――――アンジェリーク二十周年に―――
    ――――そして、夏原かやさんに―――



白昼夢、あるいは死への欲求




 真昼の夢。酷く曖昧な。
 どこか毒性のある、ソレ。

「・・・かしました?・・・リュミエール?」
 ふと我に返って、ルヴァ様の瞳を見やる。
「珍しいですね。貴方がぼーっとしているのは。」
 クスリ、とルヴァ様は穏やかに笑った。それで、ここがルヴァ様の私邸であることと、お茶に招かれて此処へ来たことを思い出す。会話の途中で自失するとは、と恥じ入り、知らず頬が紅潮する。
「すみません。せっかくお招き頂きましたのに。」
「いえ。寧ろ嬉しく思いますよ。貴方が私の前でそうやって自然にしてくれているのだと思うと。」
 ふわりとした笑顔に、思わず見入ってしまう。そして、その内容に思い至る。
「ありがとうございます。私は・・・やはり、いつも緊張しておりますでしょうか。」
 そうですねぇ、とルヴァ様は伏し目がちにして、手にしていた湯のみを暖めるように、両手で包み込んだ。
「緊張というのとも、少し違うのですが・・・。以前は、少し、クラヴィスを羨ましく思う事もありましたねぇ。」
 知的な瞳は、湯のみの中に、何を見出すのか、私には計り知れないが、その告白は、意外そのもので。
「羨ましく、ですか?」
 驚きが伝わったのだろうか、ルヴァ様は、もう一度静かに、少々の悪戯っぽい色を含めて、こちらを見て笑った。
「意外ですか?」
「・・・はい。」
 失礼だっただろうか、と思いながらも、素直に答える。
「そうですか・・・。意外とリュミエールは、自分に向けられる視線には無頓着なのですね。」
 そして、再び視線は湯のみの中に戻された。私はどこか置いて行かれたような気分を味わいながら、知らず、小首を傾げる。ふふ、という笑い声がルヴァ様の唇から漏れて、
「変な意味ではありません。ただ、今日お話したいと思っていたことに、無関係でもないのですよ。」
 私は、先回りするように、あれこれと、このところの出来事に思いを巡らす。年長の守護聖に叱られるようなことを何かしてしまっているのだろうか、と。おそらく、それは表情には出ていないはずであるのに、ルヴァ様は、経験からか、
「ああ、いえ。・・・えぇと・・・。私が何か話すというと、まるで小言だと思われてしまうことが多いのですが、違うのですよ。そうではなくって・・・。」
 慌てるように、言い募る。私は思っていた事を言い当てられてしまったように感じて、ますます、恥じ入った。
「はぁ。もっと上手く、オリヴィエのように、色々なことをお話できればいいのですがねぇ。」
 ルヴァ様は、常のように、ブツブツと、そのまま独り言を続ける。私の話し方がやはりいけないだとか、ついつい何事も小言染みた言い方になってしまうだとか、といった内省がそのまま言葉になってしまうという様子に、私は知らず少し笑んで、
「ルヴァ様は、いつでも相手にきちんと向き合って、お話されています。」
 ややきっぱりと言うと、ルヴァ様は、ハッとしたように、こちらに視線を戻し、ゆるゆると頬を赤らめると、
「ありがとうございます。」
 と、とても謙虚に言い、所在無さげにポリポリと頬を指先で掻いた。
「お話、というのは。」
 私は、頂いた緑茶を一口頂いてから、口火を切る。
「ええ。実は、オスカーのことです。」
 ルヴァ様の言葉に、それまで周囲を包んでいた穏やかな空気が霧散し、口の中のまろやかな玉露の後味が、突然苦く、重たい口当たりになったような気がした。

----

 ルヴァ様のお話は、つまるところ、オスカーは私を嫌っていないという内容だった。
『果たして、そうでしょうか。』
 と口の重い私に、ルヴァ様は、
『貴方は周囲からの好意の視線に、存外、疎いのですよ。おそらく・・・。』
 と、笑った。好意?敵意しか感じた事が無いのに?と反射的に内言で反論している私に、続けられた言葉は。
『それに・・・。貴方も、オスカーを嫌っている訳ではないのでしょう?』
 私は、自分のここのところの白昼夢を言い当てられたような気になって、固い声音で、分かりません・・・とだけ答えた。ルヴァ様は、苦笑なさったのだったか。・・・思い出せない。
『すれ違っているのですよ。多分ね。』
 その言葉とは裏腹に、確信めいた言い方に、私は、胸が詰まるような感覚を覚えて、おそらく、ただ、その理知的な瞳を、漫然と見返してしまっていたのだろうと思う。

