誰かいますか?
 聞こえていますか?

 私の声は、誰かの耳には、届いているでしょうか。



声の届く先




 奇妙な倦怠感。自分にとっては馴染みがある感覚のようにも思うが、それにしては、やけに影響が大きい。結局、会議まで一つ欠席して、いよいよ自分がどういう状況なのかを把握する必要性を感じていた。
 頭が芒洋として、うまく働かない中、果たして何かあっただろうかと最近の自分の行動を振り返るも、特に思い当たる節はない。

 何か・・・何か・・・。

 考えているうちに、抗いがたい睡魔が襲ってきて、搦め捕られる。これでは同じことの繰り返し・・・。そうは思いながらも、いよいよ身体の怠さは酷く、歩くことも立ち上がることも辛い状況で。自分の不甲斐なさに苦笑して、無理に身体を起こしていた週初めがいけなかったのだろうか、とすら思えてきた。
ベッドの中で、身体を起こして考え事をしたり、それも困難になって横になったりを、苦心して繰り返している時に、控えめなノックが聞こえた。
「どうぞ。」
 恐る恐るという声音で、「失礼します」と家人の一人が現れる。普段はベッドで迎えることはしないが、ここ数日は致し方なくそれを自分に許していた。せめて笑顔で、と思いながら、なんとか身体を起こしてベッドヘッドに枕を押し付けるようにして、身体を起こし、ぎこちなく笑う。
「そのままで。オスカー様がお見えです。お断り致しましょうか。」
 私達の仲の悪さが筋金入りなのは、家人の皆の知るところで、こんな時に、「あの人」には会わなくても良いでしょう、と家人の顔には書いてあるようだった。私はその様子に小さく苦笑しつつ、
「いえ。ベッドで応対することになる失礼を詫びた上で、こちらに通していただけますか。」
 と言った。家人は、ほんの一瞬の逡巡の後、「はい、すぐに。」と礼を取って退室する。
 まもなく、「入るぞ」と家人を伴わずに、色のない私の寝室には鮮やかすぎる炎の守護聖が現れる。休日らしく、黒いシャツをラフに羽織って、ベージュのタイトパンツに少し凝った二重の細い黒革のベルト。いくつか金のアクセサリを身につけてはいるが、髪は彼らしくもなく、整髪料も付けずに洗いざらしのままで、そのせいか、いつもより少し幼く見える。
 いつも、彼と相対すると、自然に身体が緊張するのだが、今日に限ってはそういう気分にならない。
 彼の方は、いつものように、不必要な緊張を纏っているように思うのに。
「悪いのか。」
 やや唐突に、彼はポツリと言った。
 所在無さげな様子で、中途半端に彼は立ち止まり、長い腕を自分の身に絡めている。けれども、表情は固く、いつも通り、私を見下しているような色を含んでいた。
 ・・・・。何をどう応えたものか分からないまま、唇が勝手に開くといったように、私は言葉を紡ぎ始める。
「なんでしょうね・・・。どこかが悪いとか、そんなことはないのですよ。ただ、随分、毎日、眠たくて。気怠くて。それで、つい寝てしまうのです。それで、起きるでしょう。すると、いつからこうしているのか分からなくて。長い間寝ているようにも、ほんの数分、寝たようにも思う。だから、今がいつだか分からなくなってしまって。それで・・・。」
 彼に、何を言いたいのかも分からないままに、口を開くのは初めてのことだ。そんな自分に小さな驚きを覚え、その驚きに気を取られ、言葉が不自然に途切れてしまった。
 素直に、なっている。そんな形容を思いついて、それで、また少し笑えた。
「それで、・・・なんだか、可笑しくて。」
