遠くから想って




「これは何という?」
口を付いた素朴な疑問は、いつの頃だったろうか。私は誘われるようにして、花に指先を添えた。
それは、ジュリアスの庭。美しく、大振りの白い花で、自重に首を折るようにして、吊り下がって大量に咲いていた。
「んー?これか?これはなぁ・・・。」
やんわりと、嗜めるように男は私の指先を花から遠ざける。
「・・・やめとこう。お前達にはこっちの方が似合う。」
蜂蜜色の髪をした年上の男は、私が興味を持った花ではなく、足元に咲いていた素朴な五枚の花弁を持つ、薄桃や白い色した花を指差した。
群生するソレは、私も名前を知っている。日日花。
「いいんだ。」
何かを断るように、愛しげに足元の花々に視線をやって、男は言った。
「・・・何がだ?」
私は意味を取りかねて、男を見やる。麦わらを被って、軍手をした、如何にも庭師といった格好の男は、不思議な事に、時折賢者のようにも見える。その時の男は、まさにそのような印象を私に与えた。賢者の向こうに、彼が用意した木製のベンチに座る、ジュリアスの姿がチラリと見える。何か小振りな本を読んでいるようだった。
「『楽しい思い出』、さ。いつかそんな風に、クラヴィス。お前も、俺を思い出してくれよ。」
急におどけたように笑って、男は私に視線を寄越す。
何か不吉なものをみたような心持ちになり、私は思わず、顔を顰めた。
大体、カティスの発言はいつもこのような感じで、肝心のところをはぐらかしてばかりいた。それは大人のズルさのように感じられるときもあり、子供の無邪気さのように感じられるときもあった。

あれはいつの頃だったろう。
既に私とジュリアスの不仲は際立っていて、あれは男なりに、我々の仲を慮っての事だったのではないかと思う。
休日に私の私邸を訪れた男が、庭の手入れをするから付いて来いというので、ノコノコと付いて来て、気づいたら、そこは光の守護聖の庭だった。それだけで、ジュリアスと言葉を交わした覚えは無い。
思えば、男は既にあの時、自分のサクリアの消失を予感していたのだろうか。
肝心のことは何も話さない男なので、定かではない。

ただ、私の記憶の中、頭を垂れるように吊り下がった白い花々と、遠くベンチで本を読むジュリアス。
庭師のような賢者のような、曖昧な存在の男が、花を見下ろして微笑む光景が、現実のような、夢の名残のような、やはり曖昧な感触で、けれどもしっかりと胸に残っていた。

