散々な彼の日と、少しばかりの救済と


コン、と上司は、ミーティングテーブルに置いた写真を右の人差し指の間接で、打った。生真面目な彼にしては珍しい、少し苛立った態度。
渋い顔で紺碧の瞳を眇め、写真に視線を落としている上司の顔を、俺はジッとみやった。
彼はフゥ、と息を吐いてから、おもむろに口を開いた。
「相手は手段を選んでおらず、映画のような諜報活動を地でいっている。なんと言っても、顔が顔だ。対象(ターゲット)は嗜好に付け込まれ、取り込まれたのだろうな。SILKらしいと言えば、らしい仕事の仕方だが。」
金の眉が、言いながら、キュ、と更に引き寄せられる。身体の関係を対象と結ぶのは、プロではない・・・それが俺達-国際警察機構付け諜報部・・・通称KAFS-の前提。上司は部下である諜報員にそういう泥仕事を平気でさせるSILK-武闘派系自由解放ネットワーク-の方針に苛立っているのだろう。
ブラックスーツでいつも通り、姿勢正しく俺に相対する上司。俺は、ゆっくりと件の写真に視線を落とす。
対象と共にカフェで微笑む、水色の髪した男。引き延ばしを繰り返した写真は、鮮明さには欠けるが、それでも分かる。控えめな笑い顔は、気弱そうな、善良な市民そのもの。
ーーーこれが、やり手の諜報員?悪夢みたいな奴だ。
と、俺は思った。
「気が進まないか?」
上司は俺相手にしばしば聞かせる、彼らしくもない、少し心配気な声音で視線を上げる。対象が同性愛者であることをおっしゃっているのだろう。そしておそらく、この仕事を俺に与えることに、この人自身が内心では反対なのだ。
確かに、こういった任務は初めてのことだった。組織の方針上、対象と身体の関係を結ぶのは御法度とは言え、際どい状況になる可能性は十分にありえるのだろうし。・・・けれど。
「・・・まさか。私だって、なんだってやるつもりですよ。ご命令さえあれば。」
俺は態と戯けるように肩を竦め、笑んでみせた。上司にプロフェッショナルと言わしめるには俺の実力も経験も及ばない。だが、自信はあった。近いうちに、そこに到達してみせる、という。つまり、俺としては、たかだか同性愛者相手の仕事に怯んでいる場合ではない。
「・・・。最近は、CAT-国内テロ対策支援本部-の活躍で我々KAFSの業績は霞む一方だからな。上も焦っているようだ。特に、SILKは、ここのところ過激な活動が目立っている。・・・わざわざ口にするまでもなく、我々は舐められている。」
上司は、らしくもないボヤキの後、常の厳しい表情を取り戻し、豪奢な金髪を更に輝かせるような緊迫した空気を纏って、言った。
「では、命ずる。対象の身柄と情報を保護せよ。」
「はい。必ず。」

----

俺に与えられたミッションは単純だ。それと気づかれずに対象に接近し、二人きりになる。そこで、俺の正体と対象に纏わり付く水色の男の正体-SILKの工作員であること-を明かし、水色の男から対象を引き離す。
ここで対象が女性だったなら、上司のいうように、映画のネタにでもなったのだろうが、対象は残念ながら男。・・・いや、女性がこういった国防の問題に巻き込まれることは、俺にとっては不幸なのだから、寧ろ幸運、と言うべきなのだろうか。
俺は例のカフェで、レンズに薄く紫に色のついた黒ぶちの眼鏡を掛け、連結ソファの一人用の席に座り、正面の窓をぼんやりと見やっているフリをしていた。対象の気を引く必要があるため、少しテカった黒シャツを、この寒空に鎖骨が見える程度にはだけ、片耳に大振りのピアス。調査資料にあった歴代の対象の恋人を見るに、水色の男よりは、俺くらい筋肉が付いている方が、好みに合うはずだった。彼の好みには、少々、俺の身長は高過ぎるかもしれないが。
窓際に設置された二人用の席に、向かい合って座る対象と水色の男を、視界の隅に入れながら、コーヒーを飲む。楽しげに談笑する二人。対象は、高学歴の技師に相応しく、洗練されているとは言わないまでも、紳士的な雰囲気。水色の男は、同性愛嗜好の男達が集まるバーでピアノ弾きをしているという設定で、対象に近づいたはずだが、彼等からそういう怪しげな雰囲気はあまり感じられない。少し年下の友人。例えば、近所に住む知人。そういった方が、「恋人同士」と言われるよりはしっくりと来る。
ただ・・・諜報員にはまるで向かない、水色の男のモデルのような顔立ちとスタイルが、少しだほついたケーブル編みのアイボリーのニット、薄い水色のショール、黒いジーンズといった平凡な格好をしていてもなお、周囲から浮いていて、人目を引いていた。
