手負いの来訪者




「ジュリ、アス、様。開けて、下さい。」
こんな夜半に、一体誰が。と思いながら取ったインタフォンの向こうで、その男には到底似合わない、掠れた声がする。カメラに映る赤い髪の男は、今にも倒れそうな様子だ。
集合玄関はどうやって・・・いや、この男に限って、オートロックを破る等容易い事かと思い直しながら、慌てて応える。
「すぐに開ける。少し待て。」
ドアを開けると、黒いいつものトレンチコートの前を深く合わせて、自分の身を抱くようにしたオスカーが、
「少しだけ、休ませて・・・頂けませんか?数時間で・・・。玄関で、結構です。」
らしくもなく、安堵したような表情を覗かせて、それだけ言うと、気を失うようにして、腕の中に倒れ込んできた。すぐにオスカーの身を部屋に引き入れ、部屋の鍵をバーロックも含めてきちんと閉める。
怪我をしている・・・何故?
私が命じた、あの件だろうか。これまで、この男が私を夜半に頼ってきたことなど、まして、誰かを頼らねばならないほどに、傷ついた事など一度もない。私の腕の中で、くたりと動かないオスカーに、「オスカー!」と、声をかけると、薄青く色づいた瞳をうっすらと開け、「はい。大丈夫、です。」と応えた。
一体何がとは思いながらも、怪我の様子を確認するため、寝室にその長身を運ぶ。
ベッドにコートを脱がせて横たえさせようとして、コートを脱がしかかった手が止まる。思わず息を呑む。白いシャツに、あちこち血がにじんでいる。ジャケットは着ていないが、これも何処かで失ったと考える方が自然だ。だらしなく、カッターシャツの裾はスラックスの上に出ていた。首筋や手首等に、鬱血痕も覗いている。知らず、唇に歯を立てる。嫌な汗が背を伝い、動悸が酷くなっている気がするが、それを必死で抑えて、冷静であろうとする自分を感じていた。
「傷の状態を確認する。脱がすぞ。」
努めて冷静さを装った自分の声は、酷く低まって、まるで何かに怒っているようだった。シャツにかけた手を、オスカーが意外な程にしっかりとした力で、掴んで止める。
「浅い、傷、ばかりです。疲れている、だけですから。」
薄らと青い顔で微笑みすら見せる男に、何故か、グッ、と腸が煮えくり返るような、名状しがたい激情を覚える。
「そうか。浅いか。」
納得したように言いながら、オスカーの手を剥がし、一番血が酷く染みている、オスカーの右肩を、無造作に掴んだ。
「アッ・・・・クッッ!」
押し殺したように声が上がり、ギリ、と更に力を込めると、オスカーの身体が逃れるように震える。私が逆の立場であれば、大声を上げているに違いない。
「やはり痛むようだな。手当てする。脱がすぞ。」
努めて淡白に続けながら、私はシャツに再度手をかけたが、オスカーは痛みの余韻をやり過ごすように目をつぶっているだけだ。それを了承と取って、前を開いた。一見して、確かに浅い傷が多い。鍛え上げられた体躯に、まるで、ナイフの先を滑らしてつけたような、「傷をつけること」を目的としたような細い傷が無数に走っている。加えて、殴られたような、蹴られたような赤黒い打撲痕がいくつか。
「シャツはもう使い物にならん。ハサミを持ってくる。」
ギリ、ともう一度唇を噛み締めてから、キッチンでハサミと救急箱を取り、洗面台でフェイスタオルをぬるま湯で濡らし、大股で寝室に戻る。殺風景なモノクロの寝室に、フットライトなどの間接照明で、頼りなげにボウ、と浮かび上がるオスカーに、なんともやりきれない気持ちになる。オスカーを私の部屋に招くのは初めてではないが、寝室に入れるのは初めてだった。
まさか、それがこんな・・・自分らしからぬ、とりとめのない思考を振り切るように、救急箱をサイドテーブルに置き、シャツを切り裂く。
唯一、ガーゼ等を必要とするであろう傷は、右肩のナイフで割かれたような傷だけだ。それも、見た限りでは、筋肉の筋に沿って切られており、血は既に止まっている。右肩の傷とその周りだけを先に消毒し、ガーゼを当てて、包帯を巻く。
「左を下にして、背中を見せろ。」
オスカーは観念したように吐息を薄く、長く吐いてから、左腕を下にして、私に背を向ける。背中も胸や腹と同様に、打撲痕とナイフの浅い傷しかないことを確認して、カッターシャツだったものを取り除く。「ハッ・・・クッ・・・。」等と、オスカーの短い息が少々上がって、ますます自分の中で、どす黒い感情がとぐろを巻いていることを自覚した。
「戻っていい。傷を消毒する。」
仰向けに戻ったオスカーの、薄らと開いた瞳と、目が合う。オスカーは少し驚いたように、瞳を僅かに開き、それから、困ったように笑んだ。
「申し訳、ありません。」
これ以上、何かオスカーが口にしたら、爆発するのではないか、と思ったが、オスカーの言葉の意味が分からない。
「何を謝るッ。」
冷静にと思っているのに、激高したように、私は言った。
「ドジを、踏んで・・・・。お怒りでしょう。」
ますます困ったように、オスカーは眉根を寄せ、だが、その表情(かお)は、笑んだままだ。『怒り』?この名状しがたい、どす黒い感情が、怒りだと?ぐ、と眉間に力がかかるのを感じながら、私は、オスカーらしからぬ頼りなげな瞳から視線を逸らす。
「違う。怒ってなどいない。」
感情を押し殺すのは得意なつもりでいた自分に、腹が立って、それでもこの感情を飼いならせないままに、私はサイトテーブルにつけていた読書用の椅子をオスカーの前に移動する。ぬるま湯で濡らしたタオルで身体を大雑把に拭ってから、ピンセットで、脱脂綿にオキシドールを含ませ、努めて事務的に、オスカーの傷の上に少しずつ当てる。鎖骨から胸へ、胸から、臀部へ。何かを耐えるように、手を止めないように、無心になるよう、最新の注意を払いながら作業する。同じように、背中側の傷も処置して、脱脂綿の残骸をテーブルの上からゴミ箱に移し、ピンセットを置く。もう一度オスカーを仰向けにしてから、ふと、スラックスに違和感を覚える。ベルトを、していない。そういえば、いつもオスカーは好んでサスペンダーを身につけていたと思い至る。ではサスペンダーは・・・?