 馬車で送って頂けるというのをお断りして、自分の足で私邸まで帰る途中。ルヴァ様とのやりとりを反芻しながら、カフェの前に差し掛かったところで、知らず、足元に落ちがちだった視線に、影が差した。
「おんや、珍しい。リュミちゃんじゃないのー?」
 ヒラヒラと、視線を遮るように手を振られ、顔を上げる。聖地で最も、と言って良い、華やかな人物がそこに居た。いや、聖地と限定しては、この友人には不服かもしれない。
「オリヴィエ。」
 いつでも鮮やかな色合いの、美しい衣装に身を包んだ彼は、華奢な肩を竦めて見せた。太陽の下では、些か目に眩しい彼に、思わず瞳を細める。
「下なんか向いちゃって、せっかくのこの陽気も台無し!」
 この世の終わり、とでも言いたげに顰められた表情に、思わず吹き出してから、
「すみません。少し考え事をしていたもので。」
 答えて、また何やら、暗い考えが自分の身を包むような感覚に襲われる。
「なぁに?反りの合わない相方のこと?」
 ンフフ、と意地悪く笑う彼に、けれども、その言葉に思い当たる節が無い。
「相方?」
「決まってンじゃない。水に対して、炎。あの聖地一の自意識過剰男のことさ!」
まるで演劇でもしているように、大袈裟に広げて、終いに、天を突くように人差し指が持ち上げられての、余りの言い様に、異論は無いが、話題の人物を若干気の毒に思う。
「貴方にかかると、どなたも形無しですね。」
 苦笑しつつ返せば。
「で?アタリでしょ?」
 それは問いの形でありながら、それが正答であると確信しているような言い方だ。
「相方などでは、ありません。」
 我ながら遠回しに肯定すると、ふん、と彼は鼻を鳴らす。その意図を読めないでいると、私の様子など一向に介さない、といった調子で、こっち?と彼が指差す。私が頷くと、彼は「つき合うよ。」と相変わらずの踊るような軽やかな足取りで、隣を歩き始めた。
「オリヴィエは、白昼夢を、見た事がありますか。」
 気のおけない友人と共に歩いている気軽さからか、私は知らず唐突に、核心を尋ねてしまっていた。
「白昼夢ー?そりゃ、穏やかじゃないねぇ。」
 夢の守護聖は、台詞とは裏腹に、相変わらず軽い口調のままに、けれども、問いには答えてくれない。
「穏やかでは、ないですよね。やはり。」
 落ち込む私に、「うん。」とハッキリと追い打ちをかけてから、
「聞かれたくなかったら、答えなくていいよ。それって、オスカーの?」
 何事にも聡い友人に、打ち明け話をするのは些か早すぎたのではないか、と私は自分の無計画さに失笑しながら、
「ええ。」
 と諦め半分に答えた。
「私は見た事無いなぁ。」
 おそらく態と、彼は軽い調子で先ほどの問いに答えてみせてから、
「でも、それってよっぽどだよね。ちょっと羨ましい。」
 足取りは軽いままに、視線を少しだけ落として言った。
『羨ましい』
 今日は、やたらと、出会う言葉だ。
「羨ましい??何が?誰がです?」
 何かを否定するような声音で言ってから、少々この友人には気を許し過ぎている自分を改めて感じる。
「そりゃ、そんなに思ってもらえることに?オスカーに?じゃない?」
「私が、オスカーを、思っている?」
 どこかに不満が滲んだのだろうか。
「違うの?」
 苦笑しながら、仕方なさそうに言う友人を、チラリと横目で見やる。オリヴィエも瞳だけでこちらを見やっていた。
「オスカーのこと、話す時さ。リュミちゃんって時々怖い顔するよね。」
 怖い顔?