ふと、対象がテーブルの上の注文票に手を伸ばし、マフラーとコートを腕に取り、席を立つ。追うように、水色の男も席を立った。俺は、さりげなく自分もテーブルの上に置かれた注文票を手に取って、何気ない素振りで、レジに向かう。
対象の斜め後ろに立つ水色の男。その更に後ろめがけて近づく俺。まるでスパイのロンドだな、等と我ながら悠長な感想を浮かべる。
「・・・そんな、毎回では悪いですよ。ダグ、今回は私が・・・。」
「年上の男に、これくらいのささやかな華は持たせてくれていいだろう?」
小さく囁き合う声は、会計の分担のやり取りのようだ。なるほど、こういったやり取りは出来上がったばかりの恋人同士のようにも聞こえる。俺は注文票に視線を落として、そのまま水色の男に後ろからぶつかる。
「!!」
「おっと!失礼・・・。」
俺は驚いたそぶりで、水色の男と間近に視線を合わせる。身長差6センチ。データ通り。
水色の男も驚いた様子で、俺を見上げる。切れ長の深い青色の瞳が、近くでみると、儚げな雰囲気の中、奥行きを感じさせ、強烈な印象を与える。なるほど、遠目の印象以上に、至近距離で目が合った時に恋に落ちるって寸法か、と俺は舌を巻きながら、
「こちらこそ。」
と答える水色の男の、見た目に反しない優しげな声を聞く。
「大丈夫かい?」
『ダグ』と愛称で呼ばれた対象が、水色の男を気遣って振り向いてから、ムッとした表情で俺を睨む。俺は、その視線を受け止めながら、
「俺が前を見ずに歩いたもので。失礼しました。」
右手で眼鏡を取って、視線を合わせるようにほんの少し腰を折り、丁寧に詫びる。身長差7センチ。ダークブラウンの髪。灰緑色の瞳。データ通り。
「・・・ああ、いや・・・。何もなかったのなら、いいんだが。」
俺の胸元に視線を走らせてから、言い淀む男に、にこりと微笑んで、
「お連れの方に、特に怪我はなかったようです。・・・俺も、チェックをしても?」
胸ポケットに眼鏡を突っ込みながら、左手で少し注文票を上げてみせると、対象は口元を隠すように一度手を上げてから、水色の男の肩を抱くようにして、
「ああ。・・・行こう。」
と水色の男を促して、店を出る。
二人の後ろ姿にチラリと視線を走らせてから、『運命的な出会い』は出だし上々だな、と俺は内心で口笛でも吹きたい気分で、レジに立つ女性にウィンクする。
「チェックを。」

----

事前のシナリオ確認で、
「些か出来過ぎでは?」
と上司に尋ね、
「そういうものだ。」
と淡白に返されたシチュエーション。
つまり、俺はその日の夜に、今度は水色の男がピアノを弾くバーに来ていた。新たに分かった事実。俺は想像以上に男にモテる。色の無い眼鏡に変えてはいるものの、眼鏡を掛けているにも関わらず、店内に入って二時間で、既に3人目の男に声を掛けられていた。
「一人?」
「ああ。」
「隣に座っても?」
マッチョな男は、けれども女性的な仕草で俺の隣の席を指差す。俺はカウンターに背を預けて、カクンと首を落とし、小さく振る。
「すまないが、もう少し賢そうな男が好みでね。」
む、と太い眉を険しくして、マッチョは、
「フン!趣味の悪いこと!」
とプリプリして去って行く。俺は苦笑しながらソレを見送る。生理的な不快感をもっと感じるかと思ったが、意外にも俺はこの空気の中、気に入ったバーで過ごすように、リラックスしていた。
俺の背中越しに気配を控えめにしていたバーテンが、カウンター仕事をしながら、さりげなく尋ねる。
「お一人の方が良ければ、もう少し静かな席をご案内しましょうか?」
俺は、カウンターに身を預けたまま、顔だけそっちに向けて、
「いいや。こう見えて、物色中なのさ。バーゲン中って訳じゃないが。」
と笑う。それはそれは、と言いたげに小さく無言で肩を竦めてみせるバーテンに、
「テキーラサンライズを。」
と注文し、入り口に視線を戻す。やっと待ち人が・・・対象と水色の男が入店してきた。対象は昼のカフェと同じ格好。水色の男は、三揃えのライトグレーのスーツに、黒いコートを羽織っている。俺はさりげなく後ろを振り向いて、バーテンがテキーラサンライズを作る手元を見つめる。
既に同棲し始めている二人。外出時も仕事の時以外は、ほぼ二人一緒。一人になる時間は限られる。そう・・・例えば、トイレに立つ時とか。水色の男がピアノを弾く間であるとか。それも、できれば密室で、二人きりにならねばならない。俺の預かり知らぬところで、組織の仲間が俺を観察しているはずで、それと同様に、水色の男にも、仲間が居るかも知れないのだから。
