激情なるサイボーグは理知的な猫の瞳




「確認しておきたい事があります。」
エルンストは、常の生真面目な能面で、俺をまっすぐに見て言った。俺の執務室で床にきちりと垂直に立つその姿は、一部の隙もない。言い方を変えれば、取りつく島も無い。
俺の本能が告げていた。
―――説教だな。
・・・と。
「執務に真面目に取り組まれているオスカー様に限って、そのような事はないと信じたいところですが、この土の曜日の夜、どちらにいらっしゃいましたか。」
なんだそれは。俺は被疑者か何かで、アリバイでも確認されているのか・・・?思わず、フッと鼻が鳴った。俺は、書類に再び目を落とし、サインを施してから、処理済みの書類束の上にソイツを乗せる。それから、ペンを置いて、両手を執務机の上で組んで、もう一度、男を見上げた。
思わずニヤリと笑ってしまう。
「無粋な男だな。エルンスト。そろそろ聖地にも慣れた頃かと思ったが。土の曜日は、オフだ。オフに俺が何処で何をしていようが、お前の把握する事じゃないと思うが。・・・違うか?」
キラリと、理知的な眼鏡の奥の瞳が光る。下がってもいない眼鏡のブリッジを指先で抑えるようにして上げてから、エルンストは、
「それは無論。ただし、聖地の中であるならば、ですが。」
と一歩も引く様子もなく、答えた。つまり、俺が外に出たのが、どうやらバレている。ジュリアス様ならともかく、なんでエルンストにまで追求されにゃならんのだ?俺は内心で思いながら、組んだ両手の上に顎先を乗せ、視線を逸らして溜め息を吐いた。
「・・・何故分かった。」
エルンストに視線を戻す。問いではあるものの、語尾は上がらなかったが、エルンストは何食わぬ顔で答える。
「研究院のサクリア測定の精度は、それなりのものです。見くびって頂いては困りますね。」
俺は両手を小さく上げて、
「分かった。降参だ。確かに外に出た。・・・で?俺は、守護聖にあるまじき素行不良を心より反省する他に何をすればいい?」
溜め息混じりに言ってやる。そこでエルンストは、ハァ、と呆れたように息を吐いた。
「反省されているようにはお見受けしませんが・・・。」
「してるさ!」
俺は肩を竦める。
「では、お伺いしますが、あの女性とはどのようなご関係ですか?今週末には抜け出さずに聖地に居て頂けると私は何を持って確信すれば宜しいでしょうか。」
俺は、一瞬、ポカンと阿呆のように口を開けてしまう。まてまて待て。
「ちょっと待て。サクリア測定の精度といったが、何故俺が・・・。」
言いかける俺を、エルンストは右手をまっすぐに上げて被せるように言う。
「機密ですので、お答えできません。」
まさか俺に監視でも付けているのじゃあるまいな?いや、それはない。尾行されているのなら俺が気づかぬ筈は無い。まさか・・・。
「素行調査でもしているのか。」
俺の眼光はそれなりに鋭い筈だが、人間の男なら震え上がるソレも、サイボーグ相手には通じる様子もない。
「機密ですので、お答えできません。」
同じトーンで機械のように繰り返される答えに、俺は口をへの字に曲げる。視線の応酬を繰り返すこと数秒。先に根負けしたのは、俺の方だった。
「つまり、要件はなんだ。」
「土の曜日の、外出を控えて頂きたいのです。」
「ハッ、まさかな。俺に謹慎命令を出せるのは、ジュリアス様と陛下だけだぜ?」
鼻で笑うと、間髪入れずに淡白な問い。
「では、ジュリアス様にご相談さし上げれば宜しいので?」
ゾッと背中が冷え込んだ。
「・・・脅しか?」
「・・・?」
何を言っているのだ?という顔つきが、僅かに能面に登る。天然ってやつか・・・。厄介な男が仲間に加わったものだ・・・。俺は遣る瀬ない溜め息をもう一度吐いた。溜め息を吐きながら、脳裏では必死で考える。オフに謹慎?冗談ではない。最善の策は何だ、最善の策は・・・。
「俺の仕事は遅滞しているか?」
「いいえ、全く。書類作成の執務もサクリアの供給も、滞り無く行われています。そのお仕事ぶりは、完璧と言って差し支えないでしょう。」
「では、俺はお前になんの迷惑もかけていない。そうだな?」
「ええ。仕事の面においては。」
・・・・?
今度は俺の顔にハテナマークが浮かぶ番だった。エルンストは、直立したまま、再び眼鏡のブリッジを触る。
「プライベートで俺がお前に何か迷惑を掛けているのか?」
全く見当も付かないが、と思いながら問う。
「・・・・。」
サイボーグは、そこで口を開きかかって、また閉じた。小さなエラー。らしくもない、無駄な動きだ。それで俺は、思わず眉を顰める。
「見当もつかんが。お前のプライベートに、俺の何が迷惑を掛けているというんだ?」
重ねて問うが、返答は返らない。
「・・・・わかりません。」
代わりに、小さな呟きが、堅そうな唇から漏れた。
「・・・はぁ?」
はっきりと苛立ちを露にする。すると、急に男は、それまでまっすぐに俺を見つめていた視線をアチコチに出鱈目に彷徨わせて、早口に言った。
「・・・分かりません。分かりませんが、とにかく、私は困っているのです。このままでは、執務に影響が出ます。ですから、休日の外出はお控え下さい。それで、問題は解決する筈ですので。」
言ってることが滅茶苦茶だ。この男らしくもない。
「落ち着け、エルンスト。」
「はい。」
俺が言うと、すぐさま男は再び、まっすぐに俺を見て、落ち着きを取り戻す。・・・なんなんだ、一体!