 いつの間にか間合いを詰めていたらしい彼は、テーブルサイドの椅子に腰を落ち着けると、ややふんぞり返り気味な姿勢を取って、
「・・・つまり、ただのサボりという訳か。」
 と返した。我ながら、とりとめのない話だったが、彼がそこを評すことなく、先を促すのに、私は彼の気遣いの片鱗をみる。
「そうですね・・・。なんなんでしょうね、本当に。」
 何か理由らしきものを言えたら良いのにと少し思ったが、やはり叶わない。諦めるように、私はまた笑った。
 彼は目が合った一瞬、顔を顰め、それから、ふっ、とやや大袈裟な溜め息をついて見せた。
「・・・何か、何でも良い。心当たりは無いのか。・・・少し前になるが、お前はかなり無理をして出張に行っただろう。そこで何かあったか。」
 聞かれ方に、はっきりと、私は彼が自分の意志ではなく、何かの任務でここに居るのだと思い至る。あるいは、首座の方や陛下に何か頼まれたのだろうか。存外、この人も苦労を買う人だなと改めて思う。それからやっと、質問の内容を頭に思い浮かべて・・・無理をした覚えは無いが、そういえば出張に行ったなと思い出した。
「出張・・・。ああ、そんなこともありましたね・・・。」
 どういった惑星だっただろうか。・・・大して昔の話でもないのに、記憶はぼんやりと霞んでいるようだ。
「灼熱と荒涼の惑星、だったか・・・。お前には少々キツい環境だったんじゃないか?」
 彼の言葉に、不意に。眼前に、強烈な光線と熱、砂に浮かぶ巨大な鋼で出来た建造物の群れがフラッシュバックして、私は思わずその光から逃れるように目を細める。
『灼熱』『荒涼』果たして、そんな名前であっただろうか、あの惑星は・・・。
「そうだったでしょうかね・・・。」
 けれども、名前がどうだったにしろ、出張の最中、特段変わった出来事があった覚えも無く、任務中に何かに手こずったような覚えもなかった。
「あまり・・・覚えていません。」
 ガシガシと髪を掻き乱して、はーーーーーと先ほどより更に大袈裟な溜め息をついて見せてから、
「身体は、本当になんともないのか。」
 と、駄目押しするように聞かれた。まるで、それは、身体の不調であったらいいのにとでも言うように。
 思わず声を出して笑う。
「ええ、なんとも。・・・貴方は、本当に仕事熱心なのですね。」
 陛下にか、首座殿にか、彼は何かしら報告せねばならないのだろう。私はそんな彼にまるで情報を提供できない自分を少々すまなくも思う。
「そうだな。仕事でもなければ、土の曜日にお前の所になぞ来るものか。」
 肩を竦めながらも、穏やかに笑う彼は、私に相対するときのいつもの彼ではない。いつも冷酷さしか感じたことのないアイスブルーは、細められることで、彼を好青年のように見せる。
 何故いつもの印象とこんなにも違うのだろう。
 私の方が、彼の前だというのに、ぼんやりと定まっていないせいなのだろうか。
 この人は、こんな風にも、笑える男なのだ。もし、いつもこんな空気が我々の間に流れていたら、お互いの印象も、あるいは違っていただろうか。
「しかし、弱ったな。仕事にならないというのでは。」
「そうですね、私も弱っています。」
 たわいのない会話と、穏やかなお互いの声音と、ゆるゆると部屋に入る日の光。白いシーツとレースのカーテン。そして窓枠の影。およそ、私とオスカーに似つかわしくない空気。
 ふと、彼にお茶のひとつも出していないことに気づき、用意しましょうかと言うと、右手を上げて遠慮され、
「大体、様子は分かった。また来る。」
 と、去っていった。

