【ある男にとっての特別な男と、その絶望的組み合わせ】


【Side: Clavis】

「何故、お前はそうなのだ?」
そっくりそのまま、返してやりたいと思うのだが、私が口を開く前に、ジュリアスは続けた。
「やはり、お前はまだ陛下の・・・」
何事か言いかかったジュリアスに、何かを思う前に、カッと血が燃えるような感覚に襲われ、身体が動いていた。
「黙れ。」
胸ぐらを掴んで、ジュリアスを宮殿の壁に押し付けて、小さく、低く唸るようにして呟く。
「・・・・。」
ジュリアスは、一瞬驚いたように目を見張ったが、すぐにそれは私を強く睨みつける鋭い眼光に変わる。紺碧色の蒼い二つの玉は、抉り取ったら磨かずにすぐに宝玉となるだろう、と私は思った。互いに親の敵でも見るような視線で睨み合っていたのが、どれくらいの間だったのか分からない。ただ、周囲を通り過ぎる女官の足音に、ジュリアスは、
「離せ。」
と氷のような視線はそのままに、小さく言う。私も表情を変えぬまま、離してやる。目と鼻の先の至近距離でジュリアスは何食わぬ顔を取り戻し、衣服をサッと整えると、去り際にチラリとこちらを一瞥し、
「闇の守護聖が暴力とはな。思いやられる。」
と吐き捨てていった。私は宮殿の壁、ジュリアスの瞳があった辺りを暫し見下ろす。いつの間にか、私の慎重はジュリアスの背丈を超えた。つまり、同じ視点の高さになった瞬間もあった筈だった。けれども、彼奴と私の見ている景色が、同じものになった日など、到底存在しえないだろうと私は思う。私は、何かと決別するように、踵を返して、ジュリアスの去った方向とは逆に歩み始めた。宮殿の廊下に、窓枠の影が規則正しく落ちている。それすらも、この宮殿が、ジュリアスの生真面目さを求めているように感じる。私は心底、それを嫌悪した。