「つまり、どういうことだ。俺が、外出すると、お前の執務に影響が出る?何故だ。」
「それが分かれば苦労しません。ですから、外出をお止め下さい。」
「滅茶苦茶すぎるぞ、お前。論理が飛躍・・・。」
「分かっています!」
遮るように、大きな声を出されて、俺は口を閉じた。男は、ギュ、と唇を噛み締めるようにして、必死に俺を見ていた。サイボーグにあるまじき、突然の感情の発露。これは盛大なエラーだ。俺はどこか他人事のように、そう思った。泣きそうな顔だ、とも。
男は一度、床に視線を落としてから、もう一度、能面に戻って俺を見つめると、
「あの、大変、失礼なことを申しました。非礼をお詫び致します。確かに、論理が飛躍しております。お気になさらないで下さい。無断外出の件については、ジュリアス様にご報告致します。最初から、そうすべきでした。」
きちりと男は腰を九十度に折って謝罪すると、すぐさま踵を返す。俺は思わず追いかけるように席を立って、慌てて男の腕を掴んで止める。
「待て。」
「・・・なんでしょう。」
男はくるりと振り返る。頭半個分下にある、目と鼻の先の薄いグリーンの瞳からは、なんの感情も読み取れない。さっきの顔は俺の見間違いで、さっきの荒げた声は、俺の聞き違いだったんじゃないかと、そう思うような。メタルフレーム越しに俺を見上げる、温度の無い視線。
俺は、ぐしゃりと空いた片手で自分の髪を潰した。
「とにかく、プライベートで俺がお前に迷惑を掛けているというのなら、謝る。」
薄い緑が、一段階、険しくなる。
「謝って頂いても、解決致しませんので。」
「分かっている。だから・・・。そうだな、分かった。お前にどんな迷惑を掛けているのかを、まず明らかにしよう。それが解決すれば、俺は週末に外出しても良いという訳だ。」
ギュッ、と一瞬眉根が寄って、それから、少しだけ瞳を伏せてから、もう一度俺を見上げると、
「分かりました。しかし、今は執務中ですので、必要以上の私語は憚られます。執務時間が終わられてから、私のラボへお越し下さい。」
・・・・私語。・・・私語と来たか。
「・・・お前のラボでは息が詰まる。そうだな・・・。お前の仕事が終わってからで構わん。俺の私邸で飯でも食いながら話そう。」
仕事が終わってから、男の電磁波に満ち満ちた空間でお喋りする気にはなれそうもない。かといって、男二人で庭園のカフェというのも不格好に過ぎる、そう思って提案すると、エルンストは、もう一度瞳を伏せてから、
「分かりました。遅くなり過ぎぬようにして、伺います。」
と、やはり無表情に答えた。俺は、はーーー・・・と、話の通じぬ相手とひとまずの合意に至った事に、安堵の息を吐いて、やっと腕を離し、男の垂直な背中を見送った。

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ひとまず執務を終えて、私邸に戻る。エルンストの好きな料理等、俺が知る筈も無く、ひとまず人を選ばぬ料理でと厨房に伝える。トレーニングルームで少し汗を流してから、シャワーを浴びた。私室で今度の出張先の文化理解に役立つかもしれんと、ルヴァから借りていた小説に目を通していると、家人が来客を知らせた。時計を確認すると、結構な時間だった。『遅くなり過ぎない』・・・ね、と俺は内心で呟いて、
「今行く。」
と、言ってから、まだ髪が渇いていないことに気づいた。が、気にする相手ではあるまい、と俺はそのまま食堂に向かった。既に食堂に通されていたらしいエルンストが、ガタリと立ち上がって俺を迎える。今日のセッティングは、二人で話がしやすいように、あえて小振りのテーブルだった。
「いい。そのまま座っていてくれ。」
右手を上げて、俺も席につくと、早速ワインが運ばれて来た。俺が手ずから男の分を注ぐと、男は向かいの席で困惑した顔つきで、
「平日からアルコールは困ります。」
と言い出す。俺は苦笑して、ワインを下げさせ、
「では、お前は何を飲む?水か?」
と聞くと、
「それで構いません。」
の返事。冗談のつもりだったが、と思いながら、水をタンブラーに注いでやり、
「ほら。」
「ありがとうございます。」
ぺこり、と頭を下げてから、男はグラスを受け取る。軽くグラスを上げて、俺がワインに口を付けると、エルンストも、水の入ったタンブラーを少し持ち上げて、口を付ける。
グラスを置いてから、思わず、クックック、と喉で笑っていると、また、困惑した顔で見つめられてしまった。
「・・・?何か、おかしいでしょうか。」
「いや。なんでもない。意外と面白い男だな。」
思わず顔を隠すように額に手を当ててから、スープを出してくれと家人に合図する。
食事のスピードは俺と大差なく、順当に皿は進んで行く。しかし、肝心の話はなかなか進まない。途中で、チラチラと家人を気にしているのに気づいて、
「全部出してくれ。後は俺達でやる。」
家人に伝えて、人払いをした。残りの料理を全てテーブルに並べ終え、家人が退出するのを見送ってから、俺は一度肩を竦め、
「これでいいか?」
と聞いてやる。エルンストは、恐縮したように目を伏せて、ナイフとフォークから手を離す。
「すみません。あまり、こうした場に慣れておらず。」
俺は笑った。
「いいや。寧ろ気づかなくて悪かった。話にくかったか。」
既に魚は終わって、肉料理になっていた目の前の皿に、俺は再び取りかかりながら言う。ホゥ、と溜め息を吐きながら、エルンストはぼそりと呟いた。
「オスカー様は、お優しいのですね。」
ガチャン、と思わず俺はナイフを皿に落としてしまう。なんだそれは。またも喉で笑ってから、
「なんだかよく分からんが。俺はそんなに冷たいと思われていたのか?心外だぜ。」
家人が居ないのを良い事に、俺はフォークの先で俺は円を描くようにして、エルンストを指し示しながら、片目を瞑る。エルンストは、パチクリ、と瞳を開いてから、やっと自分の失言に気づいた、というように、少しばかり頬を染めて、
「済みません。そういった意味では・・・。」
狼狽えたように口を開いた。これが女性だったら、可愛いなと思う所だなと俺はせんない事を胸に過らせながら、フッと笑って、
「分かってる。」
と告げてから、
「それで?半日程経ったが。お前に俺が何の迷惑をかけているのか、判明したか?主任殿。」
食事の続きに戻って、話しやすいように、敢えて仕事をしているような口振りで問うた。今日のローストビーフは、俺の好みの火加減ドンピシャリだな、と舌鼓を打つ。
味を感じているのかいないのか、黙々とエルンストは切り分けては口に肉を運ぶことを繰り返して、それから、
「・・・それが・・・。」
と所在無さげに呟いた。どうやら何も進展していないらしい。そいつは俺にとっても悲報に違いなかった。けれど。
「そいつは参ったな。」
「ええ。」
少し手を止めて、食事をし続けるエルンストを見やりながら、ワインで喉を潤す。姿勢正しく、行儀良く、ナイフとフォークを動かす男。男は仕事帰りにそのまま寄ったのだろう、いつもの執務服のままだった。それに、些かの窮屈さも感じていないようなその姿は、やはり、人間味がない。
「お前、髪を下ろしちゃどうだ。」
「は?」
なんとなく、思うよりも先に口が動いて、それに間髪入れず、素っ頓狂な声で返答されて俺も言葉に詰まる。
「あー、いや。なんというか。ここは俺の私邸だ。つまり、お前の仕事場じゃない。なんというか、俺達はオフにこうして仕事を離れて食事している同僚な訳だが、まるでお前のその様は、仕事の続きのようだと思ってな。」
俺は肩を竦めて、無作法にワインを揺らした。男は、ピタリと俺に視線を据えたまま、
「オスカー様は、いつもと違いますね。」
能面のままに、淡々と告げる。
「・・・・は?」
今度は俺が素っ頓狂な声を上げてしまう。
「その、髪が少し濡れていらっしゃいますし。セットされていないところを、初めて拝見しました。服も、執務服ではなく、ラフな黒いシャツに革のパンツで。」
意外な程に目を配られていることを知って、俺は、何と返答していいものか見失う。
・・・・?