「スラックスを脱げ。」
私はこんな低い声も出せたのかと思うような、この上なく低い声に、自らも多少の驚きを覚えるが、それ以上に、オスカーの肩がビクリ、と震えた。オスカーに視線を合わせる。驚いた表情を浮かべ、オスカーの表情が固まっている。聞き違いだとでも思ったのだろうか。
「スラックスを脱げ。」
同じ調子で繰り返す。
「ジュ、ジュリ、アス様・・・。」
喉を潤すように、唇を濡らしながら、なんとか私の名を呼ぶオスカーに、それでも私は繰り返した。
「聞こえなかったのか。シャツと同じように割いても良いのだぞ。」
私の無茶には、いつでも、観念したように従うオスカーが、まだ従わないということにか、それとも、相変わらずどす黒く身の内を渦巻く、今にも外に飛び出しそうな感情にか、私ははっきりと自分が苛立っている事を自覚する。だが、私の声音は、かえって冷静な時のそれだった。
動こうとしないオスカーの瞳をもう一度一瞥して、私はハサミを手に取った。
「シャワーッを・・・。シャワーを、浴びさせて下さい。お願いですからッ。」
ハサミを持つてをやんわりと左手で掴み、ほとんど悲痛な声音で言うオスカーに、
「必要ない。」
同じ調子で返して、私はスラックスを切り裂く。本気で抵抗すれば、手負いといえど、オスカーが私を振り払うことなど容易い。オスカーの様子は、そうせねばならない状況に陥っているという事を十分に感じさせた。にも関わらず、抵抗しないのは、相手が私だからだということは、よくよく理解していた。よく理解した上で、オスカーの意志を無視する私は、どれだけ傍若無人であることか。だが、そんなことに構っている余裕は、はっきり言って、今の私にはなかった。
手早くスラックスを切り裂き、それを取り去る。
上半身と同じように傷ついている脹ら脛、腿。これを隠す為に、オスカーが先ほどのような抵抗を見せたとは考えにくい。紫色のブリーフに目をやり、ハサミを当てると、
「ッッ!」
声なく、オスカーの手が、私の手を再度止める。手を掴まれたまま、刃先を滑らせて、ブリーフの端を断ち切る。それも取り去ろうとして、途中で手が止まった。
ダンッッッ!!
凄まじい音を立てて、ハサミがサイドテーブルに叩き付けられる。一瞬遅れて、自分が叩き付けたのだと気づいた。限界だった。
「誰だッッ!!」
「お願い、です。シャワー・・・を。」
私の剣幕に、冷静さを取り戻したようなオスカーが、仕方なさそうな声で言い、身体を起こそうとする。
「勝手は許さぬッッッ!!!誰だと聞いているッッ!!」
バンッッ!と今度は掌をテーブルに叩き付け、ギッ、と瞳を睨む私に、
「顔は、分かりません。チャンバラと。殴り合いなら、得意なので。俺が、まさかこういう、襲われ方をするとは思わず。少々、油断しました。なんでも、ありませんから。」
バチッッ!と、脳内で何かがショートするような衝撃が走った。
なんとか言い終えたオスカーは、ハッ、と浅く息を吐いて、身体に入れた力を抜く。
「タオルを取ってくる。動くな。」
私はますます低くなる声で告げて、脱衣所に再びタオルを取りに戻る。目につくところにあった、ありったけのタオルを引っ掴み、そのうち数本をまたぬるま湯で濡らして、洗面所にそれを叩き付けた。
「〜〜〜〜ッッッッ!!!!」
声にならなかった。何が、何故。どうして。誰が。誰が。誰がッッ!!!
問いの合間に、腰にこびり付いて渇いた精液やベットリと股間に張り付いたブリーフの残像が脳裏にフラッシュして、それを追いやろうと、無闇にタオルを洗面台に叩き付ける。
自分の取り乱しぶりに、突然、嗤いが込み上げてきて、フッ、とふと笑ってから、喉で笑った。
だとしたら、一体、私は、今まで何の為に・・・。
そこまで考えてから、自分の胸中を過った自分の考えのおぞましさに、我が事ながら、小さく身が震えた。
だとしたら、一体、私は、何の為に・・・?
