揺れるスカビオサ、陽だまりのプルメリア




いつから私はこんなに空虚な人間になったのだったろうかと、ほとんど初めて私は考えている。
おそらく、空虚さの欠片も感じられない彼と共に過ごす時間が増えて来てから。

物心ついた時から、綺麗な子供だと言われていたので、最初はそうなのだろうと思っていた。
事実ではないと気づいたのはいつだったか分からない。
けれど、そのような虚実を言われる事に、怒りを覚える前に、愛想笑いをすることを覚えた。
特定の大人に執着されることが多かったので、あっという間に私は汚れ、それと同時にきちんと汚されることによる快感を覚えた。
すると、なお一層、綺麗だとか美しいと言われる時に、愛想笑いをすることに違和感を覚えなくなった。
嘘をつく事が、きっと性分にあっていたのだろう。

自分が、壊れていると自覚したのも、いつだったのか思い出せない。もしかしたら、生まれ落ちたその時から、壊れていたのかもしれない。
ともあれ、段々と、私の中で、汚れている私を弄んで欲しいという欲求が高まっていった。狂おしい程に。その欲望は最早、私という自我そのものといって差し支えない程に。

最初は、ただ、そこにある、無垢なものを、汚そうと思った、それだけだった。
雪原に足跡をつけるような、そういった原初的な、素直な欲求だと思う。
無垢なもの、本当に綺麗なものを汚すのは、少なくとも、私にとっては、快感に違いない。
彼が私に好意を寄せているように感じて、まるで誘蛾灯に吸い寄せられる蛾のように、私は自然と、私に好意を抱いているかどうかを彼に尋ねた。彼が何と答えたのか覚えていない。
「愛しています。」
と言われれば、躊躇無く、
「私も・・・。」
と答えただろう。私は、愛想笑いが得意・・・なのだから。
そして、それほど日をおかずに、私と彼は寝た。予想通り、彼のセックスは丁寧で気持ちよくはあったが、退屈だった。その時点では、当然に、彼が私の身体という汚物を通して、淫蕩に耽るところまで彼の純情が落ち込んだのを確認する予定だった。そして、ああ、良かった、この綺麗なものも、やはり汚れたと思って終わる・・・それが無垢なものに出会った時の、私の遊びだった。
私はいつでも、1つの遊びでは平常心を保てないので、身体の赴くまま、別の男や女とベッドを共にした。

初めて、誰かと寝た直後に彼と会った時。
その時、私は初めて、『ティムカ』という男性に出会った。
彼は私が他の人間の香りを纏わり付かせていることに気づくと、表情を無くして、私をまっすぐに見た。
その時のダークブルーを、なんと表現すれば良いだろう。
吊り橋から川底を覗くような、絶望的な色合いと、そして微かな怒り・・・そう、それは微かな、けれどもはっきりとした、憤り。
「他の方の下へ、愛を求めに行くのはいけない事ですか・・・?」
私は、懸命にいつもの愛想笑いを貼付けたまま、どこか歓喜にも似た、恐怖を覚えながら、問うた。
「貴方もそうしていらっしゃるもの、と・・・。」
彼は、私の言葉に、唇を戦慄かせた。震える唇に、思わず吸い寄せられて、口づけた。彼はまるで私の存在等そこにないかのように、唇だけを震わせたまま、そこに立ち尽くす。
そして唇が離れても暫くそうして、絶望と微かな憤りの混じった目で私を見つめて、何も言わずに、ゆっくりと、震えていた唇を噛み締めて、俯いた。両手を身体の脇で、堅く拳にして。
殴ってくれればよいのに・・・と私は思いながら、彼の立ち姿を見つめ返した。

他愛なく籠絡させ、他愛なく飽きてしまう玩具のような存在だった筈の彼は、そこで、只の玩具ではなくなった。

私は、またあのダークブルーが見たいと願い、何度も何度も、彼に会う直前に別の女や男と寝た。絶望の代わりに、諦観のようなものが瞳の全面に現れるようになり、けれども、チラチラとくすぶる炭火のように、あの憤怒が、其処には必ず居た。
私はそれを見つけては、いつになく踊る心を不思議に感じていた。