「あ、ああ。あり、がとう・・・?・・・と、言えばいいか?」
思わずしどろもどろになっている自分を自覚しながら、なんだろう、この感覚・・・。何かに似ているぞ・・・と思いながらも、一向に思い出せない自分に歯噛みする。
ジッとエルンストを見つめたまま、なんだったか・・・と必死に思い出そうとしていると、ナイフとフォークを持ったまま、ジワジワとエルンストが頬を桜色に染めた。

―――・・・・あ!!

ハッとして口元を抑える。
「いや、まさかな。・・・しかし。」
ブツブツと思わず声を伴ってアレコレ考えてしまう。第一、もし、仮に「そう」だったとして、どうやってこの朴念仁に確かめるというんだ・・・?方法があるまい!方法が・・・!
「あの・・・?オスカー様?」
怪訝な顔で聞かれて、一人で百面相していることに気づき、慌てて俺は頭を振る。
「ああいや、なんでもない。とにかく、食事を終えてしまおう。せっかくの料理が冷めちまう。」
俺は目の前の皿を綺麗にする事に、とりあえず一旦専念した。しかし、余計な事を考えているせいか、そこから先の料理はほとんど味がしなかった。仕事の話を主にしながら、やっとデザートを終える。ポットに用意されたホットコーヒーを二人分入れて、エルンストに勧めてから、俺もソーサーごと持ち上げて飲む。やはりカプチーノが良かったなと思いながら。
・・・そう、しかし、せっかく人払いをしたというのに、これでは意味が無い。俺は、迷っていても仕方ないしな、と覚悟を決めた。ソーサーをテーブルに戻し、髪を掻きあげて、足を組む。フゥ、と息を吐いて、口を開いた。
「あの、な。エルンスト。」
「はい。」
うーむ。かといって、直球で聞くのはいくらなんでもこっぱずかしい上に、なんというか、相手がマトモに返してくれる気が全くしない。
「その。お前は、俺が、外出すると、執務に影響が出ると言ったな。」
「はい。」
生真面目に返す男は、執務服でありながら、奇妙にコーヒーを飲む姿が様になっていた。一分の乱れも無い頭髪。磨かれたメタルフレームの眼鏡。理知的な眉と鼻梁。「真面目」を絵に描いたような堅実そうな唇。少女ならば、この佇まいだけで、胸を躍らせることもあるだろうなと俺は思う。・・・だから余計に、謎なんだが。
「仮説を考えてみたい。例えば、土の曜日に、俺がジュリアス様と遠乗りに出かけたとする。やはりお前は、執務に何か影響が出るか?」
エルンストは、コーヒーをカチャリとテーブルに戻すと、目を瞑って、律儀に胸に手を当てた。想像しているんだろうか。大真面目なんだろうが、本当に変なヤツ・・・と俺はなんとなくまた笑いたくなる。
「・・・・いえ。多分、大丈夫だと思います。」
ふむ、なるほど。
「じゃあ、女王候補のお嬢ちゃんと、カフェに行ったとする。・・・これはどうだ?」
目を瞑って、胸に手を当てたまま、エルンストは僅かに眉を寄せた。
「・・・・。少し、気になりますね。女王候補に悪い影響が出るのではないでしょうか。」
人を害虫か何かみたいに・・・。少しばかり、俺は腑に落ちないが、まあいい。
「ということは、女王候補じゃなければ言い訳だな。例えば、カフェで勤めている女性が何人か居るだろ?そのうちの一人とだったら言い訳だな。」
ピク、とエルンストは胸に当てた手を震わせ、ギュゥと眉根を寄せて、キッパリと言った。
「それは駄目です。」
・・・・。
「駄目とは何だ。駄目とは。」
パチリ、とエルンストは目を開く。それから、途方に暮れたような顔で、
「どういうことでしょう?」
等と言う。俺は、余りにも情けない顔に、ハッハッハ!と思わず笑ってしまった。
「冗談ではありません!」
顔を少しまた、別の意味で紅くして言うエルンストに、すまない、という意味を込めて右手を上げ、エクスキューズする。
「す、すまん!お前があんまり、途方に暮れた顔をするから、つい、な。それにしても・・・クックック・・・。」
「オスカー様!」
まだ笑いを堪えられずに居る俺に、堪り兼ねたようにエルンストが少しばかり声を荒げる。それで俺は少し、油断したのかもしれなかった。
「そいつは、フツーは焼きもちとか、恋とかって言うんだ。けど、お前が俺に、という事もあるまい。きっと何か、そう・・・。お前はあんまり人間に興味を持つ事がなさそうだからな。ちょっとばかり、俺に興味を持った。それで、一時的にそんな風になってる。そんなところだろうよ。」
俺は自分の仮説をひとまず披露して、それから、目を丸くする、珍しいサイボーグに笑ってやる。
「だってお前、俺にキスしたい訳じゃあるまい?」
と言ってから、フッ、ハッハッハ、俺はまた堪えきれず笑う。エルンストは、紅い顔を更に紅くして、ワナワナと震えると、
「そッ!そんな破廉恥な!事は・・・!!」
俺は再び手を挙げる。
「分かってる、分かってる。揶揄っただけだ。そんなに怒るな・・・。」
目尻に浮かんだ笑い涙を擦ってから、視線を戻して、俺は愕然とする。目の前に、とてつもなく恥じらって、とてつもなく、困惑した男が居た。ソイツは瞳を僅かに潤ませていて、間違いなく、恋をして、のぼせ上がっている。俺は思わず後ろを振り返る。いや、誰もいない。って当たり前だ!それじゃあ、目の前の男は一体誰に恋して・・・。
ポリ、と俺は指先で頬を掻いた。
「あー。エルンスト。え・・・と、な。」
潤んだ瞳で俺を見つめるエルンストは、相手が男だということを抜きにすれば、普段のサイボーグっぷりとの落差とも相まって、『可愛い』といって差し支えなかった。けれども、相手が男だというのは、大問題である。少なくとも、俺にとっては。大体、なんで俺なんだ?サイボーグが初めて恋を覚えたというのなら、それは喜ばしい事この上ない。相手が、俺だと言うことを抜きにすれば。
エルンストは、両手で顔を覆い、
「私は、病気なのでしょうか。朝に計測した時点では健康そのものな筈ですが、変な動悸がしてきました・・・。」
と、参り切ったように呟いた。
うーむ・・・。まるで少女のような所作と、サイボーグならではの毎朝基礎的なバイタルを計測しているらしい習慣とのギャップに俺は、この上なく複雑な気持ちになる。
「話を、整理しよう。」
俺は右手を大きく振って、気持ちを切り替えるように切り出した。
なんとなく、真摯な気持ちになっていた。まさか男からこういった事を相談されて、真摯に相談に乗ろうなんて、俺が思うようになるとはな、と俺は内心で自分に苦笑する。しかし、これが『サイボーグの初めての恋』という命題の威力だというのなら、それも良かろうと思った。
