遅すぎる挨拶




あまり得意でない人物と、意外な場所で、朝からバッタリ鉢合わせする、というのはあまり嬉しくないものだ。
「おっと。ヴィクトール。お前もお嬢ちゃんに用か?それなら俺は後日にしておこう。」
彼は得意のニヒルな笑みを見せて、両肩を役者ぶった動作で軽く竦めると、手を振って踵を返した。
その判断と反応が、あまりに素早かったので、俺は『いえ、貴方がお先に』と言うべきだったのだろうが、何を返す以前に、彼のヒラヒラと翻る青いマントを見送っていた。
俺の用事は大したものではなく、別段、急いでいた訳でもなかった。
だが、彼の用事を知る由もないのだから、気にしても無駄か、となんとなく溜め息をついて、俺はコレットの部屋をノックした。
とは言え、俺が小心者に過ぎるのか、どこかその朝の出来事と、ヒラヒラと翻って遠ざかる青いマントの残像が、ふとした瞬間に脳裏を掠めるものだから。俺相手に構えてしまっているように見える女王候補ーアンジェリークーとの距離を多少なりと縮めようと、彼女と時間を共に過ごすという俺の作戦は、なんとなく、目的を十分に果たせなかったような気がしてしまった。
「なかなか、うまくいかないものだな。」
と、帰路に独りごちる。我ながら、冴えない感想を抱きながら、一回り以上年の離れた女の子と接する仕事の難しさと改めて感じていた。それこそ、オスカー様なら・・・。彼なら、なんの気負いもなく彼女と接して、屈託ない笑顔を造作も無く引き出したりするのだろう。

なんとなく、考え事がてら、森の中を散策していると、どこからともなく、ハープの音が聞こえて来た。知らず、その音を追いかけるように、歩を進め、生い茂る木々を掻き分けて進むと、小さな泉の前で、岩に腰掛けて小振りのリラを片手に抱えて奏ずるリュミエール様が居た。いつもの執務服ではなく、ただ、印象はさほど変わらない白い長衣を身につけていた。
サワサワと樹々の音。
サラサラと滝というにはあまりに小さい湧き水から岩を伝って落ちる水の音。
そして、いっそ、それらと合奏しているように、白い指先からポロポロとつま弾かれる幻想的な音。
サァ、と少し強めの風が吹き抜けると、リュミエール様の長髪が舞い上がって、木漏れ日が綺羅綺羅と形を変える。