もう二人ほど、男を袖にした辺りで、不意にBGMが途切れ、ホールの中央、入り口からみて少しだけ奥に設置された、グランドピアノをやっと置けるというような丸く小さな、階段一段分の高さの控えめなステージにスポットが落ちる。
水色の男は上着を脱ぎ、ベスト姿になると、対象と共に座っていたステージ脇の席から離れ、ステージに上がる。俺は演奏を近くで聞こうと席を移動する客に紛れて、ステージ脇の対象の席に近づく。
ステージ上の恋人に熱っぽい視線を送る男に、
「ここに座っても?」
と水色の男の上着の掛けられた、空いた席について尋ねるが、男はこちらに一瞥もくれずに、
「どうぞ。」
とだけ返した。こいつは手強い、と思いつつ、俺はグラスをテーブルに置いて、席に座る。
シン、と一瞬の沈黙の後、演奏が始まる。演奏は、軽やかなジャズ。音楽の善し悪し等分からなくても十分分かるくらいに、それはプロフェッショナルの演奏。繊細に、軽快に、鍵盤の上を動き回る白い指先。伏し目がちにしながら、演奏する男の佇まいは、ある種『完璧』と言える気がした。俺は『全く、どんなトレーニングをしたのだか知らないが、多才なことで。』と内心に感想を過らせる。しばし、聞き入り始める聴衆に、まさかこのまま演奏会じゃないだろうな、と内心で焦る・・・が、やがてバーらしく、ザワザワとそれまでの空気が返ってきた。俺はほっとしながら、
「もしかして・・・、今日、お会いしませんでしたか?」
と目の前の対象にやや態とらしく声を掛ける。男は、カウンターの上に頬杖を付き、恋人を見つめたまま、周囲のざわめきなど意に介さない様子で聞き入っていたが、俺の声にはっとしたように視線だけ、こちらにやる。その目が驚きに見開かれ、彼は座り直すようにして、俺の方を向いた。それで、やっと、俺はカフェの『運命的な出会い』の続きにたどり着いたことを知る。ライバルが『完璧』な恋人じゃ、それでもまだ、分が悪いのかもしれないが。
俺は、
「昼間は大変失礼を。」
といって微笑み、グラスを少し上げてみせる。男は、まだ驚きから冷めやらない、といった様子で、
「いや。・・・それにしても・・・凄い偶然だな。」
と返す。
「ええ。本当に・・・。でも残念だな。お連れの方は、恋人だったんですね。」
肩を竦めて、思わせぶりに視線をグラスから上げる。
「ふふふ。私には勿体ない恋人です。」
勘違いしたらしい男は、はにかむように惚気てみせる。俺は両手を小さく上げて、
「ごちそうさまです。ああいう、線の細い方が好みなんですか?」
と、男の勘違いを正してやる。男は、もう一度、驚きに目を見張る。俺は、よしよし、馬鹿じゃなくて助かった、と思いながら、
「せっかく二度も運命的に出会って、貴方はヘテロでもないっていうのに、あんなに素敵な恋人が居て・・・寧ろ、今日はついてない。」
駄目押しの情報出しをしてやりながら、グイ、と残りの酒を煽るように飲んで、
「飲み過ぎたかな・・・ちょっと暑いですね。」
と、視線を落としたまま、胸元のボタンをもう一つ外す。酔ったフリで瞳を潤ませてから、男に視線を戻して、ジッと俺に見入る男に、内心でほくそ笑む。
ーーーかかった!
俺は熱っぽく男を見つめてから、
「少し、暑過ぎるみたいです。顔を洗ってきます。」
と言い、席を立ってトイレに向かう。トイレに入って、安全を素早く確認してから、洗面台に向かって、顔を洗う。
ーーー来い、来い、来い・・・
念じながら、顔を洗ったり、身繕いをしたりして対象を待つ数分が、やたらと長く感じる。やがて、入り口から声がかかった。
「大丈夫かい?」
ーーー来た・・・
「ああ、済みません。紳士にご心配をお掛けして・・・。」
頼りなく笑んでから、ふらり、と身体のバランスを崩す。すかさず、対象がさっと間合いを詰めて、俺を抱きとめる。ちょっと重過ぎるだろうが、俺は密着したまま、しなだれかかって、ダークブラウンの頭髪に指先を入れる・・・と、突然、それまでの紳士的な仕草が嘘の用に、乱雑な仕草で、猛烈な口づけを受ける。
ーーー・・・おっと、思ったより随分急展開だぞ。
とは、思いながらも、今更引き下がる訳にはいかない。荒っぽいながらも、直接官能を引きずり出すような手慣れたキスを受け止めつつ、やんわりと男の肩を押し戻す。なんとか、口が自由になったタイミングで、
「・・・はっ・・・。つまみ食いくらいは、してくれるってことかな。」
少し首を傾げるが、内心では男のすっかりその気モードの視線に少々焦る。
ーーーいくらなんでも、ここじゃマズい。トイレの入り口から丸見えだ。身分証を出すには、個室に入らなければ。
