タトエバ、アナタ




どうしてヒトは、自分がこの身に受けた愛情を、いつか忘れてしまうのだろう。
どうせ、忘れてしまうのなら、その愛情は、いっそ、受けていなかったことと同じなのかもしれない。

いいえ、違うわ。

この身に受けた愛情は、静かに降り積もって・・・。
きっと、わたくしの中に確かに在る。

それでも、静かに降り積もったソレを忘れてしまいそうな・・・そんな時。
そんな時。誰かがわたくしに、その事を思い出させてくれるのですわ。

そう、たとえば。
今の貴方のように。

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いつからかしら。
互いに吸い寄せられるように、アンジェリークはルヴァと過ごすようになった。今考えれば、候補時代からその兆しはあったのかもしれない。陽だまりの似合う二人。テラスに出したテーブルで二人、午睡をしていても。ほんの少しの行き違いにお互いに溜め息をついていても。何をしていても、二人は絶えず笑い合っているようであり、信頼し合っているようだった。
行き交う二人の視線と視線。
そう、誰が見ても分かる。

「音が、乱れているな。」

叱るのではなく、かといって慰めるのでもない。淡白な調子で、深い声音。
わたくしは弓を持つ手を止める。演奏の途中で、ジュリアスが声を掛けるのは初めての事。余程酷い演奏(もの)だったのでしょう、と、わたくしはあっさりと弓とヴァイオリンをポジションから外す。演奏の途中では合ったけれど、姿勢を正し、一礼してから、胸元に手を当てて、まっすぐに揺り椅子の上で寛いでいる様子のジュリアスを見た。
窓からカーテン越しにさすじんわりとした光は、彼の豪奢な金髪を、いつもよりは控えめに照らしだしている。声音と同じくらいに深い色合いの・・・群青の、瞳。
「集中していないようですわ。大変失礼致しました。本日は、これにて。」
頭を下げて踵を返し、テーブルに置かせて頂いていた、ケースにヴァイオリンと弓を仕舞い始める。
「いつから・・・であろうな?」
わたくしを制止するように、少し声を大きくして、けれども引き続き穏やかな調子でジュリアスはわたくしの背後から声を掛けた。ぴたり、と再び手が止まる。ドキン、と一拍遅く、心臓が鳴った。ケースの上に、ヴァイオリンと弓を取り急ぎ置き、わたくしは再び姿勢を正して、揺り椅子の人を振り返る。
「何が、ですの?」
少し驚いたように、彼は僅かばかり金の両眉を上げた。それから、肘掛けに手をついて、ゆっくりとした所作で立ち上がる。そして、窓辺に数歩の距離を移動すると、外を見下ろした。視線の先は、おそらく、ジュリアスの私室からも見える、中庭。そこに誰と誰が居るのか、わたくしは知っていた。
フッ、と彼は穏やかな笑顔を唇に掃いて、わたくしを振り返る。
「あれが気になって、集中できぬのではないのか?」
わたくしは、動かなかった。ただ、自分の身を抱いて、
「意地悪をおっしゃるのですね。」
と努めて冷静に答える。
・・・本当に意地悪なのは、わたくし。
『その通りですわ、降参致します!』と、いっそ笑ってしまう事も、ぽろりと涙を零して胸中を吐露する事もできない。それでも、このようなわたくしだからこそ、できることがあるだろうと心から思う。もう、流石に卑屈になるほど少女ではなかった。
「そうか。それはすまなかった。」
その調子からは、すまないという気持ちは感じられないけれど、おそらくジュリアスは、同僚相手にやや踏み入った、不躾なことを言ったとは思っているのだろう。もう一度、彼は窓の外の眼下に視線を戻す。ジュリアスに甘えているのだわ、わたくしは・・・。そう思って、けれども、だからと言って、何もできなかった。
「実は、先程の演奏には、私も集中していなかったのだ。」
窓枠に片手を掛けたまま、やや声を小さくして言ってから、彼は珍しく、悪戯っぽい笑顔で、わたくしを再び見やる。
「?」
思わず困惑するように片眉を上げてしまう。
「私も、あれが気になってな。」
まさか、ジュリアス・・・。貴方も、アンジェリークを?と内心で瞬時に問いが形作られたけれど、流石にすぐには口に出す気になれない。
「まぁ。」
とだけいって、余計な事を言わぬ様、わたくしは両手で震える口元を抑える。
暫くの沈黙の後、
「陛下には、まだ告げていないのだな。」
と、不意に低まった、真剣な声音。目的語は伏せられていたけれど、仕事の話に切り替わったのだとすぐに分かった。
「ええ。」
「いつ、話す。」
「近いうちに、ですわ。」
互いに無表情で、視線と視線を交わす。あの二人のそれの温度と比べるのは馬鹿げている。けれども、チラリとそんなことが胸を過るのを、止める事はできなかった。

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降りしきるのは、生まれる惑星の生命の息吹。
あるいは、死せる惑星の末期の吐息。