ポロ、・・・ン・・・。

如何にも調べは中途半端に止まって、リュミエール様の瞳が何気なくこちらに向けられる。深い海色の瞳。
森の緑と、木漏れ日の金と、リュミエール様の白と青。
ただ・・・見とれていた。
「・・・?・・・こんなところで、奇遇ですね。ヴィクトール。」
瞳と瞳は、きちりと見つめ合っているのに、何も声を掛けない俺に、少し小首を傾げるようにしてから、リュミエール様の静かな問い。
俺は、慌てたように、中途半端に止まってしまっていた手足をなんとか直立の形にピシリと整え、それに答えた。
「ああ!すみません!演奏のお邪魔だったでしょうか。その・・・、なんとなく歩いていましたら、音色が聞こえたもので・・・。」
カーッと顔に熱が集まってしまうのを感じる。全く、年甲斐もなく、何をやってる・・・と自分にあきれ果てたタイミングで、クスクスという忍び笑うようなリュミエール様の声に気づいた。
「ああいえ、こちらこそ、申し訳ありません。お聞かせするような演奏(もの)ではなかったと思いますが、思いがけず聞いて下さって、有り難うございます。」
「あまり音楽のことは分かりませんが、とても素晴らしいもののように、聞こえました。」
「それは・・・、有り難うございます。」
恐縮するように、彼の白い頬が僅かに上気する。それで俺の方が、余計に赤くなってしまう。とても男性には見えないが、ここでは、男性に見えない男性は、それほど珍しい訳ではない。
それに、よく見れば、彼の肩や指の骨は、それなりに太く、女性のそれとは異なっている。
「その、声を掛けずに、ぼーっとしてしまって、盗み見たようになってしまいました。申し訳ありません。なんだか、そのお姿が、この世のものではないような、そんな気がして。」
「・・・・。」
やっとできちんと謝罪が出来たと思ったのだが、リュミエール様は、木漏れ日の中で、その美しい眉を寄せて、何かに耐えるような顔つきになってしまう。何か・・・失礼なことを言っただろうか。
「いえ。このような美しい風景の中では、何もかも光り輝いて見えるのかもしれません。」
気を取り直すように、彼はいつもの見慣れた完璧な笑顔を見せる。何故か、反論するのは憚られて、俺は口を噤む。それに気づかれたのだろうか。
「・・・すみません。誤摩化すべきではありませんね。私は、自分の容姿のことを言われるのが、あまり得意ではないのです。けれども、貴方の琴線にこの空間の何かが触れたのであれば、それを私が個人的な感情で、どうこう言うべきではありませんね。」
少し悲しそうな顔をして言いながら、けれども、最後は顔を上げて、俺に笑んでみせるリュミエール様は、なるほど、確かに『優しさ』の守護聖なのだろうと思った。
「いいえ。俺の方こそ、不躾に感想を思うままに言ってしまって。・・・あの。」
教官として聖地(ここ)に来たばかりの俺と、リュミエール様は、聖殿ですれ違った時に挨拶をする程度の仲だった。けれど、せっかく、こういった場で二人になったのだ。これをきっかけに、相談してみてはどうか、と俺は内心で思って、一度視線を下げてから、もう一度、その麗人をまっすぐに見つめる。
「少し、相談に乗って頂けますでしょうか。」
見つめると、やはりその美々しい様子に、なんとなしに、緊張してしまう。俺は海色の瞳の少し下、首もとの辺りをめがけて、視線をやる。こくり、と彼は顎を引いて、また笑んだ。
「私で、宜しければ。」
サクサクと、森の樹々から振りまかれた落ち葉を踏みしめて、俺は少し距離を詰める。話しやすい距離まで移動してから、腰の後ろで両手を組みそうになって、『ここは軍でもないし、まして、彼は上官でもないぞ。』と自分にやや呆れながら、身体の前で余った両手を所在なく組み合わせる。
「その・・・。オスカー様の、事なのですが。」
ピク、と麗人の美しい眉が一瞬跳ねて、それから、またいつもの笑顔になった。けれども、それはどこか、いつものものよりも、凄みがある気がして、俺はたじろいでしまう。俺は立っていて、彼は座ったままなのに、何故か・・・、まるで彼に呑み込まれるような心地がした。
「オスカーが、何か?」
けれども、その声はいつもの通り、涼やかなもので。呼び捨てされた名に、そういえば、彼とオスカー様は、ほぼ同時に守護聖の任に就いたと聞いたのだったと思い出し、俺は先を続ける。
「ええ。俺はその・・・。軍人であった事もあり、実は軍神とも謳われる炎の守護聖様に、直接会えるという事で、その・・・。ある種、期待感のようなものを持ってここに来たんです。」
こくり、とリュミエール様は小さく顎を引いて、先を促す。
「ですが、実際にお会いしてみると、事前のイメージとは大分違ったので。こういう言い方は失礼かもしれませんが、『強さ』の守護聖、戦いのシンボルである炎の守護聖は、もう少しストイックな方かと・・・これは俺の勝手なイメージだった訳ですが。思っていたんです。」