『個室に・・・』と言い出す前に、もう一度口が塞がれる。俺は、口で誘うのを諦めて、口づけられつつ、服を脱がされつつ、ジリジリ個室に後退して男を誘う。乳首を探し当てられて、摘まれると、突然の事に、身体全体がビクッと反応して、流石に焦りがマックスに達する。このままトイレの床に押し倒されるのは御免だぜ!と、はっきりと胸中で心配が言葉になった瞬間、やっと後ろ手に、個室のドアを見つける。
・・・その時。
「ダグ?」
優しげな、心細げな声が、廊下からトイレに響く。その声に、対象はピタリと動きを止め、突然俺の身なりを正し始める。
内心で、俺は猛烈な舌打ちをしていた。
「君、気分は本当に大丈夫なのかい?」
紳士の風情を取り戻した男に聞かれて、
「ええ、もう本当に大丈夫です。」
と答えたところで、水色の男が、トイレに入って来た。俺達二人を交互に見やる。
「貴方は・・・昼間の・・・?」
気弱で繊細で、善良な市民の顔。ライトグレーのベストとパンツを白いウィングシャツ、濃紺のボウタイに合わせた姿は、どこぞの令息かと思うような気品すらある。
「ええ。奇遇ですね。さっき貴方の恋人とも話していたんです。」
俺は乱れた髪を掻き上げ、ポケットに片手を突っ込んで言う。
「気分がお悪いのですか・・・?」
言いながら、水色の男が俺に近づいてくる。俺が奴の立場なら、この状況をどう考える・・・?偶然ならば、単なる面倒な市民の存在。もし、敵側の送り込んだ人物の可能性が高いなら、この場で始末した方が早い?いや、違う。そうだとしても、ここで始末するのはマズい。対象が目の前に居る。不確かな状況で苦労して手に入れた情報源を失うのは惜しいはず。瞬時に判断して、
「いえ。もう大丈夫です。貴方は素敵で優しい紳士を恋人にしていらっしゃる。お二人とも、羨ましい限りです。」
何もありませんでした、と言外に言ってやり、俺は健全な笑顔を水色の男に送る。水色の男は、対象に寄り添うように近寄って、
「そんな・・・。」
と、はにかんで頬を染め、視線を落とす。これが演技だと・・・?そのつもりで見ていても、とてもそうとは思えない。
「今日は、体調が悪いようなので、もう帰ります。また、貴方の演奏を聞きにくるかもしれません。」
水色の男から、対象に視線を戻し、
「・・・貴方も、ありがとうございました。」
俺はポケットから手を出して、対象の手を両手で握る。対象は、
「あ、ああ。確かに君はもう帰った方がいいだろうな。お大事に。ところでルーシー、もう演奏は終わったのかい?」
と言いながら、踵を返して、恋人の肩を抱く。
「いえ。一曲終わったので、一度中座しました・・・。貴方の姿が見えなかったので、気になってしまって・・・。」
抱き合うようにしながらホールに向かう二人の背中を見送りながら、対象がポケットに手を入れたところを確認する。二人の声が遠ざかるのを待って、俺は脱力した。
ーーーなんだってするんだろ?オスカー。覚悟を決めろ。
お次は電話番だな・・・。俺は、最大のチャンスで最短の仕事が出来なかった不運を一瞬思ってから、頭を次の作戦に向けて切り替えた。

思ったより、長く待たせるな・・・。と俺は用意されたフラットで、テーブルの上に無造作に置いた携帯を見やりながら、日数を数える。対象に握手越しに電話番号を渡して、既に5日目。もう再び週末がやってくる。
俺の番号を書いた紙を無くした?それとも、『ルーシー』にでも見つかった?本部からの連絡は週に一度の定期連絡以外は断たれている。本部は先方を盗聴か何かして状況も把握しているのだろうが・・・。俺は焦れる気持ちを首を振って追いやる。どうせ、今日の夕方の定期連絡で情報は共有される。焦ったところでどうしようもない。
俺は、コーヒーを淹れて、時間を待ってから、定期連絡を予定している公園のベンチに向かった。
ベンチでタバコをふかしていると、頭を後ろに撫で付けた、生真面目な営業マンといった体の若い男が、隣のベンチに座り、新聞を広げる。
「『今日は身体に堪える寒さですね。雪でも降りそうだ。』」
と、俺が視線を合わせずに声を掛けると、男は新聞を広げたまま、
「『さぁ、生憎着込んでいるもので、あまり感じませんね。上司の凍てつくような視線の方が、余程身に堪えますよ。』」
と応える。定期連絡の確認。俺は、
「そいつは大変な上司をお持ちですね。」
と苦笑して適当に応じて、口を閉じる。タバコの火を携帯灰皿に押し付けて消してから、ベンチを立った。新聞越しにメモを受け取って、ポケットにそれを突っ込む。
