伝道師と聖人の恋




————アンジェリーク二十周年に———
    ————そして、秋月風花さんに———



【第一話:ならぬ恋 】

「とても幼い頃、じいさんに、俺は軍人には向かないと言われたことがあったんです。」
 オスカーは目を細めた。
「親父は勿論、祖父も俺が軍人になることに当然賛成していると思っていましたし、なにより、代々軍人の自分の家系で、俺が別の道を歩むなど、考えたこともなかったので、俺はとても驚いて。」
 フッと吐息を漏らすようにして、オスカーは言葉を一度切る。訪れた沈黙に、パチ、と暖炉の炭が控えめに撥ねて応えた。
「けれども、最近になって、祖父の言うことも一理あったのかな、と思い出すことがあります。」
 失った過去をそこに映し出すように、暖炉の火を見やっていたオスカーは、緩く笑んだまま、ゆっくりと瞼を瞑った。低めに作られたソファに浅く腰掛けるオスカーの足は、些か余りすぎており、ラフに開かれた両膝がすっかり浮いてしまっている。そのアンバランスさも、奇妙にこの部屋の空気に調和していた。
 夕食を摂ってから随分立つが、まだ名残惜しむように我々はワインとチーズを味わっていた。食堂から場所を変え、応接に使う部屋を使っている。深い藍色のベロアの長椅子を暖炉の前に斜めに設置し、そこに自らの膝の上に身を乗り出すようにして、前かがみの姿勢で座るオスカー。私はソファに対し、斜めに応対するようにやはり暖炉に向かって設置した、臙脂色の揺り椅子に身体を預けていた。
「何故、そう思うのだ?」
 おそらく。些か、酔っていた。オスカーは一度だけ私を見やり、仕方なさそうに苦笑を漏らしてから、膝の上に両肘を付き、骨張って長い指を組んで、その上に顎を乗せると、再び、暖炉の火を見やりながら、口を開いた。
「俺は、迷わなかった・・・。いえ、迷えなかった・・・と、言うべきでしょうか。」
静かな声音に聞き入ってから、続きを促す。
「というと?」
「皇帝と、戦っている時。あの、最終戦で。奴の、全体攻撃のモーションを読むと同時に・・・。俺は、アンジェリークを、庇わなかった。」
オスカーの薄氷の瞳は、やはり暖炉の火の内に、彼の時の、その情景を、今、まさに目撃しているかのようで。冷静さを感じる静かな声音とは対照的に、目の前で起こる止められぬ悲劇に、立ち竦む人のソレであるようだった。
珍しく、胸中を無防備に吐露するオスカーに、彼も確かに酔っていることを知る。オスカーのワインは、祖父殿の話に差しかかった辺りから、ソファに付けた低く小さなテーブルの上に、小さくカットされたチーズと共に、置かれたままだ。そろそろ、寝室に移動するよう促すべき頃合いだとは思いながら、けれども結局それを口にできなかった。
「リュミエールが、アンジェリークを庇い、お前は私を庇った。結果、私達は、戦力を減ずる事なく、次の回復と攻撃に転ずることが出来たではないか。」
そのことをもって、オスカーが軍人に向かぬと言うのであれば、同じ時に、守護聖にあるまじき感情を胸中に過らせた私は、首座どころか守護聖をも辞任すべきところなのだという真実を、私がオスカーに告げてやれる日は、生涯を終える時を待っても、やっては来ぬだろう。あるいは、そのことを告げてやることが出来たなら、少々オスカーの自責を慰めるのかもしれないと思うと、済まなさに胸が緩く詰まった。
「覚えて、いらっしゃったのですか。」
 オスカーの驚きの声音に、知らず伏し目がちになっていた視線を上げる。オスカーの忠義心を一瞬も疑わぬ私が、あの時のことを克明に覚えているのは、不自然なことであっただろうか。やはり、私も思った以上に酔っているのか・・・?
 まっすぐに注がれる視線を自嘲しつつ受け止めてから、
「心外だな。お前に私の記憶力を疑われるとは。」
 態とため息を吐いてみせると、オスカーが慌てたように、
「ああ、いえ!そういった意味ではありません・・・が。」
 言い募る。それを片手で小さく制しながら、
「冗談だ。」
 笑んで言う。慌てたオスカーの顔が、お人が悪い、とでも言うように、ほっとしたものに切り替わる様子を眺めているうちに、奇妙な悪戯心が芽生えた。
「時に、私も昔話をしても良いか?」
 オスカーは笑んで、先を促した。
「ええ、是非。」
「とても幼い頃のことだ。まだ、聖地に来る以前。・・・それを、恋とは、言わぬのであろうが。」
 一度、そこで言葉を止めて、オスカーを見やる。案の定、ワインに手を伸ばしかかったまま、驚いたようにオスカーは動きを止めた。私はその様子に、この者を相手にならば、十分、私も石化の魔法を使えるではないか等と、らしくもなく、子供のように思った。笑みを深めて、先を続ける。
「私の世話をしてくれていた女性が、とても優しくてな。物心付く頃には、既に子供らしくない等と言われていた私に、実に親身に接してくれていた。」
 私は、先程オスカーがそうしていたように、彼女の姿を、暖炉の中に見出していた。着替える時、支度をする時、見上げる彼女は、いつも優しく笑んでいた。
「彼女は『内緒ですよ』と言って、よく私に小さな菓子などを与えようとしたのだが、私がそれを受け取ることはなかった。それを受け取るのが、父や母を裏切る行為のように感じていたのだ。当時の私の表現力では、きっと彼女に、私が彼女の気遣いを単純に嬉しいと感じていることは、伝わらなかったであろうが。」
 いや、今であっても、上手く伝えられぬかも知れぬ・・・。私は再び自嘲して、続けた。
「ただ、彼女が私の部屋に飾ってくれる草花についてだけは、私はいつも話題にすることが出来た。『あの花の名は、なんという』『あの色は好きだ』等と。まあ、感謝には、届かない言葉であったのであろうが。」
 ちらりと視線をやると、オスカーは、私をじっと見つめ、黙って先を促した。それに応えるように頷いてから、暖炉に目を戻す。
「ある日、彼女でない女性が私の部屋に来て、彼女がするように、花を飾り、私の朝の支度に取り掛かった。私は驚いて、けれども、彼女はどうしたのだと問うていいものか判断しかね、その日を過ごした。そして、それは、次の日も、その次の日も、同じように繰り返された。・・・どれほどたった頃だったろうか。私はとうとう、食事の席で、彼女のことを口にした。すると、母は、困ったように一度眉を寄せ、食事の手を止めて、ナプキンで口を小さく拭うと、思い切ったように口を開いた。」
 父は、あの席に居たのだったかな・・・。記憶を辿ったが、はっきりとしなかった。
「曰く、彼女は身分違いの恋の末、駆け落ちをしたのだ。母は、一通り私に、貴族と庶民の違いを改めて教示し、家に尽くしてきてくれた彼女が、仕事をこのような形で放棄してしまったことを残念に思うことを私に伝え、最後にこう言った。『ジュリアス。ならぬことは、なりません。』と。」
 終わりに、フッと、苦笑が、音を伴って唇から漏れた。今思えば、真相を私のような子供にしっかりと伝えたのは、母なりに、私の彼女への愛着を慮った上でのことだったのかも知れぬ。・・・ふと、視線を感じて、思い出の残像からオスカーに顔を戻すと、オスカーは眉を寄せ、ほんのりと酔いで頬を上気させ、若干潤んだ瞳で、こちらを見ていた。唇を、小さく湿らすように舐めてから、オスカーは口をゆっくりと開いた。
「恐れながら。二つほど、反論があります。」
 酔いに任せた思い出話にはおよそ似つかわしくないオスカーの重々しい口ぶりに、思わずもう一度音を伴って苦笑し、ワイングラスを弄ぶように小さく一度回し、一口飲んでから、