だが、それをいつものように拒否するには、あまりに私は自制心を失っていた。
寝室に戻り、自分でやりますから、と言い出すオスカーを静止し、上半身と同じように下半身を処置する。終わってすぐに、股間に張り付いているブリーフを無理矢理取り去り、タオルでそこをゴシゴシと、ある程度力を入れ、だがこれ以上ないくらいに丁寧に、何度も拭った。居たたまれないといったように、目を瞑ったまま、顔色を無くしてオスカーが恥辱に耐えていることは分かったが、気遣う余裕は無い。
「オスカー、後ろを向けろ。」
ギクリ、と再び震えるオスカーを無視して、私はオスカーの左腰を軸にして、寝返りを打つ要領で、背中を向けさせる。想像した通りの惨状がそこにあった。辛うじて切れてはいないが、赤く腫れた菊座に、ベットリと周囲に付いた精液。周囲を些か乱暴に拭き取ってから、キッチンからオリーブオイルを取り、再び戻る。
「痛むぞ」
と声をかけて、躊躇せずにオイルで濡らした指を入れる。まさかそこまでするとは思わなかった、とでも言うように、
「じゅ、ジュリ、アス、様・・・。」
焦ったような声が上がる。構わず、もう一本入れて、広げると、どろり、と案の定精液が漏れ出てきた。刺激しないように注意して、内部からソレをかき出すようにする。
「ア、アァ・・・・フッ・・・・クッ・・・。」
そんな声を聞かせたというのか、はっきりとした憤怒が、私の腹の底で滾る。背骨が震えるのを視界から追い出すように、必死で指を動かし、オリーブオイルを足しては、繰り返し掻き出す。奥と、別の箇所で、オスカーの背骨が一際震え、声が漏れたことに気づきながらも、まずは一滴残らずソレをかき出す事に集中して、作業を続け、気が済んでから、
「全て出した。」
宣言すると、汚れた指をタオルで拭いて、再び脱脂綿にオキシドールを含ませ、入り口を消毒する。作業の最中、オスカーはシーツを握りしめ、身を竦ませるようにしていたが、終わったと気づくと、「ハァ・・・ァァァ」と深く息を吐き出し、力を抜く。
周囲の汚れた布類をすべてランドリーやゴミ箱に片付け、オスカーに手早く私のブリーフと寝間着を着付ける。だらりと脱力し、借りてきたネコのようにおとなしくしているオスカーに、顔と髪も、一本だけ残っていた新しい濡れタオルで拭ってやる。
「今日はこのベッドを使え。もう休め。明日は土休日か。」
やるせない溜め息を吐き出しながら、聞いた。
「はい。申し訳、ありませ・・・。」
「謝るな。確かに、お前が言うように、私は怒っているようだ。だが、断じてお前にではない。」
明日がオスカーの出勤日でないことに、安堵しながら、私はオスカーを寝台の中央にそっと移動させる。布団をかけてやり、ベッドに腰を付いて、オスカーの前髪をそっと掻きあげる。
「は・・・い。」
苦痛と羞恥にか、ずっと寄っていた眉根がそっと解かれ、すっかりあどけなくなった男の表情を確認して。もう一度、深い溜め息をついた。
ベッドから降り、寝室のライトを消してリビングに戻る。

リビングにある自分のオフィスデスクに深く腰掛け、何度か、意味も無く指先でデスクを叩く。持て余している感情の波に、全く眠る気になれない事に気づいてから、私は仕事の続きに戻った。


思いがけず、朝日が差し込んでくる時間をそのまま向かえて、私は眉間を右手の指先で強く揉み込む。時間を確認すると、既に6時が近い。次の役員会議のために準備し始めた2本の資料は既に仕上がり、手持ち無沙汰でそのまま、人事考課の書類に手をつけ始め、それも中程まで仕上げていた。役員会議資料の数字の根拠をもう一度チェックしようかと考えてから、自分が大分落ち着きを取り戻していることに気づく。
様子を見に行きたいが、起こしてしまいたくはない・・・
数秒逡巡してから、誘惑に勝てず、私はOAチェアから腰を上げる。コーヒーを入れる為に、コーヒーサーバをセットしてから、寝室に向かった。

足音を潜めながら、寝台に近づき、オスカーの側に腰を下ろす。誘われるように、オスカーの前髪を、昨日のように掻きあげてやると、「ん・・・。」と小さく声が漏れ、むずがるように、顔が背けられた。いつもはキッチリと固めている頭髪が、さらさらと顔にかかる。思ったよりも、ずっと顔色はよかった。
幼げで、無防備なその様子に、思わず頬に手が伸びて、無自覚に、ゆっくりとこちらを向かせる。
吸い寄せられるようにして、下唇をゆっくりと食む。
「んん・・・。」
掠れた声に、耐えきれずに、そのまま上唇を食み、歯列をなぞるように、ゆっくりと舌を入れる。受入れるように、口が緩く開き、舌が絡められる。少しの驚きと、奇妙に冷静になる頭と、下半身に確実に溜まり始めた熱を意識しながら、ゆるり、ゆるりと、確かめるように舌を絡げる。こちらの動きに呼応するように、吸い付いてくる舌と唇に、ますます口づけが深くなっていく。
「ッハッ・・・・んん・・・フッ・・・ぅ・・・。」
角度を変える度に、甘い吐息が漏れる。シーツの上を泳ぐ左手を、右手で、上から押さえつけるようにして、左手を顎に沿え、目を伏せることも忘れて貪っていると、じわり、と瞼が開き、薄青い、焦点を失った瞳が睫毛の隙間から覗く。視線を合わせ、更に深く、唇を合わせようと角度を変えようとして、オスカーが瞳を見開く。