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「随分、荒れていらっしゃる。」
執務時間は始まったばかりだったが、早々に帰宅した私の邸宅に、水の守護聖が足を運んでいた。私は何も言わず、いつも通りにカウチで寛いでいた。水の守護聖は我が邸宅に持ち込んだグランドハープで数曲を演奏し終えてから、私のカウチの向かいに置かれたソファに腰を下ろして、ポツリと言った。
青年の表情は、何事もないかのように、いつもの微笑。けれども、私は気遣いのニュアンスをその声から読み取って、髪を掻きあげて、視線を逸らした。
館の者が、ハープの演奏が止まったせいか、静かにやってきて、リュミエールの前に暖かなハーブティを置いて、去っていく。
「何か・・・ありましたか。」
それ会釈して見送って一口、口を付けてから、水の守護聖は落ち着いた声音で、問うた。返事をしなくても構わない、という寛容さを読み取って、私はますますその気遣いを煩わしく思う。知らぬうちに、眉でも顰めたか、はっきりと青年は苦笑した。
「失礼しました。けれども、そのお顔で、お尋ねせずとも内容が分かるようで。」
青年は片手を小さく挙げて言ったが、その内容は謝罪には遠い。フン、と私の鼻が鳴った。
「察しが良いことだな。」
と、私は吐息混じりに皮肉を呟く。
「共に過ごした時間が、それなりに長いということかと。」
青年は何事もないように言って、またカップを口に運んだ。慈愛に満ちた表情に、私は尖った気持ちが、部屋の空気に溶け出していくのを感じる。あまり面白くはないが、確かに水の守護聖は「優しさ」を司るだけのことはあるようだ。
頬杖をついて、半ば寝そべるような格好のままに、私はゆっくりと口を開いた。
「朝議での、私の態度が気に食わぬようだ。」
青年はまたハッキリと声を出さずに笑った。
「いつもと言えば、いつもの事ではありますが。」
仕舞いに、悪戯っぽく首を傾げられて、ますます面白くない。
「これだけ私が守護聖という任を厭うているのに、一向任期が明ける気配がないのは、何故なのだろうな。」
また鼻を小さく鳴らして、やや吐き捨てるように、窓の外を見やって言うと、
「厭うているかどうかが、守護聖の任期に関係がないからでは。」
と、カップの中を見つめたまま、青年は表情を失って言った。水の守護聖の無表情は、大方憤怒によるものだと知っている私は、クスリと笑う。
「それは、『私も厭うている』・・・そういう意味か?」
青年は曖昧に笑って、私の目を見つめた。それから、
「クラヴィス様の任期が、私の任期よりも前に明けてしまったならば、私はますますこの任を厭うことになるのです。滅多なことは言わないで下さいますよう。」
と、首を傾げて、私に言い聞かせるようにする。遠回しな表現は、それでも水の守護聖にしては、はっきりとした肯定。私はまた鼻で笑った。
「その割には、随分真面目に執務に励んでいるではないか?」
ハッハッ、と青年は珍しく声を上げ、男らしく笑った。
「貴方様ほど、素直ではないもので。」
胸に手を当てて、謙遜するような仕草をする男に、私も声を上げて笑う。
「ハッ!闇の守護聖を捕まえて、『素直』と評するのは、宇宙広しと言えど、お前くらいのものであろうな。」
額に手を当てて、クックッと喉で耐えて笑っていると、
「ご気分が少しは晴れたようで何よりです。このような時は、音楽は無力でしょうか。」
不意に生真面目な、自嘲するような問い。
「そうでもない。もう一曲頼む。」
私は額に当てた手を小さく振って、演奏用の椅子に座るよう男を促し、身体を起こした。開いた両足の上で、手を組んで、目を瞑って聴く姿勢を取ると、青年はクスクスと笑いながら、演奏用の椅子に戻る。
彼が開いた重たいカーテンの向こうから差す、陽の光。瞼を閉じていても、まだ眩しく感じるほどの。普段は厭う筈のそれが、何故か今はそれほど嫌ではない。音が、その明るさに乗せて軽やかに耳に流れ込んで来た。

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【Side: Julious】

「これを、クラヴィスに。」
決済した書類を、部屋に取りに来たオスカーに渡すと、男は困ったように笑んだ。
「その、クラヴィス様は・・・。」
何事か言おうとして、鼻の頭を小さな仕草で掻くオスカーに、
「帰ったのか。」
と、盛大に溜め息を吐いて執務机に両肘を付く。手を組んで、やってきた頭痛に耐えるために、顎をそこに乗せ、目を瞑る。
「リュミエールも既に帰宅したようですし、これはカティスに先に回しましょう。」
私は片目を開けて、いっそにこやかに言う男を見つめ、
「リュミエールまで・・・・。」
ますます酷くなってくる頭痛に眉間を揉む。
「お前、ここに来てどのくらいになる。」
ふと、思いついて尋ねると、男は、くるりと視線を回して、書類を小脇に抱えたまま、顎を小さく触る。
「はぁ、そうですね。だいたい1200日程でしょうか。」
「その程度か。」
「ええ。」
それが何か?と言いたげに首を傾げられて、
「いや。ならば、リュミエールも同じくらいか。それで、クラヴィスにそれほど大きく影響を受けてしまうとはな。」
と、溜め息を吐いて、また眉間を揉む。
「アイツは、ここに来てすぐにクラヴィス様に懐いていましたよ。」
肩を竦めて吐き捨てるように言う男に、私は思わずクックッと喉を鳴らして苦笑する。
「・・・?」
訝しげに片眉を上げるのに、片手を小さく挙げて返す。
「いやすまぬ。見ようによっては、お前と私もそのように見える筈だと不意におかしくなってな。」
ムッとしたように、男は顔を顰め、けれども、口元を少し動かし、結局黙り込む。自分も同じように思ったのであろう。私は、このようなところは、年相応だなと思いながら、ふむ、と口を鳴らし、
「では、カティスに届けてくれ。」
と手を小さく払う。オスカーは、ハッ、と畏まって一度礼を取り、キビキビと退室した。私は、その後ろ姿を見送ってから、「同僚に、恵まれていない訳ではない。」と小さく呟いて苦笑した。
そして不意に思い出す。聖地に来たばかりの頃を。今思えば、少々の背伸びがあったかもしれない。けれども、年の近いクラヴィスがやって来た時、本当に心が躍った。この者は私が護る等と、愚かな事を考え、彼奴に困った事はないか等と、顔を見る度にしつこく問いかけた。今よりも、少し明るい色であった紫の大きな瞳が、私を見つめる度に、何か誇らしいような気持ちになった。