「それ、今の、その氷みたいな顔。」
 足を止めて、彼は、私の顔をビシッと指差して見上げる。合わせるように立ち止まって、ヒールで少しだけ私より高い位置にある彼の瞳をみやる。
「別にさ。アタシは、ジュリアスやルヴァと違って、アンタら二人が仲悪かろうが、仲良くやろうが、あんまり興味ない。執務の効率とやらも、宇宙のバランスとやらも、別にどうでもいいしさ。でも、アンタ達が、ちょっと普通じゃないってのは分かる。ジュリアスとクラヴィスが拗らせちゃってるのとは、ちょっと違うよね。」
 ちょっと普通じゃない。ジュリアス様とクラヴィス様とは、ちょっと違う。
 曖昧な、それでいて、何故か本質的なもののように感じさせる言及に、私は自分の感情を明らかに持て余す。美しく色づいている指先をまんじりと眺めていると、
「何をそんなに怒ってるの?」
 ふ、と鼻頭に皺を寄せて、耐えきれない、といったように、彼は声を上げて笑い出した。その明るさに、一瞬、毒気を抜かれてしまう。
「怒っている?」
 ほとんど何も考えずに唇から出でた言葉に、
「怒ってるように見えるけど?まるで、アタシがアンタとオスカーのことを言うのが、気に喰わないみたいに。」
 また軽く肩を竦めてみせ、羽織っていたファーが肩からするりと滑る。その様子まで、まるで一つの映画のようで。私はその意味を理解するのが遅れた。
「気に喰わないなど・・・。」
 否定しながら、確かに、ジワジワと自分を満たし始めた情緒の乱れが、怒りのそれであるようにも思う。
 一体、なんなのだろう。自分の事だと言うのに、はっきりとしない。焦れるような感覚を覚える。
 オリヴィエは、私の様子を暫く観察するようにしてから、もう一度片方の肩を器用に竦めてみせ、
「まあ、アタシは別にだから、構わないんだってば。たださ、リュミちゃんが苦しそうだから。その感情に名前を付けるのを、手伝うのもやぶさかじゃないってだけ。」
 私の肩を叩いて、歩くように促すと、行く先に遠く視線を馳せて、
「アタシには勿論、答えは無い。でも、リュミちゃんが答えを出すのを手伝うことはできるかもしれないからさ。」
 歩みながら聞く、真剣な声音に、私は、また、大きく振れる感情を知らず、胸で噛み殺そうとしている自分に気づく。
「オリヴィエ。」
 今度は、明らかに、怒りではない。この友人に対して、吐露して良い感情に違いない。
「んー?」
 視線を合わせようともせず、眠たげになされる返事は、彼の優しさだろう。
「有り難うございます。」
「いいって。」
「有り難う、ございます。」
 溢れた想いは、言葉を重ねても、表現できたかどうか。
「ふ、ふふ・・・。」
 心底嬉しげにする友人に、私は再び視線を投げることで、意図を問う。
「いや?そこで、すみません、って言わなくなった分、リュミちゃんはアタシの事分かってくれるようになったなーってね。こっちこそ、ありがと。」
「いいえ。」
 私は、暖かになった胸を、掌で確認する。
「いいえ。」
「一人で考えるのもいいけどさ。何も問題がはっきりしなきゃ、誰かに言えないってこともないしさ。たまには良いでしょ?」
 おそらく、常ならば、答えあぐねる所で、私ははっきりと答える事ができた。
「ええ。相手が貴方ならば。」
 私の答えは、しかし、彼の思った通りのものではなかったようで、彼はちょっと困ったように笑ってから、立ち止まり、「アタシ、こっちだから。バイ。」と軽く手を振って、ネコのようなしなやかな動きで、去って行った。