「ナッ・・・じゅッッ!・・・ふ・・・・んん!!」
急に抵抗するように、右手が私の胸を押し返す。はっきりとした拒絶に、私は、昨日の感情が一気に再び押し寄せてきて、急に視野が狭まっていく気がした。
なぜだ、オスカー・・・。
何を思う間もなく、私は無理矢理に、私の胸に押し当てられた右手に左手を絡め、体重をかけて、シーツに縫い止める。
「あ・・・。」
絡んだ視線に、オスカーが一瞬、怯んだような声を漏らし、ビクリ、と肩を揺らして固まる。
「なんでも、ないのだろう?」
耳に吹き込めば、何事か言いかけたオスカーが、息を呑むようにして、腰を揺らめかせる。耳が弱いのかと、ゆるゆると耳殻の形を舌先で辿る。ふるふると身体を震わせてから、頭を緩く振ると、
「やめて、下さい。ジュリアス様。」
はっきりとした制止の意図をもった声音で、オスカーが言う。私は布団を剥いで、左手で緩く下肢を握った。
「反応が早いな。朝だからか。」
続けて、耳に吹き込みながら、指先で形を辿るようにすると、既に立ち上がりかかっていたそれは、明確に、反応した。耐えられない、というように、自由になったオスカーの右手が、また私の胸を押しやろうとする。緩やかな抵抗。
「こん・・・な・・・。そんなに、怒っていらっしゃるのですか。」
こんなに弱々しいオスカーは見た事が無い、という程に、頼りなげに、オスカーの眉根は寄って、私に縋るような、けれど、どこか批判するような瞳で見上げている。丹田の底から、また、名の付けられぬ熱いものが込み上げて、私の自我を呑み込んでいく。
怒っている?私が?オスカーに?それはないと昨日告げたはずだと思いながら、
「どこの誰とも知れぬものには触らせて、私には許さぬというのか。」
オスカーのガラス細工のような瞳を見下ろして、自分の唇から漏れた台詞は思いもかけないものだった。普段勝ち気な瞳が、何かを畏れるように、見開かれる。
「ちが、・・・違います。」
ごく、と瞳を見開いたまま、オスカーは唾を飲み込んで、はっきりと言う。
「そうか。ならば抵抗するな。」
私の胸を押しやっていたオスカーの手が、ずるり、とベッドに落ち、今度はシーツを握りしめる。その様子を視界の端に収め、私はいよいよオスカーの腰の上に乗り上げ、本格的に唇を吸う。先ほどまでとは違い、オスカーの舌は絡んでこない。先ほどは、誰かと勘違いをしていたのだな、と思い至り、嗜虐心がはっきりと芽生えるのを感じた。
「ンンっ!はっっ・・・ア、アァ・・・。」
舌を包み込むように絡げ、緩く、強く吸えば、甘い息が上がる。快楽を、与える事にも、与えられている事にも慣れているだろうオスカーを、快楽で屈服させる事は容易いだろうか。それとも難しいだろうか。下肢を焼くような甘い声に、愚にもつかない考えがふと過り、過ったことを戒めるように、オスカーの舌に緩く歯を当てる。クチュ、ペチャ、と大量に流し込んだ唾液が、オスカーの顎を濡らして、音を立てた。ふと顔を上げ、早くも焦点を失ったように潤んでいる瞳や、唾液に光って腫れる唇を眺める。
「・・・・あ・・・・あ・・・・。」
突然解放された唇や舌が、僅かに私を求めるように震える。その様子に、僅かに満足する。余程、不謹慎な顔でもしたのか、オスカーが、ビクリ、と身体を竦ませた。
「こんな、事をして。傷つくのは、ジュリアス様です。です、から・・・んん!・・・。」
抵抗はしないと言いながら、まだ私を制止しようとするオスカーの口を塞ぎ、言葉を吸い取ってから、ボタンを引きちぎるようにして、前を開き、耳、首筋、鎖骨へと、次々に吸い付いて、容赦せずに、赤い痕を残す。諦めたように荒い息を吐くオスカーに、私はやがて、嬌声を上げさせることだけを考えて。体中を吸う。忌々しいナイフの痕に交じって、私の付けた鬱血痕が残り、まるで何かの植物の入れ墨でも入れているかのような模様を為していく。
「ああ、オスカー、何故だ。」
問うたものの、私自身も何を問いたいのか判然としない。
オスカーの身体を眺めながら、人差し指の先で、オスカーの頬、顎、鎖骨、肋骨をゆっくりと撫でる。ふる、と震えるオスカーは、私の瞳を、潤んだ瞳で、けれどもしっかりと見ている。
小さく立ち上がっている乳首を、指先でくるりとなぞってから、きゅ、と親指も使って挟み込む。
「んう!」
びくん、と些か大袈裟に飛び跳ねる身体に、それを戒めるように、唇を近づけ、吸い、軽く歯を立てる。
「ああ!止めっ・・・・ッッ!」
びく、びく、と反応する様は、まるで少し痛い方が好きなのだと主張するようで、私は思わず、何度も甘噛みする。確認するように下肢に再び手をやると、ぎっちりと立ち上がって、熱い。乳首を解放してやり、パジャマのズボンを一気に脱がせる。白いブリーフには、先走りが染みをつくっている。レースカーテンから寝室に差し込む朝日の爽やかさで、その卑猥さが際立つようだった。
「もう、濡れている。」
耳元で吹き込むと、ブルブルと耐えるように震えながら、