 彼と会話をした後とは思えぬくらいの穏やかな心持ちで。けれども、やはり、ベッドから出て動き回れるような回復は見られず、私はまた、自分の状況の分析に頭を巡らす。

 ・・・出張・・・。
 しゃくねつ、と、こうりょう・・・。
 どんな出張だっただろうか・・・。

 漫然とした思考を、やがて眠気がいつものように搦め捕っていった。

----

「我が国の経済成長は他国に比べても遜色無く・・・・」
「技術革新によりこれまでにない・・・」
 惑星の状態について、私と同行のエルンストに説明するというはずの、7か国の主席が集まった会議は、結局のところ、各国の果てないPRタイムと化していた。
「お話よく分かりました。有り難うございます。」
 プレゼンテーションはともかく、その後のディスカッションすら、対話にも会話にもなっていない状態に、終始話を聞く態度でいたものの、結局耐え切れずに口火を切る。
「ところで、惑星の状態について、何か不足はありませんか。文化的な発展や、技術的発展に、何か、行き詰まりを感じていらっしゃれば、それを教えていただきたいのです。」
 エルンストが用意した資料では、現状の惑星の状態を分析したデータがまとめられているが、国の代表らは、それを見て内容を理解したものの、興味は示さない。
「不足と言えば、この惑星の鉱物資源は豊富ですが、それでも限りがありましょう。これまでのペースで発展を続けた場合の鉱物資源の確保についてご相談したい。」
 ある主席がデータとは無関係のことを口走ると、他の者が続く。
「例えば宇宙開発の技術提供を受けることも視野に入れさせていただきたいのです。ただし、これは国家間の技術均衡に配慮し、公平に願いたいと思います。」
 私は、うなづいて見せてから、エルンストにちらと視線を投げた。
 渋い顔で端末にメモを取るエルンストは、私の視線には気づかず。下がってもいない眼鏡のブリッジに手をやり、少し押し上げる。
この席に、これ以上は期待できない。私ははっきりと理解して、
「分かりました。貴方がたの主張についてはきちんと女王陛下にもお伝えします。」
私は笑顔でそれらの意見に、彼ら、彼女らの一人一人に視線を合わせながら、頷いて見せ、
「ただ、ひとつだけ、ご理解いただきたいのですが。」
 知らず、視線をテーブルに落として続けた。
「陛下のご意志は、私をこの惑星に視察に派遣したということでも分かるように、バランスを取ることの重要性にあります。」
 彼らは特に反論しなかったが、会場の空気は私の言葉に押し潰されるように、重たいものになった。
「各国の国民の、情緒的な面での発展も、今後は視野に入れる必要に迫られるかもしれません。その点についても、持ち帰って、ご議論頂きたい。」
 空気の重たさを受け止めるつもりで、最後はきっぱりと言い放ち、代表らに再度視線を合わせる。
 暫くの、固い沈黙の後、
「・・・分かりました。それが女王陛下の御心なのでしたらば。」
 女性の代表が無表情に、私から視線を逸らさずに応じた。
 彼女の事務的な口調からは、「国民がそれを必要としていなくても、ですね。」という駄目押しが聞こえてくるようだったが、私は、なんとか笑んで応じた。
「はい。お願いします。」

 会議場を出ながら、視察箇所を回る前に、準備された部屋で少し打ち合わせをしたい旨をエルンストに伝えると、エルンストは小脇に端末を抱え、二人分のバゲージを付き添いのものに任せて後ろを付いてくる。このような場面で自分の荷物は自分で運びたいと我が儘を言うのも、出張を重ねるうちに、なかなか予想外に困難なものなのだと学んだ。庶民の出である私にはなかなか慣れないものだが、却って時間をかけてしまうのも、私の本意ではなかった。
 部屋に戻って、応接用のソファに腰を落ち着けると、お茶も淹れずに向かいに座ったエルンストに言った。
「彼ら自身は、そしておそらく、民も・・・。水のサクリアは必要としていないでしょう。」
「・・・はい。彼らは間違いなくそうですし、民も、その可能性が高いと思います。」
 そのきっぱりとした返事に、疲労感を覚えながら、けれども、その感覚をそのまま告げる気にはなれなかった。
「仕方のないことなのでしょうね。・・・現状のサクリアのバランスでは、寧ろ求められる方が不自然なのでしょうし。」
 苦笑しながら、疲労感をやり過ごすように額に指先を当て、少しだけ、ため息を吐く。
「彼らが自覚していなくとも、サクリアは必要です。この惑星の文化的な発展は、惑星の文明レベルに対し、あまりにも不釣り合いですから。」
 まるで先ほどの会議場での対話にも会話にもならないやりとりの延長をしているような気分になってくる。

 それで、どうなるというのだろう。
 眠りたくもない子供を、闇のサクリアで寝かしつけ、なんの情緒的な表現欲求も持たぬ子供に、無理やり絵筆を持たせ・・・、互いの成長欲求の均衡で十分コミュニケーションしている子供に、相手の気持ちを、情動を推定させて・・・それで、一体、我々は何を・・・?

「どうか?」
 私の沈黙の意味を取りかねたように、問われて、私は緩く首を振った。
「なんでもありません。・・・スケジュールが押してしまいますね。いきましょう。」

 視察先では、不思議な光景を見た。
 徒弟制の厳しい工房で働く年若い女性が、上司に怒鳴り散らされている様子に、足を止める。構わず先を行こうとする付き添いの方に声をかけ、彼女に話を聞きたいというと、少し怪訝な表情をされながらも、ヒアリングを許される。
「・・大丈夫ですか?」
 俯いていた彼女は驚いたように身体を跳びはねさせると、この地での正式な礼を取ってから、
「大丈夫です。お見苦しいところをお見せしました。」
 と、きっぱりと答えた。
 私達の存在は、他国の来賓と説明されていたのだったか、と思いながら、
「厳しい職場ですね?」
と、問いを重ねる。彼女は、私の顔を見上げて、暫く呆然としたように黙ってから、再び顔を伏して、
「いえ、あの。上司も私の能力を伸ばすためにやっていることです。私も早く期待に応えるだけの能力を身につけたいと考えています。」
 と答えた。組織文化にそう言わされているのか、それが彼女の本音なのかは分からない。ただ、その答え方には一切の淀みがない。
「そうして一刻を争って身につけた能力が、組織の力になると同時に、貴方自身の競争力にもなると?」
 私は笑顔を崩さぬままに、確認する。彼女は、我が意を得たり、とばかりに、反射的に頷いて、
「はい!はい、そうです。」
 とにっこりと笑った。
 文化によっては悲壮感を交えて語られるその台詞は、本当にこの惑星では、民の一人一人の中で、腑に落ちた価値観になっているというのだろうか。私は、胸が圧迫されるような息苦しさを覚えながら、
「ありがとうございます。お手間を取らせて申し訳ありませんでした。頑張ってください。」
 と、胸に手を置いて礼を取ってから、ヒアリングを終えた。