「俺が言うのも変な話だが、確かにお前は俺が『気になって』いるようだ。俺の何がそんなに気になるのか分からんが。きっとお前には分からない、行動原理だとか、そういったものが俺にはあって、お前はそれに興味を持った。人間に興味を持つってのは良い事だと俺は思うぜ。」
俺は言ってから、ジッとエルンストを見つめ、エルンストが両手を顔から下ろすの待つ。沈黙に気づいたらしいエルンストが、おずおずと大きな、器用そうな両手を下ろす。キュ、と懸命に唇を引き結ぶ、頬を染めて、潤んだ瞳で縋るように俺を見つめる青年が表れる。
これが女性だったなら、多分、俺は完全に参っていただろう、と思った。いや・・・今も参ってはいるが。
「だが、それは一時的な感情だって可能性もある。例えば、お前にとって興味の対象となるかもしれない、俺の謎な行動、それらの理由が分かってしまえば、興味を失うことだってな。」
「そういう・・・ものでしょうか。」
自信なさげに言う男に、俺はまるで言って聞かせるように、
「そういうものさ。だからエルンスト、俺達は一旦、友人になろう。俺の内実を知れば、お前だって変わるさ。」
と笑んで、もう一度ソーサーを取り上げて、コーヒーを啜った。
「はい。変わりたいです。今のままでは、本当に困ります。」
ハァ、とエルンストも溜め息をついてから、コーヒーカップを取り上げる。『可哀想に』と、俺は男相手には思ったこともないような感想をチラリと過らせる。
「じゃあ、決まりだな。」
俺が笑んで言うと、エルンストもやっと笑顔を見せて、
「はい。」
と答えた。初めてみたサイボーグの笑顔を見つめ返しながら、なんとかしてやらねば、と俺は思った。

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翌日の執務終わりに、エルンストがまた俺の執務室に現れた。
「オスカー様。今少し宜しいでしょうか。」
俺は書類を作成していた手を止めて、目を上げる。やや、充血した目で、小脇に一冊の本を抱えているエルンストに昨夜から続く必死さを認めながら、
「いいぜ。」
と答える。
「あの後、早速ルヴァ様に相談申し上げ、『恋』に関する文献と、『友人』に関する文献をご推薦頂き、目を通して、自分也に分析してみました。」
・・・んんん???
「ちょ、ちょっと待て。」
何だか明後日の方向に話が進んでいる気がするが、と俺は嫌な予感を覚えながら、続けようとするエルンストを遮って、慌てて人払いをする。
「確かに、私はオスカー様のご指摘の通り、いくつかオスカー様に関心を持っていることがあります。一つは、何故そんなに不特定多数の女性と精力的に関係を持たれるのかということです。私の分析によると、『恋』とは、一人の異性または同性に対し、価値観や容姿、文化的背景の相違から特別な関係を持ちたいという欲求を持つことを指すということのようです。また、私とオスカー様は友人になった訳ですので、プライベートに関する質問を許される関係になったと私は理解しています。そこで、まずは、この疑問に対するお答えを頂きたいのですが。」
俺は聞きながら、クラクラしてきた。何から突っ込んでよいのやらサッパリ分からない。
「エルンスト。」
俺は、混乱する脳みそを叱咤しながら、なんとか、ヤツの名前を呼んだ。
「はい。」
律儀な返事。俺の執務机の前で直立する男を見上げながら、何か迫力すら感じて、俺は、唾を飲み込み、なんとか先を続けた。
「『友人』は、そういうことは執務室では話さんのだ。」
「なんと!そうでしたか。下調べが足らず、ご迷惑をお掛けします。」
一度瞳を見開いてから、ぺこり、と頭を下げ始めるエルンストを慌てて止める。
「いや、謝罪する程の事じゃない。・・・もしかして、お前は同性の友人を持つのも、初めてか。」
「いえ、そんなことはありません。研究院では同僚達とプライベートに関する会話を嗜むこともございます。」
「ほう?どんな。」
「勿論、休日をどのように過ごすのか等についてです。」
うーむ。情報量が少なすぎて、どんな友人関係なんだかサッパリ分からんな。
「わ、分かった。とにかく、少なくとも『恋』に関する話は、職場で立ち話でするものじゃない。えーと、だな。例えば、共に飲みに行ったりして、互いにリラックスしている時に話すもんだ。」
エルンストは関心したように、顎に手をやって、フムフムと頷くと、
「確かに文献に、友人同士は、友人でなければ行かないような場所に共に出かけたり、気を許し合って、友人でない人とは話さない内容について話すとありました。」
と、返す。どんな文献だそれは!と俺はややダメージを受けながら、
「そ、そうか。分かってくれて何よりだ。」
気を取り直して頷く。・・・と、なると。
「では、本日の夜に『飲み』に行けばよいので?」
そうなるよな・・・。俺は思いながら、問い返す。聖地内に小洒落たバー等はない。自然と、『外』に出ないのなら、私邸で飲む事になるだろう。
「お前がこの問題を早急に解決したいと思っている事は分かっているつもりだ。だが、せめて週末にしよう。金の曜日の夜は空いているか?」
色々に参り過ぎて、思わず、額に右手の先を当ててしまう。金の曜日に約束が無かった訳ではないが、来週にしよう等とは流石に言えなかった。これほどの必死さを全力でプレゼンされてしまっては。
「分かりました。空けておきます。」
エルンストは、きちりとまた腰を折って答え、用は済んだとばかりに踵を返す。
「あー、エルンスト。」
俺は立ち上がって、その背中に声を掛ける。
「はい?」
振り返り様にキラリと眼鏡が光って、俺は少し目を細め、顎先に手を当てて、一度口を噤む。だが、やはり・・・言っておいた方が良いだろう。
「金の曜日だが。一度、家に帰って、執務服を私服に着替えてから家へ来い。」
「何故です?」
やはり、言っておいて正解だったな、と俺は深く溜め息を吐いて言う。
「そういうものだ。それとお前、酒は飲めるのか?泊めてやれない訳じゃないが・・・。」
「宿泊!確かに文献にありました!友人は寝食を共にするのですね。なるほど、それで私服の方が良いと。分かりました。」
目を輝かせる男に、完全に余計なことを言ったなと思いながら、
「・・・そうだな。」
俺は反論する気になれずに、ははは、と空笑いを返した。
エルンストを見送ってから、その足でオリヴィエの執務室を訪ねる。
「未だ居たのか。」
「未だ居たのかとはご挨拶だね!もう帰るさ!」
珍しく書類を片付けているらしい男の指先は、書類仕事をするのには適さない美しさと長さ。ぱさりと書類束を置いて目を上げるのを待って、俺は端的に言った。