「聞こう。」
 短く、けれども低く真剣な声音で言って、オスカーの真剣さに応えた。
「一つは、ジュリアス様が彼女の折々の気遣いを嬉しく感じられていたことは、彼女に伝わっていただろうということです。これは、ジュリアス様にある程度お仕えした者に聞いていただければ、きっと誰も同じことを言うと思います。」
 私は、オスカーが言うのであれば、それが真実なのかも知れぬと思い、素直にそれを受け止めた。うむ、と頷いてから、
「もう一つは何だ?」
 と促す。オスカーは、視線を微動だにさせぬまま、はっきりとした声音で続けた。
「私は、お母様のお言葉には、同意出来ません。」
 そうであろうな、と内心で清々しく笑う。それが顔に出たのであろうか。
「私は真剣です。」
 思いがけず、ピシャリと言われ、
「済まぬ。違うのだ。実にお前らしく、清々しいと思ってな。」
 この尊敬の念が、正しくお前に伝わるといいのだが、と思いつつ答える。
「恋は、誰にも予期出来ません。本人でさえ。いえ、本人ならなおさら。『ならぬ』ということが、仮に事実であったとしても、気持ちは止められない。」
 きっぱりとした台詞は、終わりにはまるで自分のことを言っているかのような熱が籠もっていた。誰か、想い人が居るのだろうか・・・。いや、せんないことだ。この者が恋多き男である事を、私は既に十分知っているというのに。私は胸の鈍痛をやり過ごすことに注力しつつ、息を吐いた。
「実に、厄介なものだな。」
 唇から逃がした鈍痛を見送ってから、私は手にしていたワインを揺り椅子の側に用意させた小さなテーブルの上に戻し、ゆっくりと席を立った。火と、テーブルを片付けさせようと、部屋を出て、家人を呼ぶため、オスカーのソファの前を横切ろうとする。その時。思いがけず、オスカーが腕を伸ばし、私の手首を強く掴んだので、私は動きを止めた。意外な、強い力に少し驚いて、オスカーを振り返って見下ろす。
「痛いぞ・・。」
 私の言に、困ったような顔をして、けれどもオスカーは力を緩めない。
「ジュリアス様。」
 真剣な、けれどほんの少し潤んだ瞳。酔いが回っている顔は、どこか扇情的で、直視に耐えない。私は視線を少し下げた。休暇らしく、黒いタンクトップにラフに白シャツを羽織っているオスカーの鎖骨が、今度は視界に入ってしまい、私は更に視線を下げる。長く骨張った指、大きな掌が、私の手首にしっかりと巻き付いていた。まるで、『逃がさぬ』と主張するように。
「どうした?酔って立てぬか?」
 笑ってから、口早に続けようとして、
「お前を担いで寝室に運ぶのは、屈強な家人を持ってしても骨が折れ・・・。」
「何を隠しておられるのですか。」
 遮られた。私は、ふぅ、と一度大きく溜め息をついて、
「今日のワインは、些か美味に過ぎたな。」
 酔い過ぎているオスカーをやんわりと嗜めるように言う。意図は正確に伝わっているはずであるのに、オスカーは私を見上げたまま、手を離そうとしない。
「・・・離さぬか・・・。」
 オスカーの手の上に、自分の空いた右手を重ね、二回程、優しくあやすように、ゆっくりと叩いて言うと、オスカーは、寄った眉根を更に寄せてから、じわじわと力を緩め、私を解放した。扉を視界に戻し、歩もうとして、
「私は、信頼に、足らないでしょうか。」
オスカーの声に、再び動きを止める羽目になった。今度は、しっかりと身体毎オスカーに向き直って、
「何を言っている。」
はっきりと嗜める口調で告げる。が、オスカーの方が俯いてしまっていた。自分が信頼されているかどうかを試すようなことを口にすることは、酷く珍しいことだった。何がオスカーを弱気にさせているのか、理解できない自分に少々苛立ってしまう。
隠している・・・?勿論、大きな隠し事はあった。けれども、それがオスカーと私の信頼関係に、影響するものとも思えない。漫然とオスカーの頭を見下ろしていると、
「ならぬ恋に・・・苦しんでおられるのですか?」
オスカーは顔を上げて、意を決したように口を開いた。油断して、いたのだろうか。私は、びくり、と身体が大きく震えるのを、抑えられなかった。
『恋の伝道師』だか『愛の伝道師』だかと言う、彼の異名を私はちらりと思い出し、それから内心で自嘲して、『伊達ではないな』等と思いながら、緩く頭を振った。
「お前には負ける。」
私は、暖かな部屋で、意味も無く自分の身を抱いた。
「『ならぬものは、ならぬ』・・・良い言葉だと思わぬか。何かを、諦める時には。」
「俺は・・・。何が『ならぬ』かは、俺が決めます。」
きっぱりと告げる薄氷の瞳は、意気地のない私に怒っているようであった。その潔い考え方に、笑い出してしまいたいような、泣いてしまいたいような、微妙な気分を味わいながら、私は答えた。
「・・・そうだな。周囲や、相手を不幸に出来る程には、私の気持ちは強くはないのだ。・・・おそらく。」
「嘘だ。」
 敬語をかなぐり捨てて、私の言葉が途切れるのを待っていたように、オスカーが確信した様子で返した。ギラリと光る野生の眼差しは、私に向けられることは滅多に無い。これを見られただけでも、胸中を吐露した甲斐はあったのだろうか。しかし、『聖地一の自信過剰』・・・これも、伊達ではなかったか・・・と、私はオリヴィエの評を我ながら悠長に思い出した。
「アンジェリーク、・・・ですか?」
 思い出しているうちに、訝しむような声音で問われ、私は何を考える間もなく、弾かれるように笑い出してしまう。ハッハッハッハ、と声を上げ、身体を折るようにして笑い、終いに、目尻に浮かんだ涙を指先で拭う。あるいは、抑圧していた感情が、発露の先を見つけて、溢れ出してしまっているのかもしれなかった。そのことに、可笑しさが込み上げてきて、また笑う。
「違いましたか・・・。」
 まだ笑い続ける私に、オスカーは心底残念そうに言ってから、肩を竦めてみせた。
「フ、フフッ。オスカー、私がお前であったなら、どんなに話は簡単だっただろうか。けれども、私はお前ではない。」
 もう一度目尻を拭ってから、私は笑んで、愛しい男を見つめた。オスカーは、呆気に取られたような顔でこちらを見上げ、それから、また緩く眉を寄せた。
「プライベートにまで踏み入って発言するのが、行き過ぎていることは承知しているつもりです。ただ・・・。」
 そうだろうと思う。私もオスカーのプライベートに踏み入って発言することはあまりない。せいぜい、看過しかねる素行を叱りつける程度で。
「ただ?」
 先を促すと、
「普段、聖地のため宇宙のために、骨身を削っておられるジュリアス様に、プライベートでまで、忍耐を強いているのかと思うと、やるせなくなってしまって・・・。ジュリアス様にお仕えする一人として、もっと、自由にしていただきたいと思うのです。・・・間違って、いるでしょうか。」
 私は、その気持ちを有り難く受けとり、ふむ、と頷いてから、普段の彼に倣って、肩を竦めてみせた。
「しかし、何が『ならぬ』かは、お前が決めるのだろう?」
 片眉を跳ね上げてから、む、とコミカルな顔で眉間に皺を寄せ、オスカーが返す。
「ジュリアス様は、存外、お人が悪くなられましたね。」
 最近、よくオスカーが言うようになった台詞だ。・・・だとするなら。
「何を言う。お前がそうさせているのではないか。」
「俺が、ですか?」
 心外さを隠そうともせず、顔が顰められる。
「お前は悪戯心を擽り過ぎる。光の守護聖が、らしくもない冗談を口にしたくなる程に。」
 私は笑んで答えて、納得しかねる様子の男を置いて、今度こそ、扉に向かった。