そこで、リュミエール様は、初めて見るような、ポカン、とした顔をされた。俺はカーッと自分の顔が紅潮するのを感じた。
「変、でしょうか・・・?」
思わず視線が出鱈目にアチコチに彷徨ってしまう。クックック、と喉を鳴らしてリュミエール様は笑った。
「いえ。オスカーが・・・。フフッ。すみません・・・。ストイックというのが、如何にも・・・。ごめんなさい。似合わなくて・・・!フフフッ・・・。」
如何にも可笑しそうに、口元を隠しながら笑うリュミエール様に、俺は、この人もこうして笑う事があるんだと、当たり前のような事に気づいて、ややホッとする。
「剣技は素晴らしいと、伺っていますので、そうしたところを拝見すれば、またイメージも変わるのかもしれませんが。けれども、見境無く・・・と言ってはこれも失礼なのでしょうが、女性に声を掛けられる様子等を見ると、どうにも苦手意識ばかり感じてしまって。」
なんだか安心するようにして、吐き出してしまった。
「そうですか・・・。」
うんうん、とリュミエール様は頷いてから、ゆっくりと口を開いた。
「貴方はまだご存じないかも知れませんが。私はオスカーと仲が悪いのですよ。」
仲が良い訳ではない、ではなく、『仲が悪い』というハッキリとした言い方に、俺は少し意外だな、と思う。
「そう・・・だったんですか。」
ただ、なんとなく・・・。俺はオスカー様のもっと良い部分を知りたいと思って相談したにも関わらず、何故か安堵するような息を吐いていた。大概、矛盾している。
「ええ。私も、オスカーが苦手なのです。これもまた、奇遇ですね。」
にこりとしながら紡がれている言葉は、けれども、どこか悲しい響きを持っていて、俺は黙ってリュミエール様の海色の瞳を見つめていた。そこに、何か、本心が現れているのではないか、等と思ったのだろうか。だが、泉の水面に、緩く、優しく投げられた視線からは、何も読み取れない。
「本来なら、同僚なのですから・・・。まして、彼と私は同期と言っても良い関係なのですから・・・苦手、等と言っている場合ではないのですが。」
言いながら、少し伏せられた瞳は、笑みを称えているけれども、やはり哀しそうにも見える。俺は、何か慰めたいと思ったが、けれども、気の効いた言葉等、出る筈も無く。
「オスカー様は、どう思っていらっしゃるのでしょうか。」
等と、間の抜けた事を呟いてしまっていた。キョトン、とまた彼が珍しい顔で、俺の方を見やる。
「ええと・・・。つまり、オスカー様も、リュミエール様を苦手だと思っていらっしゃったり、苦手ではあるけれども、同僚なのだから、それなりに良好な関係を築かねばならない・・・と感じていらっしゃるのかな、と。・・・ご本人に聞いてみなければ、こんなこと、分かりませんよね。済みません!」
両手を意味不明にブンブンと打ち消すように横に振り回しながら早口になって言い募ると、プッと彼は吹き出して片手を上げて言う。
「謝らなくて良いのですよ。ヴィクトール。そうですね。彼がそう思っていない事は聞かずとも明らかだと思います。」
「・・・?」
ふと、リュミエール様が笑顔を一瞬で真顔にして、あらぬ方向をピタリと見据える。
「どなたです?」
え?と思って俺はその方向を身体毎振り返る。・・・と、数秒の沈黙の後、ガサリと音をさせて、オスカー様が現れた。いつの間に着替えたのか、黒いシャツを素肌に纏い、ナチュラルな色の革パンツの私服。赤い髪を掻きあげながら、もう片方の手を身体の前で立てると、
「先に言っとくが、盗み聞きするつもりは、なかったんだぜ?」
と、イヤミに嗤った。
「そんなに怖い顔をするなよ、リュミエール。」
いつものように肩を竦めて、彼はふらりと首を傾げてみせた。挑戦的に光るアイスブルーは、それまでの柔らかな空気を一変させ、まるで氷のナイフが場に満ちているような、刺々しい空気を作る。
リュミエール様のピタリとオスカー様に向けられた海色の瞳も、その無表情のせいか、まるで凍っているような印象だ。
「俄には信じられませんね。いつから聞いていらしたのです?」
断じるように言ってから、リュミエール様は『にこり』と瞳を細めて問うたが、それは変わらぬ瞳の温度のせいか、笑顔には全く見えなかった。
「そうだな。俺がストイックでなく不届きな守護聖であることと、水の守護聖様が、同期で同僚だと俺を認識して下さっている上に、挙げ句に苦手だと言わずに仲良くならねば等と、有り難い事まで考えて下さっているってあたりか?」
瞳を細めてオスカー様も嗤ってはいるが、それは慇懃に過ぎる台詞と同様に、冷笑というのが相応しいような顔つきだった。
しかし、何の物音もしなかったが。俺は職業柄、人の気配には敏感な方だが、俺も気づかぬような物音を、リュミエール様の耳は拾える、という事なのだろうか。