----

『すれ違っているのですよ。多分ね。』

『怒ってるように見えるけど?まるで、私がアンタとオスカーのことを言うのが、気に喰わないみたいに。』
『ただ、リュミちゃんが苦しそうだから。その感情に名前を付けるのを、手伝うのもやぶさかじゃないってだけ。』

 私は、苦しいのだろうか。
 気の赴くままに足を進めて、私邸の方向とは程遠い、森の泉に出てしまっていた。泉の湖面を見るともなしに見やりながら、自問自答する。少しの逡巡の後、結局、泉を見渡せる木陰を選んで、草むらに直に腰を下ろす。さわさわと、小さな滝が控えめな音を立てて、湖面を揺らしていた。両足を投げ出して、天然の音楽でもあるかのようなそれに身を委ねる。
 自然、ここのところ私を悩ませている白昼夢を思い出していた。

 氷色の視線。聖者が何かを問いただすように、こちらをまっすぐに見つめて、やがてそれは、悪辣な笑みへと形を変える。
まるで、私を試すように。
 ぞっと冷え込むような悪寒を覚えると同時に、闇雲に叫び出したくなる。
 けれども、声を失ってしまったように、私は口を開いては閉じるばかりで、言葉が出ない。
 自分の大切な何かを、脅かされている。
 大切な何か?何かとは何・・・?
 自分をしっかりと抱きしめて、私はその喪失感に耐えようとするのに、まるでその愚かな行為を嘲るように、その男から素早く伸び出でる炎の蔦に、全身を絡めとられる。
 絡めとられて、緩やかにその炎は私の自我を奪って行く。