【第二話:奇妙な使命感】

『お前には負ける。「ならぬものは、ならぬ」・・・良い言葉だと思わぬか。何かを、諦める時には。』

 目が覚めた。自分の家の外で目が覚める時にはいつもそうであるように、意識は瞬時に、はっきりと浮上した。
 あれだけ飲んだのに、二日酔いはない。良い物を、ちゃんぽんせずに飲んだからだろうか・・・?等と考える。スッキリとしている頭とは裏腹に、けれども、どこかやるせない、清々しい朝とは程遠い気分だった。
「ならぬ、恋・・・か。」
 そうやって、何もかも心の奥底に閉じ込めて・・・一生を、あの人は、聖地のため、宇宙のため、陛下のために投じてしまうのだろうか・・・。我ながら妙な使命感を感じていた。
それだけは、させてはならないような。
 ジュリアス様の『ならぬ恋』がどんなものだかは分からないが、相手があることとは言え、想いを告げる自由くらいはあるはずだ。勿論、守護聖であっても・・・。首座の・・・守護聖であっても。
 ジュリアス様の邸宅のゲストルームを使わせてもらうのには、良い事ではないのだろうが、慣れてしまっている。俺はいつものように、ベッドを整えてから部屋に付けられたシャワールームでシャワーを浴び、髪を渇かして、バスローブから私服に着替える。私邸に戻って、朝食をゆっくり摂っても、ランディの朝練に間に合う時間だ。使った部屋の備品を整えてから、部屋を出た。
 食堂に向かうと、ジュリアス様が丁度朝食を待ちながら、新聞を読んでいるところだった。
「おはようございます。ジュリアス様、昨日は差し出たことを言い、申し訳ありませんでした。」
 ジュリアス様がこちらに気づく前に深々と腰を折って謝罪してから、大きな食堂のテーブルの上座に付くジュリアス様に歩み寄る。
 ジュリアス様は、ゆっくりとコーヒーカップを取って、一口飲んで、ソーサーに戻してから、ゆったりと笑んだ。朝の光の中では、豪奢な金髪が、洗練された所作が、一層輝いて見える。俺の色素の薄い瞳には、少し、眩しすぎる風景だな、とせんない感想がちらりと過る。
「良い。私も些か昨夜は酒が深すぎたようだ。朝食を摂っていかぬか?」
 群青の瞳に誘われると、たとえ理由があったとしても、俺には余程のことが無い限り、断ることは不可能なのだが、今日は時間にゆとりもあり、断る理由もなかった。
「はい。それでは、お言葉に甘えて。」
 次席に回って席につく。家人に朝食の追加を頼む気配のないジュリアス様に、問うような視線を投げると、ジュリアス様は新聞に落としていた視線を上げ、
「ああ、実は既に頼んである。そろそろ起きる頃だと思ってな。間もなく来るだろう。」
 言いながら、家人に新聞を渡した。俺に視線を戻してから、クック、と喉で笑うと、
「そう、目を白黒させるな。身体に優しいものをと思ったのだ。日の曜日の朝は、ランディの稽古に間に合えばいいのだろう?」
 少し顔を傾げられる。その通り過ぎて、グウの音も出ない。これでは主従が逆転しているのではないか?俺は些か自己嫌悪に陥りつつ、所在なさを、頬を指先で掻いてごまかす。
「朝からシュラスコ・・・ということも流石にないだろうが、お前の好みでは野菜が些か少なすぎる。酵素の多い食事の方が、こういった朝には適しているのだぞ。」
 まるで野菜嫌いの子供を諭すかのようなジュリアス様に、いや、俺は例の緑のツブツブ以外は、特に野菜嫌いという訳では・・・と、内心で小さく反論しつつ、
「はっ。お気遣い、痛み入ります。」
 と畏まる。間もなく運び込まれた朝食は、ハーブと塩で味付けされたサラダが中心のもので、スープは暖かいミネストローネに少々の米を加えたもの、全体的に量も少なめに調整されていて、豆はなかった。流石にワインは食卓に並ばず、飲み物は生野菜を絞ったと思われるジュースのみだった。ジュリアス様が、俺が食事の終わりにジュースを飲み終わるのを見計らって、
「実は、そのジュースには、グリンピースが含まれていてな。」
 と言い出し、思わず噎せ込む。水を勧めながら、冗談だ、と笑って言うジュリアス様に、ナプキンで口元を拭いながら、息を整えつつ、非難の眼差しを投げると、ジュリアス様は、何かを懐かしむような顔つきで、カップを口に運び、コーヒーを眺めて言った。
「昨夜は、実に楽しかった。」
 その様子に、もう、それが触れてはならぬ過去になってしまったようで、胸が痛んだ。明らかに差し出た俺の態度は、ジュリアス様の逆鱗に触れるどころか、楽しんで頂けた、それはきっとジュリアス様の本心だろう。しかし、少し垣間みる事が出来た、ジュリアス様の胸中。それは、もう触れてはいけないものなのだろうか。思ってから、昨夜の終わりに、ジュリアス様が言ったことを思い出す。
『何が「ならぬ」かは、お前が決めるのだろう?』
 馬鹿な。あれは冗談だ・・・。
「・・・どうした?カプチーノにするか?」
 よほど変な顔でもしていたのだろうか。ジュリアス様に聞かれて、俺は慌てて「ああ、いえ・・・。」と答え、食後のエスプレッソに口を付ける。程よい苦みが舌の上に広がる。
「俺が、決めて良いのですか?」
 カップとソーサーをテーブルに戻してから、確かめるように問う。
「何が『ならぬ』か、・・・か?」
 かなり唐突な問いだったはずなのに、ジュリアス様は俺の意図を正確に読み取って言う。
「ええ。」
「『聖地一の自信家』。」
「は?」
「いや、オリヴィエのお前に対する評だ。正しくは、『聖地一の自信過剰』だったやもしれぬ。」
 微笑みを浮かべたまま、ジュリアス様はカップの中身に再び視線を落とした。
「アイツは・・・。」
 思わず呆れたような溜め息が唇から漏れ出る。
「お前は、お前のままが良い。好きにせよ。私は嫌ではない。」
 褒められているのだろうか、貶されているのだろうか・・・。さっぱり見当がつかない。それでも、俺にとって重要なのは、末尾の一言だった。
「では、単刀直入に。お役に立てるかどうかは分かりませんが、俺にも打ち明けてください。俺は、ジュリアス様に、もっと自由に気持ちを打ち明けて欲しいのです。勿論、想い人相手にも・・・です。そのために、俺ができることは、するつもりです。」
 ジュリアス様は、吃驚したように目を見開いて、二度、瞼を開閉させてから、笑い出した。それも、盛大に。なんだか、昨日を繰り返しているようだと俺はなんとなく、天を仰ぎたい気分になってくる。
「お前・・・が、私の、キューピッドに、なってくれるというのか?」
 笑いをなんとか抑えつつ、といった様子で、ジュリアス様が言う。
「まあ、そのようなことも・・・。」
 俺のキューピッドっぷりは、定評があるのですが、といじけた気分で思いつつ返すが、ますます、ハッハッハッ、と豪快にジュリアス様は笑う。
「う・・・む。なかなか・・・。それは・・・。」
 言いながら、やっとで笑いを収めると、
「それは難しいことだな。オスカー。お前が、お前である故に。」
 ふっ、とジュリアス様は綺麗な笑顔を送ってきた。つい先ほどまで、人間らしく、豪快に笑っていた人物とは思えない、それはまさしく聖人の笑みで、俺は知らず畏まっている自分を感じる。しかし、肝心の台詞の意味は分からない。
「私が、私で、ある故に?」
 ほとんど何も考えずに繰り返すと、
「そうだ。」
 ジュリアス様は、説明せずに、深く頷いた。それから、俺の顔をじっと見つめると、
「ふむ。・・・しかし・・・そうか。」
 何かを思いついたような口振りに、俺は黙って促す。
「お前に手伝ってもらえることが、一つだけあるかもしれぬな。」
「なんでしょう?」
 思わず、俺は食いつくように問うた。
「『恋の伝道師』いや、『愛の伝道師』・・・どちらでも良い、お前にしか手伝えぬことだ。」
 枕詞がえらく気にかかったが、この際それはどうでもいい。俺は聞き流して、続きを待った。
「私には、このような・・・恋愛の経験がないに等しい。お前を相手に、練習するというのはどうだろうか。」
「・・・はい?」
 些か意地の悪い笑顔に、俺は一瞬呆気に取られる。しかし、ジュリアス様が、手を小さく振って、いつものように、冗談だ、と言おうとするところに、なんとか滑り込むことに成功した。
「是非、させて頂きます。」
 身を乗り出し、小さく上げられたジュリアス様の左手を掴むのは、我ながらやり過ぎだったかもしれないが、とにかく、奇妙な使命感に駆られ、必死だったのである。

【第三話:ただの夢】

 我ながら、危ない橋を渡っている。自覚はあった。けれども、どこか気分は浮ついていた。
 我ながら、忠義心を逆手に取った卑怯なことをしている。これも自覚があった。けれども、小さな思いつきをきっかけとし、嬉々として私に恋愛について色々と講義するオスカーを見ていると、いつまでもこの時間が続けば良いとも思った。
「アルコールを入れるのも良いでしょう。ジュリアス様は、やはりその容姿から神々しすぎるところがありますから。リラックスした雰囲気をつくるには、何か工夫が必要だと思います。二人しか知らない場所に行くというのも良いですね。」
 神々しすぎる、とは言い過ぎであろう、と思いながらも、
「ふむ。つまり近寄りがたい、ということか?」
 と問う。畏まったように言葉に詰まるオスカーに、私は手を小さく手を上げて、
「いや、自覚はある。しかし、アルコールが入った状態で話すのでは、信憑性が疑われるのではないか?」
 私の素朴な質問に、オスカーは苦笑した。
「仕事の話ではないのですから。寧ろ、少しアルコールが入ったからこその、本音と取ってもらえることも多いと思います。ああ、ただし・・・。泥酔なさるおつもりなら、別ですが。」
 茶目っ気のある笑みを浮かべ、片眉を上げるオスカーに、私は吹き出す。
「なるほど。泥酔せぬよう気をつけよう。」
「ええ。是非。」
 講義は、私の希望で遠乗りに出かけた先の山河や、私の私邸で週末に行われた。日を置かずにオスカーと二人の時間を過ごすことができるだけで、私は十分充たされた気持ちを味わっていた。二人きりで、深酒になった状態で衝動を抑えることにも、いつかの思い出話の日の経験で、ある程度の自信を持っていた。
 今日は遠乗りに出て、見晴らしの良い丘に来ていた。時刻は夕暮れ。見下ろせば、夕闇に街がじわりじわりと沈んでいくところであった。ぶるり、と強い風に身を震わせると、オスカーが荷物からジャケットを取り、私の肩に掛けた。それを受けとりながら、
「こうした気遣いもできるようにならねばな。」
 というと、オスカーは微妙な顔つきで、私の肩に両手をついたまま、私を見下ろした。
「・・・?どうしたのだ?」
 何か変なことを言っただろうか。が、すぐにオスカーは笑顔になり、
「いえ。ジュリアス様の学習能力に脱帽しております。」
 取り直すように言った。嘘だな、といつかのオスカーのように、私は直感的に思った。
「何か、変なことを言ったか?」
 首を傾げて重ねて問うと、オスカーは、私の両肩から手を下ろして、所在なさげに少し頬を掻いてから、
「ジュリアス様に隠し事をするのは難しいですね。・・・今のは、レッスンのつもりでなかったので、少し驚いてしまったというか・・・。」
 と言った。
「そうか。」
 私は少し得意になった。教師に驚かれるというのは、いくつになっても良いものだ。しかし、学習能力に脱帽した、というのはあながち嘘でもなかったのか、とも思う。聖地一の自信家と違い、私の直感は外れるらしい。ほっと息を吐いて笑むオスカーに、
「好きだ。」
 と短く言った。オスカーはすぐさま顔を顰めると、溜め息を深く吐いた。
「前言撤回です。まだまだ絶望的ですね。」
 オスカーから、ここは告白する雰囲気だ、と思った時に、想いを告げる練習をして下さい、と言われたので、折を見ては実践しているが、うまくいかない。今度はいいだろうと思って、告げたのだが。やれやれといった様子で頭まで振られ、私は少しムッとする。
「しかし、前回は互いに笑顔が溢れるようなタイミングと言ったではないか。」
「笑顔にも種類があるでしょう!だいたい、なんですか、その薮から棒な一言は。意味が分からない!」
「薮から棒とはあまりな言い様ではないか!単刀直入の方が私らしいとお前が・・・。」
「単刀直入にも限度というものが・・・!」
 段々とボリュームを上げる我々に、馬達が驚いてしまい、気温も下がってきたので、結局その日はそれで、レッスン終了となってしまった。
 レッスンは、これまでの中でも五本の指に入る、惨憺たるものであったはずだが、何故かオスカーは満足気な様子で次の日の約束をすると、私邸へと帰っていった。
 私自身も、まるで友人のようにお互いに思ったことを率直に口に出来る関係になれたことに、満足していた。執務のことを考えると、本来ならば、良いことばかりではないのだろう。けれども、相手が公私混同せぬオスカーだからこそ、私は安心していた。