ーそれにしても、『仲が悪い』は伊達ではなさそうだ・・・。

俺は背筋を冷たい汗が流れるような感覚に襲われる。
「『仲良く』等、土台無理な話でしょう。私と貴方では。」
眉を顰めて吐き出すように言うリュミエール様は、いつもの彼からは想像もできない。が、オスカー様は事も無げに、
「ハッ。同感だぜ。互いに無駄な努力はしないに限る。そうそう。俺はお前と『仲良く』等とは微塵も考えていないから、安心していいぜ。」
笑い飛ばすように言う。
「それで?譲ってやったお嬢ちゃんとのデートは上手く言ったのか?ヴィクトール。」
刺々しい言葉遣いは取りあえず横において、俺は尋ねられた事に答えることに注力する。
「朝は、なんのお返事も出来ずに失礼しました。デート、ではありませんが、お陰様で、彼女と少し互いに意見交換する時間を取ることができました。」
最敬礼を取ってから、直ると、
「フン。『意見交換』か。お前らしい。」
引き続き刺々しいままの言葉とますます眇められるアイスブルーの瞳。両手を組んで、片足に体重を掛けて言い退けてから、話の相手はお前ではない、というように、リュミエール様に視線を戻す。しかし、俺らしいか、らしくないか、彼に分かるのだろうか・・・?と少しばかり困惑する。それほど、彼とは話をしたことがない。
ふわりとオスカー様は自分の右手を上げて、片足を下げて慇懃な礼を取ると、
「『楽しい』お話の邪魔をして悪かったな。邪魔者はこれで去る事にするぜ。じゃあな。」
気軽な台詞とアベコベな厳しい顔つきでリュミエール様を見つめてから、ふらりとまた片手を上げて、森へと消えて行った。
ホゥ、と知らず詰めていたらしい息を吐いて、オスカー様の姿が完全に見えなくなってから、俺はリュミエール様に視線を戻す。リュミエール様は、リラを持っていない右手で、キツく自分の左腕を握りしめていた。その手は、僅かに震えているように見える。再び泉へと緩く投げられた視線は、何かに耐える色合い。心配になって、俺は片手を彼の方に伸ばしてしまう。伸ばして・・・、どうする・・・?と俺の手は中途半端に宙空で止まった。ゆっくりと、ぎこちなく、彼の視線が俺に戻って、それから、また、いつもの笑顔になる。
「驚かせて、しまいましたね。」
その笑顔に、俺は自分の心が何故か淋しくなるのを感じていた。
「そう・・・ですね。確かに驚きました。」
はは、と俺は空笑いをして、宙空で止まった手で自分の頬を掻く。
「あの人とは・・・。」
彼の瞳の瞳孔が、俺の方を見たまま、一際大きく開く。それは、俺を通り越して、誰か別の人を見ているようだった。
「いつも、こうなのです。」
また、微笑。
「俺には、今までリュミエール様とオスカー様の間に、何があったのかは分かりませんが。ただ・・・なんとなく・・・。」
俺は知らず、自分の拳を一度、強く握った。
「なんとなく?」
首を傾げられて、俺は、ゴクリと唾を飲み込む。
「なんだか、羨ましいような気もしました。」
・・・・何を言ってるんだ・・・と自分でも意味が分からない。
「羨ましい?」
リュミエール様は、ますます首の角度を深くする。そりゃそうだ、と俺は自嘲する。
「その。オスカー様は、リュミエール様と・・・。」
そこで、俺は改めて言葉を探す。何と言えば良いんだろうか。言葉を探す間を待つように、リュミエール様は首の角度をまっすぐに戻して、俺を見つめる。
「そう・・・。対等な、感じがしたので。」
何を言ってるんだろうか。言いながら、ますます俺は所在を無くして、語尾が中途半端になってしまう。だが、それは、確かに自分が思った事ではあった。
「私とオスカーが・・・。対等・・・。」
俺の言葉をそのまま何も考えずに繰り返して呟いた、というようなリュミエール様の声に、俺は知らず地面を見つめていた事に気づいて顔を上げる。
「考えた事もありませんでした。ヴィクトール。」
まっすぐに瞳を見据えて、リュミエール様が俺の名を呼ぶ。
「貴方の感性は、とても面白いですね。」
ふわりと自然に浮かんだ笑みに、俺は照れて微笑みを返す。
「変な事を言って、済みませんでした。」
ぺこりと頭を下げると、リュミエール様が立ち上がって、パンパン、と服についた木の葉を払い落とす。青年らしい仕草に、少しまた親近感を持つ。
「ここは水辺ですから、少し冷えますね。そろそろ、帰りましょうか。」
「ええ。」
リュミエール様の半歩後ろを付いて歩きながら、彼が意外に森を歩く事に慣れていることを知る。布で出来た彼の靴は、とても森歩きに適したものとは思えなかったが、スタスタと軽やかに足が運んで、あっという間に二人、森を出た。
「それでは。」
彼は気軽な印象で、俺とは反対方向へとその軽やかな足取りで離れて行く。その後ろ姿をなんとなく見送りながら、やはり、不思議な人だなと思った。
まるで神々しく見える、その姿と、酷く青年らしい、その仕草と。
鋭い冷徹な瞳と、緩く優しく投げられる眼差し。