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「クラヴィス。・・・クラヴィス!!聞いているのか!!」
はっきりと怒鳴られて、私は思い出から現実へと意識を浮上させる。
「いや。聞いていない。」
私はいつものように、身体を斜めに向けたまま、端的に答えてやる。わなわなと、堪忍袋の緒を切らしたといった風情で、身を震わせる男は、いつもながら、なかなかの見物ではある。ジュリアスは怒りを身体から漲らせる時、本人が気づいているかどうかは知らぬが、まるでその金髪や群青色の瞳から、雷光を発するような鋭い気を放つ。暗闇に慣れ親しんだ我が身には見つめるのには耐えられず、けれども、どこか・・・暗闇の中でこそ、この光は美しいのではないかと思わせるような、鋭く尖った煌めき。
「もう良いっ!ルヴァ、この男に時間を使う等、やはり無駄に過ぎぬ!」
ガタン、と荒々しく席を立ち、憤怒を見せつけるように、男は衣をバサ、と右手で引きつけると、会議室を去って行った。
部屋に残されたのは、私とルヴァだけ。
「あー、クラヴィス。今のは流石に、ジュリアスに対してあまりというものですよー。」
控えめにルヴァは私の瞳を見やりながら、両手をテーブルの上で組んで言う。
「・・・そうか?」
「えぇ。まあ、もっと言えば、ジュリアスに時間を作らせて、この席に苦労して付かせた、私にも一欠片の気遣いが欲しかった、ということなんですけれども。」
ポリ、と学者らしい細い人差し指が、ルヴァの白い頬を所在無さげに掻く。
私はその様子に苦笑する。
「なかなか素直だな。苦労して出て来たのは私も同じだ。お前の計画に無理があったということではないか?」
フッ、と思わず唇を隠すように指先を口元に当て、失笑すると、
「・・・そう言われると、返す言葉もありませんねぇ。それで、本音はどうなのです?」
言葉の殊勝さとは反対に、全く懲りていなそうな笑いを含んだ声音で言い、男は終わり際、理知的な光を瞳に宿らせて私を見た。
「・・・新しい、緑の守護聖か。」
「えぇ。・・・って、やっぱり聞いているんじゃないですか。」
呆れたように盛大に溜め息して、男は悪態を付く。
「フン。聞いていると言おうが、聞いていないと言おうが、同じ事。そうだな、交代したばかりで安定せぬのはある程度は仕方が無いのではないか。あの者は、カティスに懐いていたようでもあるし。暫くは精神面でも様子を見る必要があろう。」
瞳を夢の続きに彷徨わせながら、私は半分眠るようにして答える。
「・・・懐いていたというのなら・・・。」
少し、低まった声音に、誘われるように、グレイの瞳に視線を戻す。ルヴァは瞳を伏し目がちにして、思索に耽り始めた時の顔をしている。
「いうのなら、何だ?」
少々の興味を引かれて、質問をしてみるが、案の定、ルヴァから答えは返らない。
私は呆れて溜め息を吐き、席を立とうとする。
「・・・いえ、なんでも。」
きっぱりとした男の声に、私は動きを止める。この者の控えめな笑みは、曲者だ。私は、クッ、と喉を詰まらせるようにして笑ってやってから、席を立ち、会議室を出る前に、振り返らずに言ってやる。
「お前も聞いているのではないか。」
言い放ってやったつもりが、扉が締まる直前、
「えぇ、貴方と同じで、たまにはね。」
やり込められるような台詞に、思わず顔を顰める。