 友人に・・・なりたいわけでは、ないのだが。

 思ってしまってから、自嘲する。満足したと思った矢先に、この感情。
 本当に、厄介なものだ。
 けれども、飼いならすことには、慣れているような気がした。あるいは、恋の伝道師オスカーよりも、その意味では、私は熟練者なのか。
「自虐的に、すぎるか。」
 独りごちて、家に入り、髪を解いてから、家人に今日は部屋のシャワーで入浴を自分で済ませる旨を告げて、私は私室に戻った。シャワーを浴び、ローブに着替えると、寝室に持ち込んだ仕事の資料をいくつか片付け、早速ベッドに潜り込む。

「ジュリアス様。もう、レッスンは止めにしましょう。」
 悲しく微笑むオスカーに、私は絶望を隠せない。
「何を言う。」
「分かってしまったんです。」
 ああ、その時が来たのか、と目の前が暗くなっていくのを感じる。
「なにが・・・だ?」
 問う自分の声が、どこか遠い。
「『私が、私である故に』・・・。あの時点で、気づくべきでした。」
 くるりと背を向けるオスカーの姿が、闇に掻き消えてしまう。
「好きだ・・・。好きだッ!オスカー!!」
 闇に取り残された私は、縋るように叫ぶ。闇が、仕方なさそうに苦笑して答える。
「絶望的な・・・タイミングですね・・・。ジュリアス様。」

 唐突に目が覚めた。ハッハッハッ・・・・。自分の上がってしまった息を整えようと必死で胸を掴む。びっしょりと、嫌な汗を掻いていた。
 時間を確認するまでもなく、部屋は暗く、まだ夜中だった。
 フッ、フフフ・・・。ハ、ハハ・・・。
 自分の声とも思えぬ、渇いた笑い声が寝室に響く。
 感情を飼いならす、熟練者・・・。
 ク、クク・・・、と暗く喉が鳴った。
「ただの・・・。・・・ただの、夢だ。」
 私は、再びシャワーを浴びるために、ベッドを降りた。

【第四話:盛大な勘違い】

「我ながら、何をやってるんだかな。」
 自嘲して独りごちる。
「あン?何かあったの?」
 テーブルの小さな灯火を、綺羅綺羅と、五月蝿い程に跳ね返してくる目の前の派手な男が、イヤミに片眉を跳ね上げる。俺は、
「なんでお前と金の曜日の夕暮れに茶なんぞしばいてるのかと思ってな!」
 溜め息と一緒に吐き出してやった。
「偶然会ったからだし。しかも、アンタから声かけてきた癖に。何、八つ当たり?」
 勘の良い男は、訝しむように眉を顰めた。
「しちゃ悪いのか?」
 開き直って足を組み直す。
「別にィ?あ、分かった。」
 男はメイクを凝らした唇をニンマリと歪め、人差し指を上げる。
「ジュリアスでしょ。」
 続いた言葉に俺はカプチーノを盛大に吹き出す。
「キッタナー!!何すんの!!」
 俺は自分の口元を拭ってから、ナプキンをヤツに放り投げ、
「お前が変な事を言うからだろうが。」
 と返す。ヤツは汚れてもいなそうな顔やら服やらを、押さえるように拭いながら、
「アタリの癖に。」
 と訳知り顔である。
「何故そう思う。」
「やっぱり、当たってンだー!」
 アハハ、と明るく笑う男に、苛つきながらも、先を促すと。
「だって、最近妙にジュリアスと会ってんじゃん。」
 チュル、と男は何ちゃらのジュースを吸い上げる。立体的にデコレーションされた爪のデザインは秀逸だが、やはり男が付けるものじゃないな、と思いながら返す。
「それだけか。」
「それだけ!変化に乏しい聖地に取っちゃ、それくらいの変化がデッカい、ってね!」
 そんなにここは退屈か、と俺は苦笑しつつも、小さく肩を竦めて少々同意する。
「何?話したいの?」
 聞かれて、俺は腕を組んで唸る。
 ・・・話したい?・・・何を?
「・・・分からん!」
 アッハッハ、とオリヴィエは身体を仰け反らせて豪快に笑った。
「ねえ。」
 男は形の良い手を、テーブルの上で組んで、その上に細い顎を乗せた。
「何だ?」
「アンタがさ、何に悩んでるのか知らないけど。」
「・・・けど?」
「多分ソレ、盛大な勘違い。」
 盛大な勘違い??・・・何が?
「ジュリアスはさ、分かりやすいよね。顔に出やすいっていうか。」
「まあ、そうかもな。」
 言い方が気に障るが、確かに分かりやすい、そう思ったのだが。
 タハッ、とオリヴィエは顔を顰めた。
「分かってないねぇ、本当に。なぁんにも。」
 今度こそ、完全に頭に来る。
「お前に分かってて、俺に分かってないなんてことがあるか。」
 低くなってしまった声が、唸るように響く。
「おー、その目!コッワー!!」
 全く怖がっている素振りも無く、オリヴィエは肩を大袈裟に竦める。身体を斜めに向け、オリヴィエは視線をどこぞに投げて続けた。
「それがさー。分かってないっていうの。」
「なんだと?」
「近すぎて、見えないんじゃない?まあ、アンタが、ジュリアスと距離が取れるなんて、思わないけどね。」
 どこか、何かを諦めているような表情で言われ、俺は怒りの矛先を見失う。
 近すぎる・・・?
「アンタが、ジュリアスのことを、一番分かってるって?」
 皮肉な笑顔に、俺はコイツが何を言いたがっているのか、理解しきれないまま答える。
「決まってるだろうが。」
「かもね。・・・本当は、分かってンのかも。でも、見えない。側に、居たいから?」
 何が何やら、さっぱりだ。
「それとも、自分が変わっちゃいそうで、怖い?」
「待て。さっぱり分からんぞ。」
 どこから分からなくなったのかすら見失いそうになって、俺は手を上げて、ヤツを止める。男は、ケラケラと軽やかに笑って言った。
「アンタは、アンタのままでいいよ。その方が面白いし。・・・たださ。」
 オリヴィエは、美しい、どこか悲しげな笑みを浮かべて、こちらにゆっくりと視線を戻した。
「ただ、あんまり、苦しめないでやって。」
 ダークブルーの真剣な忠告は、いつだって意味があった。だから、俺はオリヴィエ自身を信用していなくても、いつもそれだけは真に受ける事にしている。だが、今回のそれは意味が分からない。俺がジュリアス様を苦しめている?素行不良のお前よりもか?と問いただしたい気持ちになって、だが・・・なんとなく、直感的に。
「分かった。」
 頷いていた。
「アンタのさ。そーゆーとこ。」
 オリヴィエは、マジな顔をゆるゆると歪め、やがて破顔した。
「実は尊敬してる。」
 アッハッハ、と再び声を上げて、ひらひらと手を振る様子は、尊敬の念の欠片も感じられない。俺は、完全にコケにされているな、と思いながら、「ありがとうよ」と舌を出して言ってやり、自分と男の分の会計に十分な金をテーブルに置いて、席を立った。
「ごちそーさーん☆」
 俺の背にかかるオリヴィエの声音は、どこか愉快そうなもので、やはり不愉快だった。

 金の曜日の夜、魅力的なレディとすれ違うことの多いこの時間帯で、私邸への道を辿りながら、どこか、気もそぞろだった。
『こうした気遣いもできるようにならねばな。』
 と言ったジュリアス様のどこか遠くを想っている瞳に感じたのは、なんだったのか、自分でもよく分からない。
 いつも厳しく揺るぎない群青が、時折そんな風に、優しく誰かを思って伏せられる。
 羨ましいような、悲しいような、淋しいような。
 本来なら、そういった想いの片鱗を見せてくれることに、喜びを覚えるところで・・・。
 あんな風に想われたら、誰だって、ジュリアス様のことを真剣に考えるのだろうな、とは思う。早く、ジュリアス様が想い人に自分の気持ちを告げる日が来てしまえばいい。障害の大きさは分からないが、きっと上手くいく気がした。そう思っているのに、何かがおかしい。
『怖い?』
 不意に、オリヴィエの声が脳裏に響いた。・・・何故・・・?怖い?怖い・・・?何が?
 ジュリアス様が、もっと自由に想いを告げてくれたら良い。勿論、想い人にも。その気持ちに、揺るぎ等ないのに。揺るぎ等・・・・。
 けれど、このレッスンが終わったら、きっと俺は何かを失ってしまったような気分を味わう。
 馬鹿な、ジュリアス様が想い人に自分の気持ちを伝える、その目標を達成するのだ。失うもの等・・・な、ど・・・。
「二人の、時間・・・か?」
 口にしてしまってから、思わず口元を押さえる。

『かもね。・・・本当は、分かってンのかも。でも、見えない。側に、居たいから?』
『それとも、自分が変わっちゃいそうで、怖い?』
『ただ、あんまり、苦しめないでやって。』

 一つの仮定が、目の前に出来上がりつつあった。けれども、認めることなど到底出来ない。男同士で・・・何より、ジュリアス様には、既に想い人が居て、俺はそれを手伝う立場だというのに。
 思ってから、自分の思考回路が典型的な恋に落ちた時のソレだと気づいて、自分を嗤った。

『それは難しいことだな。オスカー。お前が、お前である故に。』

 あの時は、意味が分からなかったが、あるいは、ジュリアス様は俺すら知らない俺の気持ちに、あの時点で気づいていたというのだろうか・・・?
 もし、そうだとしたら・・・。
「酷く無様だな・・・。」
 いいや、いつだって、どこか滑稽で、無様なものだ。だから、おそらく。俺はいつものように立ち直ることができる。相手が日々一緒に仕事をし、尊敬しているジュリアス様だったとしても。
「しっかりしろよ、伝道師。」
 独りごちて、俺は足を止め、星を見上げる。ザァ、と樹々を揺らす、少し乱暴な風が、俺の背を押してくれるようだった。