 一刻を争って能力を身につけることが、プレッシャーや競争疲れになることなく、彼等にとって、成長感、達成感、自己効力感といったプラスの感情にばかり結びついているのであれば、何の問題もない。
 この、機能制重視の殺風景な工房の中で、意欲を高める効果があるらしいという理由で飾られている赤色に塗りこめられたパネルのように。ここでは絵画や写真すら、すべて機能性・・・もっといえば、経済効率の名の下に評価される。それが『淋しい』と思うのは、私のエゴにすぎない。

「この惑星では、競争に疲れた方達や、なんらかの事情で社会的な競争に関わる事ができない方達はどうしているのですか。」
 重要な問いであることが分かっていながら、聞くのが怖い等と、我ながら不埒な考えで回避していた質問を、結局は視察の後半に口にした。
「専用のサナトリウムが、各地域にあります。各国で形式は多少異なりますが、能力伸長の欲求を失ったり、心身の状態が競争に適さぬものには、文化的な最低限の生活を保障し、セイフティネットとした方が、全体の効率も良いのです。」
 聞く前から予想されていた答えだったが、あまりの言い様に私は顔を顰めでもしたのだろうか。慌てるように、言葉が続けられる。
「ああ、いえ。例えば、我が国では、心身にハンディがあっても、そのハンディをものともせずに、社会に進んで貢献する者の方がずっと多数派です。社会では多様な能力が求められていますので、一つの基準で全ての民の能力を測ったりするような愚かな真似はしておりません。むしろ、思春期を過ぎたあたりで、自分の能力適性を見極められずに成長欲求を失うケースがあり、それは社会問題にもなっています。」
 私が顔を顰めたとすれば、それはそのポイントにではない。
「しかしその『多様な能力』というのは、『国の経済社会の発展』、という、より大きな指標にまとめあげられるものなのでは?」
 私は思わず感情的に、らしくもなく、皮肉な質問を口に上らせ、堪え性のない己を恥じた・・・しかし、付き添いの者は、それを皮肉とすら思わなかったのか、
「はい。その通りです。」
 と、やはり淡白に答えた。一瞬の目眩を、自分の身を抱く事で堪えて。
「有り難うございます。次の場所へ参りましょう。」
 うまく笑えたかどうかは定かではないが、私はなんとか礼を言うことができたことに安堵し、重たい足を引きずるように前に踏み出した。

----

「出張では常とは言え、かなりの過密なスケジュールでしたので、お疲れではありませんか。」
 視察の終わりに、出張の拠点となっていた国の会議場から、船の発着場へとジープで移動する中、エルンストは私に労いの言葉を口にした。さすがの技術力というべきか、ジープは砂を巻き上げながら進んでいるに違いないのに、振動もなく、密封された社内は快適な室温を保っている。
「いえ、この程度の移動で疲れたりは致しませんよ。」
 私は笑顔で答えながら、報告書の纏め方を思って、内心で溜め息を吐く。事実、身体は疲れていない。得体の知れぬ疲労感に襲われているのは、胸の内だ。
「ただ・・・。おそらく、視察の内容は、ディテールを報告する以外は、視察前に想定されたものを、そのままなぞり上げるような、形式的なものに成らざるを得ないでしょうね。」
 私の言葉に、批判的なニュアンスを感じ取ったのか、エルンストは視線を上げ、私の目を見てから、少し首を傾げた。
「お言葉ですが、それは、事前調査や数値データが、現状のこの惑星に適したものという証明とも言えると思います。」
 私はいっそ笑い出したい気分になりながら、降参のつもりで、右手を軽く上げて、首を振った。
「その通りです。すなわち、『予定通り』『想定通り』という訳です。」
 生真面目な彼の態度に対して、この感情は、如何にもいじけている。なんでもないことだというのに、私の中のつまらない拘りが、私に途方もない疲労感を味わわせるのだ。断じて彼のせいなどではないのに・・・。
 ジープから砂漠に降りたち、身体は灼熱の光線を受けて、突然の温度と湿度の変化に悲鳴を上げる。いよいよ帰りの船に乗り上がるべくして、私は街から離れた発着場でタラップを進む。

