には、悲しんでおいた方が、良いと思っています。」
「うん。」
アタシはリュミちゃんの正論に頷いて、それから、オスカーに再び視線を戻す。
「でも、もういいよ。」
オスカーは、唇を引き結んだまま。だけど、ちょっとばかし、瞳が優しい。
「もう、悼んだ。・・・でしょ?」
沈黙を数えてから、オスカーはフ、と小さく息を吐く。
「そうかもな。」
どこか、遠くを愛しげに見るようにして、オスカーは目を細めた。
「守護聖になった時に。それから、多分、記録で自分の家族の死を知った時に。それで、今。勿論、悲しい。そう、今も勿論、悲しいんだと思うぜ。」
そこで、まるでたった今、『その光景』を見つめているかの様に、オスカーは笑みを一段と深めた。
「だが、今でも昨日の事のように思い出せる。家族の声、笑顔。囲んでいる食卓。家の匂い。だから、それでいいんだ。俺は。」
独り言のようにオスカーは言って、肩を竦める。
「なんでお前ら相手にこんなにしんみり語らなきゃならん!」
ハ、とオスカーは眉根を寄せ、声を上げて笑う。
黙って聞いていたリュミエールが、ふ、と小さく応じるように笑った。
「それが貴方の愛し方、というやつですか。」
やはり、まるで独り言のように呟いて、悪戯っぽい笑顔を見せる。僅かにオスカーの顔が紅潮する。勿論アタシだって恥ずかしい。パタパタとアタシは手を振って自分の顔を冷ます。
「オスカーの恥ずかしい台詞は笑えるのに、リュミちゃんの恥ずかしい台詞は、ただ恥ずかしいだけだから、ホント、厄介!」
吐き出すように言うと、オスカーが間髪入れずに突っ込んでくる。
「俺の台詞の何処が笑えるって?」
ハッ、とアタシは笑って、
「そりゃ、勿論。全部でしょ!」
顔を前に出し、瞳を眇めて宣ってやる。「ああ?」と片眉を上げるオスカー。ふふふ、とリュミちゃんが口元に曲げた指先を当てて苦笑する。
カミツレのお茶の香りが、部屋を充たしていることに、不意に気づく。
昼下がりの応接室。リュミちゃんの優しく淡い佇まいそのままの、空間。木目を活かしたアールデコの家具類。

いつか、この瞬間を、愛おしむように思い出す日が、また来るのかも知れない。
一つ一つの、此処にしかない現象が、瞬間が、アタシ達の肌の上をすり抜けて行く。
ただ、アタシ達は、その手触りを愛おしんで、見送る。
それで、ふとした瞬間に、それを胸中で再現しては、また愛おしむ。
それは、日々紡ぎ出され、そして日々終わりを迎える魂の輝きに似て。

「ねぇ、さっきの唄。歌ってよ。」
アタシは、その場の空気に引きずり出されるように、自然と口にした。おや、と片眉を上げてから、
「それは勿論。」
と畏まるように、一度、白く細い手を胸に優しく当て、
「それでは、安らかな眠りを迎えた、あの惑星(ほし)を祝して。」
笑んで続きを引き取って、ハープに両手を添えて目を伏せる。

再び流れ出した旋律は、やっぱり優しくて美しくて。
星の瞬きのような、深淵に何もかもを優しく、無慈悲に吸い取っていくような。
けれども、空虚な哀しみは、やがて、静かに色づいていく。
それは、確かに終焉に手向けられた、言祝ぎ(ことほぎ)のよう。

成人の日には帯剣したというオスカーをなんとなく想像する。
神妙な顔つきで剣を受け取る、まだ少年と青年の間のような、オスカーの横顔。
子供から大人へ。
聖地に来る前とは違い、アタシ達の成長は緩やかで、まるで時には止まっているように思う。
それでも時は行き過ぎていくから。だから、必ず死を迎える。

だけど、そこで終わりじゃない。終わったままで居てくれる程、時の流れは悠長じゃないから。
空っぽのタンザナイトに、また新たな恒星の輝きが映り込んでいくように。

輝かんばかりの草原が失われ、荒涼として冷えて固まった惑星に、ポツンと佇む、ただ一つの生命体。
オスカーの口が、防護服の強化ガラスの中。
精悍な顔が、表情を無くしたまま、小さく独り言を呟く。

『アリガトウ。』

リュミちゃん流に言えば、もしかしたら、それは愛の言葉なのかも知れない。
名残惜しむようなデクレッシェンドに合わせ、視界に美しい夕闇色の帳が落ちていく。
最期の音が、やがて空気に解けてしまうまで。
その美しさを、アタシはただ、愛おしんだ。



タンザナイト: 黝簾石(ゆうれんせき)。夕闇色の御簾の意。