わたくしは会議室の宙空に映し出される神鳥の宇宙の、辺境の一画を見上げる。テーブルに広げた書類の山は、一通り繰って調べようと技官に印刷を頼んだ惑星データだった。電子検索は非常に精度が高いけれど、やはりざっと全体に目を通そうと思うと、紙の方にまだ分がある。
「ロザリア?」
突然、近くから声を掛けられ、驚いて手を止める。声の主には反射的に思い当たったので、パチリとスイッチに手を伸ばして映像を切った。ただでさえ暗い部屋が、余計に暗くなる。少し寝た方がいいのかもしれない。気分転換にと思って、ジュリアスの私室でヴァイオリンを弾いたのも、あるいは却ってよくなかったのか。
ほぅ、と一度息を吐き出してから、
「どうしたの?アンジェリーク。」
と微笑んで振り返る。二人の時は、敬語も敬称もなし。わたくしが補佐官に就任した時に、アンジェリークがそのように命じたので、わたくし達はいつもそのルールを守って話す。敢えて言えば、「私がロザリアに何かを言う時は、それは命令でも指示でもなく、相談やお願いよ。」という彼女の命(彼女曰く「お願い」)は、いつもわたくしの中で曖昧だけれど。
翠の瞳が、心配気にわたくしを見やる。
「いつもそうだけど。最近は特に、根を詰め過ぎじゃない?」
彼女は数歩の距離をゆっくりと詰めて、隣の席に腰を下ろす。
「そうね。」
否定しても、彼女の心配を煽るだけなので、認める。スッと手を伸ばして、彼女のサイドの髪を耳に掛ける。続いてもう片方の手を伸ばして両頬を包むようにして、わたくしの額と彼女の額を重ね合わせた。こうすると、自然にアンジェリークは両目を瞑って、ただ、互いの体温が馴染むのを待つ。何かの条件反射のように。
『わたくしを、許さなくて良いわ。』
と、候補時代のように、わたくしは彼女に、内心で傲慢に語りかける。
「ロザリア、泣いてるの?」
アンジェリークが、目を瞑ったまま、呟く。涙など流れていない。けれども、泣きたい気持ちが伝わるのかも知れない等と、わたくしらしくもない、センチメンタルな気持ちになる。
「いいえ。何故?」
わたくしは額を離して、鼻先がくっつくかくっつかないかという距離で、首をゆっくりと傾げる。
「ううん。なら、いいの。」
「ふふ。おかしなことを言うのね。」
わたくしはニコリと笑んでから、書類を片付けようと席を立つ。その袖口を、アンジェは掴んで止める。
「私さ。ロザリアが選ぶ事を、選ぶよ。」
真剣な、大きな翠。暗い部屋でも十分に光を放っている。わたくしは、くしゃりと自分の顔が歪んでしまうのを感じた。それで、もう既にこの女王は、わたくしが何を隠して、何を考えているのか、全て分かっていて、分かった上で許してくれているのではないか等と思ってしまう。
「女王は、貴女よ。」
私は僅かばかり翠の光から逃れるように、目を伏せてなんとか口にする。
「ふふ、そうなの。何故だと思う?」
歌うように、軽やかな声になって、彼女は笑んで言い、首を傾げる。明るい金髪がふわりと弾んだ。
「何故って・・・?貴女にその力があるからよ。」
自明に過ぎることを聞かれて、僅かに戸惑う。
「そうなの。力があるの。」
ふふふ、と彼女はまた、羽のように軽く笑った。わたしくは、はっきりと困惑する。時折、彼女はこうして何を言っているのか分からない事を言う事がある。けれども、大抵、それらの発言には意味があって、後からわたくしは驚かされる羽目になるのだけれど。
「その力はね。ロザリア。ロザリアは、自覚が無いみたいだけれど、ほとんど全て、ロザリアから齎されているのよ。」
???
「補佐官には、守護聖達のような、女王のサクリアを支える力はないわ?」
貴女が望まなければ、補佐官は空席でも構わないくらいに。それは、貴女もよく知っている事だけれど、とわたくしは呟くようにして続ける。
「なんて説明すればいいのか、分からない。いつか、説明できるといいと思う。でも、今はいいや。ロザリアは、ロザリアが思うようにしてくれればいいの。だから、無茶はしないでと思うけれど、本当のところ、ロザリアがしたい無茶なら、私はしょうがないって思ってる。」
言い終わりにかけて、少し苦しげに彼女の眉が寄って、瞳が翳る。
「ただ、一つだけ。」
彼女は胸元を華奢な手で掴んで、立ち上がり、わたくしをまっすぐに見る。
「自分を、追い詰めるようなことはしないで欲しい。それも、ロザリアがしたいなら、私はしょうがないと思うけれど・・・。ううん。やっぱり、しないで欲しい。」
言ってから、まるで幼子のように、私にギュゥっと強く抱きつく。私は両手を彼女の背中に回して、
「どうしたの?アンジェ。」
「ロザリア。ロザリアと私は、二人で一つ。どちらが女王で、どちらが補佐官でも構わなかった。でも、必ずお互いが必要なの。」
「そんな・・・。」
何か否定するような事を言おうとしたのだと思う。僅かばかり、わたくしより身長の低いアンジェは、わたくしに縋るようにして、見上げる。
「でも、そうなの。」
きっぱりとした真剣な声音に、わたくしはビクリ、と全身が総毛立つのを感じる。頭で理解が及ばないのに、わたくしは、『ああ、そうなのだ』と思って。それで、わたくしより、ずっと華奢に思える彼女の身体を、ギュッと掻き抱いた。