 その感覚は、甘やかな、死の誘惑に似て・・・。

「驚いたな。」
 ビクリ、と全身を揺らして、私は死の誘惑から現実へと急激に引き戻される。ガサガサと盛大な足音を立てて、低音でありながら、甘さを持ったハスキーな声の主は背後から、私の隣へと荒っぽく歩み寄った。誰何するまでもない。こんな声の主は、彼しかいないのだから。
「趣味の悪い事ですね。」
 ほとんど脊髄反射のように、湖面にやった視線を動かす事も無く、悪態が口を突く。
「随分だな。覗き見してた訳じゃない。お前だと思い至ったから、すぐに声を掛けた。」
 私を相手にしているときには、いつもそうであるように、彼の声音はすぐに固いものへと変化する。ちらりと視線を上げると、私の言い様を非難するような渋い視線がこちらを見下ろしている。
『すれ違って・・・?』
 どこもすれ違っているようには思えない。互いの敵意だけが、視線の応酬で確かに交換されているように思う。
「何をしている。」
 視線が絡んだまま、男は無表情に聞いた。果たしてそれは問いなのかどうかすら分からない。語尾は一部足りと上がっていない。そう、きっとこれは問いではなく、非難。思い至って、私は僅かに眉を寄せる。
「何も。」
 まるでゼフェルがするそれのように、チ、とあからさまな舌打ちの後、彼の視線は私から外れて、湖面へと向かった。すらりと伸びた背に、片手は髪を鬱陶しげに掻きやり、もう片方の手は、腰に当てられている。炎の守護聖になるべくして生まれたとでも言うような、緋色の髪は、今日がオフだからだろうか、陛下が女王候補であったときのように、セットされているものの、逆立ってはいない。
 彼は、きっと育ちが良いのだろうと思わせる態度を他の者には取っている。なのに、私の前では、些か行儀の悪い素行が目立った。それはあるいは、私が彼には、他の人にするように上手く笑む事ができないのと同じ理屈なのかもしれない。
「最近、お前の、夢を見る。」
 独り言か、あるいは、私へと向けられた言葉なのか判然としないような感じで、炎の守護聖は、こちらを一瞥することもなく唐突に告げた。私は、ドキリ、と心臓を踊らす。
「いや・・・。お前ではないのかもしれんが・・・。」
 続きも、やはり独り言のようだった。
「どんな、夢ですか。」
 我ながら、まるで興味の欠片も感じさせないような棒読み。けれども、投げ出した両足の先や、地面についた両手の先が、冷え込んでいくような緊張感に包まれている。
「お前が出てくるんだ。気分の悪い夢に決まっているだろう。」
 ハッ、と嘲笑して、けれども、自分で言って、自分で傷ついたように、男の視線は、足元に落ちた。常ならば、神経質に反応を返していて可笑しくないところで、私は、胸が締め付けられるような感覚に襲われていた。
「自分を失う、夢ですか。」
 問うつもりが、決めつけるように語尾が落ちた。隣に立つ男は、こちらを振り向いて、口元に曲げた指先を当てる。
「自分を、失う・・・?」
 訝しむように、一人言ってから、言葉を続けて、まるでその夢を思い出すように、瞳が覚束なくなる。
「そう・・・だな。そう言ってもいいかもしれん。」
 常ならば、私の前では、ずっと張りつめた空気を纏っている男が不意に見せた隙に、私は思わず視線を逸らし、小さな滝を睨みつけるようにする。
「私も、見ます。」
 男がこちらを驚いたように見つめる気配に、私は「同じものか、分かりませんが。」と付け足した。
「どんな夢だ。」
 同じ質問に、少し笑ってしまってから、今更のように、口元を隠しつつ、
「貴方が出てくるのです。」
 というと、
「気分の悪い夢に決まっている、か?」
 憮然と続きを引き取って、男は無遠慮な動きで隣に腰を下ろした。ただし、ラフな格好なりに、身につけていたらしいマントを敷いてから。
 私は思わず鼻頭に皺を寄せ、声を失って笑ってしまう。物珍しそうに、男が私を見やっている視線を、横顔で受け止める。自覚はあった。彼の前では滅多に笑わない。だから、その無遠慮な視線は、仕方が無いだろう。冷え込んでしまった足を温めるように、両膝を引き寄せ、抱え込んで、湖面を見やったまま言う。
「貴方は、私が嫌いですか。」
 オスカーが突然鎧を脱いでしまったのがいけないのか、私は突然、丸腰で彼の前に飛び出してしまうようなことを言ってしまう。面食らったように、マジマジと私の横顔を見つめるオスカーに、
「やっぱり、いいです。」
 私は所在を無くし、自分の膝頭に視線を落とす。
「なんだそれは。」
 私の質問にか、私の取り消しにか、判断の付かない言葉に、ほとんど反射的に、不満を持つ。
「いいと言って・・・。」
「分からん。」