 びょう、と熱風が、私達の身体を嬲り、身に纏う衣をバタバタと乱暴に叩く。
 砂の交じった風に、仰がれるようにして、私は街を振り返った。時刻は夕刻にも関わらず、砂漠の向こう側で、猛々しく聳える鋼の建造物の群れは、赤や昼白色の険しい光を明滅されており、さながら私を威嚇する一つの巨大な生き物のようだ。
 機能性を究められて造り上げられたその形は、私の好みはともかく、ある種の美しさを纏っていると言えなくもない。たとえ、その美しさにこの惑星の民が気づく事がなかったとしても、このカタチは、彼等の誇りには違いない。

『いえ、あの。上司も私の能力を伸ばすためにやっていることです。私も早く期待に応えるだけの能力を身につけたいと考えています。』
『専用のサナトリウムが各地域に・・・。』
『そうして一刻を争って身につけた能力が・・・貴方自身の競争力にもなると?』
『はい!はい、そうです。』
『しかしその『多様な能力』というのは、『国の経済社会の発展』、という、より大きな指標にまとめあげられるものなのでは?』
『はい。その通りです。』

『・・・分かりました。それが女王陛下の御心なのでしたらば。』

 胸に迫ってくるのは、一体、なんの感情なのだろうか。

「本当に、必要なのでしょうか。」
 思わず唇に上った呟きは、誰の耳に入ることもなく、熱風に解け、流れていった。

----

 どろり、とした疲労感の中、意識が浮上する。
 体験したくもなかったものを、再体験してしまったような気がして、私は夢の内容を呪った。ここのところ、とりとめのない夢ばかり見ていた気がするのに、頬を撫でる熱風の感触まで、やけにリアルだったのは、寝入る前に会話した男が出張に言及したからだろうか。
 身体を起こして、夜になっていることに気づく。何時間寝たのだろう。オスカーが来たのは土の曜日だったが、まだ土の曜日だろうか。それとも、もう日の曜日になっただろうか。ベッドルームに時計を置くのは主義ではないが、これ以上こんな状態が続くのであれば、導入せざるを得ないだろう。
 それも、日付入りのものを。思いついて、自分で笑ってしまう。
 なんという、酷い状況に陥ったことか。
 オスカーの言うように、この状況があの出張によって齎されたものだとしたら、それはどういう意味を持っているのだろう。重たい頭では、うまく考えることができない。
 どうして・・・。
 情けなさというのも違っている気がするが、じんわりと涙が胸から押し上げられてくるようだった。
 しかし、瞳は渇いたまま。
 ベッドの上で、いつものように、ふわりふわりと取り留めなく行き交う感情の波の中、ぼうっと時間を過ごしている内に、不意に、コツ、コツ、という固い、はっきりとしたノックの音がした。いつもの家人の感じではないとは思いながら、胸元の衣を知らず引き寄せつつ、
「はい。起きています。入って下さい。」
 答えると、入ってきたのは、家人を伴わぬ、先ほどの出で立ちと変わらぬオスカーで、私はほんの少し驚く。彼が家人の付き添いを断ったのだろう。そして、おそらく、今日は土の曜日だ、と訳の分からぬ確認をしながら、ベッドサイドにやってきたオスカーを漫然と見上げる。
「休んでいたか。」
 単刀直入な確認に、
「はい。ですが、まあ、ここのところ、いつも休んでいるので、何も問題はありませんよ。」
 やや苦笑を交えながら、答える。
「お前、人と競い合う事を、楽しんだ事はあるか。」
 男は無表情なまま、いつもの高圧的な印象のままに唐突に問うた。その態度と、答えるまでもないような質問に、知らず、眉を寄せる。
「いえ。」
「それじゃあ、お前には、俺の気持ちは分かるまい。」
「はあ。」
 我ながら、間の抜けた答えだ。しかし、それ意外に答えようがなかった。
「それと同じだ。俺は、お前の言う『優しさ』というものの必要性も、おそらく、その正体も、本当には分からない。それはきっと、いつまでも、【何か、得体の知れないもの】に違いない。」