「しかし、あの方と、対等に見える・・・という事は。」

知らず独りでごちて、頭を掻いてしまう。つまり、オスカー様も只者ではない、ということなのだ。
・・・やはり。

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軍人だと聞いて、将軍だと聞いていた。だから・・・なのかどうかは分からないが、教官という立場で対面した時に。その体躯と傷跡のある顔。如何にも軍人といったその佇まいに好感を持った。
しかし、程なく、リュミエールと宮殿の廊下で微笑み合う姿が散見されるようになり、なんとなく『面白くない』という気分になった。実に子供染みている、と自分でも思うのだが、どうにもその気持ちが拭えない。
今朝だって、俺としては、そういえばお嬢ちゃんはヴィクトールに少しばかり気後れしているようだったから、プライベートで二人で合うのも今後の為にも良いだろうと思った。だから、自分はさっさと譲って一旦私邸に戻った。
気分転換にと森をぶらついていて、ああも和やかに俺の事を貶してるんじゃなければ、俺だって・・・。
「馬鹿馬鹿しい・・・。」
自分らしくもない内心のどうにもならない憤りに、俺は自分で溜め息を吐いてそれを遮る。
「何がだ?」
不意に貫禄のある声を聞いて、手元の資料にやっていた目を上げる。
「おわぁ!ジュリアス様!」
思わず変なポーズを取ってしまった・・・。ペチン、と自分の顔に右手を当てる。何をやってんだ、俺は。
「済まぬ。扉が開いていて、ノックをしたのだが。お前には珍しく、気づく気配がなかったものでな。」
少し意地の悪い笑みを浮かべて執務机に座る俺を見下ろすジュリアス様に、俺は思わず下唇を突き出してしまう。
「まさか、俺が百面相しながら、書類に目を通しているのを、ずっとご覧になっていた、なんて言う事は・・・。」
「ずっと、という程でもないが。休日に私服のまま仕事をするのはあまり感心せぬぞ。」
ご覧になっていたという事ではないですか!と思いながら、俺は手元の書類の束をバサリと処理済に追いやる。群青を見上げてから、両手を小さく上げる。
「済みません。今日はもう、こちらに来るつもりも無かったのですが。なんとなく、足が向いてしまって。」
執務服・・・ということは、ジュリアス様は休日出勤なのだろう。本当に頭が下がる。
「公私の区別を重んじるお前とも思えぬ行動だな。何かあったか。」
参ったな、と俺は席を立つ。どうせ、このまま仕事をしても、効率は落ちるばかりなのだから、やはり仕事をすべきではないのだろうと諦めて。
「ジュリアス様は、なんでもお見通しですね。」
下唇を出したまま、肩を小さく竦めて息を吐くと、
「まさかな。お前が存外分かりやすいということだろう。」
と、群青が細まる。それから、少し心配そうな顔つきになって、
「何があった。」
と語尾の下がった問い。
「何・・・という程の事でもありません。」
俺は笑んで返す。些細すぎて、ジュリアス様に相談するような事でもなかった。
「そうか?お前も、もう上がるのであれば、夕食を共に摂ろうかと思うが。」
窓を振り返るまでもなく、日は暮れて、もう良い時間だった。
「有り難く。」
俺は短く返して胸に手を当てる。
「私は馬だ。お前は?」
「私もです。」
「ならば、私の私邸で。」
「はい。」
小気味良くやりとりをして、俺はジュリアス様と共に執務室を出た。