 紅潮する頬をごまかすように、俯きながら、重ねて取り消そうとするのを、遮るように、オスカーはきっぱりと言った。いつもそうするように、視線はまっすぐに私に注がれている。私は、その視線を苦手としている・・・が、そこに苦手なソレが確かにあるのが分かっているのに、何かに吸い寄せられるように、視線をゆるゆるとそちらに戻した。
「分からん。」
 木陰で直射日光の下ではないとはいえ、野外で、間近にみるオスカーの瞳は、光彩が引き絞られていて、常よりずっとヒトのソレではないように見えてしまう。
 いつもは苦手にしているソレを、けれども私は光彩の奥にあるものに惹き付けられるようにして、ぼぅ、と魅入っていた。
「その夢と、今のお前は、同じ目をしている。」
 言われて、私は夢の冒頭でいつも晒される、聖者のような瞳に、今の彼の瞳は似ていると思った。あるいは、私の瞳も、彼にそのように見えているのだろうか。
 自我を脅かされる、白昼夢。
 それは互いの、分かりやすく正反対の、サクリアに依存するものなのだろうか。それとも・・・。
「お前の目は、苦手だ。まるで落ち着かない。」
 逃れるように、視線は逸らされて、湖面へとやられる。私は、それを惜しいと思った。もう少しで、彼の瞳に潜む、私を脅かす何かの正体を、掴めたような気がして。
「思わぬところで意見が一致するものですね。私も貴方の瞳が苦手なのです。まるで、いつも、私を責めているように感じて。」
 そう、それで、落ち着かない。彼の横顔を見やりながら、淡々と続ける。
「ルヴァ様に、すれ違っているのではないかと言われました。」
「ルヴァが?」
「ええ。」
「・・・なぁ。」
 片膝を立てて、そこに頬杖をつくようにして、オスカーは私に再び視線を戻した。ガラス細工のような、それが再び私を捉える。苦手だと言った割には、随分とまっすぐに。
「なんですか?」
「お前は、どう考えている?」
「何を?」
「ジュリアス様と、クラヴィス様の不仲は、故あってのことだ。」
「ええ。」
「俺はジュリアス様を慕い、お前はクラヴィス様を慕う。」
 何故か、私はそこで、不快感を覚える。クラヴィス様と私の関係と、ジュリアス様と彼の関係とを、一緒くたに論じられたから?結論を出す前に、オスカーは言葉を続けた。
「だが、そのことと、お前と俺の不仲は無関係だ。そうだろ?」
 こちらを伺うような視線と、少し寄った眉は、自信家の彼らしいものとは言い難い。何故、そんな顔をするのか。ああ、そういえば、この顔を見たことがある・・・思った瞬間、不快感は私の中で更に大きくなって、ふと、脳がスッと冷え込むような感覚を覚えた。
「つまり、私と貴方が不仲だと、ジュリアス様が困る、と?」
 些か論理に飛躍があったが、おそらく、私の言葉は、的を射ていたのだろう。オスカーは眉間の皺をぐっと深くした。それから、歯を剥き出すようにして、吐き出す。
「有り体に言えば、そうだ。お前がルヴァに言われるのと同じことだ。」
「ジュリアス様に、水の守護聖とうまくやるようにと、命でも受けたのですか?大した忠義者ですね、貴方は。」
 呆れて、我ながら剣呑な言い方になってしまう。
「お前の方が、余程クラヴィス様の言うがままだろうがッ!」
 オスカーは激高したように言い捨て、それから、プイ、と視線を逸らし、ぐしゃ、と頬杖をついていた手を頭にやって、髪を苛立ちのままに潰す。
「・・・どうしてこうなる。」
 続けられた言葉は、どこか泣き言のようだった。
『どうして、こうなる。』
 私も内心で全く同じ泣き言を呟きながら、それでも、言わずにはおれず、細くなってしまった声で続ける。
「私とクラヴィス様は、貴方がたとは違います。」
 否定するように、オスカーは頭を振りながら、
「そうかもな。・・・いや、そうだろうよ。」
 と、こちらを見ないまま、口元に皮肉な笑顔を浮かべて呟いた。
 明確な、拒絶。
 お前のことなど、分からなくていいのだという。
「何故・・・ですか。」
 ずっと、胸の中で燻っていたものが、押し出されるようにして、喉元まで競り上がってきている。危険だ、これ以上は・・・。どこかで、警鐘が鳴っている。
「何故・・・。」
 今にも泣き出しそうな私の声音にか、訝しむように、オスカーがこちらを見やり、そして、驚いたように目を見張って、固まった。私はその顔を見つめたまま、けれど、迫り上がってきたものを、もう止めることができない。
「どうして、そう・・・。貴方は私を見ようとしないのですか。」
 我ながら何を言っているのか分からない。私を見ようとしない?そのことに、今更、何の不満がある。そう、不満などない。・・・ないはずだ。
「・・・?何を言って・・・。」