 よく、分からない。

 何を告げに来たのだろう。オスカーの薄青い瞳を見返していると、オスカーは、いつものように、ぐ、と眉間に皺を寄せて、顔を顰めた。まるで、私の存在そのものが、気に喰わぬのだというように。
 思えば、いつもそうだった。
 出会い、瞳を合わせるだけで、何故か、オスカーとは険悪な、固い空気を共有する羽目になる。
 それはまるで、【何か、得体の知れないもの】に、お互いに怯えているようでも、警戒しているようでもある。
「リュミエール。」
 けれども、視線を逸らさずに、オスカーははっきりとした口調で続けた。
「民の気持ちを理解する必要は、ないんじゃないか。」
 続けられた台詞に、突如、頭が真白な漆喰で塗りこめられるような感覚を覚える。
「なにを、言っているのです。」
 何かを考えつく前に口に上った自分の言葉に、ぱちり、と一度大きく瞬いてから、突然襲ってきた激しい感情の波に、押しつぶされるような感覚に、自分の身を守るように、私は二の腕を強く握った。
「何を、言っているのですか。」
 なんとか絞り出すように言って、ザラザラと粗く込み上げ続ける感情を持て余す。

 民の気持ちを理解する必要はない・・・?
 必要性も、その正体も、本当には分からない・・・?
 違う。違う。違う。
 私は、理解したいのだ。理解せずに、彼等に何の関与もしたくない。
 違う。そんなのは些末な、私のエゴに過ぎない。
 なんでもない。なんでもないことなのだ。
 分かっている。分かっている。分かっている。
 分かっているのに・・・。

「・・・・か。他の仕事がそうであるように。俺たちだって、要請があって、それに答える。その要請が、民からだとしても、陛下からだとしても、宇宙のバランスからだとしても。」
 オスカーの、オスカーらしからぬ、穏やかな落ち着いた声音が、混乱を来す私の脳内を、緩く撫でる。
 それはある種の労いのような感覚で。けれども、それを、私はうまく受け取ることができずに持て余す。
「そうだとしたら、私はなんのために、此処に居るのですか。」
 言いながら、自分で、自分の言い様に、納得する。
 こんな批判はオスカーに対してすべきではない。分かっている。
 けれども、そうではないか。それならば何故、私が水のサクリア等というものを、あまつさえ、『優しさ』等というものを、彼等に押し付けなければいけない。ただ命令に従って、何かを押し付けるのが役割であるのなら、何故それが私でなければいけない。

 何故・・・!!

 私が絶望を堪能するに十分な間を数えてから、オスカーは、再び穏やかな声音で私に頭上から言葉を投げた。
「分かり合えないことを、確認する為に。」
 身を抱いたまま、オスカーを再び仰ぐ。オスカーは、何かの痛みに耐えるような表情で、私を見下ろしていた。
「育ってきた環境が違う。分かるはずが無い。お前も、俺も。民も、陛下も。」
 分かるはずが無い・・・?
 では、それこそ、なんのために、我々は互いに口を聞き、作用し合う?
「だが、それでいいんじゃないか。分からないもの同士が、互いを交換する。」
 薄氷の瞳は、何かを諭す聖者のような色合いで、けれども、その表情は、現実の痛みに耐える確かなヒトのそれで。この男は、こんな不思議な顔をしていたのか、と改めて感じた。
「芸術というのは、そういった交換のための、表現の一種で、情動というのは、そのための一つの機構なんじゃないのか。・・・そう・・・。俺には、よく分からんが。」
 最後は、いつものように、役者ぶった動作で、肩を竦めてみせた。
 そうなのだろうか。分かるはずもなく、それでいいのだろうか。
 その程度の交換を、我々は延々と繰り返すのだろうか。そんな哀れな生き物だったのだろうか。
 それとも、そんな哀れな活動をし続ける可笑しみが、ヒトというものの愛しさなのだろうか。
 分かり合えずとも、表現せずにいられない、互いを交換せずにいられない、互いに情動を抱えざるを得ないことが、ヒトの面白さなのだろうか。
 いや、それよりも。
「貴方から、芸術や情動の話を私が聞く事になろうとは。」
 オスカーから、私が芸術や情動の話を聞いている、この奇妙な状況が今は可笑しい。
「水の守護聖様を相手に下らんことを言ったようだ。忘れてくれ。」
 フン、といつもの調子をすっかり取り戻して、オスカーは鼻を鳴らし、踵を返した。
「オスカー。」
 何を言いたいかも分からず、けれども、私は扉へと歩む彼を呼び止める。
 何事か言いかけようとしたものの、彼は私に背を向けたままに、それを制する。
「リュミエール。」
 その呼び様は、言わずとも、私の言いたいこと等分かっているといった風だった。
 私すら分からぬ、私の言葉を、彼は推定できたとでも言うのだろうか。
「お前がそんな調子だと、俺まで調子が狂う。いいからさっさと回復しろ。」
 振り返ることもなく、いつもと変わらぬ、憮然とした言い方をして、ふらりと、右手を振る。
 彼のすらりとした背中は、私を依然として拒絶しているのか、受入れたものの、それをどうしたものか困っているのか。私はそれを苦笑して見送った。