「耳は、やめて、くださックゥッ。」
制止の声がかかり、思わずそのまま舌を耳の中に押し込む。「ああ、あ・・・あ・・・。」自失したような声が、どこまで高ぶるのか分からない私を更に追いつめる。逃げるように背けた顔は、だが、かえって耳を無防備にさせ、私はそのまま、耳を嬲りながら、左手でオスカーの中心をブリーフの上からぞろり、ぞろりと形を確かめるように撫で上げた。
「ンァ・・・ァッフ・・・。」
はっきりとした嬌声が上がり始め、それはやがてひっきりなしになる。ぐちゅ、ぐちゅ、と先走りがブリーフを湿らせ、私の掌の中で水音を立てる。このままブリーフの上からの刺激で果てさせたいという気持ちは、程なく直接触りたいという欲望に負け、私はブリーフの中に性急に手を入れる。きゅ、と根元を掴むと、びくん、と身体全体が震えて応える。気を良くしながら、先走りを絡めて全体を擦り、親指の先で、先を緩く何度かなぞって、腰が持ち上がった頃合いに、繊細な鈴口を無遠慮に抉った。
「アアッッ!!ーーーーアッハッ・・・・ァ・・・・。」
ブシュ、と小さな破裂音と共に、勢いよくオスカーが爆ぜる。左手を濡れそぼらせたそれに、舌を這わせて簡単に処理する。こっちを見てはいるものの、果たして私を捕らえているのか分からない瞳と、舌で味わう独特の苦みに、何故か奇妙な優越感が生まれ、下肢に溜まった熱が滾る。ぞく、と何をされた訳でもないのに、背骨が痺れるようだった。
オスカーが息を整える間に、私は自分の服を全て脱ぎ、オスカーが唯一身につけている汚れた下着を取り去る。オスカーの両足の間に自分の身を滑り込ませる。
「嘘、でしょう。」
オスカーの意味の分からぬ問いかけに応えず、私はオスカーの右足を高く持ち上げる。さらけ出させた秘所に、オスカーの吐き出したものを、右手の指先にたっぷりと絡め取り、つぷ、と人差し指を入れる。
「嘘、だ・・・。あ・・・あ・・・。」
ずる、とぬめりを借りて、これ以上は入らないというところまで入れると、ぐるり、と掌を上に向けるように、中で指を回転させる。ずる、と今度はその指を引き出しながら、昨日気づかない振りをしていた箇所を、探し当てて、ゆっくりと押し込む。
「アァッ!!」
高い声が上がり、中がもっとと強請るように収縮する。続けて中指を入れ、その痼りを挟み込むようにして、緩く上下させる。
「アアァ、ハッァ!!」
きゅうきゅうと締め付ける感触を味わいながら、挟み込んだままに擦ってやれば、じわ、と潤んだ瞳からとうとう涙が一筋、こぼれ落ちる。ずく、と胸が痛み、同時に、自分の下肢が畝るように反応する。オスカーの中心が、再び、頭を持ち上げるのと、快楽に自失したような表情を視界に捕らえたまま、強く一度、そこをひっかくようにしてやると、声を上げずに、ガクガクと身体が飛び跳ねた。
もっと解してからと思ったが、これ以上持ちそうにない自分に耐えかねて、私はシーツを頼りなく掻いていたオスカーの両手を、自分の両手で上から押さえ込んで、体重をかけて、切っ先をそこに当てる。オスカーの腰が一瞬逃げかかるが、それを許さず、欲望のままに、それをずるぅ、と一気に根元まで入れ込んだ。
がくん、がくん、とオスカーの身体が再び揺れ、喰いちぎられるのではないか、と思う程に私を締め付ける。
「クッ・・・ウッ・・・・。」
私は必死に姿勢を維持し、吐精感をやり過ごした。
ぎちぎちに立ち上がったオスカーの中心は、ぽたり、ぽたりと、先走りを自らの腹筋に垂れ流している。
涙に塗れ、焦点を失っている瞳を見つめて、
「オスカー。私を、見ろ。」
命じると、何かを探すような頼りなげな様子で、瞳が泳いで、私の瞳を見つける。ジン、とそれだけで中に居る自分が一層熱くなる。
「ハッ・・・クッ・・・。」
ギチギチの圧迫感を、再確認するようにオスカーが熱い息を吐き、ソレに合わせて、中がぐる、と大きくうねった。
「く・・・。お前の、中に、いる。」
もう一度やり過ごして、私は右手を入り口にやり、伸び切った入り口の襞を、そろそろとなぞる。カァ、とオスカーの頬がらしくもなく紅潮し、視線が再び焦点を失う様をみて、私は堪えきれずに大きく腰をグラインドさせる。
「アフッ!・・・アアッ!!!ンンっ!!アフッ、・・・ひ・・・ぅっ!!」
一度動いてしまうと、止められなかった。絡み付いてくるような中の収縮に合わせ、大きく何度も腰をぶつける。グチュ、グチャ、クチッ、と水音がなり、オスカーの嬌声がそれに被るように上がり続ける。
やがて迫り来る快楽に自我を失って腰を振りたくると、脳が焼けるような感覚に包まれ、絶頂を向かえる。グワ、と競り上がってきたものが、オスカーの中で、どく、どく、どく、と凶暴に収縮して熱を吐き出す。
「ああ、あ、ああ・・・。」
タラタラと涙と涎を垂らしながら、オスカーは喘いで自身も絶頂を迎えた。ずるり、と私がオスカーの中から自らを取り出すと、くたり、と力を失って、シーツに沈んだ。

力なく、ふ、ふ、ふ、と息だけを整えるオスカーの肩に手をやると、びくり、とオスカーの身体が竦んだ。ぞく、とまた自分の中で何かが熱を持つのを感じたが、それを振り払うように私は頭を振る。汗ばんだ顔に、髪が張り付くのが気持ちが悪い。