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首座という立場から、そして女王候補の頃から、何かと相談していたという関係性もあり、わたくしとジュリアスは自然と二人で話すことが多い。大体は宮殿内の会議室か、ジュリアスの私室だった。時折、それに彼の私邸の応接室が加わる。
今日は、ジュリアスが「休日なのだ。私邸にしよう。」と提案してくれたので、久しぶりにお邪魔していた。
とはいえ、テーブルの上は端末が広げられ、宙空には複数の画像が浮かび、移動会議室の様相を呈しているのだけれど。
「少し、休憩せぬか。」
作業の途中で、不意に、ジュリアスから珍しい声が掛かる。ジュリアスは、休日らしく簡素な白い長衣を身につけており、裾も足首より僅かに上のものだ。
「まぁ。」
わたくしは、思いがけない提案に、小さく声が出ただけだったけれど、意味は十分過ぎる程伝わったようで、
「私とて、休憩くらいはする。効率が下がっては、元も子もあるまい。」
これもまた珍しく、ややふて腐れたように彼は言う。「良いですわね。」と、応じると、程なくして、エスプレッソとシャルロットポワールが運ばれて来た。
無言でテーブルの上のやや大きめにカットされたシャルロットポワールを見つめていると、
「好みだと聞いたのだが。違ったのか。」
声音は平坦。けれども、何故かそれが落胆しているように聞こえて、私は慌てて首を振る。
「いえ!いえ、好きですわ。とても。」
頬が自然と紅潮するのを感じつつ言うと、「そうか。」と、とても満足気な笑み。わたくしは暫し、青と金で構成された、それに見とれてしまう。
「・・・?食べぬのか?」
首を傾げられて、見つめ過ぎていたのだと気づいて、余計に紅くなってしまう。パタパタと指先で自分の顔を冷ましながら、
「はい。頂き、ます。」
なんとか応え、添えられた銀のフォークを手に取る。まさかわたくしの好物を準備して下さるなんてと胸が奇妙に高鳴っているのを自覚する。つや出しに、熱したジャムが塗られているのか、シャルロットポワールは、宝石のように輝いていた。書類が山積し、映像が飛び交うテーブルで、ジュリアスと二人、シャルロットポワールを食べているという情景を不意に客観視してしまい、プッと吹き出す。口の中で、余りに洋梨が美味しく香ったという幸福感もあったかもしれない。
その横顔を、物珍しげに眺められている気配に、フォークを一度置き、口元を隠しつつ、ふふふ、と笑ってしまう。
「いえ、なんだか。おかしくて。」
いけない。クスクスと、はしたなく笑い続けてしまう。
「口に合ったか?」
「ええ。とても・・・。とても美味しゅうございます。ふふ、私の好物をジュリアスにお伝えになった方はどなたですの?」
ジュリアスは、ちょっと困ったように眉を寄せて、ふむ、と言いながら自分も一口ケーキを口に入れる。美味だな、と一言評してから、
「オスカーだ。」
と、言った。
「そうですの。オスカーが。」
そんな事を伝えた事があっただろうか?記憶にはなかったけれども、少し照れたようにしているジュリアスが、なんだか可愛らしく見えてしまう。少女のように甘やかされている自分を自覚すると、またこちらも気恥ずかしくなってしまう。
「私は、其方とこうして二人で会う事が多いというのに、その機会に恵まれぬオスカーより、其方の事を知らぬのだな。」
ボソリとジュリアスはケーキに向かって呟いた。
「そうでしょうか。」
偶に出る、候補時代の喋り方で、わたくしは問うた。ゆるりと、問い返すようにわたくしを見やるジュリアス。
「わたくしのケーキの好みはご存知なかったかもしれませんけれど、わたくしが何を重視し、何を為そうとしているのか、一番知って下さっているのは、ジュリアスですわ。」
わたくしは笑んだ。ジュリアスは驚いたように目を見張る。
「あら、違っていまして?」
首を傾げると、コホン、とジュリアスは小さく咳払いして視線を下ろす。「うむ、そうであったか。」と申し訳の如くのお返事に、私はクスクスとまた笑ってしまう。
「お前が、私と近しいと言ってくれるなら。」
ふと、ジュリアスが、やはりケーキに視線を落としながら言い、それから、わたくしをまっすぐに見た。深い深い、紺碧の空がそこに広がっている。
「一つ、願いたい事がある。」
私は、ドキン、と一度胸を大きく鳴らす。
「何でしょう?」
知らず、畏まったように両手が膝の上で重ねられ、声が少し堅くなってしまう。
「もう、これ以上、この案件を抱え込むのは、やめてもらいたい。」
瞬時に、わたくしは理解した。ジュリアスが不慣れにわたくしの為と心を砕いて用意した、シャルロットポワールの意味を。スッ、と脳が温度を失い、そして奇妙に覚醒する。
「できませんわ。」
氷水の様に冷たいのは、わたくしの声。やや伏し目がちにしながら、私はそれでもはっきりとジュリアスの紺碧を見据える。ジュリアスは、その完璧な造形美を称える顔を、見た事も無いくらいに歪めた。
「其方は、もう限界だ。もう良かろう。」
クッ、と喉を鳴らすようにして、ジュリアスはわたくしから視線を逸らす。駄目よ、ジュリアス。視線を先に逸らしては、と何かおかしな事を思う。
「限界?」
わたくしは、ピクリと眉を上げて、冷や水の声で続ける。
「わたくしの限界は、わたくしが決めるのですわ。ジュリアス。・・・前言を撤回します。貴方には、お分かりにならないのだわ。」
ジュリアスは、歪んだままの顔をこちらに向ける。これ以上、何も告げてはいけないのだと思った。けれども、既に遅い。
「わたくし、傲慢ですの。とても。」
自分が悪辣に笑んだのを知って、脳裏で自分に絶望する。こうしてわたくしは、同僚の信頼や、好意を踏み躙るのだわ。わたくしが女王でなくて、本当に良かったと心から清々しく思った。
「もう、貴方にこれ以上、迷惑を掛ける訳にはいきませんわね。お暇しますわ。シャルロットポワールを、有り難う。ジュリアス。」
今度は、胸中にあった清々しさのお陰で、うまく微笑めたと思う。群青は絶望を宿した切なげな色合いで、わたくしを見つめていた。返事のないジュリアスに、席を立ち、ショールを整え、一度最敬礼を取ってから、踵を返して部屋を出る。慌ただしく、わたくしの見送りをするジュリアスの家人達に、突然の帰宅を謝罪をしつつ、資料の送付を言付けて私は自分の部屋へと急いだ。

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部屋に帰って、高く結い上げた髪を乱暴に崩し、ヒールを脱ぎ捨て、鎧のように重たく感じていた服も全て脱ぎ捨て、わたくしはベッドに身を投げる。クックック、と喉が鳴った。仰向けになって、自分の右腕で、自分の瞼を覆う。
美味しかったシャルロットポワールを、食べかけのまま、置いて来てしまった。ジュリアスのシェフに申し訳ないわ、と思う。