宮殿の廊下を歩きながら、日暮れに差し掛かろうとする庭の、噎せ返るような甘い香りを思い出していた。

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日課となっている夜の徘徊で、ふと思い出の香りに行き当たり、立ち止まって物思いに耽っていた。
不意に、ガサリと草を踏みしだくような足音。
「これは・・・。意外なところでお会いしますね。」
声に振り返ると、チュニックに革のズボン、風よけのコートを羽織った、休日の出立ちのオスカーが、明る過ぎる月光の中、驚いたように足を止め、こちらを見やっていた。
「意外な場所、か?」
思い当たる節がなく、私は漫然と問う。
「ええ。」
肩を竦めるような仕草の後、ぼう、と見やる私を見かねてか、男は言葉を継いだ。
「ここは、ジュリアス様のお庭ですよ?」
『貴方の来て良いような場所ではない』という意味だろうか、私は思わず彼の忠犬ぶりを滑稽に思い、笑ってしまう。
「何も、毒を仕掛けようというのではない。」
私は自分の身を抱いた。
「ただ、香りに誘われるまま、歩いていたら、ここに居た。可笑しいか?生憎、『闇の守護聖立ち入り禁止』といったサインは見受けられなかったものでな。」
はっきりとした皮肉に、男は訝しむように眉を顰め、けれども、間合いを詰める事も無く、中途半端な距離を保ったまま、
「香り?」
と言った。
「ああ。」
私は、手を伸ばし、噎せ返るような香りを放つ、思い出の花を一つ手折った。やっと、男は私の言をどうやら嘘ではなさそうだとでも思ったのか、傍らにやってくる。
「確かに、凄い香りですね。少し、甘過ぎる。」
男に、その花をやると、男はそれを受取り、群生する花々に視線をやり、顔を顰めた。
「花は嫌いか?」
男は、顔を顰めて、花を見やったまま、
「嫌い、という訳でもありませんが・・・。苦手、ですかね。」
思い出した何かを振り切るように、頭を振った。
「珍しく、言い淀むのだな。ところで、お前の方こそ、どうして此処へ?」
饒舌になっている自分を感じながら、重ねて問う。香りに酔っているのだろう。紅い髪の男は、ますます顔を顰め、それから困ったように笑んだ。
「随分、今日の貴方は饒舌なんですね。私は、ジュリアス様の邸宅で、夕食をご馳走になり、帰るところ・・・。」
不意に、男は私の顔をマジマジと見やり、口を噤む。
「・・・どうした?」
唐突な沈黙の理由を尋ねる。
「いえ・・・・。」
男は、ハッと我に返ったように、口元を隠してから、視線を彷徨わせ、ガシガシと頭を掻いた。
「その・・・幸せそうな、お顔、だな、と。」
やや空き過ぎた間を、弁明するように、男は答えてから、溜め息を吐いた。
自分の発言や態度が、『私が幸せそうな顔をしているのが、「らしくない」。』と言っている事と同義である事に気づき、それを隠すのを諦めた、というところだろうか。クックック、と素直に過ぎる男に、可笑しさを隠せず、声に出して私は笑ってしまう。
存外、この男もなかなか愉快ではないか。
あるいは・・・。そう、あるいは、私とジュリアスがこのような状況でなかったなら、もっと早く、この男のこういった一面に気づく機会もあったのやもしれぬ・・・。私は月光を受けて怪しく光る美しい花を再び見やった。
「ジュリアスのコックは、好みを覚えるのが早かろう?」
懐かしんで、私は言った。男には視線を戻さない。香りに、思い出と現在とが、交錯して・・・軽い酩酊感に私を追いやる。それは酷く心地が良かった。
「え?・・・えぇ。まあ。」
男のらしくもない頼りない声。私はうっとりと酔いに任せて、笑んで、いっそ口づけるように花に顔を寄せ、男に視線だけを戻した。
「この花は、夜になると一層香るのだそうだ。」
「カティス、ですか?」
男は再び、顔を顰めた。思いの外、勘が良いのだな。私は内心で小さく驚いていた。しかも、隣に立つ男は、私のその驚きを読み取ったように、肩を竦め、それから、不満を隠さずに続けて言い退けた。
「そういう、凝った・・・、質の悪い悪戯をするのは、あの人くらいなものですよ。この聖地では。」
フン、と終いに鼻を鳴らした男に、私は、忍び笑ったが、堪えきれずに声を失って、腹筋を震わせて笑い出してしまった。
「ク、クク・・・。酷い言われようだな。分からぬでもないが。だが、お前はカティスとは昵懇(じっこん)ではなかったか?」
笑いを収めてなんとか問うと、アイスブルーの目をキュ、と細めて、男は妖艶に笑った。
「・・・だから、ですよ。」
私は蜂蜜色の髪した男を脳裏に浮かべながら、私も苦笑する。
「確かに、質の悪い男だったな。」
「えぇ。本当に!」
アッハハ、といっそ清々しく彼は笑った。
二人でクスクスと笑い合っていると、ガサガサと何者かが近寄る音をさせ、先程オスカーが抜けて来た茂みから、金髪の男が、部屋着と思わしき、白い長衣を纏った姿で出でた。
ヒタ、と空気が凍るような音がした。
「・・・何をしている。」
事実、『私』に明確に投げられた視線と声音は、『凍っている』と評するに相応しいものだ。
私はつい、反射的に、いつもの嗜虐的な想いに狩られてしまう。
「お気に入りが取られたようで、気に障ったか?それとも、闇の守護聖が許可無く、自分の庭に立ち入った事に腹が立つのか・・・?あるいは、あの男の拵えたものに、こうして、私が触るのが嫌か?」
ジュリアスはみるみる顔を憤怒に染めてみせたが、私が再び、つい、と手を伸ばして、再び白い花を触ろうとすると、顔色を失って、間に居たオスカーを突き飛ばすような勢いで、素早く駆け寄り、私の手を叩いた。
パン、と渇いた音。遅れて、渇いた痛み。
些か派手に過ぎる反応に、私が思わず笑おうとすると、ジュリアスは、私の手を両手でバッと掴む。
「・・・?」
「液に触ったな。」
ギラリ、と私を見上げる群青が、月光に照り返す。
「ブルグマンシア。この花の別称は、『天使の喇叭』。」
いつぞやに、聞き損ねた答えを、意外な男から得て、私は笑った。
「『審判』でも、下るのか。」
失笑している私を、嗜めるように、睨みを利かせたまま、男は声を一層低めて言った。
「猛毒だ。液に触れただけでも炎症を起こす。」
我々のやり取りを、やや呆然と少し離れて様子を見ていたオスカーが、おずおずとジュリアスの背後で手を上げた。
「あー、俺も触りました。」
ジュリアスは、盛大に眉根を寄せ、私の手を掴んだまま、『何だと?』と睨みを利かせたまま、紅い髪の男を振り返る。
「・・・済みません。」
ポリポリ、と上げた手と逆の指先で頬を掻き、縮こまっている。
私のせいだと、言わぬのか。妙なくすぐったさを覚え、私は告白する。
「私がそれと知らずに、先程、オスカーに手折った花を渡してしまったのだ。」
フン、と鼻を鳴らし、私に視線を戻すジュリアス。
「お前のせいか。」
笑って答える。
「ああ。」
それから、ふと、思いついて付け加える。
「・・・そうだな。もっと言えば、質の悪い庭師のせいかも知れん。」
ジュリアスは、くい、と金の片眉を吊り上げて、瞳を巡らせてから、両腕を組んで、
「ふむ。違いないな。」
何やら納得したようだった。
「二人とも、付いて来るが良い。手を洗った方が良い。軟膏も塗ってやろう。」
我々が大人しく付いてくることを確信した足取りで、ジュリアスは踵を返し、スタスタと先を行く。
私とオスカーは思わず数瞬、顔を見合わせる。オスカーは、私に無言で肩を竦めてから、
「なんだか、変わった夜ですね。」
と上機嫌でジュリアスの後に続く。ギラギラと、怪しく白い花々を照らしていた、明る過ぎる満月が、今は、ぽかんと、おどけたような様子でジュリアスの家の屋根の上に浮かんでいる。

