絡まる愛情とスカビオサ




わたしには、何もありません。
その善し悪しを判断する基準も、勿論ありません。

ただ、何も無いのです。

「何を今更・・・と笑っても良いところですか?」
僕はおそらく、彼のような張り付いた笑顔を浮かべているのだろうと思う。
本当のところ、僕は彼を大切にしたい。真綿を抱くようにして、そっとそっと、この美しい生き物を愛したい。
でも、それをこの人は許してくれない。それを理解したのは、いつだっただろう。

いつだっただろう。

いつだっただろう。
思い出せない。

いや、恐らく・・・。僕は思い出したくないだけなのかもしれない。

***

「私の事を、気に入ってくださっている・・・と?」
普段からどこか、 何か含みがあるような、無用の色香を放っている彼だけれど、その時の彼は、少なくとも、楽しくお茶を飲む同僚の顔つきではなかった。
僕は、ドキリと胸を躍らせてから、少しは落ち着いたと思ったのに・・・と。自分の体が反射的に跳ねたのに呆れる。それから、『いや、相手が彼だから、こんなに素直に反応してしまうのかもしれません。』と、思い直す。
彼の指摘は事実だった。恐らく彼の含むところの『恋愛感情として』という指摘も含めて、僕の気持ちそのものだった。だから僕は、上気した頬を内心で戒めながら、コクリと顎を引いて答えた。

最初は良かった。彼と初めて夜を共にした日、僕は宮中での嗜みとして、得ていた知識の全てを出し切るようにして、彼を愛した。
「愛しています。貴方を。」
と言えば、酔ったような顔で、
「ええ。私も・・・。」
と彼は答えた。
勿論、彼の本心だと思っていたし、実際本心だったかもしれない。僕の愛と彼の愛の内実に大きな乖離があるという前提において。

その後の数回の逢瀬で、生涯の伴侶を、最も愛するその人として得ることができたと、僕は浮かれた。
・・・最初に鼻についたのは、誰の香りだっただろう。
或いは、僕の知らない誰かの香りだったかもしれない。

ある日、態とらしく、別の男の香りを纏ったまま、僕の褥にやってきた彼に、僕は絶望した。絶望・・・それ以外の言葉で、あの時の僕の気持ちを表現する事は、少なくとも僕にはできない。
僕は発狂するのではないかという位の絶望の中で、それでも、「何故ですか。」と最初は彼に素朴に問いかけた。震える声で。
何故なら僕と彼は愛し合っている筈で、僕にとっては愛とは、互いが互いを他の誰よりも一番に想い合う事であったから。

しかし彼は、僕の問いかけに、
「他の方の下へ、愛を求めに行くのはいけない事ですか?」
と、いつもの美しいままの笑顔で問い返した。
そして張り付いた笑顔のまま、
「貴方もそうしていらっしゃるもの、と・・・。」
と言い添えた。僕は何と答えたのだったか。或いは、何も答えられなかったかも知れない。きっとそうだっただろう。その時は、恐らく何も感じる事ができなかった。絶望さえ。ただ目の前が暗くなって、それから暫くして、僕は彼に試されているのではないか、と思うようになった。
愛を、試されている。そんな風に、無邪気な仮説を立てたのだった。
けれども、二度、三度と、同じ事態に出くわすうちに、そうではないことに気づく。つまり、彼の言う「愛」は、僕の言う「愛」とは全く異質なものだ、と僕は気づくに至ったのだった。