女王のサクリアは、宇宙の隅々まで行き渡る。
それがたとえ、辺境に過ぎ、女王信仰のない惑星だったとしても。人々が知る知らずに関わらず、女王のサクリアは等しく人々を護るのだ。
それでも。何事にも限界はある。
日々、星々は寿命を迎え、日々星々は新たに生まれる。宇宙を統べる以上は、わたくし達はそれを至極日常的なこととして、受け入れている。
けれども、そう。
あの一画の星々は・・・。もう、わたくし達には救う手だてがない。ブラックホールに呑まれ続ける惑星の数々。アンジェリークが先の陛下から宇宙を引き継ぎ、転送する際に、おそらくは既にその事は決まっていた。残存する人々は、その区画特有の病を発症していて、それは伝染する。他の区画への移住は許可できない。わたくし達の知る限りの技術では、その病を隔離できないのだ。

だから、いい。
宇宙を統べるというのは、こういう仕事に慣れて行くということを含んでいるのだから。

だから、ただ、ブラックホールに呑まれていく人々を、わたくしは見過ごす。救われる手だては本当にないのかと、既に結論に至った資料をひっくり返し、微々たる無駄な抗いを日々繰り返して、結局・・・見過ごす。
最終的には、女王は、その区画をこの宇宙から切り離すしかない。被害を最小化するために。
結論は、既に出ている。
ただ、わたくしがした事は。それらの星々が全て呑まれるまで、アンジェリークに、その情報を知らせない事。

わたくしが、傲慢に見過ごしたから。陛下の采配も仰がずに、見過ごしたから。
わたくしの進言が遅れたから、彼女はその人々を救おうと、努力できない。
それは代わりに、今、わたくしがしている。
傲慢な女の、詰まらない拘り。
彼女の指が、爪が。掘っても水等でない土を、掘り返す為に汚れる。それが、嫌なのだ、わたくしは・・・きっと。
本当に、なんという傲慢だろう。今回の事で、わたくしは彼女に呆れられて、仕事を奪われるのかも知れない。少なくとも、これまでわたくしを信頼して任せていた、情報管理を、自分で直接把握するようにはなるのだろう。けれども、そんな事は、もうどうでもいいとすら思っていた。
たった一回だけの事であって欲しい。こんな話は。無理なのかも知れないけれども、もしたった一回だったなら、何一つ護れないわたくしも、これで彼女の指と爪を護ったことになるから。

だって、ほら。こんなに、苦しい。

ワタクシガ、ミゴロシニシテイル、ムスウノ、タマシイ。

どこからか、子供の泣き声のような声がすることに気づいて、やがて、それが自分の嗚咽だと遅れて自覚する。

ごめんなさい、ごめんなさい・・・。
ごめんなさい、ごめんなさい・・・。

この上、謝るだなんて、傲慢に傲慢を上塗りするようなものだ。なのに胸の中で、どうしてもその言葉が繰り返し浮かび上がって、それが悔しくて、余計に泣けてくる。

嗚咽の向こうから、コツコツとノックの音がした気がした。
気のせいだと思う。人払いをしたから、誰もこの近くに居る筈が無い。
コツ、コツ。
・・・・。
コツ、コツ。
ゆっくりとしたノックは、戸惑いがちに、何度も続く。やはり聞き違いではないのね、とわたくしは重たい身体をベッドから引きはがして、なんとか靴を履く。
コツ、コツ・・・と続くノックの音を聞きながら、一枚ものの部屋着を身につけて、乱れた髪を結い上げもせずに、とりあえず手櫛で下に流す。寝室のミラーに移る自分の姿は酷いもので、やはり人に会うのは気が引けてしまう。足を引きずるようにして宮殿の廊下へと続くドア越しに、
「どなたですの?」
我ながら憔悴し切った声で、誰何する。
「私だ。」
ジュリアスの声だった。
「・・・・!!」
よりによって・・・!胸が詰まって、何かが喉元に込み上げてくる。それを無理矢理に嚥下して、
「わたくし、その・・・。酷い格好で・・・。急用で、なければ・・・。」
なんとか発声を続ける。ドアに縋り付くようにして。
「急用だッ!」
ジュリアスの切羽詰まった叫ぶような声に、ハッとしてわたくしはドアを慌てて開ける。