フラットに帰って、携帯を再びテーブルの上に置き、紙を広げると、『継続。ただし、「前提」を忘れるな。』とタイプされていた。俺はそれをアッシュトレイの上で燃やす。『作戦は続行』。他に、特に新しい情報は無い・・・ということは、少なくとも本部の把握する範囲では、『ルーシー』の横槍は入らなかったということだ。それにしても、『前提を忘れるな』の念押しは、俺が寝技まで使いかねないと上司が心配でもしているのだろうか。確かに、覚悟を決めろ、とは思ったが。俺の内心等お見通しとばかりの上司の心配ぶりに、少しばかり苦笑する。
俺は安堵の後、端末でニュースを一通りチェックする。再びやることが無くなったあたりで、テーブルの上の携帯が鳴った。3回コールを数えてから、
「はい。」
出ると、
「あー。カフェとバーで会った者だが。」
と、対象の返事。俺は、
「この間は、途中だったので、是非またお会いしたくて。」
応える。盗聴されているだろう。こっちの回線もか、あるいは、男の声だけかはともかく。人気のないところに呼び出した所で、きっと『ルーシー』か、その仲間が二人きりになれないよう妨害してくる。チャンスはまた一瞬だ。ならば、俺の仲間が入りやすいところに呼び出した方が得策だ。
「・・・エンバシーホテル、603号室に、明日夜8時に来てくれないか。」
・・・が、俺が待ち合わせ場所を提案する前に、対象から場所の提示がされる。予定とは違うが、ホテルは悪くない。この電話は俺の仲間にも盗聴されている。事前に危険があれば、取り除くだろう。端末で時間をチラリと確認する。24時間後だ。十分時間はある。俺は二つ返事で応じた。
「分かりました。伺います。」
「楽しみだ。」
少しばかり興奮したような声の後、電話は唐突に切れた。俺は端末でメールをチェックし、早速送られて来た暗号化されたファイルを、手持ちのデバイスで、現在のデコード用キーを確認して開く。エンバシーホテルの見取り図だ。603号室。角部屋で、二つの出口に程近い。安全の確保はそれほど難しくはないはず。
よくよく、その見取り図を頭に焼き付けて、俺は、再びハードディスクにスクランブルを掛ける。
ーーーさて、今度こそ、チャンスをモノにしろよ、オスカー。

----

ホテルの603号室前に、8時5分過ぎに立ち、チャイムを鳴らすと、ガチリ、と内側のバーロックを外す音がして、扉が薄く開く。本人確認。対象だ。俺は、「どうも。」と声を発しようとして、グイ、と手を掴まれ、そのまま部屋に引きずり込まれそうになる。反射的にドアに手を掛けて廊下に留まろうとして、特に作戦中止の命令がないのだから、ここは組織を・・・上司を信頼し、男の誘いに乗るべきか、と思い直して、そのまま引きずり込まれる。猛烈なキスの歓迎を受けながら、しかし、今度ばかりは少々手加減しつつも、鳩尾に一発をお見舞いする。
ゲホッ、と身体を折る対象を尻目に、俺は部屋の中の安全を確認する・・・と、そこにベッドの前に佇む水色の男が居た。
「な・・・・に・・・?」
思わず間抜けな声を出すが、向こうは、善良な市民の仮面はどこへやら、一切の表情を無くし、身体を折り曲げて玄関先でダウンした男と、俺の状態を確認する一瞬の間の後、スッ、と音無く袖口からナイフを滑らせて握り、こちらに最短距離で向かってくる。流れるような動きは正確に急所を狙っている。間一髪、俺はそれを避け、連続して繰り出される攻撃になんとか応じる。銃じゃこのスピードに応じられない、ナイフだ。俺は脚力を使って狭い部屋の中、なんとか距離を取って、上着のポケットから素早く折りたたみナイフを取り出して構える。背後は壁と窓。入り口を向こうに取られてしまって分が悪い。身長差で高さがあるのがせめての利点か・・・と、脳裏で戦術を組み終わった途端、ダン、と水色の男の背後で、部屋の扉が開いて、銃を構えた数名が部屋に押し入って来た。
「そこまでだ!!」
よく響く声は、聞き慣れた上司のもの。上司ともう一人の捜査員の銃口は、ピタリ、と水色の男に向けられていた。更に部屋に入って来た数人が、入り口で伸びている対象を保護して部屋の外に連れ出す。
水色の男は、上司ともう一人の捜査員の銃口を瞳だけ動かし、ジッと深い青色の瞳で見つめた後、態とらしく両手を上げ、ナイフを床に落とした。
「その銃・・・。SILKではありませんね・・・?」
男は、ふてぶてしく長い水色の髪を掻きあげ、溜め息を吐く。『SILKではない』・・・だと?お前がSILKのはずだろうが、と俺は眉を上げる。何かが、オカシイ・・・?