「金の曜日の約束だが。延期してくれ。」
「おやまあ、珍しいこと。いい酒さえあれば、アンタってば断らないのにねぇ。仕事でも入った?」
肩を大袈裟に竦めて笑うのに、ポリ、と頬を掻いて何故か一抹の気恥ずかしさを堪えて答える。
「いや、エルンストと会う事になった。」
「え!やっぱ仕事じゃん。打合せ?夜とはまた、カワイソーに。」
気の毒そうに眉を顰める男。まあ、そう思うよな、と思いながら、
「チガウ。俺のうちに、飲みにくるんだ。」
と、俺も肩を竦めて答える。
「はぁ!?あのサイボーグ、酒なんて飲めんの!?」
目を丸くするオリヴィエに、俺は事情を簡単に説明した。話が終わるまで、吹き出すのを堪えていた、とでも言わんばかりに、俺の話が終わるなり、男は盛大に吹き出して、パタパタと片手を振った。
「それで約束キャンセルしてまで、エルンストと飲むって?アッハッハッハ!傑作!そりゃ聖地に雪が降るわ!!」
ゲラゲラ笑うオリヴィエに、気持ちは分からんでも無いが、と思いながら、一応嗜める。
「アイツはアイツで必死なんだぞ。そう笑ってやるな。」
「違うよ。そっちじゃない。」
オリヴィエはニヤニヤしながら俺を意地悪い笑みで見つめる。イヤミに伏せがちになるダークブルー。
「じゃ無ければ何だ?」
苛立ちを隠さずに問うと、ますます瞳を意地悪にして、肘を付いたまま、人差し指を立て、チチチと、横に振るってから、歌うように言う。
「わかんないのぉ?しっかり振り回されてんじゃん。プレイボーイ!」
言ってから、自分でまた吹き出して笑う。振り回されているのには自覚があるが、何がそんなに笑えるのだかが分からない。俺が不審気にしているのが分かったのか、男はフッと今度は男臭い笑い方で一度息を吐き出す。それから、
「アンタって、そういうのに弱かった訳。なるほどねぇ。」
等と、更に意味不明の事を言い出した。お前まで俺を混乱させる気か、と俺は言い返す気力を削がれる。
「とにかく、伝えたからな。酒は取っとけよ!」
俺はビシリと指差して言い放ってやってから、返事を待たずにマントを翻す。背中越しに、
「事態が悪化しないことを祈ってるよん。プレイボーイ!」
更なるイヤミが告げられて、俺は足早にその部屋を出た。

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『友人』関係に相応しく、俺はプレイルームに適当な酒とツマミを用意して、いつも通りトレーニングをしてから、シャワーを浴びて私室で、来週の出張の資料に目を通していた。来客を告げるコールがあったのは、もう夜中に近い時間。家人も既にまばらで、俺は館のエントランスに男を出迎えに行った。
男は、酒瓶らしき包みを持って、白いワイシャツの上から、アースカラーのセーターを着込んで、下は黒のスラックス。唯一のお洒落と言えるのは、羽織っていたグレーのトレンチコートでこれは形が体格に綺麗に合っていた。一通りチェックしてから、なんで男のファッションなんかチェックしてるんだ、俺は・・・、と自分で頭を抱えたくなる。つまり、『友人』関係の練習を、どうやら俺は本気でコーチするつもりらしい・・・と気づいて、自分で自分にやや呆れる。
無言でみつめる俺に、エルンストは首を傾げて、
「何か、おかしかったでしょうか?」
と問う。俺は、
「いや、全く。今日は地下のプレイルームで飲もう。付いて来てくれ。」
と俺は踵を返した。部屋に入ってすぐに、用意していたワインのコルクを空けながら、
「ソイツはなんだ?」
と顎でエルンストが抱える包みについて尋ねると、
「ああ。友人はプレゼントを贈るとありましたので。差し上げます。」
と、男はローテーブルの上にその包みを置いた。また文献か、俺は複雑な気分になりながら、
「ありがとう。コイツで乾杯してから開けよう。」
といい、男にワイングラスを差し出す。促されるままにソファに腰を下ろした男がグラスを受け取ると、俺を微笑んで見上げる。なんだか異様に照れくさい。なんだこれは・・・。俺は思いながら、自分の分も用意して、立ったまま、グラスを目の高さに上げ、口を付けた。
「美味しい、ですね。」
同じく口を付けたらしいエルンストが、ホゥ、と溜め息をついて言う。
「分かるのか。」
俺は僅かばかり驚く。
「いえ。あの、アルコールは普段はあまり飲まないのですが、これはとても美味しいです。」
舌は意外と繊細なのか?しかし、前回の夕食は、味わっているとは思えなかったがなぁと俺は思いながら、
「口に合ったのなら何よりだ。」
と笑い、グラスを持ったまま、エルンストの座るソファに対してL字に配置されたソファに腰を下ろす。寛げよ、という意味で、ややラフに座って足を組むと、エルンストは、側に在った大振りのクッションを背中に当てて、背もたれの位置を手前にすると、少しだけ開いた膝の上に、肘を乗せて前のめりになる。商談でも始めそうな勢いだが、いつもの直立よりはマシか、と思った。
「開けても?」
「勿論。」
手を伸ばして包みを開けると、中から赤ワインらしき見た事の無いボトルが出て来た。
「その・・・。何を購入すれば良いのか分からなかったのですが、ルヴァ様に相談しましたところ、『入手しにくいお酒』であれば、喜んで下さるとおっしゃっていたので・・・。」
くるりとボトルを一周してみるが、年季は感じるものの、ラベルらしきラベルが見当たらない。ボトルのパント(瓶底の凹み)が大きく抉られるような形で、葡萄のマークが盛り上がるように施されているのが特徴と言えば特徴か。その葡萄のマークも、繊細というよりは、無骨な印象だ。俺がどこのどんな酒なのかを読み取ろうとしているのを察したのか、サイボーグがおずおずと、口を開いた。
「その・・・。以前、オスカー様に、ルヴァ様がお貸しした小説に出てくる葡萄酒だそうです。通常の流通では取引されていないそうなのですが、探してみたところ、お分けしてくださる方が見つかったもので。」
「・・・?」
ルヴァから借りた小説は数が多くてすぐには・・・と一瞬思ってから、閃いた。実に美味そうな描写が出てくるから、『きっと創作なんだろうが、飲んでみたいもんだぜ』とルヴァに言った事があった気がする。
「アレか・・・!」
思わずでかい声を出してしまい、自分でそれに苦笑して、
「まさか本当に在ったとはな!さっきの酒を開けたばかりだが、これも飲みたいな。開けてもいいか?」
エルンストを見やると、男はホッと安心したような息を吐いて、笑った。
「勿論です。」