その頃だっただろうか。なんの用事だったか、とにかく僕は神鳥に行く用事があったのだろうと思う。そこで、リュミエール様に、お茶に誘われた。そして、徐に、こう切り出された。
「最近の貴方は、とても・・・辛そうですね。」
と。事実だったので、僕は、苦笑して、
「リュミエール様は、なんでもお見通しなのですね。」
と肯定した。彼に嘘を言おうなんていう気持ちは、僕には微塵も無かった。リュミエール様も、呼応するように苦笑して、それから、少し哀しそうに表情を曇らせ、
「貴方の屈託ない笑顔を見る機会が減って、私は少し淋しいのだと思います。」
と、零された。僕は彼への感情を拗らせるまでは、屈託なく笑っていたのだ・・・と僕は思った。それから、暫く考えて、答えた。
「私は分からなくなったのです。人を愛しいと思う気持ちは、人を豊かにするものなのだと信じていました。だから恋愛は大切なのだと。けれども、どうも、違ったようです。私は・・・愛というものを知って、さもしくなりました。・・・とても。」
リュミエール様の邸宅の、白い・・・小さな中庭。とても静かで、家人は誰も居ない。おそらく、僕を気遣って下さっているのだろうと思った。それから、美しいけれど、僕からは遠く高い位置にある空、そしてそれよりは近い位置にある筈の・・・けれどもやはりとても遠い雲。美しいモノ達は、皆。僕とは遠く隔たっている、と思って僕は笑って、香しいハーブティーの入ったカップを持ち上げて傾ける。暖かく、優しい味は、リュミエール様の存在そのもののよう。或いは、リュミエール様のような方と恋に落ちることができたなら、ずっと幸せだったのかもしれないと思った。
「貴方を、さもしい等と思った事はありませんが・・・。愛は、確かに、人を時にさもしくさせるものかもしれませんね。」
厳しく嗜められるか、憐れんで頂けるかの、どちらかだろうと僕は思っていたので、リュミエール様の思いがけない同意に、思わず、庭を笑んでみやる彼の横顔をジッと見つめてしまう。
庭の美しい広葉樹や花々を、見るともなく見ているような彼の視線。珍しいことではないけれど、彼の完璧な微笑みからは、なんの感情も読み取れない。

―――さもしい想いをする、リュミエール様・・・は、流石に想像がつかないな・・・。

と、ぼんやり思って、また優しい香りのハーブティーに口をつける。
会話の内容を反芻し、遣る瀬なく溜め息を吐きながら、けれども何故か、口の端だけが上がる。

「リュミエール様は・・・・、ご存知ないだけです。私は、本当に、さもしい。」

さもしい、と言わずになんと言えばいいのだろう。
だって、僕は・・・こんなに、あさましく、彼を求めている。
彼が今更何を言ったとしても、僕は信用しないし、まともに取り合う気にもなれない。
そう、僕は彼を信じない。

―――彼を・・・愛して、いるから?

どんどん、僕は訳が分からなくなる。

***

それで、いつからか、僕と彼はこうなってしまった。

僕の私邸の一室。態と僕は暗い部屋を選んだ。西日がきれぎれに、重たいドレープを描く黒いレースのカーテン越しに差し込んでいる。窓枠とレースが作る奇妙な模様が、部屋の調度品の上で出鱈目に歪んでいた。まるで我々の入り組んだ心の様に。
部屋の重々しい空気に似合う、重厚な趣の、背もたれの高い椅子。僕の愛しい人は、全裸で後ろ手に縛られて、そこに居た。なんのことはない。僕がそうしたのだけれど。
何故かと言えば、それが彼の希望だから、と答えるより他は無い。

いつだったか、彼の余りの素行の悪さとその後の悪びれなさに、僕は耐えかねて、思わず彼の頬を平手で殴った。すると、彼はいつもの綺麗な微笑みを称えて・・・けれども、どんな愛の言葉を囁いたときよりも、どんなに想いを込めた夜を共にした時よりも、目を輝かせて、僕を見た。
それで僕は理解した。彼は、ずっと、僕に・・・いや、誰でも良い、誰かにこうして欲しかったのだと。

誰よりも美しく、誰よりも高貴な―少なくとも僕には今もそう見えている―独特の空気を纏う彼は、本当は、誰よりも蔑んで欲しいという欲望を抱えているのだと、その時に理解した。

フランシス・・・語源は勇敢な槍―フランクス―という意味だが、彼に、これほど似合わない名前もないのではないだろうか。或いは、彼の持つ勇敢さ、自由さというのは、蔑まれることを厭わない、というような意味なのか。

彼にそういった言葉を浴びせた事は無いが、あり得ぬ程の罵倒・・・例えば、『売女』等と言って彼を蔑めば、きっと彼は喜びに身体を芯から震わせるのだろう。
・・・それもいいのかもしれない。彼が、「ああ、やっぱり貴方だ。貴方が良い。」と思うのであれば、僕はきっと、何だってしてしまうような気がする。