「いつだって、そうではないですか。貴方は、私に興味などない。なのに何故!そうやって、私を敵視する、ような・・・。」
 何が言いたいのか、自分でも分からない、分からないまま、胸に溢れた制御しきれない感情が、涙腺を破り、オスカーの顔の輪郭が、じわりとぼやける。なんとか涙を唾液と一緒に喉を鳴らして飲み込んで、辛うじて瞳からそれは溢れずに済む。何が言いたいのかは分からず、けれども、まるで言い足りない。
「何、故・・・ッッ!!」
 まだ言い募ろうとする私に、駄々っ子の相手でもするように、オスカーが弱り切った顔付きになる。
「・・・おい?・・・落ち着け・・・。」
 違う。私が言いたいのは・・・。そうではない。そうではなく・・・。
「敵視など。」
 ふと、絞り出されるような声音に、知らず伏し目がちになっていた視線を上げる。苦汁の表情で、オスカーは続けた。
「敵視など、していない。おそらく、興味が無い訳でも、ない。」
 オスカーは、暫く迷うように右手を彷徨わせた後、私の髪をぎこちない動作で掻き上げた。幼子を、慰めるように。
「お前がよく分からないだけだ・・・。いや、俺がお前に対し、どう接していいのか分からない、と言う方が正しいか・・・。」
「何を言って・・・。」
 するり、と髪を触っていた手が下がり、私の頬を撫でる。骨張った手の、かさついた親指の感触。無意識に私は、その手の上から、自分の掌を重ねる。
 瞬間。ドクン、と何か凶暴な程の音を立てて、心の臓が鳴った。警告の鐘の音は、もうその心音に追いやられて、遠く、微かで、頼りない。
 光彩の奥、瞳孔の中に。私は吸い寄せられるようにして、身体を崩す。彼の右手を左手で掴んだまま、彼の敷いたマントの上で、体重をかけて、押さえつけるようにする。右手を彼の頬に伸ばし、顔を近づける。
 無意識だった。
 角度をつけて、オスカーの唇に唇を寄せる。少しかさ付いた、薄い唇の感触に、自分がオスカーに口づけたことを、知る。オスカーの瞳が、自失したように、見開かれているのを、どこか冷静に見つめながら、もう一度、角度を変えて、唇を合わせる。ゆっくりと、顔を離す。心臓の音は、相変わらず大きかったが、どこか胸の詰まりが、すっと撫で下ろされるようだった。
 感情は混乱しきっていて、一体何をどう感じたら良いのか全く分からない。
 私の顔は、きっとオリヴィエの言う、凍るような無表情だろう。自覚はあった。
「な・・・。」
 オスカーは、言葉に成らぬ音を発して、呆然とした表情で、ただ、こちらを見つめていた。唇が、私の唾液に濡れている。その様に、ますます、ドクン、ドクン、と音が高まり、その高まりに、私は自我が、乗っ取られてしまったような感覚に陥る。私が更に身を乗り出すと、オスカーの背が、押し倒されるようにマントに着く。さらり、と肩から滑り落ちた私の髪が、オスカーの頬に触れた。
「抵抗、しないのですか。」
 言ってから、やはりどこか客観的な自分が、「一体、私こそ、彼に何をしようと言うのだろう」と自分に問う。オスカーは相変わらず呆然とした様子で、
「な、・・・に・・・?」
 混乱しきった、用をなさない質問をよこした。
 私だって分からない。一体全体、何をしようと・・・?
 けれども、何かに突き動かされるように、もう一度、唇を落とす。二度、三度、角度を変えて、それから、自失したままに動かない、彼の唇を割って、歯列を舌でなぞる。びく、と彼の身体が反応して、それからぎこちなく、やっと彼は私の肩を押しやった。私は、少しだけ身体を持ち上げて、落ちてくる自分の髪を鬱陶しく思い、髪を一度掻き上げる。
「待て。ちょっと待ってくれ。」
 混乱の極み、といった様子で、上擦った声は、とても炎の守護聖のものとは思えない。瞳を隠すように、骨張った大きな右手で、彼は自分の顔を覆って、はー、と長い溜め息を吐いてから、呻くように言った。
「意味が、分からない。」
 その言葉に、思わず、フッと吐息を吐き出す。
『実に、実に的確な感想だ。』
 思いついた瞬間、不意に腹筋が痙攣するような感覚に襲われ、それから声を失って、笑った。身体を起こして、元の体勢に戻り、もう一度髪を掻き上げ、冷静さを取り戻そうとするが、笑いは一向に収まらない。寝転がったままのオスカーは、怪訝そうな顔になってから、
「おい・・・?・・・揶揄ったのか??」
 怒りにか、少し目元を赤くする。私は降参するように右手を上げて、
「いえ、いいえ・・・。」
 笑いに縒れた声で、否定の言葉をなんとか口にする。やっと笑いが収まってきて、目元を指先で拭ってから、
「揶揄うなど・・・。」
 言って、また声を出さずに笑ってしまう。身体を勢い良く起こし、オスカーがまた溜め息を吐く。
「〜〜〜っ!!何なんだ、一体っ!!」