ドアが開くと同時、視界が突然、金色一色になった。

あまりの圧迫感に、息が出来ない。それでやっと、自分がジュリアスに力一杯抱きしめられ、彼の金髪に顔を埋めているのだと思い至る。余りに強く彼の両腕に抱き込まれていて、ほとんど自分の両足が役に立っていない。
「あ、の・・・!」
なんとか腕の中で身を捩ると、慌てたようにジュリアスが力を抜いてくれた。
「すまぬ。・・・すまぬ。」
ジュリアスは、わたくしの両肩を抱いてしっかりと立たせてから、自分の額に片手をやり、乱れた髪をサークレットの辺りからバサリと掻きやる。
突如自由になった肺に、けほっと噎せてから、
「な、何事ですの・・・?」
わたくしは自分の無様な格好のこともすっかり忘れて、我を失ったような首座を見上げる。
「いや、急用だというのは事実なのだが。お前に、私が急用なのだ。」
???
恐らく、出会って初めてとなる、要領を得ぬ答えに、思わずクエスチョンマークが沢山飛んでしまう。
「いや。・・・いや。私は、何を言っているのであろうな。」
グーパーと意味も無く自分の右の拳を開閉させ始めたジュリアスに、
「とりあえず、何か火急のアクシデントという訳ではないという事ですの?」
「あ、ああ。そうか・・・。すまない。うむ、火急なのは、私だけだ。」
生真面目な顔での、意味不明の台詞に、わたくしは吹き出してしまう。
「・・・・。」
笑ってしまったわたくしに、共に笑ったものかどうか戸惑っているような様子に、
「だって、あんまり・・・。ここじゃ、あんまりですわね。中に、入られます?」
と聞く。開けっ放しになっている部屋のドアを締め、ジュリアスを中に促す。髪留めや服を脱ぎ散らかしたのが、寝室で良かったと心底思いながら、応接に使っている小さな部屋に通す。
「いらっしゃるのは、初めてでしたかしら。・・・ごめんなさい。こんな格好で。」
髪を片方の肩にまとめて流し、わたくしはお茶の準備をする。
「ああ、初めてだ。」
答えながら、所在なさそうに、ちんまりと椅子に座るジュリアスを見て、なんだかまたおかしくなってしまう。宮殿には、常ならば休日であろうと、執務服で参内するジュリアスが、先程の平服姿のままである事から、本当に慌てて出て来たのだと分かる。
・・・けれど、何故?
気詰まりでない沈黙の中、お茶を準備し終わって、コトリと彼の前に出す。
「ごめんなさい。エスプレッソは用意できなくて。」
ごく偶に飲みたくなるために用意してあったドリップ・コーヒーを彼の前に出し、自分にはリュミエール様から分けて頂いたカモミール・ティーを入れた。
わたくしが向いの席に腰を下ろすと、ジュリアスが「有り難く頂こう」と言って一口コーヒーに口を付けてから、徐に切り出す。
「先程は、差し出た事を言って、すまなかった。」
「まぁ、わざわざその事を伝えに?」
「ああ、そうだ。・・・いや、違う。・・・違うな。」
ジュリアスは、『参った』というように、テーブルに肘を付いて、指先を額に当てた。
「私は・・・其方に、差し出た事を、これからも言いたいのだ。」
???
酷くジュリアスが真剣なのは、その様子から十分に伝わっていた。けれども、肝心の、何を言いたいのかがよく分からない。
「フッ。酷く、難しいものだな。やはり巧く行かぬ。」
姿勢を正し、カップの中に瞳を落として、ジュリアスは悲しげに言った。
「そう、話を簡単にしよう。私は、其方が好きなのだ。」
「まぁ。あのような態度を取ったのに、ジュリアスは寛大ですのね。」
やはり、私はこの方に甘やかされているのだわ、と思う。
「そうではない。そうではなく・・・。私は、其方の支えになりたい。傲慢なのは、私だ。もう、お前が傷つくのを見たくないのだ。」
・・・・・。わたくしは、遅ればせながら、その意味する所に気づいた。それでも尚、信じがたく、パチ、パチ、と思わず瞳を何度もしばたいてしまう。
「其方は、ルヴァが好きなのだろう。分かっているのだが、この気持ちはどうにもならぬのだ。・・・すまない。」
酷く悲しげな群青に、私は胸が詰まる。
「違いますわ、ジュリアス。わたくしは、アンジェリークが好きだったのですわ。」
今度は、パチクリ、とジュリアスの目が丸くなる。反応は予想できていたので、わたくしは少し笑う。
「今となっては、分かりません。これが、宇宙を統べる女王と、その類い稀なる素養への尊敬の念なのか、それとも、候補時代を共に過ごした友情なのか。それとも、別の何かなのか。ただ・・・わたくしは、あの子をもう少し、独占していたかったのですわ。」
こんなに素直に、誰かに自分の胸中を吐露する日が来る等とは、思ってもみなかったので、するすると気負いもせずに述べる自分を少しばかり意外に思う。
「そう・・・か。そうであったか・・・。」
ただ、事実を噛み締めるようにして、ジュリアスは頷き、それからわたくしの瞳を見つめて笑んだ。それだけで、何か、自分の中で蟠っていたものが、全て許されたような気になってしまう。
「ジュリアスは、変わった趣味をしておいでなのね。」
それで、私は心から彼の寛容に甘えるようにして、テーブルに両肘を付き、両手を組んで、その上に顎を乗せ、首を傾げる。
「・・・?」
キョトン、としたような顔に、わたくしは笑う。
「だって、そうでしょう。わたくしのように扱いにくい女性は、なかなか居ないと思いますもの。」
今日のやりとりを思い出しながら、少しはにかむような気持ちになり、視線を落とす。
「其方のように、魂の美しい女性を、私は他に知らぬ。」
ただ、只管にまっすぐな声音と台詞に、吃驚して固まってしまう。
「・・・・。」
オスカー辺りがそれを口にしたなら、「まぁ、お上手ですこと!」と嫌味の一つでも返すのだろうけれども、ぎこちなく上げた視線の先には、当然至極といった顔でわたくしを見つめる、生真面目な男性しか居ない。
そのまっすぐな群青の前には、どんな否定の言葉も、思いついては只萎むだけ。
わたくしは、段々と火照って行く顔を感じることしかできない。
「あ、ありがとう、ございます。」
せいぜい、礼を述べるのがやっと。気持ちはフワフワと浮ついているのに、沈黙は決して居心地の悪いものではなく、わたくしは金と群青から成る目の前の人を、ただ見つめ返していた。
「もう、良い頃だろうと、私は思う。」
やがて、先程の、ゆったりとした笑みを彼は抱いて、徐に告げる。
「まだ・・・。もう一日、お待ち下さい。」
わたくしは、静かに返す。独自に行ったシミュレーションでは、最後に残された、一つの惑星が呑み込まれるのが、明日の予定だった。
「分かった。では、月の曜日に皆に広めよう。その前に、其方から、陛下に。」
「ええ。」
わたくしは微笑んで応じる。ジュリアスは一頻り笑んで見つめ合ってから、カップに再び視線を落として、コーヒーを静かに飲む。やがて、飲み終わって、カップをソーサーに戻してから、
「私の前では、泣いては、くれぬのだな。」
カップのコーヒーの跡を見つめて、小さく呟いた。それで、わたくしは彼に、独りで泣いていた事に、実は気づかれていたのだと知った。
突然。ツン、と鼻の奥が詰まって、ぽろり、と一粒の涙が、零れ落ちた。視界が滲む気配も感じず、余りにあっという間のことで、わたくしは慌てて右手で目元を抑える。
「あ・・・ご、めんなさい。」
吃驚して口にして、先程の胸中の謝罪の言葉を思い出してしまった。違う、違う。謝ってはいけない、謝っては・・・。焦燥感で、私は慌てて席を立ってジュリアスに背を向ける。勢いが良すぎたのか、ガチャンとテーブルが僅かに揺れてしまった。
「私はまた余計な事を・・・。すまぬ・・・。」
言いながら、ジュリアスが立ち上がり、わたくしの前に廻り込む。俯いたわたくしの視界で、またグーとパーを交互に形作るジュリアスの両手。わたくしは、立っているのが辛くなって、その胸を借りる。
「ごッ、めん、なさいッッ・・・・ジュリ、アスッ!」
違う。この謝罪は、あの星々への謝罪じゃない。そうよ、無様を晒してしまった事への、ジュリアスへの、謝罪。だから、ジュリアスが許してくれるのならば、この謝罪を口にする事は、許されるはずなのだわ。
何もかもに甘ったれている事に気づいて、それでも、一度声に出してしまったら、呟くのを、止められなかった。
「ご、めん、なさ・・・。ごめん、なさ・・・い。ご、・・・ごめッッ・・・・。うっ、うぅ、ウ・・・・。」
ザラザラ、ザラザラ何かが押し寄せて来て、わたくしの胸の内をメチャクチャにする。
どうして、どうして、どうして、どうして。
人々が信仰の対象にする程に、この宇宙で至高の存在とまで言われる我々が。
どうして、目の前の不幸に、何も出来ずに、ただ、佇んでいるの。
我々は万能じゃない。知っている。出来る事を、ただ、出来る分だけ、順番にしていくだけ。
どうして、どうして、どうして・・・。
そして、それはやっているのよ。みんな。それぞれが、一番と思う方法で。それぞれの、能力の限界をもって。
どうして、どうして、どうして・・・。
それ以上を、求めるのは。だから・・・傲慢でしかない。
「アッ、アッ、アッ・・・・・。」
短く上がる小さな、悲鳴はとても暖かな胸にギュムと押し付けられて、やがて音を失ってしまう。代わりに、トクン、トクン、トクン、と規則正しくジュリアスの鼓動が伝わってくる。
ザラザラ、ザラザラ、わたくしの中で暴れ狂う何かが、やがて、その鼓動に押し流されて行く。気づくと、わたくしは、ジュリアスの胸に耳を押し当てるようにして、その音を聞いていた。
トクン、トクン、トクン、トクン・・・。
あったかい・・・。それに、何だか不思議な匂いがするのだわ。どこか、懐かしいような・・・。
どれだけそうしていたのか、分からないけれど、ジュリアスが幼子をあやすように、右手でわたくしの背中を摩る。
「落ち着いた、か?」
穏やかな笑みに、知らず、ほぅ、と溜め息を吐いて見上げる。すると、その吐息に合わせて急に血が下がってくるような感覚に襲われた。
・・・あぁ、まずいわ。なんてこと・・・。
チラリと思ったけれど、いつものように踏みとどまる事が出来ず、目の前は、ただ暗くなっていった。