−−−私の・・・小さな、クラヴィス・・・・。

口元を触って、私は不意に訪れた思い出の残像を見送る。何を、感傷的になっているのであろう。クラヴィスの背が私を越えた時に一度、そして、陛下が着任される前に、陛下にあらぬ気持ちを寄せるクラヴィスを知った時に一度・・・。私は、闇の守護聖は死んだと思った筈ではないか。最早、聖地の何処にも、あのクラヴィスはいない・・・。何故か、理不尽に痛む胸を厭うた。
「馬鹿馬鹿しいッ!」
私は、自分の愚かさを一口に呪って、頭を振ってから、書類の山から一つを取り上げ、その内容に没頭した。

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【Side: Oscar】

ノックをしてから、返事を待ち、
「オスカーです。入ります。」
緑の執務室に入ると、カティス以外の姿は見当たらなかった。俺は、ジュリアス様から預かった書類を渡し、要件を説明する。カティスは、ペンを取って、必要な箇所にまずサインしてから、ペンを戻し、書類を処理済みの書類の上に置いてから、
「・・・何をそんなに苛立ってる。」
と笑んだ。苛立っているつもりはなかったが、なるほど、カティスと二人なのに、黙々と執務を片付けようとしている自分が居る事に気づく。いつも在る筈の、軽口のやり取りが無い。
「・・・・・。」
変な顔でもしていたのだろうか。沈黙を数えてから、カティスは吹き出した。
「お前さんのそう言うところ、嫌いじゃない。そうそう、良いものがあるんだ。」
男は席を立って、私室に一度入ってから、すぐに戻って来た。手には二つのゴブレット。
「ほら。」
といって、俺にゴブレットを渡す。中身は、どう見てもワイン。
「・・・執務中なんだが。」
と、自分の執務服を指差すようにして、憮然と返すと、
「もう執務時間は過ぎてるさ。お前もこれで上がるんだろ?」
とウィンク一つで、俺にそれをぐいとまた突き出す。苦笑して受け取って、
「なら、私室に入っても?」
と首を少し傾げる。フッと男は目を細め、「勿論。」といって、自分の分のゴブレットを持ったまま、私室に先に引き返す。もともと、そうするつもりだったんだろう。カティスには適わないにしても、ワイン一杯で酔う程、俺も弱くはない。
私室に入ると、夕暮れを迎えた中庭の様子が大窓から見える。
二人でカウチにそれぞれ腰を落ち着けて、少しゴブレットを上げて、口を付ける。
「うまいな。」
思わず、ゴブレットを両手で捧げ持つようにしてマジマジと見てしまう。
「だろう?お前は絶対気に入るだろうと思ったのさ!」
ケラケラと笑う男は、悪戯が成功した子供のようだった。それから暫くその酒の産地の話などをして、ふとまた、沈黙が部屋に落ちていることに気づく。
「今朝の。」
俺は、考えるより前に、口が先に言葉を紡いだというような、不思議な・・・けれども、この男の前では良くある感覚に、そこまで言って、一度笑った。それから、ゴブレットをローテーブルに戻し、開いた膝の上で両手を組み、続ける。
「朝議の後の、クラヴィス様と、ジュリアス様のやりとりを、カティスは見ていたか?」
カティスは、ゆったりと微笑んだ。
「見たと言えば、見た。」
「そうか。俺は、見ていなかった。」
男はフッと笑った。
「誰から聞いた。」
「なんだか、そわそわしている女官がいて。」
「それとなく聞いた・・・って訳か。宮殿の女官は皆口が堅いが、お前さんにかかっちゃ形無しだな。」
また、クックッと楽しげに喉で笑う。
「そう。俺が上手すぎるんだ。」
俺がニヤリと笑うと、オッと男は一瞬驚いて、
「そういう顔もできるようになったんだなぁ。」
等と態とらしく言う。親戚のオヤジのような言いぶりに、苦笑して肩を竦める。
「先輩に恵まれているもので。」
軽口を言うと、ケラケラとまた男は笑った。それから、
「何が気になる?」
と、やや唐突に尋ねられる。声音は穏やかで、笑みも称えられたまま、けれども、どこか空気がシン、と張る様な感覚。俺は唾を飲み込んで、一度喉を潤す。
「正直なところ、二人が口論されるのは、日常茶飯事だし、それだけなら、特段気になる筈も無いんだ。ただなんだか・・・、クラヴィス様が、ジュリアス様の胸ぐらを掴んだと言う話を聞いて・・・。」
話しながら、俺はカティスの質問に答えていない、と思った。それで、そこで言葉が途切れる。
男は、笑んだまま、一度ゴブレットの中身をまた飲んでから、