ある日、ついに。パァン、と乾いた音が鳴った。
頬を張られたのだと気づく前に、身体が芯から歓喜に震える。忘れていたかったものを一気に思い出し、そしてまた忘れられるような奇妙な、耐え難い快楽。
私は口の中を鉄錆の味が満たすのを感じながら、ただ、彼を見つめた。
殴られたのは私なのに、耐え難い苦痛に、無理に耐えるような顔をして、彼は佇んでいた。

手慣れたサディストにマゾヒスト役として遊ばれたことも、サディストを満足させてやったことも勿論あるけれど。彼は全くそうではなかった。
彼の処罰は、ただ、処罰だった。無欲の、禁欲の、処罰だった。

それはとても神聖なものとして、私の身体に降りてきた。
ストイックな、ストイックに過ぎる、その行為が。何故か私をとても幸福にする。

何故なのでしょう。
何故なのでしょう。

・・・わからない。

あれほどに五月蝿かった私の「私を弄んで欲しい」という欲求は、最早私を追いかけてはこない。あれほど、重ねても重ねても、まだ足りないと感じていた遊びへの執着も、最早跡形もない。
ただ、私は彼に処罰されるためだけに存在し、彼の処罰を受けるためだけに、「遊び」を続けた。
最早その処罰なしでは生きていくのは難しいのではないか、と気づいた時に、とてつもない不安が私を襲った。生きている実感すら感じたことのない私が、心の奥底から感じた、全(まった)き恐怖だった。

私は空虚なのだ、と思った。
なにもない。

サディストの行き過ぎた行為であっても、手袋越しに何かを触っているような、頼りない感覚だった。生きているという実感には、程遠かった。
本当の喜びも、哀しみも、どうしてか、私から奪われていたのだ。

けれども今、彼という断罪人を得て、私は彼を失うという全き恐怖を感じ、彼に処罰される度に、この上ない幸福感を味わう。
奪われていた感覚が、喜びが、哀しみが、彼に処罰されると、たった一瞬の煌めきで、私に還ってくる。
これが依存である等と言うことは、精神医学の理論を引き合いに出すまでもなく、明確だった。
けれども、私が誰か一人の人間に依存し、そのことによって生の喜びを見つけることができるとは!

なのに、どうしたことだろう。
私が、彼に依存すればする程、一瞬の煌めきに固執すればするほど、彼は疲労していくようだった。

彼に与えられた処罰の印、胸の頂き二つにそれぞれ付けられたピアスを、強く引かれて、
「アアアアアアアアアアッ!ッッッッ!」
私は瞬間。『痛み』を取り戻す。そして僅かに遅れて、たとえようのない『喜び』を。
全裸で椅子に拘束され、自由にならない四肢。ただ一つだけ自由になる首が痛みのあまり前に折れ、彼の執務服に唾液に濡れた唇ごと、顔を埋めてしまう。
「今のは、クラヴィス様にご迷惑をおかけした分ですよ。それから、これが・・・・。」
そんな時の彼の苦い顔は、私を軽蔑しきっているようにも、終わらぬ悪夢に魘されているようにも見える。
今度は逆の胸の頂きが彼の健康的な肌色の、けれども、繊細な指先で摘まれ、グイ、とその繊細さとは反対の無造作な動きで引かれる。
「アーーーーーーーーーーーーッッ!ッッッッ!」
煌めく、私の、感情。思わず仰け反るように首が勢い良く上がり、背もたれに頭を強かに打ちつける。イク寸前の感覚を、私はギリギリで耐える。・・・だのに。
「私の執務服を汚した分です。」
続けられる断罪の声は、平素の彼の声よりとても低い。まるで同じ声だなどと思えぬ程。その声が、私を崖のふちから軽く、トン、と突き落とす。脳が白く爆ぜる感触。ビク、ビク、ビクン、と身体が痙攣して極みに達する。
「痛くすると、貴方はすぐに気をやってしまいますね。業の深いことです・・・。」
彼は自分の執務服の腰の部分が、私の白濁で汚れているのを一瞥して、ただ、淡白に呟く。