俺は早速立ち上がって、コルクを抜き、新しいグラスを二つ用意して、注ぐ。ワインというよりは、葡萄ジュースのような香りが立ち上って、こりゃ外れかな、と思いながらも、しかし、あの話に出て来たあの酒か、という感慨が胸に満ちる。
上機嫌でグラスを両手にもって、ソファに戻って男に渡し、もう一度目の高さに上げ、香りを改めて味わってから、早速口を付ける。
「美味い!」
驚きに思わずマジマジとグラスの中身を見つめてしまう。ワインというよりは、葡萄酒、と言いたくなるような、葡萄そのものの味がしたが、甘くはなかった。ワインとは別の飲み物として楽しむような味。物語で、無骨な男達が、村の酒場で飲んでいる描写が蘇ってくるような気がして、俺はハッハッハ、と声を上げて笑った。
「気に入って下さったようで良かった。私には、先程のものよりも飲みやすいようです。」
エルンストも笑顔でグラスをグイ、と傾ける。ワインの飲み方ではないが、この酒にはそれが似合っている気がした。アルコール度数はそれほど低くないように感じたので、意外と飲める口なのかもしれない。
「ありがとう。」
笑んで言うと、エルンストがまたジワジワ赤くなる。こっちが照れるからその反応はやめてくれ、と思わないでも無かった。・・・が、ここは少し解説が必要かもしれないと思い直す。
「プレゼントってのは、いいもんだな。相手を喜ばすようなもの、と思ってあれこれ考えて、探して、手に入れて、渡す。このプロセスが、やっぱり受け取り手としては嬉しいもんだぜ。」
エルンストは、ふむふむ、と赤い顔のまま、何度か頷き、
「確かに色々と考えて、喜んで頂けるか不安になりました。しかし、こうして喜んで頂けるととても幸せな気持ちになるものですね。」
「ああ。こんなプレゼントなら、いつでも大歓迎だ。」
とウィンクしてやって、エルンストのグラスが早速空になっていることに気づく。
「持って来たやつの方がいいよな?腹に何も入れずにアルコールばかりだと、すぐに回っちまうから、何か摘めよ。」
用意したチーズやクラッカー、サラダやマリネを勧めてやり、エルンストの手が動いたのを確認してから、俺はボトルを取りに先程のテーブルに戻る。片手で注いでやっていると、
「私も注いでみてもいいですか?」
と言われて、
「ああ。」
とボトルを渡す。片手でしっかりとボトルを支えているので、おそらく握力や筋力は問題ないのだろうが、慣れていないせいか、少しグラスと距離が遠く、注ぎにくそうにしている。なんだかこういうのも、悪くない気がして、俺は苦笑する。
「すみません。オスカー様のようにうまく注げませんね。勉強します。」
「いいや。ありがとう。別に友人同士で飲む時には、相手のグラスを取り上げて、位置を変えたって構わないし、なみなみ注いだって構わないぜ。グラスを空にするのも、別に構わないしな。美味く飲めればそれが一番いいのさ。」
笑っていいながら、俺は『つまり、こういうのもあり』という意味で、チーズを乗せた皿をグイと自分に引き寄せて一つ手で摘む。
「そういって頂けると、ホッとします。」
「少し腹が落ち着いたら、ビリヤードでもするか?」
「ほとんど経験がありませんが。教えて下さるのでしたら。」
にっこりと笑ったエルンストに、『いつもそういう顔をしてりゃいいのに』と俺は思って頷いた。

用意していた摘みを半分ほど消化した辺りで、俺達はビリヤードに移行することにした。キューの構え方や、ゲームのルールを一通り教えていると、何度か、
「近すぎます・・・。」
と、恥じらうように言われる。まるで慣れない女性を相手にしているようだなと思いながら、
「気にし過ぎだ。俺達は『友人』だったろ?」
と笑う。
「さて、そんじゃ、ゲームをしてみるか。賭け代は・・・と言いたい所だが、お前相手じゃ長い説教を覚悟しなきゃならなそうだ。」
言いながら、
「ハンデはお前が2ラック(ゲーム)取るか、俺が4ラック取るかで勝負とするか。まずは先行と後攻を決める。戻って来た玉が自分に近い方が先行だ。」
見本とばかりに、バンキングする。戻って来た1番が自分側の短クッションに僅かに跳ね返り、ピタリと止まる。上々だ。
「お前の番だな。」
と言って手玉を渡してやり、見学の体勢を取ると、ムゥ、と難しい顔で男はさっそくボジションに入る。教え方がいいのか、その恰好はえらく様になっていた。クッションまで戻り切らず、俺の1番より僅かに遠い位置で手玉が動きを止める。初めてとは思えないグッドショットと言って良い。
「なかなか。だが、俺が先行だ。」
ブレイクショットで、ゲーム開始の音が小気味良く鳴った。

なかなか良い勝負で、ギリギリ4ラック先取したが、ゲーム中にどんどん上達する男に、正直な所、俺は舌を巻いていた。
「負けてしまいましたか・・・。面白いですね。ビリヤードというものは。」
ゲーム中、かなり真剣な顔つきで集中していた男は、フ、と肩の力を抜くように笑う。頭がキレるとは思っていたが、学習スピードや集中力も普通ではないなと俺は思って両肩を竦める。
「次にゲームする時は、ハンデは無しで頼むぜ。」
「次のゲームがあればいいですが。初心者相手では退屈では?」
眉を寄せて自嘲するように笑うので、
「馬鹿だな。今日だって十分ゲームになったじゃないか。俺はこれ以上無い程にお前の腕前を褒めたつもりだったんだが。」
と苦笑する羽目になる。男は目を見開いて驚いてから、
「本当ですか?」
等と言う。
「嘘ついて、どーすんだ。」
呆れて言って、スタンドテーブルからグラスを持ち上げて一口飲む。もう例の酒は終わってしまって、最初に空けた方にワインは戻っていた。
「それは・・・・その・・・。・・・・。」
段々と蚊の鳴くような声になる男に、視線を戻して、
「・・・?」
なんて言った?と目で聞く。
「あの・・・。その・・・。嬉しい、です。」
瞳を伏せて顔を真っ赤にする男に、俺は思わずワイングラスを取りこぼしそうになって、複雑な気分になる。『事態が悪化しないことを祈ってるよん。』不意に誰かのイヤミを思い出して、「五月蝿い。」と俺は呟く。
「え?」
「ああいや、こちらの話だ。あのな、エルンスト。お前、もっと友人を沢山作って、こういうことに慣れた方がいいぞ。今日はサイボーグなんて全く思わない程、色んないい表情(かお)見せてるじゃないか。そういう顔の方がずっと取っ付きがいいし、魅力的だぞ。」
何かを誤摩化すように早口で言うと、男はますます顔を赤くして、キューを持ったまま、固まってしまった。
『事態が悪化・・・』
ええい、やかましいわ!!