 そして容赦なくやってきた、約束の土の曜日の夜。
 俺は今日でレッスンを終わりにする旨を伝えようと思っていた。図らずも、俺がジュリアス様に伝えられる事は、ほぼ伝え切った、良い頃合いだった。ミイラ取りがミイラになるとは、俺の事だなと、どこか諦観の念を感じつつ、夕食を共に摂る。
 夕食を終えて、人払いをした応接室。いつだかのように、暖炉には控えめに火が灯っていた。ワインとクラッカーが互いの小さなテーブルに用意され、俺は以前のようにソファに座るよう促される。ジュリアス様は、今日は揺り椅子ではなく、肘付きの一人掛のソファに座っていた。
 暫く執務の話などをしてから、酔いが回り切る前に、と俺は口火を切った。
「ジュリアス様。」
 普通に、普通に、と念じたにも関わらず、どこか、声はキッパリとしていた。俺は、そのことに、自嘲しつつ、
「ジュリアス様。もう、レッスンは止めにしましょう。」
 努めて、穏やかに言った。それまで、緩く口元に笑みを浮かべていたジュリアス様は、ギクリ、と身体を強ばらせた後、クシャと表情を歪めた。ああ、やっぱりか、と脳裏で思う。貴方が、そんな顔をする必要は無いんです。まるで、傷つくみたいな顔をする必要は・・・。
「何を言う。」
 堅い声音に、
「分かってしまったんです。」
 静かに返す。何故、俺にも分からぬ気持ちを、この人は分かったのだろう?いつ?どこで?問うてみたい気もしたが、問うてどうなるものでもない。
「何が・・・だ・・・?」
 暖かな部屋で、問い返す強ばったジュリアス様の顔は緊張を通り越して、青褪めているように見えた。早く、この時を終わらせなければ、ジュリアス様に申し訳ないような気がした。大丈夫だ。自分の気持ちを認めた上で、レッスンは続けられないけれども、陰ながら応援していると言えば、いつも通りに接して下さるはずだ。既にジュリアス様は、俺の気持ちを知っているのだから。俺は、きっと情けない顔をしてるんだろうな、と思いながら、続ける。
「『私が、私である故に』・・・。あの時点で、気づくべきでした。」
 なんとか笑顔を作ろうとして、控えめに首を傾げてみせる。
 とんだ道化だ。けれどそれでいい。それで・・・。
 知らず、いつの間にか落ちていた視線が、ガチャン、という雰囲気に相応しくない大きな音に驚いて持ち上がる。ジュリアス様が、蒼白な顔で、立ち尽くしていた。勢いでグラスが倒れたのか、ワイングラスがテーブルから落ちて転がり、ワインが絨毯に染みを作っていた。何もそんなに動揺して下さらなくても、と少し心に余裕が生まれる・・・が、やがて、自分の身をしっかりと抱いて俺を愕然とした表情で見つめ続けるジュリアス様の態度に、違和感を覚える。「どうされました・・・?ご気分でも・・・」と声を掛けようとして、
「好きだ・・・。好きだッ!オスカー!!」
 悲痛な、喉から絞り出すような告白に、絶句する。一瞬の沈黙の後、何もこんなタイミングで練習せんでもいいではないですか、と思い至って、俺は思わず苦笑してしまう。
「レッスンが最後だからといって、そんなに焦って練習なさらなくても・・・。」
 言いながら、俺は席を立って、ジュリアス様が倒してしまったグラスを拾い上げ、テーブルに戻す。まだ立ち尽くして、動こうとしないジュリアス様の前に立ち、
「どうされたのですか、本当にご気分でも・・・?」
 首を傾げて覗き込むように問うと、突然。ドン、と力一杯突き飛ばされた。突然の事に、絨毯に身体ごと吹っ飛ばされるのを、慌ててギリギリで受け身を取る。いくらジュリアス様とはいえ、あまりな扱いではないか、と思いながら、
「いくらなんでも、突然合意もなく、襲い・・・。」
『襲いかかったりしませんよ・・・』呆れて続けようとして、身体を起こしつつ、ジュリアス様に少しばかりの非難の視線をやろうとして、瞑っていた目を開き・・・思いがけず、至近距離にあった群青色の強い瞳に、言葉を失う。
「突然、襲ったら、どうだと言うのだ。」
「・・・は?」
 ほとんど俺に覆い被さるような体勢のジュリアス様は、事態を掌握しかねて間抜けな声を漏らす俺の首を上から掌で押さえる。・・・生命の危険を感じ、反射的に振り払いたい気持ちになるが、ジュリアス様の有無を言わさぬ視線に、身体が金縛りに合ったように動こうとしない。そのまま、顔が寄せられ、ゆっくりと、唇が重ねられた。
「練習等ではない。分かっているのだろう。」
 これ以上無い程に、低められた声が、俺の唇の先でうっそりと言う。ゾク、と全身をこれまで感じた事の無い感覚が駆け抜けて、俺は一気に混乱する。喉に当てられたジュリアス様の右手は、文字通り、当てられているだけなのに、身じろぎ一つできない。
「意味・・・が・・・。」
 分かりかねます、となんとか続けようとした言葉が、噛み付くようなキスに遮られる。キス?ジュリアス様が?俺に?なんで・・・??混乱する中、ジュリアス様のものとも思えぬ熱い舌が、歯列を開けろとばかりに強く擦り上げる。反射的に口を開くと、ジュリアス様の舌がそこに勢い良く押し入ってくる。余りの勢いに、応えることも出来ず、ただ翻弄され、酸素を確保する事に必死になってしまう。熱烈なキスに、ジン・・・と、身体に節操無く火が灯ってしまう。やっとで唇が解放される頃には、唇が痺れて、飲み下せなかった唾液が顎を伝っていった。なんか、分かってきたぞ・・・分かってきた、が・・・。息を整え、手の甲でぐい、と口元を拭ってから、ちょっと、待って下さい、と言う意味で、なんとか手を上げるのに、
「抵抗せぬのか?」
 ジュリアス様は、変わらず支配者の瞳で、俺をじっと見下ろして問う。ゾク、と先ほどの感覚が、また身体を走る。
「て、抵抗、なんて・・・しま、せん。」
 だから、ちょっと待って下さい、と続けようとしているのに、
「ほぅ?お前は、持ち前の忠義心で私に応えてくれるというのか?」
 喉の奥で、クツクツと嗤われる。
「そんな顔をすると、酷く、手荒に扱うかもしれぬぞ・・・?」
 何かとてつもなく行き違ってるんですが!!と内心で悲鳴を上げる俺には構わず、ジュリアス様のどこか怒っているような顔付きに、ギクリ、と俺は身体が強ばるのを止められない。怯みそうになる自分をなんとか叱咤して、噛み付くように言い返す。
「違います!」
 ジュリアス様は、不意にまた、表情を失った。やがてまた青褪めようとするのに、俺は、
「それも違います!」
 ほとんど本能的に言い募る。ジュリアス様が、叱られた幼子のように、泣きそうな顔になり、やがて、ぎこちなく、俺の喉に当てられていた手が、持ち上がって、俺の顔の横に移動する。ほぅ、と俺は吐息をついて、泣きそうな顔のその人の頬に、掌を添えて、まっすぐに見上げ、ゆっくりと問う。
「もしかして、ジュリアス様の想い人って、俺・・・ですか?」
 先ほどまでの、支配者はどこへやら、しゅん、と叱られた子供のようにしょげ返ってしまったままに、ジュリアス様は、沈黙を数えた後、渋々といった体で口を開いた。
「何を・・・今更・・・。」
「いやあの、知りませんよ。知りませんでした。」
 俺は、自分の顔にかかるジュリアス様の髪を掻き上げるようにして、目を合わせようとする。俺の胸元あたりに落ちていたジュリアス様の視線が、問うようにこちらに戻る。
「俺は、てっきりジュリアス様が、俺の気持ちに気づいているのかと・・・。」
 溜め息混じりに笑んで言うと、
「俺の・・・気持ち・・・とは?」
 戸惑いを隠さず、繰り返される。俺は、本当に子供みたいだな、と急に庇護欲を擽られてしまう。
「私より先に、私のジュリアス様に対する気持ちに、気づいていて、それで・・・『私が、私である故に』とおっしゃったのかと・・・。」
 ジュリアス様の瞳が、大きく開かれて、やがて、一度、ゆっくりと開閉した。
「それ・・・では・・・?」
 フッ、と勝手に笑いが唇から漏れ出ていった。
「ですから、私たちは、両想いということになりますね。」
 言い終わるか終わらないかのうちに、ヘナヘナと力が抜けたように、俺の胸の上にジュリアス様の顔が降りてきて、やがて、ギュ、としがみ付くように、力一杯抱かれた。俺は、ジュリアス様の体重を受け止めながら、その頭をやんわりと抱きしめるようにする。暫くそうしていて、ジュリアス様が何も言わないので、少し不安になる。
「・・・喜ばしいことと、思っていいのですよね・・・?」
 両手を、ジュリアス様の頬の辺りに添えるようにして問うと、ガバ、と顔だけをこちらに向け、「ああ・・・!ああ・・・!!」とジュリアス様は、肯定の意味なのだか、感嘆詞に過ぎないのか、よく分からない応え方で応え、ずり、と身体の位置をずり上げて、俺を再び笑んで見下ろした。なんとも言えない幸福感に、俺が微笑み返すと、唇がゆっくりと落ちてくる。今度は、俺もジュリアス様の後頭部に手を回し、応える。すぐに口づけは深いものに切り替わり、今度はジュリアス様の舌が要請する前に、口を開けて、自分から舌を絡める。絡めながら、視線を感じて、片目を薄く開けると、ジュリアス様が目を細める様子がぼんやりと視界に入る。
「んんっ!」
 ちょ、待ってくれ・・・。
 やんわりとジュリアス様の身体を押し上げる素振りをすると、ジュリアス様は、意図を分かってくれたようで、一度口づけを止め、問うような視線を投げてきた。おかしい、何故俺だけ息が上がっているんだ・・・?と体勢が不利だからか・・・?思いながら、少し息を整えて、
「ジュリアス様。キスの最中は、目を瞑って下さい。」
 と言うと、ジュリアス様は、小首を傾げ、
「何故だ?」
 と問うてきた。・・・何故・・・だって?
 これが女性相手ならば、チチチ、と指でも振って「そんなに俺を見つめていたいだなんて、感激したぜ。」と強引に瞼を覆い、「目を瞑るキスも悪くないだろう?」等と甘く言うのだろうし、俺が古参の地の守護聖あたりならば、「あー、それはですねぇ」とアンタなんでそんなこと知ってるんだよ、と思うような蘊蓄でも披露するのだろうが、生憎相手は女性ではなく、俺は歩く辞書ではなかった。
 俺は焦って言う。
「いやあの、普通は、閉じるものと・・・。」
「それではお前が見えないではないか。」
 間髪入れずに当たり前のように返すジュリアス様に、俺は頬が、かぁ、と上気するのを感じる。なんだこれは・・・。なんで俺が押されているんだ・・・?!羞恥心に堪えかねて、思わず右手で顔を覆ってしまう。
「私はお前が目を瞑らなくても構わぬぞ・・・?」
「いや、そういう問題では・・・。」
 ダメだ。引き下がってくれそうにない。俺が、もういいです、分かりました。目を開けていて構いません、と降参しようとすると、
「時にオスカー。」
 上気した頬のまま、ジュリアス様が熱い視線で俺を見下ろす。なんだろう、とてつもなく嬉しい視線のはずだが、とてつもなく嫌な予感がするのだが。
「なんでしょう。」
「収まりそうにない。このまま、その、続きをしても良いだろうか。」
「このまま、ここでですか?」
 俺は驚きを隠せずに言う。思わず、絨毯の毛足の長さを無意識に掌で確認してしまう。ふむ、まあこれならば・・・ではなく!
「お前がベッドで、というのならば、寝室まで我慢する。」
 ちょっと待って下さい。今日は心の準備が出来ていないという選択肢は!!という内心の悲鳴は、ジュリアス様の必死な視線に早々に折れる。
「あの・・・。もしかしなくても、俺が、・・・その、女性の役でしょうか・・・?」
 言葉に迷いながら、確認する。顔が引き攣ってなければいいが。
「それは・・・考えた事が無かった・・・。」
 はた、とジュリアス様が我に返ったような顔つきになる。俺は「なんだ、具体的なところまでジュリアス様もお考えではないのではないですか」とほっと息を吐こうとして、
「済まぬ。そもそも結ばれるということを意識した事がなかったから、お前の希望まで気が回らなかった。」
 固まる。
「私では、お前を満足させられぬだろうか。」
「いや、そんなことは。」
 落胆したような声音に反射的に応えてしまい、ほぅっと安堵したようなジュリアス様の吐息に、墓穴を掘った事を知る。いやいや、でもほら。うん。
「しかし、ジュリアス様。こういったことにも、まずは知識というものが必要ではないですか。」
 やっと、俺は伝導師としてのアイデンティティを思い出して言った。再戦時までに、俺は知識を仕入れておけば・・・と言う俺の算段は、ジュリアス様の誇り高き笑みに敢えなく玉砕した。
「安心せよ。ルヴァから借りて既に学習済だ。」
「はい?」
 突っ込みどころが多すぎて、何に突っ込んでいいのか分からない。
「・・・嫌か・・・?」
 俺の戸惑いを察したような、ジュリアス様の懇願するような声音と、少し傾げられた首の角度に、俺は自分の心が勝手に観念するのを吐息混じりに見過ごす。この言われ方で、何度面倒な出張に飛ばされたか知れない。ジュリアス様が計算してやっているかどうかはともかく、俺にはこれをやられたら、否やはないのだ。
 俺の観念を読み取っているのだろうジュリアス様は、
「お前を満足させられるよう、尽くす。」
 と言い加えて、俺の額に、唇を落とした。