暗い部屋の中で、その端正な頬に唇を寄せ・・・。
キスを・・・したい。
・・・と、思った。

―――許される筈が無い。

今、この高い高い背もたれの後ろで痺れて動かない両腕が自由になるなら・・・。
抱きしめたい・・・彼を。
・・・と、思った。

―――許される筈が無い。

ただ、私は痛みと放出の余韻に微かに身体の芯を震わせながら、唾液を唇から溢れるままにして、彼を見つめ続けるだけ。彼は視線を伏せたまま。
天使のように、禁欲的な、処刑人の美しい顔を、私はただうっとりと見つめる。
そして唐突に、下腹部を刺すような痛みが襲った。
「ヒッ・・・・・・・!!!!!」
彼は、白濁を放ったばかりの私のモノを無造作に右手で掴むと、その先端に、右手の人差し指と親指の爪を、思い切り立てたのだ。
カタカタカタカタカタッと自分の身体が奇妙に揺れる。けれども、痛みはやがて蕩けるような痺れとなって、立てられている爪のずっと奥、芯の方からジワァと熱い感覚がやってくる。はっきりと芯を持ち始めたそれを見て、彼の伏せた瞳は無言だった。けれども分かる。

―――はしたない。

ああ、声に出して下さったらいいのに・・・。ただ、息が荒くなるばかり。私は発言すらできずにただ胸を焦がす。ゆっくりと右手が熱く滾り始めたソコから離れ、そのまま胸のピアスを、ピン、と鋭く弾く。
「あ、ハァッ、ゥ・・・・。」
喘ぎながら、視界がブレて、目頭が熱くなる。焦がれる胸なのか、グラグラと煮えている脳なのか、それとも身体の芯から痺れている身体なのか、分からないどこかから沸き上って来た感情のままに、ツゥ、と頬を水が伝う。
それを、彼は私の膝の上に乗ったまま、尖らせた舌先でツッ、と舐めとる。

―――いかないで。

いとも簡単に頬から離れてしまった舌先に思う。けれど、それどころか、彼はすっくと立ち上がると、
「暫くそこで、反省して下さい。」
と、言いおいて、そのまま部屋を出て行ってしまった。

彼の居ない部屋は、酷く寒い。
窓枠とドレープの美しいレースのカーテンが、歪んで私の身体に映り込んでいる。
窓の外に黒いレース越しに僅かに見えるのは、咲き乱れるプルメリア。

『誰かを大切にする気持ちって、人を豊かにしてくれますよね。だから僕、恋愛は、大切だと思っているんです。』

まだ、私が彼を『ティムカ』という特別な男だと認識する前に・・・。
彼がそう言った事を、ふと思い出した。
この、彼を失いたくないという気持ちが、もし『誰かを大切にする気持ち』ならば。
そうならば、確かにこの気持ちは、私を豊かにしている。

本当の、『痛み』を、『喜び』を、『感情』を、たった一瞬でも、私に還してくれているのだから。
何も無い私に。いつの間にか、あるいは生まれた時から、空虚そのものである私に。