「家人達は、もう寝ている」と説明しながら、手洗い場に通され、オスカーと二人並んでよく手を洗わされ、続いて明かりの無い応接室に案内される。家人を起こさねば、薬箱の位置も分かるまいに、と私は思ったが、意外な事に、ジュリアスは「暫し待て」と言い捨ててから、程なく薬箱を取って戻って来た。
明かりを付けぬまま、薬箱を開き始めるジュリアスに、オスカーが勝手知ったる様子で、明かりを付けに入り口に行き、部屋を明るくしてから、応接用のソファに戻る。
私が無言でジュリアスに腕を差し出すと、幼かった頃のように、隣に腰掛けたジュリアスが、まるで兄か何かのように、『仕方のない奴め』と顔に書いて、軟膏を手に取り、私の手に塗り籠める。ジュリアスはけして器用ではない。けれども、いつもその手当ては、何故か心地よさを伴っている。
知らぬ間に、微笑んでいたのか、
「何を笑う?」
と、ムッとしたように男は手を止め、私の瞳を見上げた。これほど、近くにこの男を見たのは、いつ以来だろうか。私は、しげしげと、その黄金に輝く昔の連れ合いを眺めた。居心地悪そうに男は視線を逸らすと、
「オスカー。お前はどちらの手だ?」
聞きながら、軟膏を手に取って、オスカーの座る向かいのソファに移動する。同じように隣に座り、恐縮する男に、せっせと軟膏を塗って、満足気にしてから、
「包帯もした方が良いだろうか。」
と、立ち上がって、薬箱の中身を見やりながら言い出す。私は苦笑して、
「止めておけ。お前には無理だ。」
と、手を振るが、男はムッとした様子でいつもの高圧的な言い様で言い放つ。
「馬鹿にするな!」
一喝されて、私は肩を竦めてから、無言で手を差し出す。ジュリアスは、分かれば良い、と薬箱から包帯を取り出し、私の手に巻き付け始めた。腕ならともかく、掌だ。知識も無いのに、巻くのは難しい。案の定、巻き始めたものの、巻き終わりをどのようにするのか、逡巡し始めた男を、間近に眺めながら私は膝の上で頬杖をついて、しげしげと観察する。
向かいに座っていたオスカーが、見かねてすぐに立ち上がり、ジュリアスに、
「ジュリアス様、そこまで巻いて下さったのなら、後始末だけですから、後は俺が。」
と声を掛ける。ジュリアスは、むぅ、とコミカルに下唇を出すような小さな仕草を見せたものの、
「分かった。」
と席を立つ。入れ替わって私の隣に座った男は、ジュリアスの悪戦苦闘の後を少し解いてから、淡々とした、慣れた様子で私の手に、キツくも緩くもない丁度よい加減で包帯を巻き付け、仕上げに、歯と指を使って包帯をビィッと割いてから、巻き止めた。
ジュリアスを観察するように、じっと私はオスカーの顔を眺めてしまっていたのだろう。けれども、男は慣れた様子で、それを受け止め続け、そこに私の瞳があると、分かってるような素振りで、包帯を仕上げてから、視線を上げた。
チリ、とそこに、挑戦的な色合いを感じて、私は思わず微笑む。
「よく、分からない人ですね。貴方は。」
またも、顔を顰められてしまった。珍しく私が上機嫌だというのに、なかなかコミュニケーションというのは、難しいものだ。
「今に始まったことではない。」
呆れたようなジュリアスの声。
「オスカー、お前にも包帯を巻こう。」
オスカーの代わりに、向かいのソファに腰を下ろして足を組んだジュリアスが、ポンポン、と隣を叩く。オスカーが、向いの席に戻って、ジュリアスに途中まで包帯を任せ、私の時と同じような要領で、仕上げは器用に自分で為した。
交わされる視線と視線は、信頼関係がそこに出来上がっていることを示していて、私はその様子をやはり黙って眺めていた。
穏やかな白熱灯に照らされる応接室。我ら三人の息遣い、衣擦れの音の外、何も音のせぬ静かな空間。天井から床までのガラス扉が、向かいに座るジュリアスとオスカーの背後にずらりと並ぶ。その向こうに、月光とカティスが手入れしていた庭。空気に、景色に、懐かしさを覚えた。