【第五話:戸惑いと降参】

「凄いな、まるで吸い付いてくるようだ・・・。」
 感じ入ったような声に、俺はブル、と身震いする。この人は・・・天然ってやつなんだろうか・・・勘弁して欲しい・・・んだが・・・。クラッカーに添えられていたオリーブオイルを指に絡め、ジュリアス様の指が、俺の身体のあり得ないところを行ったり来たりしている。素っ裸で四つ這いになり、異物感に妙な声を上げそうになるのを、必死に耐える。最早何に恥じ入っていいのか分からない。『あの』ジュリアス様に、あり得ないところを擦られている状況に?それともまるで濡れそぼっているかのような、粘着質な音を立てている自分の身体に?それとも、横からまるで観察するように送られているジュリアス様の視線にか?
 不意に、グルリ、と入れられた指が、中で向きを変えるのに、
「アァゥッ・・・・ハッ・・・。」
 耐えきれなかった声が漏れて、ガクン、と床に付いていた手から力が抜けて、両肘を付いてしまう。いくらなんでも、この格好は、と慌てて体勢を立て直そうとして、確かめるように、追いかけてきた中を擦るジュリアス様の動きに、全身が痺れて、それが叶わない。何度も、くい、くい、と同じ場所を擦る指先に、続けざまに声を上げる羽目になる。
「ナッ・・・に・・・!?・・・やッ、止めてくダサッ・・・。」
 耐えきれずに色気もへったくれもない、静止の声を上げるが、指は止まる気配がない。思わず腰がずり上がろうとするが、容赦なく俺の背にジュリアス様が覆い被さってきて、それも叶わない。闇雲に首を振る俺に、ジュリアス様が、
「大丈夫だ、大丈夫・・・。」
 深く優しい声を熱い吐息と共に耳裏に吹きかけ、身体を起こす。ゾクン、と更に官能が走り抜けるのを、頬を床に擦り付けて耐え、一体何が大丈夫なんですか、と途方に暮れる。ずる、り・・・と指が外に抜ける感覚に、背骨がのたうつ。
「俺、ばかり・・・。脱いで、下さい・・・。」
 潤んでしまっているであろう瞳で、頬を床に擦り付けたまま、少々の非難を込めて、睨み上げ、ジュリアス様の服を手で小さく引く。
 ジュリアス様は、視線が絡み合った瞬間、こく、と小さく唾を飲み込むと、「其方は・・・。」と、小さく困ったように言って、服を一気にばさりと脱いだ。暖炉の炎に揺れるように浮かび上がるジュリアス様の白い裸体に、俺は思わず目を眇める。そそり立つ中心を恥ずかしく思う気配もないジュリアス様の様子に、今度は自分の喉が鳴るのを感じた。遅れて頭にカーッと血が上ってくる。不安にか緊張にか、それとも期待にか、ドキン、ドキン、と五月蝿くと鳴る心音は最早、身体のどこで鳴っているのか、見当がつかない。
 ジュリアス様が俺の背後に回り、伸ばされた指先が、愛しげに俺の髪と背をそっと撫でる。終わり際、もう一度、確かめるように入り口に指先が触れる感触に身震いしている内に、ジュリアス様の熱い切っ先が、俺に触れた。ひくん、と自分の中が先ほどの指の感触を思い出して、収縮する感覚。嘘だろ、と思う間もなく、ず、とジュリアス様が、俺の身体を割って入ってくる。
「クッ・・・。息を、吐け、オスカー。」
 ジュリアス様の苦しげな吐息に、俺は必死で力を抜く。
「ハ、ァ、ァ、ァァ・・・・。」
 吐き出す息に合わせて、ずる、ずる、とオイルの助けを借り、ジュリアス様が奥へ奥へ、と進むのに、身体が割られるような、背骨がジュリアス様のソレと一体化して痺れるような、名状しがたい感覚が俺を襲う。
 やばい、もう無理だ・・・。圧迫感と入り口が割けてしまうような恐怖感から逃れようと再びずり上がりそうになって、
「オスカー。」
 宥めるような呼ばれ方に、逃げを打つ自分の身体を、無理矢理留まらせる。合わせて、ピタリ、と一度ジュリアス様が動きを止める。全部入ったのですか?と聞こうとして、
「すまん。許せ、オスカー。」
 言うなり、ジュリアス様が浅く、ゆっくりと腰を使い始め、息を詰める。一度、二度、三度・・・角度を微妙に変えながら繰り返されるそれに、先ほど探り当てられたポイントに切っ先が触れる。ビクン、と身体全体が跳ねるのを、止められなかった。分かりやすいのも、大概にしろよ、オスカー・・・俺は、自分の身体を思わず呪う。再度動きを止めた後、繰り返し確かめるようにそこを擦られて、声を耐えられなくなる。
「アァッ、アッ・・・アックッ、ウッ・・・。」
 自分の声とも思えぬ声が、断続的に上がる。肘で支えていた上半身も、支えかねて、ほとんど身体を丸め、ジュリアス様のなすがままだ。瞑った両目から、生理的な涙が伝う。吐精感が迫ってくるような、切羽詰まった感覚が襲ってくるのを、嘘だろう、と焦る気持ちで必死に宥めていると、ずる、ぅ・・・と、不意にジュリアス様が深々と押し入ってきた。臀部に、ピタリ、とジュリアス様の肌の温もりと柔らかな陰毛の感触が伝わり、遅れて、
「ハ、ァ・・・。」
 という、感慨深げなジュリアス様の長く熱い溜め息が背中に伝わった。身体の構造的に大丈夫なのか、と思う程の、圧迫感とジュリアス様自身の俺の中で脈動するような熱さが、俺の身体を充たす。不思議と、恐れていたような痛みはなく、そのことが、一層俺の焦りを募らせた。
「あ、あぁ・・・。」
 息を吐きたいのか、なんなのか分からない俺の呻きに、
「全部、入った・・・。」
 子供のように喜びを隠さないジュリアス様の、感嘆の溜め息混じりの台詞に、ますます俺は所在をなくす。ほんの僅か、身を引いて、入り口をオイルに濡れた指先が、ぐるり、と一周する。麻痺していた入り口の感覚を思い出して身震いしていると、
「お前に見せられないのが、残念だな。」
 等と言われ、俺は思わず圧迫感に息を吐きながら、
「見え、なく、て・・・い・・・ですッ・・・。」
 羞恥心に爆発しそうになりながら、突っ込んでおく。
「動いても、良いか?」
 確認されて、
「痛みは、それほど・・・。」
『ですが、圧迫感があるので、無茶をしないで』と伝えようとしたが、続けて少し身を引き、ぐるりと俺の左足を持ち上げるジュリアス様の動きに、
「ヤッ・・・ナッ・・・・」
 言葉にならない。しかも、動くってそっちですか!?内心の悲鳴が届くはずは無く、ジュリアス様が膝でにじり寄るように、また深々と押し入ってくる。片足を大きく上げて広げられて、身体を横向きにされ、先ほどより深いところまで、ジュリアス様を感じてしまい、俺は、つぅ、と自分の左目から溢れた涙が、鼻頭から床に落ちるのを見送る。非難がましい視線と共に、何か言ってやろうと口を開きかけて、
「この方が、お前の顔が見えて良い。」
 見た事も無いくらいに、嬉しげで、満足そうなジュリアス様の微笑みに、パクパクと、空気を食んでしまう。ふと、何かに気づいた素振りでジュリアス様が手を伸ばし、左手の親指で俺の目元を拭う。
「痛い、・・・のか?」
 心配そうな声音と表情に、俺は、「全く、適わないな」と吐息と共に笑みを漏らした。
「いいえ。色々と驚き過ぎて、泣けているだけです。」
 スン、と小さく鼻を啜って、ジュリアス様の左手を右手で包み込み、指先にキスを落とす。流石に自分の素質の高さに焦っています、とは言えない。
「そうか。」
 ルン、と音が聞こえそうなくらいの嬉しがり方に、フフッ、と思わず腹筋を使って笑うと、ジュリアス様が、クゥ、と眉根を寄せて、声を漏らし、中の熱いものが、ズク、と大きく動いた。ハッ・・・と俺もギュ、と眉根を寄せ、その感覚をやり過ごそうとして、ジュリアス様の熱っぽい視線に捕まって固まる。
「あ・・・・。」
 間抜けな声が上がって、俺は自分の身体が勝手に何かを防御するように、強ばるのを感じる。怖い・・・。胸中を突然過った自分におよそ似つかわしくない恐怖心に、戸惑う。身を乗り出すようにして、ジュリアス様が、俺の左足ごと、上半身を倒し、俺に顔を近付けて来た。豪奢で、豊かな金髪が、肩に降り掛かって、暖炉の炎に揺れる群青が俺の顔を見下ろすのを、ゴクリ、と唾を飲んでただ、見返すことしかできない。
 やばい・・・。・・・何が?正体を掴む前に、ドクン、とジュリアス様の中心が脈動するのを感じ、「許せ。」と再び呟くようなジュリアス様の声。そこからは、何も分からなくなった。前傾になったまま、ジュリアス様がメチャクチャに腰を使う。互いの息が上がる音、汗に滑るジュリアス様の手に擦られる自分の中心、それから・・・それから・・・。
「アゥッ!アアッ!ハッ!・・・・」
「ハッ、ハッ、ハッ、ハッ・・・・」
 結合した部分から、脳天を突き上げるような熱い奔流が襲ってきて、やがて、俺の意識は完全にブラックアウトした。