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私服に着替えたジュリアス様と共に食事を摂る、といういつもの図になって、俺はいくらか落ち着きを取り戻していた。
「それで?何がお前をお前らしくなくさせているのだ?」
食事がメインに差し掛かったところで、徐にジュリアス様は口火を切った。落ち着いたその様子に、俺は『参ったな。』と再び思う。赤ワインを一口飲んでから、グラスをテーブルに戻して、口を開く。
「本当に些細な事です。些細すぎて、それこそ、俺らしくないような。」
「それは一大事だな。」
ふむ、と顎を引くジュリアス様は、冗談で言っているのか、本当にそう思っているのか、全く分からない。俺は思わず笑ってしまってから、
「ヴィクトールの事なのですが。」
と苦笑したままに続ける。ジュリアス様がワイングラスを手に取ったのを見つめながら、
「何と言うか、馬が合うだろうと勝手に思っていたのですが。どうやら、馬が合うのは寧ろリュミエールのようで。」
と肩を竦めて見せると、
「ほう。そうであったか。」
意外だったようで、ジュリアス様は僅かに眉を上げる。
「俺は彼にとっては、不良守護聖のようです。幻滅させたのでしょう。」
俺らしくもない言葉選びだな、と我ながら思う。
「フッ。」
吐息のような、けれども確かな笑い声を聞いて、俺は視線を上げる。
「おかしいですか?」
「実に。」
男らしい微笑みに、端的な感想。ムゥ、と俺は眉根を寄せる。おかしいのは、自分でも分かっているのだが、やはり面白くない。
「ですから、『些細過ぎる』『俺らしくない』と申し上げたではないですか。」
ジュリアス様に甘えてしまっていることを自覚しながら、ナイフとフォークを再び手に取る。
「ふむ。確かに、現象としては些細だが。今の話を聞くと、それほどお前らしくないとも思わぬな。」
しかし、戻って来た評は、意外なものだった。ステーキに入れたナイフが、ピタリ、と中途半端な位置で止まる。俺の内心の疑問を感じ取ったように、ジュリアス様は、深く頷いて、テーブルの上で両肘を付くと、手を組んでその上に顎を乗せた。まるで言って聞かせるように。
「気づかぬのか?」
その親身な教師のような微笑みに、まるで自分が落第生になってしまったような気分になる。
「分かりません。なんでしょう。」
「そうか、気づかぬか。つまりこうだ。」
ジュリアス様は、笑みを深めて続けた。
「お前が、男性に興味や好意を持つということが、そもそも珍しい事なのだ。」
思わぬ角度から来たな、と俺は思った。しかし、確かにそうかもしれない。そういうところが、ヴィクトールには気に食わないのだろうが。諦めるように笑って、
「確かにそうかもしれませんが。けれども、だからと言って・・・。」
言いかけた俺をジュリアス様が遮る。
「だからと言って、らしくもなく拗ねる材料にはならぬと?」
拗ねる・・・?
あんまりだ・・・と思うが、否定は出来なかった。降参の形に俺は両手を上げる。ジュリアス様は頷いて続けた。
「つまり、お前は存外気に入った。ヴィクトールのことを。しかし、実に残念な事に、先方はお前ではなく、リュミエールを気に入った。十分落ち込むに値すると、私は思うが?」
口元を笑みの形のままにして、ジュリアス様は瞳を伏せて、空いたワイングラスのステムを触る。
「・・・なんだか。今日のジュリアス様は、意地悪ですね。」
俺は苦笑した。既に人払いは済んでいたので、俺は席を立ち、ジュリアス様のグラスにワインを注ぐ。「そうかもしれぬ。」
視線はグラスにやったまま、呟くような声。俺はちょっと驚く。ジュリアス様の視線がゆっくりと持ち上がって、隣に立つ俺を見上げる。それから悪戯っぽく笑った。
「私も拗ねているのやもしれぬ。」
ジュリアス様が・・・拗ねる?!
「そ、それこそ、一大事では。」
思わず真顔で返してしまうが、
「冗談だ。」
とジュリアス様は笑った。俺は席に戻って、少し考える。
「それでもやはり、子供染みています。」
少しの反省を交えて、俺は言う。自分のワイングラスにもジュリアス様と同じ赤を注ぐ。
「オスカー。」
丁寧に名を呼ばれている、と思った。
「はい。」
丁寧に返事をする。
「確かに子供染みている。」
俺はグサリ、と突き刺さる言葉を無言で受けて止めていた。だが。
「お前も。私も。無論、クラヴィスも。おそらく、リュミエールも、ヴィクトールもだ。」
真面目な話なのだが、思わず笑ってしまった。
「フッ・・・。聖地が子供ばかりでは、陛下もさぞお困りでしょうね。」
「全くだ!」
顔を見合わせるようにして吹き出すと、同時に食事に戻って、熱が抜けてしまっているが、それでも美味な肉を味わう。
そうか、と口を動かしながら思った。
確かに子供染みていて、実に馬鹿馬鹿しいけれども、やはり少しだけ、残念なのだ。
「確かに俺は、女性を見れば声を掛ける主義ですが、だからといって、俺が不良守護聖だという事もないと思うのです。」
開き直って言うと、
「ハッハッハ!それはお前に分が悪いな。実は私もその点が改まるなら、是非改めて欲しいところだ。」
薮蛇だったようで、豪快に笑われてしまった。
「執務に影響がありますか?」
「そうだな。執務に影響の無い範囲だから、私も殊更見咎めてはいないが。」
「そうでしょう!」
俺が鼻息を荒くして答えると、喉奥で笑いながら、ジュリアス様が人を呼ぶ。おそらく、デザートに入るのだろう。程なく、やはりデザートが運ばれて来て、俺は木苺のアイスを自分の口に一口、放り込む。
「リュミエールとの事になると、お前はやや過剰反応だな。」
口の中は、木苺の酸味でスッキリと切り替わって、そのせいか、何故か食堂の雰囲気も少しそれまでとは違って感じた。ジュリアス様の淡々とした感想は、それが悪いとも、良いとも言っていないような、そんな音で。
「もし、ヴィクトールがお前より先に心を許したのが、ランディだったとして、果たしてお前は今のように落ち込んだり、拗ねたりしているだろうか。」
まるで独り言のように続く。
「おそらく、そうではあるまい。」
何かを労るような視線が、アイスから俺にピタリと当てられる。
「同じ事は、私とクラヴィスにも言えるのだ。だから、お前にどうせよとは言うまい。それは、そのまま私に対する苦言になる。ただ、願ってもいいだろうか。」
ジュリアス様らしからぬ、儚いような微笑み。俺はスプーンを片手に持った間抜けな格好のままに、殆ど固まってしまい、阿呆のように、その美しい色の瞳を見つめ返していた。
「お前は、私とは違う。ヴィクトールは、ヴィクトールとして。リュミエールは、リュミエールとして。クラヴィスは、クラヴィスとして。他の者との関係性ではなく、まっすぐに見つめる事は、本当は、お前には容易いのではないか?もしそうならば、私は願いたい。お前が、ただ、お前らしくあるようにと。」
テーブルの上で、ジュリアス様の両手は緩く組まれていた。それは、確かに何かに祈りを捧げるようにも見える。
ギュ、と何故か胸が締め付けられるように、痛んだ。
「私は・・・・私がしたいようにしか、できません。ジュリアス様。」
呆然としてしまったままに、俺は何も考える事ができず、けれども、返事をする。ジュリアス様は、クッと喉を鳴らしてから、いつもの男らしい笑みに戻って、緩く口元を右の指先で隠す。
俺はその様子にホッとする。
「そうであろうな。無論、それがお前らしいというものだ。好きにせよ。」
クックック、とジュリアス様は笑いながら、アイスの最後の一口を、やや苦労されながら、口に運んでいた。揶揄われたのかもしれない。そうではないのかもしれない。ただ、俺は胸がじんわりと暖まるのを感じた。
それが顔に出たのだろうか。
「お前のそういう素直なところは、本当に貴重だと私は思う。」
クックックとまだ笑い止まずに続けるジュリアス様に、俺は眉根を寄せる。
「褒められている気がしませんが。」
「安心せよ。おそらく、褒めていない。」
挙げられる右手は笑いに震えている。全く。この方に掛かったら、炎のオスカーは形無しも良い所だ。
「ところでジュリアス様。食後のエスプレッソも良いものですが、カプチーノも良いものですよ?」
俺は小さなカップを持ち上げ、澄まして言う。おや?というように、ジュリアス様の片眉が上がる。ジュリアス様もカップを取って言った。
「木苺のアイスのように、味のハッキリとしたデザートの後には、カプチーノよりも、エスプレッソであろう?」
「鋭い酸味の後に、まろやかさは不要であると?果たして、そうでしょうか?」
「無論。」
二人、執務をする時の真面目な顔になって見つめ合い・・・それから、また、同時に吹き出して一頻り笑った。