二人の様子を観察しているつもりが、知らぬうち、私は二人の向こうの月光降り注ぐ庭に魅入っていたようだった。
「あの人は。」
オスカーの静かな声に、私は視線を紅い髪の男に戻す。
「こういったことも、織り込み済みで、ジュリアス様の庭に、猛毒を植えたのでしょうかね。」
自らの包帯を見やりながら、オスカーはそれをもう片方の手で撫でた。
「さあな。」
と私が答え、
「だとしても、一向驚かぬ。」
ジュリアスが吐き出すように続いた。その言い様に、あの男を、憎んでいる、それが今日の満月の巡り合わせのようだな、と私は思い至った。
「何が可笑しい?」
ジュリアスの問いに、私は笑んでしまっていたらしい口元を今更ながら隠しつつ、
「いや。まさか猛毒だとは思わなんだ。」
話を僅かに逸らした。
「そうであろう。私も最近になり、家人に知らされて、初めて知ったのだ。全く、人騒がせな。」
ブツブツと不満気に頬をやや膨らませて言う男の様子に、フッと思わず笑いが声を伴って漏れる。ジュリアスは、もう咎めなかった。
私とジュリアスを、交互に視線だけで見やってからオスカーも笑む。
「厨房に行って、ホットワインか、お茶を準備しても?外に長い事居たもので、身体が冷えました。」
立ち上がり、ジュリアスに問いかける。
「助かるが。分かるのか?」
「えぇ。最近はよく厨房にも立ち入るもので。」
ジュリアスは複雑な顔してオスカーを見上げ、オスカーは困ったように笑んでそれを見返す。
「では、ホットワインを。」
数瞬見つめ合った後、根負けしたように、ジュリアスが言う。
「私もだ。」
追いかけるように言うと、
「クラヴィスは一杯だけだ。オスカー、お前もだぞ。」
やはり、兄のように、父のように、厳しい口調でジュリアスが嗜める。私はそこにも懐かしさを感じ、
「・・・だ、そうだ。」
と笑んでオスカーを見やる。
「了解しました。炎症の件ですね。では、コーヒーの準備もしてきましょう。」
スタスタとオスカーは迷い無く部屋を出て行った。
二人きりになって、いよいよ沈黙が部屋に満ちる・・・が、私にとっては、決してそれは気詰まりの沈黙ではなかった。
ふと思いついて、立ち上がってガラス戸に近寄る。眩しい程の月光が、庭に降り注ぎ、花や葉を照らし出している。知らぬうちに傍らに来ていたジュリアスが、ガラス戸に指先を当てて言った。
「あの花の前で、カティスは、お前と何を話していた?」
「随分、唐突なのだな。」
少し意外に思った。・・・何を?あの時の事を、覚えていたお前に?それとも、私とカティスのやり取りに、そもそもジュリアスが興味を持つということにか?・・・自らを訝しむのは、なかなか楽しいものだ。
「意外か?」
「さぁな。」
私は、いつの間にやら追い越してしまった身長差を利用して、ジュリアスの瞳を見下ろした。至近距離で見下ろすと、ジュリアスはいつも居心地が悪そうな顔になる。
「何に対する返事だ、それは。『意外か否か』に対しての『さぁな』か?それとも・・・。」
眉間に皺を寄せ、一つ一つ丁寧に問題を解決しようとする、昔から律儀な連れ合いを、私は失笑し、落ち着いた声音で遮る。
「どちらも、だ。ジュリアス。」
ピタリと言葉を止めて、ジュリアスは、
「そうか。」
とだけ答えた。
「『天使の喇叭』と言ったか。」
「ああ。」
「お前に似合いの花だな。」
「それは嫌味か?」
ジュリアスの男らしい苦笑に、私もつられるように喉を鳴らして笑う。
世界の終わりに、あるいは、始まりに聴くという、天使の喇叭。審判が下され、その時には、生き延びる者と、死すべき者が、選別されると言う。容赦のない、苛烈なファンファーレは、我々にもあるいは、いつか降り注ぐのであろうか。