 髪を撫でられているような感覚に、緩く意識が浮上する。全身が、とてつもなく怠く、泥の中に居るようだった。視界は、全面肌色。
 やがて、パチ、パチ、という暖炉の優しい、控えめな音。
 僅かに身じろぎすると、
「気がついた・・・か?」
「ジュリ、アス、・・・さ、ま・・・?」
 喉が掠れて、うまく声が出ない。ハスキーと称され多くの女性に愛されている俺の声は、今はハスキーというより、ガラガラ、ヨレヨレという感じだった。自分の思いつきに、フ、と失笑しながら、眼前のジュリアス様の胸に手を当てると、裸のまま、横向きに向き合っているジュリアス様が、俺を見下ろす気配。いつもと逆だな、と思いながら、顎を上げると、愛しげに俺の髪を撫でていた人差し指が、今度は俺の頬を緩く撫でた。泥の中をまだまどろんでいるような意識のまま、ぼぅ、とジュリアス様の群青を見上げていると、ジュリアス様は、酷く困ったような、弱り切った顔で笑んだ。
「そんな顔をしてくれるな。」
 と言われ、そんな顔・・・?鏡があるなら見てみたいような、決して見たくはないような・・・。けれど、好奇心に勝てず、俺は、再び苦笑して、
「どんな、顔、・・・ですか?」
 怠い口を動かした。ジュリアス様は、俺を見つめたまま、「何と言えばいいか・・・。」と逡巡してから、
「私に全てを委ね切っているような・・・。私のことならば、全て許しているような・・・。」
 まだまだ続きそうなジュリアス様の言い様に、俺は、フッ、と吐息を漏らし、やがて耐えきれずにクックッと喉を使って笑う。ふぅ、とジュリアス様の溜め息が俺の額に当たり、
「おかしいであろう・・・。そのようなはずは、ないのに。」
 と、静かな声が続いた。
「いえ、おそらく、当たっています。こちらこそ、何と!ンッ・・・言えば、・・・いい、のか・・・。」
 途中で驚くような強さで、引き寄せるように抱きしめられて、声が詰まったが、なんとか、続けた。こういう、力の加減が分かっていらっしゃらないところは、確かに『恋愛の経験がないに等しい』の言葉が嘘ではないように思わせて下さるのにな、俺は、辛うじて自由になる左腕を、緩くジュリアス様の背に回しながら、内心でまた苦笑した。暫くそうして抱き合っていたが、
「・・・その、オスカー。」
 ジュリアス様らしくない、控えめな声音。
「なんでしょう。」
「先ほど、執事を呼んで、少し状況を説明したのだがな。」
 ンン!?ちょっと、待ってくれ、なんだって・・・?
「いや、少し慌ててしまったのだ。悪かった。」
 あまり済まないとも思っていなさそうなジュリアス様の様子に、俺はゾォッと悪寒が背中を這い上るのを感じた。
「その、お前の中に、私の子種を、その・・・出してしまったのだ。やはり、早く出しておいた方がいいと言うのだが、歩けるだろうか?」
 らしくもなく、しどろもどろになるジュリアス様は、聖地史上初の見物だったはずだが、俺は生憎それどころではなかった。
「ちょっと。待って、下さい。この部屋に、誰か、来たのですか・・・?」
 おかしい、どんなに深く眠っている時だって、俺は他人の気配には敏感に反応するはずだ。自宅で、気を許している者しか周りに居ないときはともかく・・・。とも、かく・・・?焦る俺を、どう勘違いなさったのか、
「いや、安心せよ。呼んだのは執事だけだ。手伝いを申し出てくれたのだが、断った。あの者は、家人の中でもよく心得ているから、決して他言はせぬし・・・。」
 言い募るジュリアス様を、この時ばかりは遮って言う。
「ではなく!その、この格好を、見られたのですか?」
 きょとん、とどこかコミカルに、ジュリアス様は表情を固め、
「ああ、何か問題があるのか?」
 等と言う。あるでしょ!!大ありですよ!!俺は、天を仰ぎたくなって、顔を片手で覆う。大貴族は伊達ではない・・・俺は内心で、当たり前すぎる事に思い至って、自分の誤算を呪った。プライバシーの感覚が俺とは違いすぎる・・・。生まれた頃から何十もの家人に、プライベートを見られていることが前提の大貴族と、せいぜい軍人の家という伝統くらいしかなかった俺の家では育った環境が違いすぎる・・・違いすぎるのだろうが・・・。
「その、何か・・・失敗しただろうか?」
 シュン、とまたもしょげ返った子供のような顔で問われて、俺は参る。
「いえ、ちょっとしたカルチャーショックです。手伝いを断って下さったのは、救いですが。」
 呻くように言う。
「そうであろう。私も、このように無防備なお前を、長く私以外の者の目に晒すのには抵抗がある。」
 自信を取り返したように言われ、違います、そこじゃないです・・・という反論は、
「バスローブを用意させたのだ。お前が動けるようなら、早速浴室に移動したいが。」
「は・・・?」
 続けられた言葉に、間抜けな声に取って代わった。
「え、ちょっと待って下さい。一緒に、ですか?」
「・・・嫌、か・・・?」
 再び、ジュリアス様の金色の眉が寄って、シュン、とされる。ですから、その台詞は反則です、と・・・一度も伝えたことがないので、おそらくジュリアス様は知るまい。はー、と長い溜め息を思う存分吐いてから、怠い身体を奮い起こすようにして、なんとか片腕を付き、上半身を起こす。俺の動きに合わせるように、上半身を起こして、けれどもらしくもなく、視線を床に落としたままのジュリアス様を見て、苦笑する。キョロ、と室内を見渡し、すぐ側のソファの上の二人分のバスローブを見つけて、ヨロヨロと我ながら情けない足取りでそれを取る。自分の分を羽織り、動こうとしないジュリアス様に、ジュリアス様の分のバスローブを腕にかけて声を掛ける。
「独りでは、どうも歩きにくいようです。浴室の場所も分かりませんし・・・助けて、頂けますか?」
 ハッとしたように、ジュリアス様がこちらを振り向き、素早く立ち上がると、俺が広げたバスローブを、背を向けて纏う。振り返って、自分で紐を結びながら、少し照れたような顔で微笑まれた。
「案内しよう。」
 俺は、ジュリアス様の動きの俊敏さに、自分の身体の倦怠感を思って、なんとはなしに、やるせない気分になりながらも、まあ、このお顔が見られたならいいか、と納得している自分を、やはり苦笑して見逃した。