俺は、銃口をピタリと構えたまま動かない上司に変わって、男の正面に立ち、
「お前がSILKなんだろう?恍けるなよ。俺達はKAFSだ。」
と応えた。
「KAFS?・・・台無しにしてくれたものですね。」
男は瞳を眇めて俺を睨む。数日前に会った時には、消え入るように現実味がなく、儚げといって良かった男の水色は、今は、氷を連想させる凍てつく色となっている。
「何・・・?」
「私は囮捜査中のCATの捜査員です。対象はあの男・・・ダグラスの上司のマルクス。上着の内ポケットに私の身分証が。照合して下さい。」
男は、こちらの捜査員に手錠を掛けられながら、不満を隠さずに言う。抵抗する様子は一切無い。それが、男の言が真だと言う事を裏付けているようだった。
捜査員が奴の上着の内ポケットから身分証を取り出し、電話を掛けて本部に確認する。ベッドに腰をかけ、照合結果を待っている間に、
「相当チープな情報網なんですね、KAFSは。」
と悪態を吐かれる。それでもまだ、これも演技なのかも知れない、と俺は警戒を解かないまま、もう善良な市民には全く見えない怜悧に過ぎる雰囲気を纏っている男を観察する。その男は、今度は完璧に、『捜査員』然としていた。だが、善良な市民のときも、『善良な市民』然としていたのだ。これが仮面じゃないとどうして分かる。俺は内心の苛立ちを、押し殺し切れずに問うた。
「CATが何故、囮操作なんて泥仕事をするんだ。身体まで張って。説明してみせろよ。」
男は隣に立つ俺に、男は嫌味に水色の片眉を跳ね上げる。『そんなことも分からないのか?』とでも言いたげな表情。そして、首を折り、は、はは・・・と、声を上げて渇いた笑い声をあげた。
「『身体を張って?』彼の通院歴を取らなかったのですか?彼は最後まではできませんよ。・・・確かに、囮操作がCATで珍しい事は認めます。テストケースですから。」
腰を折って、顔もやや下を向けたまま、薄水色の髪越しに、俺を見上げる瞳は、捜査員というより、何かもっと別の、禍々しいもののような気もした。
「全く。私が彼の『恋人』に収まるまで、どれだけの労力と金が掛かったと思います?総て台無しです。KAFSにCATはこれで大きな貸しが出来たと思えば、それも良いのかもしれませんが・・・。しかし、それも果たして役に立つ貸しとなるかどうか?」
姿勢を正し、明後日の方向に視線をやって言い退ける男。あまりの言い様に、俺自身もぶち切れそうだったが、それよりも前に、「言わせておけばッッ・・・!!」と、より年若の捜査員が掴みかかる勢いで男に詰めろうとして、上司に素早く止められる。
上司は、無言で掴みかかろうとした捜査員の腕を強く引いて止めた後、
「照合はどうだ?」
とだけ、電話中の部下に聞いた。電話中だった捜査員は、電話を切ってから、
「裏が取れました。間違いありません。その男はCATの捜査員です。」
と返す。一瞬の気まずい沈黙の後、
「手錠を外してやれ。」
と、上司が溜め息混じりに言った。手首を摩るようにして、男は自分の状態を確認すると、
「それではお疲れさまです。後ほど、この件の落とし前については、組織間で話す事になるでしょうが。」
俺は仲間の一人から男の身分証を受け取ると、
「忘れモノだ。」
と、男に投げた。パシ、と片手でソレを受け取って、
「ああ、そうそう。」
と向こうを向いたまま、首を後ろに傾けて言った。
「貴方は、『ルーシー』がどうしてこの部屋に居るのか、不思議に思ったのでしょう?」
にこり、と、今度はまるで政治家のような完璧な笑顔で、男は振り向いた。俺の返事を待たず、男は続けた。
「『ダグ』、あの男は、私が貴方と姦淫するところを見たかったのですよ。今日は『ルーシー』の誕生日ですから。」
ーーー姦淫?
言葉遣いと内容に俺が唖然としているうちに、男は部屋を出て、ドアを閉めた。
部屋に気の抜けた沈黙が満ちた後、プッ、と誰かが吹き出す声。
「笑うな!」
と俺が言うのに、却って、つられるように、数名が吹き出し、そのうち誰も彼も堪えるのを止め、大きな声で笑い出す。
「だって!奴が、ハハッ、CATで、良かったかもしれないじゃないですか!ククッッ!!」
「で、ですよ!俺達、危うく、先輩と『ルーシー』の情事をモニターするハメに!!アハッ、アハハハハッ!!」
ヒーヒー、ゲラゲラと、大声で笑う、銃を持った殺伐としたブラックスーツの集団が、詰め込まれた狭いホテルの一室。全く奇妙な空間だった。
「全く、笑い事じゃないだろうが!『猫』に良い様にあしらわれたんだぞ!!俺達は!!」
俺は、額に手をやって呻くが、残念ながら、誰の耳にも届かないらしい。・・・ただ。
「誕生日・・・?そういえば・・・。」
と、不意に上司が何かを思いついたように、白い指先を、口元にやる。その様子に、上司が何に思い至ったか気づいて、俺は盛大に慌てて、
「今、それ、思い出さなくていいですからっ!」
と大声で上司の思いつきを遮った。

----

後日。