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翌朝。
「ご来客です。」
今日はランディの稽古も坊やの出張でキャンセルになったし、特に予定は無かった筈だが、と俺は読みかけの小説から目を上げ、
「誰だ?」
と、カプチーノをテーブル上のソーサーに戻す。
「ヴィクトール様です。」
ニコリと家人に笑われて、俺は微笑み返す。
「出る。」
昨日の今日で、訪問。なんだか悪い予感しかしないが、それは彼女の仕事とは無関係だ。エントランスに出ると、動きやすそうな格好で、何故か帯剣しているヴィクトールが居た。こちらは勿論、館で過ごす時のラフな格好のままだ。
「どうした?」
と単刀直入に尋ねる。
「おはようございます。実は、剣の立合いを、お願いしたいと思いまして。突然ですので、今日でなくても、全く問題ありません。」
なんだか、『自分でも何故ここに居るのだか分からない』というような困惑顔の男に、俺は思わず吹き出してしまう。
「丁度、今。ランディの稽古の為の時間が空いている。構わんが。」
稽古場に向かいながら、背を向けたまま言い、遅れて、
「しかし、どうした風の吹き回しだ?不良守護聖も、剣を満足に使うところを見れば、少しは尊敬できるかもしれんと?」
くるりと振り返って、やや意地悪く笑い直す。普通なら、怯えて縮こまるような冷笑を浴びせたつもりだったが、男は、首を小さく竦めてから、牧歌的な笑みを返した。
「実は、昨日のやり取りで、リュミエール様に、間接的に教えて頂いたのです。」
「何を?」
「『オスカー様は、只者ではない』と。」
俺は、もう一度、パチクリ、と瞬く羽目になった。
「あの、やり取りでか?」
「ええ。あの、やり取りで。」
よく、分からん男だ。
「そんな顔をせんで下さい。私も、自分がやや頓珍漢なことを言っている自覚があるのですから。」
エントランスで見せたような困惑顔。俺はまた笑った。
「そいつは済まなかった。では、せんない言葉のやり取りはこれくらいにしよう。ウォームアップは必要か?」
「いいえ。十分にアップしてきました。」
「じゃあ早速、手合わせ願うとしよう。」
俺は家人からホルダーごと剣を受取り、構える。