 分かり合えなくて、いい・・・?

 私は、心で繰り返して、脱力するように、背を枕に投げる。
 ばふ、と音がして、心地よい弾力が私の身を受け止める。

 けれども、それでも私は。
 多分、静かに声を発し続けるのだろう。

 たとえそれが、誰に届かなくても。

----

 翌日。

「もう『起きた』のか。もう少し『寝ていて』も良かったと思うが。」
 常ならば週に二、三度は訪れる闇の守護聖の邸宅を数週間ぶりに訪れると、アメジストの瞳を持った青年は、いつもとなんら変わらず、隠喩を使って悪態をつく。彼はゆったりとカウチに半分寝そべるようにして腰掛け、私を迎えてくれた。
 回復を歓迎するのには程遠いその様子と、部屋を全体を包み込むような白檀の香りとに、懐かしさを覚えて、私は知らず深く息を吸って答える。
「そうでしょうか。」
「疲れているのなら、眠って回復したら良い。他に方法などない。」
 ぶっきらぼうな言い方は、けれども不機嫌に由来するものではないと知っている。そう、心身の疲れを本当の意味で癒すのは、彼の言うように、ただ、眠ることなのかもしれない。
「十分眠りました。そして、意外な人が起こしてくださったのですよ。」
 ほどんど私専用と思われる演奏用の丸椅子に腰掛けながら、笑んで答えると、
「ほぅ?」
 と興味深げにクラヴィス様は声を漏らし、私の微笑みに応えるように笑んでから、
「余計なことをする輩も居たものだ。水の守護聖には、まだまだ休息が必要だというのに。」
 最後は溜息をついてみせる。口元の微笑みは消えず、彼の皮肉は本心とは思えない。
「誰だと思われますか?」
 不意に目覚めた悪戯心で、問えば、
「意外と言われれば、思いつくのは1、2しかないではないか。そうだな。炎のあたりか。」
 ほとんど確信めいて告げられた正答に、思わず、声を上げて笑ってしまう。
「ご名答です。次点はどなたです?」
「勿論、首座のアレだ。」
 当然至極、といった様子に声を失って笑い続ける。笑いをなんとか収めながら、持ち込んだリラを調律しつつ、
「分かり合えなくても・・・分かり合えずとも良いと言われました。」
 いつもそうであるように、闇の守護聖の前では、論理的に事情を説明しよう等という気持ちをなくしてしまい、断片的に感想を漏らす。聞き入るように、彼がカウチの肘掛けの上で、頬杖をついて身体をささえるのを視界の隅に収めながら、
「不思議なものですね。私は、分かり合えずとも良い等とはやはり思えていないのに、何故かこうして、調子を取り戻しました。」
 瞳をやや伏し目がちにして、どこか遠くを見るように、青年は返す。
「お前は、自分の気持ちをないがしろにし過ぎる。」
 時に、未来や人の心の奥底までを見通してしまう目は、一体、今は何処を見つめているのだろう。思わず手を止めてしまう。
「異なことをおっしゃいます。私は、自分の感情に振り回されてばかりです。少々、大袈裟に自分の感情を取り扱いすぎていると、常より思っていますのに。」
 少し拗ねてしまったような口調は、やはりこの人に尊敬と同じように親しみを覚えているからだろうか。
「まさにそこだ。」
 口の端を微妙に持ち上げて、短く告げるなり、少々意地悪く黙ってしまったクラヴィス様に、私は小首を傾げる。腑に落ちていない私に、クラヴィス様は、瞳だけをこちらに戻し、
「聡いお前も、存外、自分のこととなると、鈍感なものだな。」
 と、吐息を漏らすような彼特有の笑い方をする。揶揄われている。それは不快ではない。しかし、よりによって『鈍感』とは・・・。確かに貴方に比べればそうでしょうけれども、炎の方等に比べれば、いくらか敏感なつもりですが、と内心で悪態を付きつつ、くるりと視線を巡らせて言葉を探すが、やはり思い当たらない。私は小さく片手を挙げる。
「降参です。『そこ』とは?」
 私の不服な表情にだろうか、彼はさも可笑しそうに眉根を寄せて、
「時に、お前は仕事のこととなると、『なんでもない』と口癖のように言うが、自覚しているか。」
 はぐらかされてしまった気分になりつつも、
「さほど、口にしてはいないと思いますけれども・・・。」
 独り言のように口にする。彼は聞き流すようにして続けた。
「『なんでもない』と意識するということは、それ自体、何でも無い事だ等とは思わぬ方が良いかもしれぬ。」
 アメジストは、まるで私の心を、私よりもずっと深く把握しているようで、じぃと見つめられると、落ち着かない。それでも、クラヴィス様の意図に薄々思い至る。
「私が、『なんでもない』と、仕事に対して、自分の情動を押し込めることで、かえって問題を大きくしていると?」
 私の言い様に、クラヴィス様は、片眉を吊り上げて、ふい、と視線を逸らす。
「『問題』等とは思わぬ。我々の『仕事』等、たかが知れているからな。ただ、もう少し楽をしても良いと言いたかっただけだ。」
 今度は、どうやら向こうが拗ねてしまったようだ。
「申し訳ありません。言い方が悪かったようです。もう少し、執務に対しても、感情を発露しても良いと?」
 私の笑いを含んだ声音に、ムッとするようにこちらに視線を戻しながら、けれども、やがて、ニヤリと人の悪い笑みを取り戻して、
「そうだ。例えば、件の出張も、炎と一緒であったならば、お前は途中で彼奴と口論でもして、却って滅入る必要もなかったかもしれぬではないか?」
 等と言う。その様に、思わず吹き出してしまう。
「違いありません。あの人との出張は滅入るばかりだと思っておりましたが、存外、言いたい事は堪えられておりませんし。」
 言いながら、出張の話などしていないのに、この人には全てお見通しだな、と脳裏で思いながら、中途で止めていた調律を再開する。満足気に細められた視線を確認しながら、何を弾こうかと思っていると、
「今宵は歌が良い。」
 さりげない、やや珍しいリクエストが下った。私は、いつか耳にした、歌詞のない歌を思い出しつつ、旋律を少々リラでなぞって確かめ、笑みを深くして応えた。
「それでは、草原の民の歌を。」