私、が・・・。恋、愛・・・?
「フ、フフ・・・・」
窓を見つめたまま笑うと、ツゥ、と唾液が糸を引いて、唇から細く溢れ、腿に落ちた。

ただ、ボゥっとプルメリアを見やっていると、程なく、彼の足音がして、また扉が開く。彼は右手にスカビオサを持ち、軽装に着替えていた。高く結い上げられた、僅かに灰味がかった黒髪。
薄紫のスカビオサ。いつだったか、彼が私に似ていると言った・・・詰まらぬ花。
「さぁ。気が済みましたか?残念ですが、今日はもう、これ以上貴方に付き合えそうもありません。拘束を解きますから、服を着て、帰って下さい。」
彼は酷く疲れた顔でほとんど吐息で吐き出すようにして宣告すると、花をベッドサイドのテーブルの上に置き、私の元へやってきて、全ての戒めを素早く解いてゆく。
痺れる手足をぎこちなく動かし、立ち上がる。少し歩きにくい。裸のまま、長時間同じ姿勢を取っていたので、身体が隅々まで、そして芯から冷えているのだろうと、なんとなく思う。ベッドにたどり着く前に、膝が抜けてしまい、それを彼が支えてくれる。
私はそれなりに重いはずだが、彼の足取りは私を支えても、まだしっかりとしている。見た目ほど、華奢でないのかもしれないと思った。服越しに伝わる、彼の温もり。

今、この痺れて動かない両腕が自由になるなら・・・。
抱きしめたい・・・彼を。
・・・と、思った。

ベッドに辿り着いて座る。彼はベッドの上に脱ぎ散らかされている私の服を、まとめて私の膝の上に落とした。痺れた腕を動かして、緩慢な動きで服を身に付ける。
彼に、見られている・・・と思うと。必要以上に私の手は動きが鈍くなった。
服を着終わって、彼をみやる。ベッドサイドのテーブルに右手を置いて、私を見下ろす彼。テーブルの上に無造作に横たわる、スカビオサ。
スカビオサ・・・『私はすべてを失った』失う程のものがあったかどうかはともかくとして、私に相応しい、空虚な花。
そして彼の庭に咲き乱れる、白きプルメリア。
それはそのまま、私と彼のようだと思った。

―――私、が・・・。恋、愛・・・?

「私は・・・。今の、貴方が、好き・・・ですよ?」
伝わる訳が無い。私は、自分の本当の気持ちを、伝えようとしたことなどなかったから。
けれど、伝わればいい、と思った。
彼は、クシャリと美しい顔を歪めて、憔悴しきった笑顔を見せた。
「そう、ですか。ありがとう、ございます。」
きっと伝わらなかっただろう、と思った。歪む窓枠とレースの陰が、部屋を出鱈目に這っている。
「けれども・・・。僕はもう、貴方を好きには、なれません。」
続けられた言葉に、伝わったかどうかは分からないが、僅かに不安になる。もう、罰してもらえないということだろうか。罰してもらえなくなったら、私はどうなるのだろう。
伝わればいい、と、もう一度思った。
「私には、何もありません。何もないということが、良いのか、悪いのかを、判断する基準さえも、ありません。・・・ただ、何もないのです。私という人間は。」
その・・・、貴方が好きだと言って下さるスカビオサと、同じように。
彼は苦笑した。
「何を今更・・・と笑っても良いところですか?」
きっと伝わらなかっただろう、ともう一度思った。
「ええ・・・。笑って、下さい・・・。」
私も、笑った。
そして、彼に、キスを・・・したいと思った。

彼の部屋を出て、館を出て、外門までの道・・・。庭を、一人で抜ける。
庭は、清浄な香りに包まれていた。
陽だまりに咲く、プルメリアによって。
太陽が似合うその花は、自然体でありながら、清楚さと気品を備えている。
それは、彼に、とても似合っている。スカビオサ等と言う空虚な花より、よほど。
足を止めて、その白き花をジッと見上げる。

私は、寂しい、と思った。

何もない自分。
この陽だまりに、この美しい花に。
手を伸ばす事が、今更許されるだろうか。あまつさえ、口づけたいなどと、思う事が・・・?

何も、ないのに・・・?


私は、寂しい、と思った。



終。


スカビオサ 花言葉「わたしはすべてを失った」
プルメリア 花言葉「気品」「恵まれた人」「陽だまり」


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