「オスカー。シャワーを。連れて行くから、じっとしていろ。」
「自分で、行きます。」
いいから、と制止して、流石に両手でひょいと抱えるというわけにはいかず、肩で支えるようにして、オスカーをシャワルームへと半ば引きずる。バスタブにオスカーを座らせ、シャワーコックを捻る。ざあ、と上から勢い良く降り注ぐぬるま湯に、オスカーは髪を両手で掻きあげ、オールバックにして、少しよろけながら、だが自分で立ち上がる。私もタブに入って、シャワーノズルを取ると、オスカーの頭や肩、背や腹についた粘液をざっと洗い流す。髪を湯で洗ってやり、浴室に充満する蒸気と電球色の中で艶かしく浮かび上がるその裸体に掌を這わせながら、一通り洗い流すと、オスカーの身体を引き寄せ、双丘を二本の指先で割る。一瞬抵抗するように力を入れるが、「力を抜け」と耳元で囁くように私が言うと、おとなしく力を抜いた。どろり、と中から私のものが流れ出すのを、小さな声を上げながら、私の肩に両手を当てて、耐えるように震える。
再び私のものが持ち上がっている。それは間違いなくオスカーの視界の真ん中を占めているのであろうが、私は少しの羞恥を、無視して中を掻き出す作業に専念する。一通り、掻き出し終えて、自分の髪と身体も大雑把に洗い流し終えようとしたところで。不意に、
「ふ、フフッ・・・。」
オスカーが笑い声を漏らす。
「何がおかしい。」
私は片眉を上げて、俯くオスカーの顔を覗き込む。
「いえ。ジュリアス様と、こうしてシャワールームに居るのが、なんだか・・・。」
とそこまで言ってから、また忍ぶような笑い声を上げた。ふと張りつめた気持ちが、ゆるりと緩んで行くのを感じ、私も思わず笑む。
「そうだな。」
小さく返してから、オスカーに背を向けて、シャワーノズルを壁に戻し、シャワーコックをキュ、と捻って湯を止める。振り返ろうとしたところで、ぴた、とオスカーが私に後ろから突然、だが、そっと抱きついてきた。思いがけない行動に、びく、と思わず身体が硬直する。するり、とオスカーの左腕が下がり、私の収まりかかっていた高ぶりが掴まる。オスカーの節くれ立って長い指が、私の物に絡む様子をしっかりと見てしまうと、その画に反応してか、ぐん、とまた熱が籠る。
「俺も声には自信があるのですが。」
私の右肩に、オスカーの細い顎が乗り、耳元で妖艶な声が呟く。
「ジュリアス様には、叶いませんね。」
吐息が耳裏に当たり、ピク、と自身が反応する。
「誘っているのか?」
少し日焼けしたオスカーの左手を、ゆっくりと引きはがし、身体ごと振り返って、私は間近に迫ったオスカーの顔を、首を少し傾げるようにして見上げた。
オスカーは困ったように笑んでから、両手を小さく上げて、
「いえ。」
と呟くと、私の顔の両脇の壁に手をついて、濡れた髪に、表情を隠すようにして、俯いてしまう。
「私は、気持ちいいことが、好きです。」
突然の告白に、ドキリ、と心臓が跳ねた。
「ですが、ジュリアス様が求めているものは違うでしょう。」
右手でもう一度、前髪を掻きあげて、今度は、しっかりと私の目を見た。眉根は少し寄ったまま、首が問うように、傾げられる。私の身長が、もう少し高ければ、私は何も考えずに、その顔に口づけていたかもしれない。
「構わぬ。」
何を考えるまでもなく、答えが口から先に、だが、きっぱりとした調子で出ていった。オスカーの眉根が切なげに更に寄って、ポリポリと、人差し指が、自身の頬を掻く。
「それでも、駄目なのか。」
自分が無表情になってしまっていることを、自覚しながら、更に問う。
「正直に言って、困っています。」
視線は絡んだまま、急速に内腑がぞっと冷え込んだような感覚に襲われる。胸が締め付けられ、唇が、力なく戦慄いて、
「お前を困らせるのは、本意では、な・・・ぃ。」
最後まで目を見ていられず、視線が下に落ちる。ツン、と鼻の奥が詰まったような感じに、慌てて唇を噛み締める。完璧な身体は、今は、どこの誰か分からぬものと、私自身の横暴によって、傷ついている。
そうだ。私の横暴によって。
ぽた、ぽた、とどこかで水滴の垂れる音がする。私の瞳からでないことを祈った。・・・いや、違うはずだ。目の前の彼の像が、これだけ鮮明に私に見えているのだから。
ちゅ、と柔らかい感覚が、私の髪の生え際に落ちて、オスカーの顔が遠のく感覚に、それが彼の唇だったことを知る。
「私もです。私も、ジュリアス様を困らせるのは、本意ではありません。」
一息に言われ、今度こそ、目の前の彼の像が歪み、
はら、り
と、左目から一粒、留まり損ねた涙がこぼれ落ちた。涙を流して、気が済んだのか、幸いな事に、それ以上涙は溢れては来ない。
追いつめられているのは、私の方なのに、何故かオスカーは切羽詰まったような、切なげな瞳で私を見る。何事も返せない私に、今度は私の耳に、唇を落として、
「風邪を引いてしまいます。さぁ、でましょう。」
といい、私に促した。

すっかり煮詰まってしまったコーヒーの苦みは、私の現在の心境そのものか。