時折、雷光を思わせる豪奢な金髪の、苛烈な男には、天使の羽にしろ、雲間から差す太陽にしろ、あるいは金の喇叭にしろ・・・いずれにせよ、似合いのような気がしたのだ。
けれども、あの香り・・・。あの、噎せ返るような、甘い香りは、どうだろうか。
「しかし、似合っていて当然と言えるかも知れぬ。あれは、私の誕生花だそうだ。」
ジュリアスの言に、声を失う。仕返してやったり、と言った風に、ジュリアスは片眉を上げ、紅色の唇の端を上げてみせる。
「猛毒が、か?」
思わず、喉に詰まったような声で問うてしまう。
「猛毒が、だ!」
またも、据わった瞳で吐き出すように言い、髪をらしくもなく乱雑な手つきで掻き上げた男に、私はプッ、と吹き出して、声を失って笑う。
「く、ククク・・・。カティスも、質の悪い事を。」
「何を今更!」
ジュリアスが憤る。相変わらず、感情の起伏の激しい男だ、と私は笑いながら、
「そうだな。今更だ。」
と、応ずる。
コツコツ、とノックに私達は同時に入り口を振り返る。面食らったように目を瞬いてから、オスカーが、
「ホットワインを持ってきました。」
テーブルにポットを二つ、マグを6つ並べる。私達は吸い寄せられるようにソファに戻る。
「済みません。流石に食器の正確な位置までは分からなかったので。」
例によって肩を竦めてから、男は大振りのスープマグに、ホットワインを入れて寄越す。シナモンスティックが添えてあったので、私はそれを差し、少し甘く味付けてあるソレを一口飲む。子供染みた味。普段は好むものではないはずの。
けれども、身に覚えの無いはずの味も、今日はどこか懐かしい。
「たまには良いな。こういうのも。」
と、ジュリアスがボソリと呟いた。先程の、一つ一つを解決するような問いかけを繰り返してやりたいような気持ちになるが、止めておく。聞かなくても、分かるような気がしたということもあった。
「不思議な夜ですね。」
『変わった夜ですね』の言よりは、いくらかポジティブな評が続く。
暖かなシナモンの香りに、私は笑んでから、
「ジュリアス。」
と、ワインの表面が、明かりに揺らぐのを見やりながら、口を開いた。
「あの時、カティスは、足元に咲いた日日花を見て、『楽しい思い出』として、『いつか、お前も俺を思い出せ』と言ったのだ。」
「そうか。」
「カティスはこうも言った。日日花の方が、私達に似合うと。」
「それは、些か彼奴の願望に過ぎるな。」
手厳しい評に、私は苦笑して視線を上げる。ジュリアスは、片眉を上げ、伏し目がちにして、ホットワインに口を付けていた。
「というと?」
「日日花の花言葉は、『楽しい思い出』に加えて、『友情』だ。」
澄まして続けられた言に、また笑う。今日はよく笑える日だ。それもこれも、あの男の質の悪さがいけないのだろう。
黙って姿勢正しく話を聞きながら、包帯を巻いた手でマグを取り上げ、ホットワインを啜っていたオスカーが、
「いつか、楽しく思い出せ、とは、流石ですね。」
と、ボソリと口にする。
「というと?」
私は再び同じカタチで問う。
「だってそうでしょう!『思い出せ』と言えば、皆に思い出してもらえるという、自信の持ち主なんですよ!あの人は。」
やれやれと、首を振ってから、
「そして、私達は、まんまと彼の思惑通り、こうして思い出しているという訳です!全く、どうかしてる!」
忌々しげに言う様子は、笑いを誘う。ジュリアスと私は喉を詰まらせて同時に笑った。
「それを『聖地一の自信過剰』に言われるとは、まさかカティスも思わなかったであろうな。」
目尻を拭うような仕草をしつつ、楽しげに言い加えるジュリアスに、困惑したように眉根を寄せるオスカーは、尚面白かった。
ハッハッハッハ、と私は声を上げ、膝を叩く。
「笑い過ぎだと思いますが。」
憮然とした顔でじろりとアイスブルーに睨まれ、私は深く、懐かしの部屋の空気を吸い込んでから、また声を上げて笑った。