【第六話:伝道師の恋】

 いつもはゲストルームに付けられた一流ホテルのスイート並みのバスルームを使わせてもらっているのだが、ジュリアス様の邸宅の浴室に、足を踏み入れて、若干呆気に取られてしまった。これは確かに、自分で身体を洗ったりすることは全く想定されていないな、と思ったり、処理の途中でジュリアス様が再び熱くなられたり、と色々あったのだが、なんとか無事に二人で処理を終えて、身体も流し、少し入浴してから、浴室を出た。
 不本意ながら、翌朝に自力で馬に乗って帰宅することを諦め、更にジュリアス様の邸宅に一泊した。再戦を願うジュリアス様になんとか添い寝で我慢してもらい、これからは女性の身体をもっと労らねばなるまい、と心に誓ったことは秘密である。
 更に翌朝、月の曜日。俺とジュリアス様は、共に馬車で宮殿に上がり、朝の会議に出席した。会議の最中、チラ、チラ、とオリヴィエの視線が気になってはいたが。会議が終わると同時に、議長を務めていたジュリアス様が、立ち上がって書類を片付けていた俺に歩み寄り、
「大丈夫か?」
 と心配そうに見上げる。手を止め、
「大丈夫ですよ、流石に。昨日はお休みさせて頂きましたし。」
 笑んで返すと、ほぅ、と悩ましい溜め息を吐きながら、ジュリアス様が腕を上げ、俺の頬をスリ、と指の背で撫でる。うーん・・・。俺はなんと反応していいものか困りながら、
「ジュリアス様。」
 と、視線を少し伏せて言外に、まずいですよ、と伝える。常ならば正確に伝わる俺の意図は、何故かうまく伝わらず、スリスリと頬を撫でる手は止まらない。その間に、次々と会議に出席していた面々が、会議室を出て行く。困り果てる俺に、
「フゥン?」
 と、いつもなら真っ先に退室するはずのオリヴィエが、例の訳知り顔に、質の悪い興味を浮かべて寄ってきて、俺の肩に手を掛ける。ジュリアス様の手が下がり、ほっと俺が溜め息を吐いたのも束の間。ムッとした顔でジュリアス様がオリヴィエを睨むのに、冷や汗を掻く。勘がいいはずの男は、調子づいてさらに俺に撓垂れ掛かるようにしながら、
「なるほどねぇ。」
 と、俺を見上げる。ええぃ、離れろ、と俺は冷や汗をダラダラと背中に流しながら、身体を捩るが、オリヴィエに離れる気配はない。それどころか、ますます身を寄せてくる。
「オリヴィエ。そのようにしては、オスカーが重たいであろう。」
「あらら。オスカー、アンタってば、体力自慢だったんじゃなかったっけ?」
「オスカーは本調子ではないのだ!」
 大きな剣幕に、ビクリ、と俺とオリヴィエの身体が固まる。プッ、という吹き出すような音の後、俺に撓垂れ掛かっていた身体をパッと離し、アッハッハッハ、とオリヴィエが大きな声で笑い出した。
「あー、もー、オッカシーっ!!」
 ひいひいと笑い続けるオリヴィエを胡乱な目つきで見やってから、
「ジュリアス様。こんなヤツは放っておいて、執務室に戻りましょう。」
 俺はジュリアス様を促し、共に会議室を出た。『これはもう、時間の問題だな・・・』と天を仰ぎたくなったのは、言うまでもない。聖地に噂が広がるのに、一週は必要ないだろう。観念しなければなるまい。

 数日後。
「・・・ですから、好きになってはいけない人を、好きになってしまったのかなって、思うんです・・・。」
 カフェで、向かいに座る聖獣の宇宙の女王は、視線をレモンティのカップの中に落として言う。陛下に会いに来た帰りに、俺の執務室に寄ってくれた彼女に、相談したいことが、と言われたために、二人でカフェに来ていた。
 クルクルとあてど無くカップの中身をかき混ぜ続けるティースプーンの動きを、俺は目の端で捉えながら、頬を染めるとこの子は一層可愛らしいのだな、等と思った。しかし残念ながら、その想い人は俺ではない。俺ではないからこそ、こうして相談に乗っているのだが。
「『ならぬ恋』ってやつか。」
 俺は知らず小さく溜め息をついて、自分の髪を一度掻き上げた。
「ならぬ、恋ですか?」
「お嬢ちゃん。」
 問い返す彼女に、俺はカプチーノを一口飲んでからキッパリと言った。
「その恋が、なるか、ならぬかは分からない。・・・だがな。何でも、自分で決めるんだぜ。自分で、考えて出した結論や、精一杯の行動の結果なら、人は納得できる。そうじゃないと、いつまでも気持ちばかりが募っちまう。」
 ハッと顔を上げたアンジェリークは、さすが伝道師、と俺を尊敬してくれたに違いない。・・・違いないのに。
「そうそう、それで盛大な勘違いをしちゃったりする訳よ。」
 軽やかな声音に遮られて、俺は無粋な声の主を睨み上げる。
「なんでお前が此処に居る。」
『盛大な勘違い』の元凶に、思わず出た低い声。が、その声に怯えたようにアンジェリークが身を竦める気配に、しまった、とぎこちなく笑って、アンジェリークに視線を戻す。残念ながら、アンジェリークは、俯いてしまっていて、サラサラの茶色い髪と、女王候補時代を思わせる、黄色いリボンしか俺には見えない。ぎぎぎ、と音がしそうな首を派手な男に向けると、男は踊るような軽い所作で、両肩を竦めてみせた。それから、俺相手には見せたことのない、優しい微笑みを浮かべ、アンジェリークに歩み寄ると、態とらしく膝をついて彼女を見上げた。
「アンジェリーク。この男に相談するのもいいけどさ。」
 ゆるり、と頭を持ち上げたアンジェリークに、
「この男も、慣れない恋に振り回されている最中だから。相談相手なら、アタシにしておきな?」
 等と宣う。アンジェリークは、頬をふんわりと染めてから、ゆっくりと俺に視線を戻すと、
「そう、なんですか?」
 と聞いてきた。なんでこうなる・・・。俺は自分の微笑みが引き攣ってないことを祈りつつ、答えた。
「ああ、そうかもな。」
 ふわ、と更にアンジェリークは頬を上気させ、少し潤んだ瞳で、
「オスカー様でも、恋に悩む事あるんですね。私も、頑張ります。オスカー様も、めげずに頑張ってください!」
 何か決意したようにキッパリと言った。まあ、元気が出たなら、いい・・・のか・・・?俺は、素直に、
「有り難う。」
 とエールを受け取って、カプチーノを堪能する。口に広がるのは、ミルクで丸くなった、けれども確かに、コーヒーのほろ苦さ。
 恋に悩む?悩んでいるさ。いつだって。
 らしくない自分に、まさかの組み合わせに。
 不意に、ジュリアス様の『・・・嫌か・・・?』を思い出して、俺は頬が勝手に紅潮するのを感じた。
 ブンブン、と頭を振って、慌てて自分の顔を右手で隠す。
「どうなさったんですか・・・?」
 俺を不思議そうに見つめる、アンジェリークとオリヴィエに、俺は呻く。
「いや、俺は実に得な体質なんだ。・・・そう思うことにする。」
 口走ってから、ヒクヒクと痙攣する口の端を抑えてなんとか笑顔を作る。
「はぁ?」
 オリヴィエの胡乱気な目つきが今日ばかりは痛い。ああ、勿論、意味不明だろうよッ!俺はいっそ叫び出したい気分になりながら、思った。
 男も女も楽しめる、得な体質・・・。うん。だから、大丈夫だ。

 ・・・何が?

「いや、良いんだ。」
 大量のはてなマークを頭上に飛ばす二人にもう一度緩く頭を振って、俺は飲み終わったカプチーノのカップを見やる。丸く残ったカップの底の模様に、俺は苦笑してから、二人分の代金をオリヴィエに託すと、
「元気になったみたいで、良かった。ガラじゃないが、今日のコーヒー占いは『ハッピーエンド』。グッドラックだな、お嬢ちゃん。」
 ウィンクして、席を立つ。
「はい!!有り難うございました!!」
 背後から追いかけるような元気な返事に、俺は振り返らずに手を振った。

 はぁ、と俺はらしくもなく抜けるような青空に溜め息を吐く。
 胸に付けていたサングラスを掛けて、俺は笑う。
『私も、頑張ります。オスカー様も、めげずに頑張ってください!』
 ああ、頑張るとも。
 なんたって俺は伝導師だから。
 ならぬ恋も、盛大な勘違いも。
 思いがけない相手に、思いがけない自分に。
 だから、決めつけずに、心をきちんと打ち明けてごらん。
 自分を決めつけずに、相手を決めつけずに。
 きっと見たこともなかったような、景色をみることができるだろう。
 だから、君も、時に無様で、時に滑稽で、時に混乱する自分に怯んだらダメだぜ。


 そう、だから・・・。

 君の恋に・・・グッドラック!






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