自嘲しながら、もう一度セットしなおす。私の出したバスローブを羽織り、頭髪を拭きふき、リビングにオスカーが戻ってくる。バスから出てすぐは、よろよろと頼りなかった足取りは、歩き方のコツを覚えたのか、いつもよりストライドが小さめではあるが、覚束ないという印象は無い。ローブの襟から覗く肌は、赤みや青みや傷が覗いているというのに、何故か、その立ち姿は一分の隙もないように見える。無造作に頭の水分を拭き取り、乱れた頭髪が、伏し目がちにしたその薄い色の瞳を気まぐれに隠したりする様まで。
それは、昨夜や、今朝の乱れた彼や、何より、私の掌の下で、無防備な寝顔を晒していた彼が、まるで私の単なる妄想の産物だったのではないかと思える程に。
「今、コーヒーを入れている。少し待て。」
「すみません。ありがとうございます。」
バスを出てから、オスカーにタオルを与えたり、バスローブを与えたりしているうちに、すっかり私とオスカーの間にある空気は、二人で夕食を共にした後のタクシーの中や、私の役員室で二人で仕事の話をしている時と同じような状態へと、自然と回復した。その事に8割がたホッとして、残りの2割で惜しんでいる。
昨夜から、色々なことがありすぎて、感情の振り幅が大きすぎて、私は自分の内心を推定する事が難しくなっている事に気づいた。
悔しい。愛らしい。
悲しい。腹立たしい。愛しい。
嬉しい。誇らしい。痛々しい。
・・・憎らしい。
そのどれもが、これまで感じたことのあるレベルを遥かに凌駕したものであったような気がする。座ろうとせずに立ったままこちらをみやっているオスカーに気づき、カウチを指で示すと、バスタオルを畳んで背もたれにかけてから、オスカーは「失礼します」といって、カウチに深く、リラックスした様子で腰掛けた。
「私とは・・・。」
何気なく話しかけようとして、必要以上に腹筋を使って声をだしてしまったことに気づき、コホン、と小さく咳を払い、
「私とは、気持ちが良かったという事か。」
と聞いた。何も考えずに口から飛び出したとは言え、明け透けに過ぎる。気づいたところで、今更遅い。オスカーが少し驚いたように、私に視線を当ててくることに気づきながら、私は、ゴポポ、と音を立てるコーヒーメーカーを、キッチンのパネルに両腕を着いた姿勢で凝視した。居たたまれなくなって、唇を結んだまま、カウンター越しに視線を上げ、オスカーを見やると、パチ、パチ、と殊更にゆっくりとオスカーの瞼が開閉した。それから、ふっ、クク、と肩を少し寄せて小さく笑い、
「ジュリアス様は、どんな時でも率直でいらっしゃいますね。」
と、楽しそうに笑んで、言う。人の悪い言い方だが、オスカーの笑顔は、爽やかな時のそれで、私は思わず、まじまじと、と魅入ってしまう。
「そう・・・。そうですね。それはもう、大変に。」
爽やかな笑顔のまま、彼は言って、少し首を傾げる。
オスカーの台詞の、都合のいいところに、自分の都合の良い解釈を、悪戯に押し付けただけだったかもしれないと後悔し始めていたところに、にこやかに良い返事をもらい、内心で歓喜の声を上げる。
「そう、か。それは良かった。・・・だが、気持ちよいことが好きであるなら、何故、始めは抵抗したのだ。」
必死に制止しようとしたオスカーの声音を思い出すうちに、また、胸が詰まってくる。
「気持ちよく、なってしまいそうな気がしたので。」
淡々と続けるようなオスカーの声に、私は知らずコーヒーメーカーに戻っていた視線をオスカーに戻す。納得しかねる、という私の表情は、彼に取っては読むのは容易かったはずだが、オスカーはその疑問に応えずに、続けた。
「私からも、一つ質問が。」
私は、出来上がりの近いコーヒーを、カップとソーサーを用意して、注ぎながら、
「なんだ。」
と応えた。
「ジュリアス様が俺に感じて下さっている感情は、恋愛感情ですか?」
カチャン!!と、オスカーのコーヒーソーサーに沿えようとしたスプーンが音を立てて、ソーサーに落下した。今日は、コーヒーを入れるにも何かと苦労する日だな、と思いながら、スプーンを定位置にセットして、私は二つのソーサーをそれぞれ両手で持ち、リビングに移動する。
「そうだ。・・・と言ったら?」
観念して、オスカーの前に淹れ立てのコーヒーを置く。コーヒーは、内心の動悸に反して、静かにテーブルに乗った。自分の分も置いてから、オスカーの隣に腰を下ろして、オスカーの瞳を見つめた。オスカーも、まるで私の本心を覗くように、じっと、私の瞳を見返していた。部屋に差し込む朝日に透ける、その小さく引き絞られた瞳孔を見ているうちに、何か、諦めたような、不思議な落ち着きが、私の胸に満ちた。
前に向き直り、カップを摘み、一口を味わう。コーヒーメーカーで手を抜いて淹れたものだが、それなりに飲める味だ。
「昨夜、お前の惨状を目の当たりにした時。お前をこのような状況にした者が許せないと憤り、そのような状況にお前を追いやった自分を呪った。・・・より正確に言うなら、昨夜の自分を振り返るに、そのような気持ちだったのだろうと思う。それくらい、私は動揺し、自失していた。今まで、自分が積み上げてきたものが、全て無駄になったような、気がしたのだ。」