何故なら、既に今、僕はこんなに酷い事を、平気で、できるようになってしまったから。

薄暗い部屋で、彼を全裸にして、自分は執務服を着込んだまま。彼の座高の倍はあるだろう背もたれの後ろで、彼の両手を戒めている。最初は跡が付くし痛いだろうからと布で縛っていたのだけれど、最近は態と跡が残りやすい麻縄を使うようになった。ギリリと縄目を皮膚に擦り付けるようにして、縛り上げられるのが、彼は好きだ。
青白い肢体に窓枠とレースが、やはり歪んで、陰を落としている。
どんなに強く抓っても、「もっと」と彼が強請るので、仕方が無く付けたのは、乳首を飾る金のピアス。焼いた針をそこに通す時、彼は甲高い声で叫び、そして啜り泣いた。ここで可哀想だと思ってしまうと、彼の場合は、却って話がややこしくなる。
宮中で学んだどのような愛し方よりも、彼の上気した頬や、潤んだ瞳、ギチギチに張りつめた下肢は、『こっちの―痛い―方が良いのだ』と如実に語る。だから、僕は内心では自分を止めようと最大限努力したにも関わらず・・・結局は、彼の望むがまま、両胸の頂きに、この手で針を通した。
だから、今、彼の青白い薄い筋肉の付いた身体には、金のピアスが二つ付いている。特に何をした訳でもないのに、縄で縛って全裸で部屋に拘束している、この状況だけで、どうやら彼には興奮に足るらしく、下肢は張りつめて、タラタラと透明な液体を滲ませており、ピアスを穿たれた両胸も既に堅くしこっていた。
僕は彼に対して横を向いて、両腕を組み、冷徹にその様子に一瞥をくれるだけ。まだ、何もしない。
「何故、まだ触れてもいないのに、そんなに張りつめさせているのです?少しは嗜みというものを貴方も、学んでも良い頃でしょう。」
淡々と、彼から視線を逸らして言う。言いながら、酷い言い分だが、半分は本音だとも思う。彼は言葉を掛けられただけなのに、ビクンと身体を反応させてから、
「ンッ!フッ・・・・。あ・・・、ご、めん、な、さい・・・。」
上気した頬、酔ったような瞳。唾液に濡れる唇。両足首は椅子の足にそれぞれ固定されているので、自由にならないけれども、まるで此方ににじり寄りたいかのように、足の指先が絨毯を掻いている。
この光景を第三者が見たら、まるで僕が彼を支配下に置いているように思うだろう。けれども、事実は全く逆だ。僕は彼に捕らえられ、自由を奪われ、従属している。
僕は、ゆっくりと彼に歩み寄る。それだけで、タラタラと涎が彼の口の端から溢れ出る。キスを強請っているのか、何を強請っているのか分からない、舌が頼りなく、唇から捩れでてくる。僕はそれを無視して、至極、自然を装い、彼の両膝の上に、横から座った。身体を捻って、彼の顔を正面から見下ろす。
彼の身体から香っているのは、今日は白檀の香り。今日の相手はクラヴィス様か、と僕は淡白に思った。クラヴィス様は、他の相手よりずっとマシだ。彼は絶対にこの人に本気に等ならないだろうし、何より、この人の質の悪さを神髄からよく分かっているように思う。
僕は、涎を垂らす彼をニコリと『邪気が無い』と評される笑みで見下ろし、巻き毛を自分の指先に絡めてから、その手を素早く彼の左胸の頂きのピアスに移動させ、ギュゥとそれを手前に引っ張った。
「アアアアアアアアアアッ!ッッッッ!」
ガクン、と彼の首が前に折れ、私の胸に顔面を突っ込むような形になる。
「今のは、クラヴィス様にご迷惑をおかけした分ですよ。それから、これが・・・・。」
もう一度、今度は逆の手で、彼の右胸のピアスを強く引く。
「アーーーーーーーーーーーーッッ!ッッッッ!」
ガクン、と今度は顎が勢い良く上がって彼は背もたれに頭を打ちつける。
「私の執務服を汚した分です。」
ビクン、ビクン、ビクン・・・・と身体が飛び跳ねて、彼はたった、この二つの刺激で達してしまった。
「痛くすると、貴方はすぐに気をやってしまいますね。業の深いことです・・・。」
僕は、白濁をまき散らした下肢が、僕の服の腰の部分をすっかり汚してしまったのを確認して、顔を顰める。