「お、お前、顔が随分赤い。飲み過ぎたんだろう。そろそろ休むか?もういい時間だ。」
キューを片付けようと、部屋の隅にあるキューラックに自分の分を戻し、エルンストのキューを取り上げようとした。ほんの数センチ差で男の眼鏡を見下ろしながら、「ほら」と手を伸ばしてキューを掴もうとしたところで、慌てたように男がキューから手を離し、床に転がる。
「あ・・・。す、すみません。大切な物を・・・。」
慌てて拾おうとして屈むエルンストと、床に手を伸ばした俺で、頭が強烈にぶつかる。
「いって!」
思わず涙目になって、後頭部を撫でながら、目を開ける。目の前でエルンストが俺を熱っぽく見つめていた。ドキリと心臓が跳ねる。いやチガウ。これは、悪寒だ!悪寒・・・。パチ、パチ、と目をしばたいて、俺はそれをやり過ごす・・・間に。
ス、と男の顔が近づいて、唇が自然に重なって、すぐに離れる。長いような、短いような、沈黙。俺は屈んで頭に手をやった間抜けな恰好のまま、微動だにできずにいた。
我に返ったのは、エルンストが先だった。
「ハッ!!あ、あのっ!!も、申し訳ありませんッッ!!なっ!何故私はこんなことを!!あの、本当に申し訳ッッ・・・!!」
男は慌てたように立ち上がって、両手をブンブンと無意味に横に振る。
「謝らんでいい。」
俺はキューを拾い上げ、立ち上がって、前髪をバサっと掻きあげ、キューラックに足早に移動する。チョークがきちんと落ちていることを確認して、定位置に戻してから、振り返って微笑む。
「今のはノーカンだぞ。ファーストキスはちゃんと惚れた相手としろよ。」
ファーストキスだと決めつけるのも悪いかとも思ったが、おそらくそうだろうと俺は踏んで告げる。事故だと思えば気が楽だろうと思った・・・が、エルンストは、これ以上無い程に眉根を寄せ、唇を僅かに震わせて、それからギュゥと堅く引き結んだ。泣くんじゃないか、と思って俺は慌てて近寄る。
「いや、違うんだ。俺が忘れたいとかそういう意味じゃなくてだな。お前みたいなヤツは、もっとその、自分を大切にした方がいいと・・・。」
何を言ってんだ、俺は・・・混乱しながら俺は下を向いてしまったエルンストの瞳を覗き込もうとする。
「どうしたら、いいですか。」
泣きそうな顔で、エルンストが瞳を上げる。眼鏡越しの真剣な瞳に、俺は答えに窮する。
「ど、・・・したら。恋か、そうでないか、が・・・。分かり、ますか。」
ガシガシと俺は途方に暮れて、頭を掻いた。
「オスカー様を、私は・・・。困らせていますね。」
儚く笑われて、俺はますます所在を無くす。違う、違うんだ・・・。お前にそんな顔をさせたい訳では・・・。
「今日は、帰ります。色々教えて下さって、ありがとうございました。」
一歩下がって、ぺこりと男は頭を下げ、踵を返そうとする。俺は、その腕を半ば反射的に掴んだ。泣きそうな顔で振り返る男に、俺は仕方なく笑って首を傾げる。
「知って、後悔したらどうする。初めての恋の相手が、男で、しかも俺だなんて、お前にとっちゃ不幸なことかもしれないだろ。」
「・・・・?」
えい、くそ。俺は胸中で口汚く自分を罵った。
「確かめて、恋じゃないと分かればいいが。・・・もし、そうでなか・・・。」
言いかける俺に、被せるようにエルンストはギュ、と俺の両腕を掴んで言った。
「分かる方法が、あるのですか?!」
「・・・・。」
「あるのですねッ!?」
キラキラしいまっすぐな瞳に、俺は自分が窮地に立たされていることを、なんとなく他人事のように感じていた。『しっかり振り回されてんじゃん。プレイボーイ!』ああ、そうだ、しっかりと振り回されてる、そりゃ間違いない。俺は半ばヤケクソになりかかっていた。
「本当に、知りた・・・」
「知りたいですッ!」
・・・俺は知らず、両腕を掴まれたまま、天を仰いだ。
「分かった。手を離せ。」
ゆっくりと力が抜けて、両手が解放される。俺は、男をクルリと廻れ右させて、ソファに追いやって、隣に座らせる。何やってんだろーな、俺は・・・、と思う。酔っているのかも知れない。酔っているのだと信じたかった。
「・・・・あの・・・?」
隣に座った俺を訝しむように男が眉を寄せる。俺は、右手で男の髪に手を入れて、左手で顎先を掴む。
「気持ち悪かったら、遠慮なく、突き飛ばせよな。」
言って、ほぼほぼ固まっている男の唇に唇を当てる。そっと。女性のそれとは違う、味のしない唇。柔く食むと、呆気に取られたように、男の口が僅かに開かれる。右手で眼鏡をゆっくりと取り去りながら、左手を後頭部に回して、舌を入れる。ビクン、と大きく男の身体が震えるのが、密着した身体で伝わる。驚くよな、まーそーだ、と思いながら、そのまま暫く反応しない男の舌と口の中を味わって、男が息を止めている事に気づいて、顔を上げた。
「息をしろ、息を。鼻は空いてるだろーが・・・。」
唇が触れ合わぬギリギリの距離で言うと、エルンストは、ハッとしたように、『口で』息をした。唾液に濡れている唇が、端正な顔と普段の禁欲的な表情との落差で酷く、俺によからぬ感情を呼び起こす。
まあでも、聞かねばなるまい。
「どうだ?」
「ドッ、動悸が、します。」
動悸・・・。
「動悸は悪寒でもするからな。気持ち悪いとか、気持ちいいとか、そういうのだ。そういうの。」
気持ち悪さを覚えない自分の方が問題だということは、ひとまず棚に置いて俺は言い募る。
「わ、わかり・・・ませ・・・。」
男は突然、瞳を潤ませた。良い年をした男がキス一つで泣くなー!!完全にいけないことをしてる気分になるだろーがっ!!俺はもう一度頭を掻く。
「もう一度したいとか、思うか?」
「はい。」
思いがけず即答で、また俺は返答に困る。気持ちいいかは分からないのに、そこは思うのか・・・。うーん・・・。脳内会議で俺が唸っていると、
「私もしてみても良いでしょうか。」
とワインの注ぎ方の時のような、生真面目な提案。
「あー、いいぞ。」