酷く、懐かしい、もう思い出すのが難しいほど、昔の夢を見ていた。
「ロザリア、ロザリア。」
誰かが、優しい声で幼いわたくしを呼ぶ。
感情に任せて抱きつけば、鼻腔一杯に広がる香り。
寂しい気持ちになると、いつも誰かが慰めてくれていたのだわ。厳しく躾けられたつもりになっていたけれど、本当に小さな頃には、わたくしは存外甘やかされていたのね。
ああ、そうだったのだわ。
ねぇ、とうさま。
見過ごしている愛情に、気づかせてくれた方は、ジュリアス様っていうの。

とうさま。ねぇ、・・・とうさま。
その方は、ジュリアス様と、言うのよ・・・。

気がつくと、頬に羽枕。身体に、シーツの感触。
ベッドの上だった。部屋着のままに、けれどもしっかりと布団を被っている。
「ロザリア?」
名を呼ばれて、夢の名残を思い出す。顔をそちらに向けると、ジュリアス様が居た。
「ジュリアス様・・・。」
ふふふ、と笑って私は布団を少し上げ、顔を半分程隠す。ジュリアス様は少し驚いたような顔をして、それからフッと小さく吐息をつく。
「それでは、昔に戻ってしまったようではないか。」
ベッドサイドにおそらく応接室から椅子を持って来て下さったのだろう。ジュリアス様は私を笑んで見下ろしていた。そして、言われている内容に気づく。
「まぁ、わたくしったら。」
ふふふ、まるで女王候補の時のよう、・・・な・・・。
そこで、わたくしは、急に覚醒して、飛び起きる。気を失う前には、確かに散乱させた記憶のある、服や髪留めが、何一つ床に落ちていなかった。ギュゥと布団を抱きしめて、ぎこちなく、ジュリアスに視線を戻す。
「は、運んで下さったの?」
ギクリ、とはっきりとジュリアスも固まる。ゴクリ、と彼は喉を鳴らして唾液を呑み込んだ。それから、
「本当は、このようなはずでは・・・。本当にすまなかった。我を失って思わず押し掛けてしまい、本来ならば、女性の部屋に押し入る等、あってはならぬこと。その上、寝室に無断で入る等とは言語道断、・・・挙げ句には寝顔を・・・。」
黙っていると、延々続いてしまいそうな演説に、わたくしはプッと吹き出してしまった。
「わたくしが・・・。」
片手を上げて、わたくしは途中でジュリアスの台詞を引き取る。ぴたり、とジュリアスが黙った。
「わたくしが、起きるまで、此処に居て下さって、ありがとう。」
寝起きの顔を、あるいは、寝顔を、まさかジュリアスに、とチラリと思う。けれどももうなんだか、そんなことはどうでも良いような気がして来た。
「・・・そう、か?」
ジュリアスは戸惑うように言って、それからあの暖かな微笑みを見せてくれた。そうなのだわ。何故今まで気づかなかったのだろう。この、慈愛に満ちあふれた微笑みに。
「ええ、起きた時、もし独りだったら、わたくしはきっと辛かったと思うわ。」
「そうか。それならば、よかった。」
「わたくし、どのくらい寝てしまったのかしら。」
「ものの20分だ。身体が疲れているのだろう。もうこのまま、寝るのだ。よいな。」
言い聞かせるように言ってから、手が自然に私の肩に伸びる。そして、触れる手前でピタリ、と我に返ったように止まった。それで、わたくしはその手に、滑らかな手に、自分の手を重ねる。了承の意味を込めて。かつてないほどの近距離で、ほんの数瞬、わたくし達は見つめ合う。そして、ジュリアスはゆっくりと私の身体をベッドに倒した。
宥めるように、額や頬に、指の背を当てて、私に布団を掛け直す。
「休むが良い。」
顔が近づいた時に、ジュリアスが慈愛に満ちた笑顔で言った。わたくしは、
「ええ。おやすみなさい、ジュリアス。」
と言った。
「よい夢を。」
子供をあやすような台詞が、額へのキスと共に降ってくる。奇しくも、彼の応じ方は、父のそれと同じで、不思議な一致ね、と思って、そのまま眠りに落ちた。