―――キスを、したい。
―――抱きしめ、たい。

どこかで、微かな声が聞こえた気がした。誰のものとは全く分からない、ごくごく、微かな。僕はその声を聞きながら、目の前の彼の、白濁を放ったばかりのソレを右手でぞんざいに掴み、先端を爪で強く掴む。
「ヒッ・・・・・・・!!!!!」
カタカタカタ、と彼は身体を震わせるばかりで、今度は声も出ない。けれども、またジワジワとソコが充血し始め、両胸の先端もピンと張りつめてくる。下肢から手を離し、張りつめた箇所を戒めるピアスをピン、と指先で弾く。
「あ、ハァッ、ゥ・・・・。」
ツゥ、と彼の頬を涙が一筋伝う。それを僕は、尖らせた舌先で舐めとった。できるだけ、事務的に。
そろそろ、我慢の限界だと思い、僕はすっくと彼の膝の上から立ち上がる。彼に、僕を選び続けて欲しい。だから、僕は彼を抱きしめない。彼に、僕を選び続けて欲しい、だから、僕はキスしない。

―――この人を、愛して、いるから・・・・?

僕は、
「暫くそこで、反省して下さい。」
と、処罰を宣言するような堅い声音で言いおいて、その部屋を退室した。

***

僕は明るい部屋に移動していた。僕の司るという水を題材にした目の覚めるような青の絨毯とタペストリーに囲まれたその部屋は、応接室の一室だった。けれども今は、誰も居ない。彼の来る日はいつもそうであるように、館そのものから人払いしたからだった。
この部屋は、僕の故郷の応接間を模した雰囲気で、絨毯に床座りして使用する部屋になっている。クッションを右腕の下に置き、楽な姿勢を取ってから、応接テーブルの上に設置された花瓶を見やる。彼を思わせる淡い紫色の、可憐な花のブーケ。たしか、マルセル様のお庭で見たのが最初だったと思う。一目見るなり、僕はこの花を大変気に入って、以来、この部屋からこの花が切れることはない。
自分で私服に着替える事にも慣れてしまっている。汚れた執務服から私服に自分で着替えると、少しばかり胸の支えが下りた気がした。

「スカビオサ。」

意味の分からぬ呪文のような名前を冠する、不思議で意味不明な花。
す、とまっすぐに手を伸ばして、花弁に触れるか触れないかの距離を、指先で辿る。つ、つ、つ・・・と、繊細な花弁に。彼の唇や、彼の胸の頂きに、こんな風に触れる事が許されたなら、どんなにか良かっただろう。僕は指先を引き上げて、自分の唇に当てる。そして、その手を額に当てて、天井を仰いだ。
「ふ、ふふ・・・・。は、は、は・・・・。」
自分が泣いているのか笑っているのか、よく分からなかった。ただ、一頻りそうして笑い声のようなものを上げてから、時間を確認して、一輪だけスカビオサを取り上げると、彼の居る部屋に戻った。

***

「さぁ。気が済みましたか?残念ですが、今日はもう、これ以上貴方に付き合えそうもありません。拘束を解きますから、服を着て、帰って下さい。」
スカビオサを右手で弄び、淡々と僕は告げた。いつもならば、「もっと共に居たい」という気持ちを押し殺し、淡々と言うことに苦労するのだけれど、今回は何故か、何も思う所無く、事務的に告げる事ができた。心の底から、疲れているのかも知れない。
僕は、花をベッドサイドの小さなテーブルに一度置き、彼の座る椅子の後ろに回り込んで、麻縄の拘束を解く。ぱらりと床に落ちる麻縄。おそらく痺れてしまっているのだろう。彼はぎこちない動き方で、なんとか椅子から立ち上がると、フラフラと服を脱ぎ散らかしたベッドに向かおうとする。その途中で、ガクン、と彼の膝が抜けた。
僕は慌てて、滑り込ませるように、彼の肩の下に、自分の肩を入れて支える。ほとんど全体中が掛かって来たが、彼の身体はそれほど重くないので、問題なく支えながら、ベッドまでの短い距離を移動した。その間、彼から伝わってくる体温に、泣き出してしまいたい気持ちになる。ベッドに座らせ、彼の衣服をバサリと、その膝の上にまとめて落とす。
彼はノロノロと手を動かして、服を着る。僕はそれを漫然と見やる。一つ一つの所作が、誘っているように見える。これは僕の情緒が何か可笑しくなったせいなのか、それとも、男ならば、皆こんな風に彼を眺めるものなのだろうか。