----

 数日後。

「このレポートの何処に不満があるというんだ。」
「おおよそ、全てですね。」
「全てとはなんだ、全てとは!」

 やや懐かしさすら感じる、愚にもつかないやり取りを、炎の守護聖と宮殿の廊下で繰り広げつつ、私は表情を固めたまま、内心で笑う。
「そもそも、その視察は結論ありきではないですか。馬鹿げています。第一・・・。」
「結論ありきではない。それならお前の調査はどうだ!調査目的が明確なのと、結論ありきなのは全く別のことだぞ!!」
「調査目的が恣意的に過ぎると申し上げているのですよ。そんなことも分からないのですか。怒りを通り越して、呆れるというものですね。」
 ジュリアス様に仲裁を求めようとして、失敗したらしい炎の守護聖と、私はしっかりと視線を合わせると、ニッコリと笑ってみせる。
「オスカー。情動とは、存外厄介なものですね。分かり合えないと分かっていても、なお、分かり合いたいと思うのですから。」
 きっと、私は、こうして、飼いならせぬ情動を抱えて、執務をし続けるのだろう。
 時に、理不尽な気持ちを味わい、そのような気持ちを感じた自分に、また滅入るのかもしれない。
 けれども、ここには、私の心を分かった上で、それを受け止め、指南してくれる人も、私のやや八つ当たり気味な情動の発露を受け止めてくれる人も、居るではないか。

 たまに、胸を掠める違和感を、ただ見過ごすのではなく、押し込めるのでもなく、こうして表現する。
 分かり合えないまでも、分かり合いたいのだと、声にすることは許されているのだから。

 誰に届かなくても・・・。
 いや、もしかしたら、それは、誰かには届いている。

 あるいは、それは意外な人にこそ。

 私は笑んで、背後で「俺は誰にも分かってもらいたいなんて思わないぞ!」等と叫び声を上げる人に苦笑しながら、知らぬ間に軽やかになった足を前へと踏み出した。




textデータ一覧へ