ビシッと頭の先から靴の先まで決まったグレーのスーツは、白いチーフが、正方形に折り畳まれて、僅かに胸ポケットから覗き、上着のボタンが外れている。同じ色のベスト。タイもスーツとは色味の違ったグレー。よく磨かれた黒靴。ほっそりと薄い、ブラウンの書類鞄。水色の男は、その白っぽい印象と対照的な、長い黒髪の、同じく足の先から頭の先までビシッと決まった濃紺のスーツ、臙脂色のタイの男と共に入室してきた。おそらく、奴の上官だろう。こちらは手ぶらだ。
俺の上司は、スーツにチャコールグレーのかなり暗い色を選び、チーフとネクタイを臙脂系の色で合わせている。俺はブラックスーツでグレーのニットベスト、タイは青。よくもまあ、『地味地味しい』と言われる諜報員が4人集まって、これだけ個性的になるものだ、と俺はなんとなく思う。
組織間の位置づけの問題上、相手より先に座っても、後に座ってもならない。詰まらないルールを、律儀に互いに守って、息を合わせ、俺達四人は向かい合って同時に着席した。

「久方ぶりだな。ジュリアス。」
口火を切ったのは、上司の向かいに座った、CATの上官の黒髪の男だった。諜報員は名刺交換はしない。だが、明らかに旧知の仲、といったその様子に、俺は違和感をそのまま表現して、問うような視線を上司に投げる。
「?」
「いや、少々過去に面識があるだけだ。」
上司は特には語らず、俺の疑問を受け流すと、そのまま続けた。
「クラヴィス。今回は、互いに不運だったな。」
ピク、と水色の男と、その上官の眉が同時に小さく反応する。おそらく、態と表面に感情を出している。
「それは・・・聞き捨てなりませんね。」
水色の男が何事か言い募ろうとするのを、その上官、クラヴィスが遮る。
「ふっ、互いに・・・か?こちらはそちらとは比べ物にならない労力とリスクを掛けた計画が水の泡で、そちらより痛手は大きいと思うのだがな。」
悠々と長い足を組んで、身体をテーブルに対し、斜めに向ける『クラヴィス』。言い返そうとした俺の上司を遮るように、男は話を続ける。
「しかし、モノは考えようだ。幸い、SILKをターゲットに動いている人間が、これだけ揃った訳だ。我々は共同捜査を望んでいる。」
「共同捜査、だと?」
不快さを隠そうともせず、上司が応じる。
「そうだ。具体的には、オスカー捜査員を、我々の今後の捜査計画に貸してもらいたい。」
明後日を向いたまま、会議机に頬杖を付き、瞳だけを上司に戻し、言い放った黒髪の男に、
「何を勝手な!共同捜査ではなく、それは単なる人員の略奪ではないか。」
と上司は憤る・・・が、黒髪の男は動じた様子も無く、クッ、と喉を詰まらせて笑った。
「略奪・・・?人聞きの悪い事を言うな、ジュリアス。」
「そうでなければ何だというのだ!」
黒髪の男の余裕は、上司の激高に全く揺るがない。
「だから、共同捜査・・・だ。先程も言ったであろう?残念ながら、お前の上司・・・女王陛下は、我々の計画に賛同して下さったのだぞ?」
・・・。俺はなんとなく水色の男に視線をやる。水色の男は、姿勢正しく、礼儀正しく、けれども、口元に余裕の笑みを浮かべている。
つまり、上層部ではもう、俺や上司のあずかり知らぬところで、既に話はついているということなのだろう。
「クッ・・・!裏を取るまでは信用できぬ!」
悔しげに言う上司に、黒髪の男が胸ポケットから書面を取り出す。トントン、と書面を意味ありげに、指先で叩いてみせて、
「後で裏を取れ。でっち上げをこんなことでやるほど、我々は暇ではないが、な。」
と宣った。上司がさっとそれを取り上げて内容を確認し、クッ、とまた悔しげに喉を詰まらせてから、俺の前に置く。叩き付けなかったのは、コピーで真偽も不確かとは言え、陛下の署名が入っているからか。
俺も素早く目を通した。共同捜査の合議内容が簡単に記されており、国際警察の議長を務める我らが女王陛下のサインが記されていた。具体的には、捜査の現場の人員として、CATの捜査態勢に俺が協力する事、KAFSとの協力窓口として、俺の上司が対応することが、記述されている。一方、CATとKAFSはSILK関係のデータを共有する事も合意されている。共同捜査の期間は、現在分かっている、SILKの情報網を分断するまで。
俺が内容を確認し終わったことを見て取ったのか、黒髪の男は、再び正面を向いて、両肘をテーブルに付き、両手を顎の下で組んで、俺に視線をやった。ほとんど黒色と言っていいような瞳は、よく見ると、深い紫色を帯びていて、奥行きを感じさせる印象的な様は、どこか、水色の男の瞳を思わせた。
「オスカー捜査員。例の件で面識があるのだろう?捜査中の指示は、このリュミエール捜査員に仰ぐことになる。」
だが、言われた内容は、この不平等な共同捜査の内容で、ある程度予測できた範疇とは言え、なかなかに衝撃的ではあった。促されるように、水色の男・・・リュミエール捜査員が、口を開く。
「先日はお世話になりました。宜しくお願いしますね。オスカー。」
にっこり、と僅かに首を傾げて言う様子は、善良な市民の雰囲気を再び漂わせているが、はっきりいって、胃の腑がぞっと冷え込むばかりだ。これから、俺はコイツにこうしてファーストネームで呼ばれ、こき使われるというのか?