脳内会議の結論が出ず、生返事をしてから、グイ、と思い切り頭を引き寄せられて、我に返る。おっと・・・。
チュ、と軽く音のするキス。先程の「唇が触れてしまった」という印象のものよりも、ずっとキスらしい。それから、思いがけないことに、深く口づけられる。先ほどの俺の動きをそっくりそのまま真似するような動き。そんなとこまで学習せんでいい、と思いながら、やられっぱなしは性に合わないので、きちんと返しておく。
「・・・・。」
飽きもせずに覚えたてのバリエーションを只管繰り返すエルンストに、段々押されて、答える舌が疲れてくる。
な、長い・・・。
一旦、離れようとするが、エルンストが追いかけて来て、ずる、と体勢が崩れる。胸を押し上げるように下から俺が手を当てると、やっと離れて僅かに顔を上げた。
「ふ・・・。いくら、なん、でも、な・・・が・・・。」
長過ぎる、と言いたいのだが。縺れる舌をなんとか使って言い、睨んでやろうとして・・・怒っているような、強い視線に捕まって、息を呑む。長いキスの余韻か、男は少しばかり息を上げて・・・まっすぐに俺を見下ろしていた。どこか品の良い猫を思わせるような、薄い青灰色の瞳。この男がサイボーグだって?とんでもない激情家の間違いじゃないのか。少なくとも、今、この眼だけは・・・。
「なんて、目をしやがる・・・。」
瞳を細めて、ボソリと呟いたのは、ただの独り言だったが。
「それは・・・こちらの台詞です。」
思いがけない呟きが返って来て、一瞬の絶句の後、苦笑した。

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「おめでとー!事態の悪化にカァンパァイ!」
反古にした約束を詫びる意味で、俺はオリヴィエの邸宅に詫びの品としてヤツが探していたという石を持って来ていた。当然、オリヴィエが見つけたという珍しい酒は、飲んで帰るつもりだったので、ヤツのプレイルームに通されたところまでは、予定通り。今日は土の曜日で明日はオフだ。なんの問題も無い。
だが、乾杯した途端の台詞は、全く頂けない。
「なんだそれは。」
俺は睨みつけてから、グラスを上げもせずに口を付ける。美味かった。流石オリヴィエの目に適っただけの事はある。これで余計なおしゃべりさえ無ければ完璧だ、と俺は思った。
「だーってさぁ。あの鉄面皮ったらかぁわいくなっちゃって、こないだなんか、『あんた、最近表情にバリエーション出て来たねぇ』って言ったら、『恋を・・・しているからでしょうか。』とか大真面目に言ってから、真っ赤になっちゃってさぁ!可愛すぎてこっちが照れるわっつー・・・。」
聞いてるコッチが照れて来たが、持ち前の強靭な精神力で何食わぬ顔でグラスを傾ける。
「で?もうつき合ってんの?」
両腕を組んだまま、器用にグラスを持つ男は、グイ、と上半身をカウンターに乗り出して隣に座る俺に近付ける。
「知らん。」
お前に言う訳ないだろうが、と思いながら俺は素知らぬ素振りで答える。あっという間にグラスの中身が僅かになり、オリヴィエの前に鎮座するボトルを取り上げて、自分の分を継ぎ足す。さりげなく、オリヴィエのグラスが俺の前につい、と押し出されて来たので、仕方なく男の分も入れてやる。
男は、色づいた指先で、無作法に、皿に盛ったオリーブを、つまみ上げて口に放り込んでから、チュ、と指先を舐める。俺とコイツじゃ、ルールも何もあったもんじゃない、とやや呆れてそれを見やる。
「そ?じゃあエルンストに聞くからいいけど。」
無表情にオリーブを味わっていた口が、恍けるように尖って何事か宣う。
ぐ・・・・。
「それは止めろ。」
慌てふためいて言わなくていいことまで言ってしまうエルンストが容易に想像できて、俺は一瞬で絶望する。
「だよねぇ?」
それで宜しい、とばかりにニッコリと微笑むたれ目の男に、殴ってこの会話を終わりにするのは無しだろうか、と一瞬物騒な妄想を過らせる。
「・・・・。」
「・・・・。」
暫し、ジト目で互いに応酬してから、結局俺が根負けする。
「つき合ってるかって?つき合ってるぜ。清く正しく、な。」
「ふむふむ。大体思った通りー。んで?先に進みたいって言われたら、進んでやれるのかね、聖地の種馬さんは?」
完全に馬鹿にしてやがるな、お前は・・・。
「さあな。なってみないと分からんさ。」
俺は頬杖をついて、マスカラでデコレーションされたダークブルーをみやる。アイツの瞳はコイツの瞳より、大分色が薄いんだな、と思いながら。
「あのさ。本当に分かってないみたいだから、チョットだけ言っとくけどさ。」
「うん?」
「ミスター・サイボーグが思いのほか激情家だった・・・ってトコまではよくある話な気もする訳。だけどさぁ。」
そこでオリヴィエは一度口を閉じて、ワインをゆっくりと味わった。勿体つけるように。俺は、ここのところの激務の反動か、少しばかり眠くなっていて、真面目に話を聞いちゃいなかった。・・・だが。
イヤミっぽく嗤って、俺に流し目を寄越した美しく華奢な男は、むき出しの肩を態とらしく竦めてみせてから、
「重症なのは、アンタの方ってのが。この話の面白いトコだとアタシは思うけど?」
眠気で、一瞬、意味を理解するのが遅れる。いつもだったら罵るように何か言い返してやるところで、俺はハハッと、いっそ爽やかに嗤った。
「激情家のサイボーグは、手練の恋の伝道師ごときじゃ、太刀打ちできない程・・・。恋の駆け引きに上手だったのさ。」
クツクツと喉で笑い続けていると、オリヴィエは、これ以上無いくらいに目を見開いて、それからムゥと唇を思い切り尖らせてごちた。
「何なのソレ。全く。手に負えないんだけど!」
痙攣する腹筋を抑えながら、
『違いない。』
と。俺はおそらく、コイツに出会ってから初めて、コイツの意見に心から賛同した。

終。


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