「宜しくお願いします。」

体躯に似合った長剣を構える男は、それまでの恍けた顔つきなど、想像も付かないくらいに、落ち着いた顔つきで、俺をまっすぐに見やる。
その視線を心地よく受け止めながら、なんとなく、思った。

ーヴィクトールは、ヴィクトールとして。

だが、やはり気に食わないものは、気に食わない。
この気持ちにも意味があるのかもしれない。
俺とリュミエールが反発するのも。クラヴィス様とジュリアス様が、相容れないのも。俺がジュリアス様に惹かれるのも、リュミエールがクラヴィス様に惹かれるのも。ヴィクトールがリュミエールに惹かれるのも。そんなヴィクトールを俺が気に食わないのも。
ただ、互いに。聖地(ここ)に居る。

だから、影響し合わずには、居られない。
それで別に、構わないさ。

ギィン・・・と久々に、痺れるような剣戟を受け止める。

ーなるほど。これがヴィクトール。

ギン、ギン、と続けて味見するようにリズムの良い二合を受け止め、三合目で大きく弾き飛ばす。反動を使った振り下ろしが戻る前に、俺はピタリと男の喉元で剣を止める。
「お見事。」
笑って、男は一歩引き礼を取る。
「まさか、これで終わりじゃあるまい?」
俺は下段に半身で構えて問う。ヴィクトールと俺は身長にそれほど差がないから、下段に構えることに特段、意味は無い。挑発を正確に読み取って、眉を一度顰めると、男はもう一度礼を取ってから、正眼に構える。
「そうこなくちゃな。」
腹を立てているだろうに、剣を構えると、その目はスッと落ち着きを取り戻してしまう。

ーこれが、ヴィクトール。

影響し合わずに、居られない。
それで、構わないのさ。

俺が『飽きた』と思うまで、立合ってから。家人から届けられたタオルで自分の汗を拭いながら、そのうちの一枚を、ヴィクトールに放って渡す。反射的に受け止めたヴィクトールの真顔に、俺はニヤリと笑って手を差し出す。

「ようこそ、聖地へ。ヴィクトール。」

遅過ぎるタイミングでの挨拶に、ヴィクトールは、一度瞳を瞬く。

「宜しく、お願いします・・・?」
汗塗れの顔が『呆れた』と言わんばかりの笑顔になって、手が伸びる。それを握り返しながら、その男の前で、恐らく初めて、俺は声を上げて笑った。


終。




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