 頭を掻きむしるような仕草に、
「はー・・・。本当に、一体、何なのでしょう・・・。」
 もう一度、目元を拭い、溜め息に混ぜるようにして、なんとか笑いを収める。
 ああ、けれども、妙に清々しい気分だ。それが表情に出ているのだろう、
「何を一人でスッキリしてやがる。」
 オスカーの尤も過ぎる非難に、私はまたフッ、と吐息で笑う。
「何故でしょう。スッキリしました。」
 呆れて物も言えぬ、ということだろうか。オスカーはバッタリとまた、脱力するように後ろに倒れて、四肢を投げ出した。
 その様子を膝に頬を乗せて、眺める。オスカーの顔に、チラチラと木漏れ日が差していた。さわさわと、控えめに私の頬やオスカーの髪を、風が撫でていく。
「オスカー。」
「何だ。」
「私は、貴方が怖い。」
「・・・。」
「貴方が何を考えているのか、分からないですし。それに・・・私は貴方にどう接していいのか、分からない。」
 あれほど五月蝿かった警鐘も、心音も、もう凪いだように、聞こえなかった。
「それは、さっき俺が・・・。」
「でも、無視できない。」
 オスカーの言葉を遮るように告げて、それで。
「貴方と接していると、まるで自分の存在が脅かされるようで、怖くて仕方が無いのに。」
「フッ・・・。」
 オスカーは木漏れ日を手で遮るようにして、笑った。
「俺も、・・・あるいは、そうなのかもしれん。」
 チロリ、とこちらに眼球だけが動かされて、目が合った。片方の口の端を上げた、ニヒルな表情。
「・・・なぁ。」
「はい。」
「もう一度、しようぜ。」
 私は一瞬驚いて目を見開き、それから、笑んで。もう一度、身体を乗り出して、彼の上から覆い被さるようにして、顔を近づけた。オスカーの骨張った指が、誘うように私の頬に添えられ、彼のガラス玉のような瞳が、薄らと瞼で隠される。
 ザッ、と強い風が私たちを襲って、それで、互いの唇を食むような接吻の音は、掻き消されてしまった。数秒重なった唇が離れると、オスカーは、「耐えきれない」というようにクッ、と喉を鳴らして笑った。
「なんで男同士で、キス何ぞしてるんだ。」
 言ってから、クツクツと笑い続ける。今度は私が揶揄われたような気分になって、少し唇を尖らせてしまう。
「なんですか、それは。」
 不満気な声音は、些か子供っぽいものになった。悪戯をするような、少年の顔で、オスカーは私をまっすぐに見上げる。
「言っとくが、揶揄った訳じゃないぞ。ただ、奇妙だと思って、な。」
 確かに、奇妙ではある。私は、オスカーに口づけたかったのだろうか?いつから・・・?全く分からない。だが、この清々しい気持ちは、きっと私の中に詰まっていた何かが、この行為によって、昇華されたという事には違いないだろう。
「怖くて、仕方が無いから。あるいは、近づきたいのでしょうか。」
「さぁ・・・な。怖いもの見たさってヤツか?」
「さぁ・・・。」
 見つめ合う私たちの間に流れるのは、穏やかな空気。怖くて近づけないと思っていた距離は、近づいてしまえば、いっそ心地よいのだろうか。それとも、その心地よさは、もっと暗い何か・・・。
「または、デストルドー・・・。」
 独り言のように、私の唇から漏れた言葉は、穏やかでない。
「死への欲望・・・?そいつは物騒だな。」
 ハッ、とオスカーは笑い飛ばしたが、目は笑っていない。ただ、黙ってそれを見つめていると、オスカーは心地良さげに、フッ、と鼻で笑ってから、
「俺は、お前と違って、そういう、ややこしいことは考えない主義でな。」
 と、言い。
「ただ、悪くない。脅かされるような、だが、吸い寄せられるような、心地よいような、そら恐ろしいような、コレ・・・が。」
 一度、そこで言葉を切って、ニヤ、と笑みを深くして、
「病みつきになりそうだ。」
 等と宣った。私は呆れて、その誘うような顔つきに、再び顔を寄せて、
「快楽主義者、という訳ですか・・・?」
 唇の先が付く距離で、呟いてから、まるで肯定するように伏せられた瞳を見やる。
「・・・?」
 いつまでも口づけない私に、訝しむような気配で、彼のガラス玉がまた薄らと覗く。この上ない至近距離で、じっとソレを見やったまま動かない私に、片眉を器用に上げて見せる。
「早くしろよ。禁欲主義者。」
 これまでの逡巡が嘘のような、乱雑な手つきで、彼が私の髪に手を入れる。
 禁欲主義者?・・・皮肉だろうか?
 ほんの数瞬、脳裏で考えてから、やがてどうでも良くなって、私はもう一度、唇を落とした。




多分、身を焦がすような炎の蔦に、全身を絡めとられて、もう永遠に抜け出せない。

私は、甘やかな落下の感覚に身を委ねて、誘われるがままに、舌を絡めた。






textデータ一覧へ