『誰かを大切にする気持ちって、人を豊かにしてくれますよね。だから僕、恋愛は、大切だと思っているんです。』
いつだったか、僕は誰かに、そんな事を言った気がする。
いつだったか。

「私は・・・。今の、貴方が、好き・・・ですよ?」

一瞬、誰が何を言ったのかが分からなかった。それから、すっかり着替え終わって、少し乱れている彼の巻き毛の間から、まっすぐに僕に視線が注がれていることに気づいて、ハッとした。視線はまっすぐに僕に向けられていたが、やはり、いつもの酔ったような表情だった。揶揄うような、余裕ぶった悪辣な笑顔でなかったことを、僕は僅かに喜んで、それから泣きたくなった。
「そう、ですか。ありがとう、ございます。」
気力がもう尽きかけていたので、これは彼の気に入る返答ではなかっただろうが、今更どうしようもなかった。

僕は、この人を、大切にしたい。
けれども、この人から愛される為には、僕は彼を虐げなければいけない。

僕は、この人を愛している。
じゃあ、どうすればいい・・・?
大切にするということが、虐げるということなんだと随分前に答えは出た筈ではなかったか。だから、もう。ティムカ、お前のエゴは捨てるんだ・・・。大切にしたいだの、優しく触れたいだのというのは、全て、僕の単なる欲望に過ぎないのだから・・・。

「けれども・・・。僕はもう、貴方を好きには、なれません。」

見つめ合っている僕と貴方。僕という虚構と、貴方という真実。ああそうか。結局、愛していると言いながら、僕はこの不公平に納得がいかないのだ。

「私には、何もありません。」

唐突に、彼は切ないような瞳で僕を見て、告げた。そして続ける。
「何もないということが、良いのか、悪いのかを、判断する基準さえも、ありません。・・・ただ、何もないのです。私という人間は。」

何を言われても、真に受けるつもりなどなかったけれど、彼の瞳は、これが何かの真摯な告白である事を、僕にしっかりと伝えた。残念ながら、意味は全く分からないけれど。
僕は苦笑した。
「何を今更・・・と笑っても良いところですか?」
そして不意に、彼を殺して、自分も死ぬのが、一番良い方法なのではないかと思った。これ以上彼を物理的に傷つける事も無い。そして、相手を殺すというのは、相手に対する究極の虐待ではないだろうか。
さもしい僕の、刺々しい気持ち。

僕は、混乱している。なのになんで、こんなに混乱しているというのに、一つだけハッキリとしているのだろう、この気持ちさえ揺らいでくれれば、僕はこの混乱から自由になれるというのに。

「ええ・・・。笑って、下さい・・・。」

彼は、手首の傷を擦るようにして、張り付いた笑顔を浮かべた。この人は狂ってる。もう随分前からそんなことは分かってるのに。なのに何故、このバランスを失った人が愛おしくて堪らないのだろう。

僕は瞼の裏で夢想する。この混乱を美しく終わらせる方法を。
僕が彼の首に今、両手を掛けて、ジワジワと締め上げる。彼はろくな抵抗はしないだろう。何故なら、今彼は、その時を待っているのだから。
だんだんと彼の顔が赤黒くなって、やがてぱたりと彼の手から力が抜ける。

そうしてやっと、僕は彼を僕の愛し方で、愛せるようになるだろう。
真綿を抱くように。
繊細な花弁に触れるように。
キスをして、抱きしめたい・・・。

僕のエゴイズムがまたボソボソと部屋で呟いている。僕は失笑して、額に手を当てて、なんとか彼に告げた。
「いいから。もう今日は帰って下さい。」

泣けたら良いのに、と思った。



終。


スカビオサ
マツムシソウ(松虫草、Scabiosa japonica)は、マツムシソウ科マツムシソウ属の越年草。北海道、本州、四国、九州に分布する日本の固有種で、山地の草原に生育する。
草丈はおよそ60-90センチで、葉は対生し、羽状に裂ける。夏から秋にかけて紫色の花をつける。花は頭状花序で、花の大きさは径4aほどである。開花時期は、8〜10月。マツムシ(スズムシ)が鳴くころに咲くことが和名の由来であるとする説がある。薬草として皮膚病などに用いられることもある。日本の31の各都道府県で減少傾向にあり、各々のレッドリストに指定されている。(wikipedia)

花言葉:わたしはすべてを失った


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