語りながら、自分でも名前を付けかねていた感情の波に、ゆっくりと名前が付いていく。
「今朝には、落ち着いたと思って、お前の眠る寝室を訪れたが、違った。無防備なお前を見て、名状しがたい欲求に囚われ、結局、またも自失した。いや・・・問題をはっきりさせよう。・・・私はお前に欲情した。抵抗するお前には、腹が立った。私はずっと、この奇妙な欲求をやり過ごす事に、これまで耐えてきたのに。お前は、誰か分からぬ者に襲われて、それを『なんでもないことだ』という。それが、なんでもないことならば、それを我慢してきた私はなんなのだ。なぜその男はなんでもないのに、私は許されないのだと、腹が立ったのだ。・・・お前とて、襲われたくて襲われたわけでない事等、傷の手当てをして分かっていたし、それが何でも無い等というのが強がりだと言うことは分かっていたが。そんなに、そんなに。私が・・・嫌なの、か・・・と。」
オスカーの瞳に気持ちを和らげてもらったことで、一気に自分の気持ちに片を付けられるかと思ったが、結局、最後には、胸が詰まってきて、息が苦しくなる。いったい、この、胸に支えているものは、なんなのだろう。腹立たしく思いながら、私は右手で胸を抑えた。
ふと、柔らかく身体が包まれる。
オスカーの手が、背に回り、するり、するりと、ゆっくりと撫でた。胸の支えが、その手の動きに流されて、溶け出して行くような気がして、私は、目の前に迫ったオスカーの胸に、額を当てた。
「ありがとうございます。ジュリアス様。」
ぐ、と今度は、胸が熱くなる。
「しかし、一つ、ジュリアス様は思い違いをされています。」
その先が想像できず、額を持ち上げ、オスカーの顔を見上げる。私を抱く腕は、どこまでも優しく、暖かい。そのことが、私だけの物ではないのだということの証明である気がして。酷く滑稽な思い違いに違いないと、また、胸のわだかまりが大きくなる。
「本当に、俺にとって、なんでもないことでした。昨夜のことは。それは、男に犯されるのは俺だって初めてでしたが、少し明後日の攻撃を喰らったな、という程度の。意外と体力を消耗するのだなという程度の。ただ、傷ついて、近くで休む場所を探さねばと思ったとき、急にジュリアス様にお会いしたくなった。お叱りを受けるだろうな、とは思いましたが、お顔をみて、安心したくなったんです。」
私を安心させるように、背を撫でる手がとまり、視線が絡む。
「ですから、俺にとって、ジュリアス様との今朝の事は、なんでもないことでは、ないんですよ?」
困ったような笑みに、何を感じていいのか、分からなくなる。
「オスカー。」
もっとはっきり言ってくれ、と続けようとした唇に、オスカーの長い人差し指がそっと当てられる。視線を絡めたまま、オスカーの顔が少し近づく。
「私も貴方に好意を。ですが、恋愛感情かどうかは分かりません。ですから、先に肌を重ねたくはなかったのです。まして、ジュリアス様が、私に恋愛感情を抱いて下さっているのなら、なおさら。」
じわ、と、突然暖かいものが胸に溢れて、溢れて、溢れて止まらなくなる。私はオスカーの後頭部に手をやり、顔を引き寄せて、数センチ残っていた間合いを詰め、唇を奪った。親指で、オスカーの目尻から、耳にかけて、何度も、何度もなぞる。オスカーは、今、私の手の中にいる。そのことを、確かめるように。
「恋愛感情でなくて、構わない。だから、私を拒まないでくれ。」
哀願するように言いながら、私はオスカーに、もう一度、唇を近づける。数ミリを残して、オスカーを待つと、一瞬の間の後、戸惑うように、オスカーの唇が、私の唇を食んだ。
ああ、ああ、私の物だ。私の物だ。もう誰にも触らせぬ。
自分が、オスカーの気持ち以上のものを、傲慢にも、今、この瞬間に求めていることを私は知っている。
それでも、求めている私を、拒まずに居てくれるオスカーが、確かに、此処に居るという、それだけで。
貪欲な心が、一度得られた唇を離したがらずに、角度を変えては、より深く合わさろうとするのを、止められない。ちゅ、クチュ、と音がする度に、オスカーの背に回した腕に、ピク、ピクと、小刻みな筋肉の振動が伝わる。今朝とは違い、オスカーの舌は私に応えてくれていたが、やがて、私の強引さに押し切られるように、オスカーの背が、カウチに押し付けられる。ぐ、と自分の身体を、右腕で少し支え、オスカーの濡れたアイスブルーを見下ろす。
「良いか?」
互いの瞳は絡んだまま。ごく、と今朝を繰り返すように、オスカーの喉が鳴る。
だが、オスカーはもう私を止めない。
「はい。お心のままに。」
私は、もう一度、オスカーの喉元に吸い付いてから、コーヒーをまた入れ直さねばな、と思ったが。
今日の私には、コーヒーの入れ直しは、何十回になろうと、苦になるまいと思い至って。
安心して、目の前の朝食に集中することにした。


終。

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