「つまり、お前もジュリアスの胸ぐらを掴んでみたいのか?」
と例の人を食った様な顔で尋ねた。
「な訳ないだろ!」
俺が思わず返すと、
「じゃァ、なんだ?」
と問い。詰問する様な調子ではない。けれども、きっちりと俺は追い詰められる。
「・・・・・・。」
カティスは、静かに俺の言葉を待った。それは優しさのようであり、厳しさのようでもある。俺は、グッと膝の上で組んだ両手を、握りしめた。
「ジュリアス様は、どうしてそんなに、クラヴィス様に拘られるのだろう。」
ポツリと、部屋に俺の声が響いた。返事は無い。夕暮れから、夕闇に沈もうとしている部屋で、カティスの表情が、読みにくい。
「クラヴィスが、ジュリアスの胸ぐらを掴んだという話を聞いて、お前さんは、ジュリアスがクラヴィスに拘っている、と感じる訳か。」
そう、静かに言ってから、男は席を立って、私室の照明を付ける。間接照明が中心で、部屋は穏やかな明るさに包まれた。カウチに戻って来たカティスは、表情の読めない笑顔で、俺をジッと見た。俺は、また酒を一口飲む。
「うん・・・。どちらかというと、二人の口論はクラヴィス様のあまりの態度に対して、ジュリアス様が看過しかねて口を開く、という感じだと俺は思う。ただ・・・。」
「ただ・・・?」
「・・・必要以上に、ジュリアス様の言葉には刺がある。」
「・・・そうだな。」
ジュリアス様は、不器用な方だ。だから、勘違いされる事も多い。けれど、クラヴィス様との口論は、いつも、そういった不器用さとは別の何かが含まれている・・・。俺は、それが気になるのか・・・。自分で自分の言葉に、俺は納得する。カティスと話すといつもこうだ。結局、カティスは何も教えないのに、たどり着けずにいる自分の中にある答えに、何故かたどり着く事ができる。けれども俺は、不意に泣きたい様な、不思議な気持ちになった。
「特別・・・なんだな。」
言ってから、俺は自分の言葉に吃驚した。
「そうだな。」
穏やかな声で応じてから、男はゴブレットを傾け、僅かな中身を飲み切ってしまうと、俺の隣に腰を下ろす。
「お前は、ジュリアスが好きなんだなぁ。」
クシャ、と固めた髪に、無遠慮に手が伸びた。セットは乱れるが、もう執務も終わりだ、別にいい。俺はなされるがままにする。『俺は、ジュリアス様の事が好き』・・・まるで阿呆のように、俺はカティスの言を内心で繰り返して、それから笑って、隣に座る優しげなオヤジに視線をやる。
「カティスの事も、好きだぜ。」
多分、悪い顔で。一瞬、手を止めて、ギョッとするように男は表情を固めて、それから俺の頭を両手でガッと荒っぽく掴む。
「ハッ!この人たらしめ!」
悪ガキを叱りつけるような、けれどもそれを赦しているような大人の顔で、カティスは俺の両目を見つめる。俺は喉で笑って、顔を掴まれたまま、同じ強さで見つめ返し、肩を竦める。
「アンタにだけは、言われたくない!」
えい、と顔を突き飛ばすようにして、
「言ってろ!」
呆れたように笑う男。蜂蜜色の髪。褐色の肌。男は不意に、窓の外を見つめて、賢者のような顔つきで、静かに言った。
「そう。クラヴィスは、ジュリアスにとって特別なんだ。お前が言うように。」
瞳が俺に戻る。
「何故?」
男は、賢者の顔のまま、笑んだ。
「もし、お前がそれを知りたいなら、それはジュリアスに聞くべきだ。」
その通りだった。そして、俺は、それを知りたいと思っているのだ。それこそ、何故なのだろう。随分と、立ち入った事が知りたいんだな・・・俺は。
「俺は、自分で思うより、強欲なのかな。」
呟いた独り言に、隣に座る男は、喰えないオヤジに戻って笑った。
「人間は皆、強欲なモンだと思ってたよ。俺は。」
「そういうものか?」
「さぁなぁ。それはお前が決めろ。俺は俺の結論。お前さんはお前さんの結論があるさ。」
笑うカティスに、「まぁそうだ。」と俺は返して、ゴブレットを手に取って残りを飲む。
「ごちそうさま。」
言ってから、二人分のゴブレットを、備え付けのキッチンに持っていき、洗って片付ける。戻って来た俺に、
「一緒に帰るか?」
と声をかけるカティスに、
「いや。今日は歩いて帰る。」
と答える。
「賢者の散歩は、地の守護聖の専売特許じゃなかったのか?」
悪戯な質問に、
「たまには、悪い先輩ばかりじゃなく、ルヴァにも学ぶ事にするぜ。」
と返す。
「ほう?学習の成果を期待してるよ。炎の守護聖。」
クスクスと面白気に笑う喰えないオヤジを背に、俺はカティスの部屋を出た。