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「それで結局、キス一つもせずに、帰っていらっしゃったのですか?」
「・・・・キスならば、した。」
「まさか、先程おっしゃった、『額におやすみのキス』の事を仰っている訳ではないですよね?」
「わかった。・・・・もう良い。」
「いいえ、分かって頂いていないと思いますが。」
「・・・しつこいぞ。」
私達は、執務室の書類を片付けていた。守護聖の大まかな出張分担は私がほとんどコーディネーションしているが、最近はオスカーがどうしてもというので、オスカーにも手伝ってもらう事が増えた。すると、結果的には、仕事の多くの部分を、研究院の技官や執務補佐官に任せていくことになってしまうのだが。私の気にしているところが、クリアされるように、それでも最低限の配慮をしながら委譲を進めているようだった。

結局、ロザリアの心配していたことは、何一つ、起こらなかった。
私は同席した訳ではないが、ロザリアによれば、事の次第を陛下に話したところ、「わかった。それじゃあ、明日皆に周知し終わってから、その区画は閉じるね。」と、さっぱりした調子で返したと言う。いかにも、目に浮かぶようではないか、と私は思った。
ロザリアは強い。大事を判断する上で、相対的に小事となる民の犠牲についても、貴族社会の中で経験してきたはずだった。慣れないにしても、その痛みを抱えながら生きるトレーニングは済んでいただろう。けれども、宇宙のそれと、大貴族とは言え、一貴族の持つ領地内のそれとは、あまりにスケールが違う。
寧ろ、陛下の職務スケールへの適応具合が、早すぎて異常なくらいなのだ・・・と、ここまで考えて、ある日の陛下とのやりとりを不意に思い出した。

「ねぇ、ジュリアス。私ってね。多分、女王に向いてると思うのよ?」
「は・・・?・・・はい、なるほど、確かに破天荒なことを時折おっしゃいますが、それ以外は概ね・・・」
「ドンカンって訳じゃないけど、しょうがないなって思える事多いから。」
「ええ、我々も、出来る事は限られていますから。」
「うん。でもさ、それって、本当の本当はキリないよねぇ?」
「と、言いますと?」
「こないだ、エルンストに『限界』の話、教えてもらったんだけど。まあつまり、エルンストみたいに難しい数学の話をださなくても、限りなく限界まで高めようとできることじゃない。【出来ること】の範囲を。だけど、限界まで高めるってことは、キリなく高められちゃうでしょう。例えば、○日間の間に出来ること!って、本当はその期間、際限なく徹夜したり、ずっと一秒も無駄にせず気を詰め続ける努力が出来る人が居たら、きっとその人は一番すっきりする。でも皆そんなことは、次の仕事もあるし、寝なきゃ死んじゃうからできなくて、手を抜く訳。ここまででいーやって。ここまでが限界って。でもその判断って、結局今度は、どこまででも自分に甘く出来ちゃうでしょう。」
「仰る通りかと。」
「で、私はこういうことを考えると、思うのね。ああ、じゃあもういいやって。自分の好きなとこで、『ここまで』って決めようって。凄く嫌な女でしょ?」
「リーダーとは、そういう役目を引き受ける者を言います。」
「リーダーってガラじゃないと思うけど。まあいいわ。で、私は好きに決める訳。これで後悔しない!って決める。でもそれはそんなに辛くない。でも、ロザリアには、辛い事だと思う。」
「何故ですか?」
「ロザリアは、『好きなとこ』じゃなくて、『一番良さそうなとこ』を限界まで自分のできる範囲で努力した上で、見つけようとするから。」
「それも大切な事ですね。」
「ふふふ。」
「・・・?」
「ううん。ジュリアスは、強い人だから、わからないかもしれないなと思ったの。ロザリアは、今もとても強い人だけど、ジュリアス程は強くないよ。だからね、だから・・・。ロザリアは、私にロザリアを護らせてはくれないから。だから、ジュリアスは、ロザリアを、護ってね。」

その時、彼女は、即位してからの彼女には珍しく、少女のような顔つきをしていた。儚げな、頼りなげな笑顔だった。けれども、それは一瞬の事で。すぐに、
「まぁ、でもジュリアスじゃあ役者不足かなぁ!」
と何だかまるで八つ当たりの様にしてムクれて続けたのだった。
陛下は、諦めたのかも知れない。女王に即位した時に、『好きなとこ』で判断する事を、自分に許したのかも知れない。宇宙を安定的に統べる為の手段として。その代わりに、ロザリアという存在が彼女には対置されている。『一番良さそうなとこ』を限界まで模索し、その精度を高める、もう一人の自分。
二人で一組の女王と補佐官。