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「珍しい花を飾っておられますね。些か香りがきついのではありませんか?観賞用としては。」
はた、と執務室にやって来た青年は、飾られた花に視線をやって、足を止める。傾げられた首に合わせ、しゃらりと薄水の髪が肩から滑り落ちる。その様子に目を細めつつ、
「戯れだ。すぐに片付ける。今日はソレを眺めていたい気分でな。」
と思わず笑んでしまってから、口元を隠す。青年は、深い青色の瞳を、笑みの形にしてから、執務机までの距離を足音をさせずに詰める。
「何か良い事でも、ありましたか?」
「そうだな。昨夜は面白い事が多くてな。」
クックック、と思い出して喉で笑う。
「それは何よりです。」
さらりと爽やかな笑顔を日の光に晒して、水の守護聖は、サインの必要な箇所と、稟議の内容をスラスラと説明する。終わってから、顔を上げ、もう一度青年は部屋の片隅の花瓶を見やった。
「けれども、昨夜の『楽しい思い出』を記憶するには、些か感傷的な花をお選びになる。」
独り言のように、花瓶に向けられた言葉に、日日花の話をまるで聞いていたようなことを言うのだな、と内心で笑う。
「猛毒があるからか?」
「そうですね。確かに注意の必要な花です。けれども、アレの花言葉は。」
頭を巡らせて、ゆっくりと彼は私に視線を戻した。組んだ両手の上に顎を乗せて、
「花言葉は?」
続きを促す。
「ご存じなくて、飾っておられるとは。『遠くから、私を想って』というのです。なかなかセンチメンタルな花でしょう?」
ふふふ、と、悪戯な少年のような顔で、書類を抱き、青年は笑った。私は、一度、ゆっくりと瞬きする。
瞼の裏に、噎せ返るような甘い香りの庭。
青年が部屋を出るのを見送ってから、思わず、額に指先を当てた。

『いいんだ。』
と、瞳を伏せて笑う、庭師のような賢者のような、年上の男。
その先に続く言葉は、一体なんだったのだろう。
『いいんだ。俺は、ただ、記憶されるだけで。』
あるいは。
『いいんだ。俺は、遠くから想われるだけで。』
控えめな主張なようでいて、それらは全く、私達の心を掴んで離す気配もない。
そしてまた、我々は凝りもせずに、あの男の話をするのだろう。
まるで、巧妙に仕掛けられた悪戯を探し出すが如くして。
嬉々として、罠に陥り、また笑うのだ。

『全くどうかしてる!』

違いない。
「お前が正しかろうな。」
私はオスカーの言に独り、甘い香りの中、同意して笑った。



終。

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