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「・・・・。」
「・・・・。」
歩いて私邸に帰ろうとする途中に、目の端を過った水色に一瞬だけ足を止める。向こうも俺に気づいたようで、こちらをちらりと一瞥した。しかし、互いに前を向き直り、同時に、足を進めようとする。なんで同時なんだ!!と、俺は小さな事に苛立って、そんな事にすら苛つかせる水の守護聖の存在を思う。すれ違い様、完全に無視を決め込む男に、腹立ち紛れに肩を掴んでこちらを向かせる。
「おい。」
「・・・・なんです?」
掴まれた肩を小さな所作で振り払って、髪を鬱陶しげに掻きあげて、男は眉を顰める。俺は宙に浮いた右手を、キュ、と拳にして、自分の身体の脇に下ろす。そして、態とらしく嗤ってやる。
「ハッ!こんな時間まで何処をほっつき歩いていた?クラヴィス様の邸宅にでも行ってたのか?執務をサボっていいご身分だな?」
深い海色の瞳の色が控えめな灯の中、強く光って、
「人の気も知らず、よく言いますね。誰のせいだと・・・。」
口先で呟く様な聞き取り難い、堅い声。奴は自分の身を、浮き上がって見える様な細く骨張った白い手でギュッと抱いた。しかし、話の内容はさっぱり筋が見えない。
「何の話だ?」
俺は思わず素で聞いてしまう。
「・・・分からないでしょうね。貴方には。」
男は仕返しだ、とばかりに態とらしく苦笑して返す。なんでコイツはこんなに腹が立つんだ、イチイチ!!と俺は憤怒を腹で耐えて、
「何が言いたい、と聞いている。」
と、胸ぐらを掴みたくなる衝動を抑えて、声を低め、けれども顔を近付けて問うた。男は、ますます見上げる姿勢になったことを厭うように、一歩下がってから、顔を逸らす。
「知りません。首座の方が、また何事か、クラヴィス様におっしゃったのでしょう。いたく・・・。」
苦痛に耐える様な顔で、何か言いそうになって、男は口を閉じ、いつもの完璧な笑みで俺を見つめた。
「いいえ。貴方がたには関係のないことでした。ごきげんよう。」
俺は、突然の不自然な、けれども完璧な笑顔に呆気に取られて、引き止める事も叶わず、ただ後ろ姿を見送る羽目になる。ずっと拳になったままだった血の通わない右手を、顔の前でぎこちなく開く。汗で僅かに濡れているのに、奇妙な敗北感を覚えて、顔を顰める。
『いたく・・・』
俺は、言い淀むような水の守護聖の横顔を思い出す。チッ、と舌を鳴らして髪を掻きあげ、俺は私邸への道を急ぐ。
・・・大方、『いたく、ご立腹でした』等と続く予定だったのだろう。我ながら荒々しく足を進めながら、ダン、と足を踏み鳴らすように立ち止まって、周りの人々がこちらを気遣わしげにする視線に、ばつの悪い思いをする。家に帰るまで、我慢するべきだ、と俺は思った。それから。
『いたく、ご立腹でした』
苦虫を噛み潰すような男の表情。
「・・・それで?・・・だから、何だって言うんだッ・・・・。」
『それでも、ジュリアス様にとって、クラヴィス様は・・・。』
「・・・特別、なんだ。」
小さく独りごちた。