「陛下は、本当はロザリアにその役を押し付けるのは、本意ではないのかもしれんな。」
知らず、ボソリと最後の書類をファイルに入れ替えつつ、独り言が漏れた。
「・・・?何かおっしゃいましたか?」
私の執務室に持ち込まれたエスプレッソメーカーを弄り始めた紅い髪の男が、振り返りながら私に問う。
「いや、なんでもない。」
「それでは、私の話を続けましょう。つまり、ジュリアス様にとっての、次の段階は・・・。」
「ええい!その話はもう良いと!」
私が手元で綺麗に纏まったファイルを机にバン、と思わず叩き付けると、オスカーは身体ごと振り返って、やや上体を前に倒し、チッチッチ、と右手を振って、片目を瞑る。
「ジュリアス様。今が一番大切なタイミングですよ。」
・・・・・・。
この者は、仕事では役に立つが、恋の相談をする相手ではないと、触れを出すべきかも知れん・・・。
じっとりと胡乱な視線を男に投げてやると、
「なんて。俺もはしゃぎ過ぎですね。」
ふふふ、と茶目っ気のある笑みを称えて姿勢を正して男は首を傾げる。
それは、つまり私で遊んでおるということか?とチラリと脳裏を掠めないではなかったが、私のプライベートの充実を、我が事のように喜んでくれると思うと、悪い気はしなかった。
「ふむ、それは絆されすぎか?」
「何か?」
「いや、なんでもない。」
私は自嘲の溜め息を漏らしながら笑った。

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以前よりずっと、ロザリアは奔放に発言するようになったと思う。会議終わりに出張案の出し方について、議論になっていた。
「ジュリアス。結局貴方の案では、効率重視効率重視とおっしゃって、特定の組み合わせばかりで出張にいくことになるのですわ。これでは宮殿内の人間関係をより強固に固定化してしまいますわ!」
「「まあまあ。」」
ルヴァと陛下の声が重なる。
「まるで我らが派閥を作っているとでも言いたげな言い様ではないか!」
「あら?違いまして??大体、いつまで両翼がギクシャクしているおつもりですか。みっともない。今は女王候補試験の最中なのですよ?少しでもわたくし達が女王候補だった時と変わって!?」
「み、みっともない・・だと・・!?」
「「まあまあ。」」
「「ちょっと、黙っていてくれるか(ませんこと)!?」」
「「・・・。」」
シュン、となったルヴァと陛下を見ながら、ロザリアは不意に笑った。その笑い方に、既視感を覚えて、ズキ、と瞬間的に胸が痛む。
「『私は傲慢な女だ』とでも言うつもりか?」
ふむ、と私は溜め息を吐き出し、額に指先を当てた。
「あら、違って?」
悪戯っぽく笑ってはいるが、目が笑っていなかった。こんな時、私は彼女とすぐさま二人きりになり、彼女の本心を吐露させてしまいたくなる。
「それは、傲慢とは言わぬ。」
呆れたように、もう一度息を吐いた。
「では、なんと?」
今度は、少し怒りで元気が出たのか、むっとしたように両腕を組み、私を睨むように見上げる。
「そうだな・・・。」
考え込むように私は顎に手をあてて目を伏せる。そして、瞼に閃いた言葉をそのまま告げた。
「慈愛が過ぎる、とでも言おうか。」
大真面目に返答したつもりだが、プッとロザリアは口を抑えて吹き出した。
「貴方、それ褒めていらっしゃるの?」
何を言っておるのだ、全く。
「心外な。褒めて等いない。」
「まぁ。やっぱりわたくし、叱られているのですわね?」
「当たり前だ!」
私ははっきりと怒りを露にする。が、何故か私達のやりとりをずっと横から聞いていたルヴァと陛下が、ここでニヤァ、と同時に顔を綻ばせる。
「けれども、まー。ロザリアのそういうところが。」
「そうそう、そういうところが。」
「「ジュリアスは、好き」」
「なのですよねぇ。」
「ねー!」
最後は見つめ合って、首を傾げ合っている。
最早、手に負えないと言うべきあろう。目の前でロザリアがみるみる顔を紅く染めてゆく。けれどもまあ、このような花見も悪くはないか、と私は少しばかり頬を紅潮させつつ見つめる。

ロザリアは、以前こう言ってくれた。
「貴方は、愛されている私をいつでも思い出させて下さるのね。」
と。

だから、私は彼女に思い出させようと思う。いつでも。
「え!ちょっとジュリアス!何・・・?!」
手を引いたが、彼女が(僅かにだが)抵抗するので、面倒になって、彼女の身を横抱きにする。
「補佐官殿とは本件について意見が合わぬようだが、人目のあるところでは、若干コミュニケーションが上滑りになる。二人で話したい。良いか。」
「え?ちょっと!」
トン、と私の肩を叩く彼女の拳には、力が入っていない。私は了承と取って、
「では、陛下、ルヴァ。後ほど。」
スタスタと彼女の部屋への道を急いだ。

歩きながら、私の肩に顔を寄せる彼女をみて、不意に。
コツ、と早歩きしていた足を止めた。
両手で口元を指を揃えて覆うようにする彼女は、恐らく、恥ずかしいから早く下ろせと言いたいのであろう。
巻き髪の先までを、プルプルと小さく震えさせていた。

要望を聞くのはやぶさかではない。ただし、直ちに二人になる事に合意してくれれば、ではあるが。
だが、まずは何より、耳まで桜色にする彼女には、正直な感想を述べておいた方がいいだろう。
癪だが、オスカーの助言『女性に対する感想は即時に』も偶には役立てようではないか?


「お前は、美しいな。」


終。


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