「・・・オスカー。」
思わず沈黙してしまっていた俺に、渋々、といった声音で上司が促す。俺は、はっきりと、溜め息を吐いてから、おそらく、上司と同じく渋い顔つきに違いない顔で、
「裏を取るまでは何とも。」
と、だけ棒読みで応えた。ふ、ははは、と愉快気に黒髪の男が笑い、それを困りものだ、とばかりに水色の男が視線で制する。黒髪の男は、水色の男に軽く手を上げ、
「いや、すまんな。だが、お互いに印象は最悪、といったところか?もう少しまともな『出会い』方を、諜報員らしく演出すべきであったのかも知れぬ、と思うと可笑しくてな・・・。」
眉根を寄せて苦笑しながら全く笑えないジョークを飛ばす。こちらが不十分な情報で行った、この間の捜査すらCATの罠だった、ということは、向こうのメリットを考えるに、流石に無いだろうが。黒髪は、落ちて来た長い髪を、片耳に掛けてから、
「我々の要件はこれまでだ。そちらから何か要望があれば、順次、出来る範囲で対応しよう。捜査開始は来月頭からだ。準備を頼んだぞ。これは私への直通だ。」
と、上司に意味ありげに笑み、胸の内ポケットから、小さなカードを取り出して、上司の前に、つい、と長く白い指先で、押しやった。上司はそれに一瞥をくれてから、
「裏を取ってから対応する。」
と、腕を組んで俺と同じく棒読みで返す。黒髪の男は、フッ、とまた小さく笑ってから、テーブルに片手をついて、席を立った。
「ゆくぞ。」
と、水色の男に声を掛ける。水色の男は、俺をまっすぐ見やったまま、黒髪の男と同じく、右手をテーブルについて席を立った。それから、足元に置いていた薄い書類鞄を取り上げて開き、中から小さな小箱を取り出して、俺の前にコトリ、と置く。
男の瞳を思わせる濃紺の包装紙に、深紅のリボンが掛けられている。
「爆弾ではありませんよ。」
クスリと笑われ、無表情になっていた自分を知る。
「彼の日の思い出に。」
とリュミエールは言い捨て、踵を返し、上司と共に去っていった。
俺と上司は座ったまま、それを見送る。
「なんだそれは。」
上司は憮然としたまま、箱を指差す。
「さあ、なんでしょう。」
言いながら、俺は小箱を手に取り、リボンを解いて包装紙を取り去る。アクセサリーの箱と思わしきソレを、更に開くと、中には俺が例の日に片耳に付けていたピアスと同じカタチのものが、メッセージカードと共に入っていた。
ーーー『ルーシー』と同じ日に生まれ落ちた貴方に L
皮肉が、細く流麗な筆跡で書かれていた。覗き込むように俺の手元を見ていた上司が、俺の顔のすぐ隣で、
「私も気づいたのだぞ。あの時お前には、はぐらかされたが。」
とボソリと呟く。いやだから・・・。
「あんな状況で思い出して頂いても、全く嬉しくありません!」
小さく叫び、俺はピアスを右手で摘み上げる。上司と二人でマジマジとソレを眺め、
「発信器付きだろうな。任務中に身につけておけ、という意味だろう。」
「でしょうね。」
嬉しくもない確認をして、俺はそれを箱に戻して、胸ポケットに仕舞う。席を立つ上司に続いて席を立つと、
「久しく共に食事を取っていない。今日の夜は空いているか?」
と振り返らぬまま聞かれる。俺は、苦笑して、
「奢りですか?」
と応じる。
「無論。しかし、奢りでなければ予定が空かないか?」
悪戯っぽく笑んで振り返る上司に、
「いいえ。いつでもお供します。」
と答えて共に部屋を出て、自分達のデスクに戻る為、エレベーターに乗り込む。
上司は、フロアを表示するランプを睨んだまま、腕を組んで無表情に口を開いた。
「クラヴィスとは、私がまだ駆け出しの頃に参加した合同研修の際に、同じチームだったのだ。彼奴は、私とカティスという名の捜査員と共に、あるミッションをこなす時、ほとんど味方である私をだまし討ちするようなやり方で、けれどもチームとしては功績を上げる事に成功した。・・・つまり、食えぬ男だ。」
食えぬ男に加え、あの演技力の凄腕捜査官ですか、と俺は、『リュミエール』の笑顔を思い出して、溜め息を吐いて、自分の髪を片手で潰し、小さく独りごちる。
「来年の誕生日を無事に迎えられるよう、祈るばかりだな。」
声が届いてしまったのか、上司はフロアランプを見つめたまま、
「クラヴィスにばかり、良い様にはさせぬ。まずは陛下のサインの裏を取る。・・・お前は、私が守る。」
俺は、隣から上司をちらりと盗み見て、こういうことをサラッと無自覚でおっしゃるから・・・と思いつつ、
「こういう誕生日の思い出も、悪くないですね。」
とだけ言って笑う。怪訝そうに俺を見上げる上司に、両手を小さく上げて見せた。