『学習の成果を、期待してるよ。炎の守護聖。』

不意に喰えない緑の守護聖の言を思い出す。
思わぬ邪魔が入ったが、賢者の真似事の成果は、これから出さねばならないだろう。俺は前を向いて、また、歩み始めた。

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【Side: Julious】

「クラヴィス!何処に居る!!クラヴィス!!」
声変わり前の自分の声が、闇に響いていた。それで『これは夢だ』と私は思った。
「クラヴィス!」
段々と心配気になる自分の声に、ふわりと場に光が差し込んでくる。その光に吸い寄せられるように近づくと、光の輪の中で、幼いクラヴィスが、草原で白い花を摘んでいた。
ホッと安堵するような溜め息と共に、
「此処に居たか・・・。」
と、幼い私の声。けれども、クラヴィスの光の輪の外は、相変わらず暗闇に満ちていて、どんなに近づこうとしても、私は光の輪の中に入れない。しかも、クラヴィスは目前であるのに、私の声が聞こえないのか、振り向く気配もなく、楽しげに花を摘み続ける。
私は、光に手を伸ばすが、僅かに届かない。光の中で、何かに気づくように、クラヴィスは手を止め、こちらを振り向いて、微笑む。
『ジュリアス・・・。』
と、あの柔らかな幼い声で、私は、名を呼ばれるのだと思った。けれども、クラヴィスは、微笑んだ顔を、私と目が合った一瞬、凍らせる。クラヴィスは、突然周囲の闇を纏って、ムクムクと異形の形を取り、太ったり縦に伸びたりを繰り返しだした。私は、その様に、吐き気を覚えて、噎せ込む。噎せ込んでいるうちに、クラヴィスは、はっきりと今のクラヴィスの形を取った。いつの間にか、辺りから光は霧散し、闇だけが立ちこめている。
ボゥ、と自ら薄い紫の光を纏うようにして浮かび上がる闇の守護聖は、執務服を着て、魔王のように悪辣に笑むと、こちらに手を差し伸べた。
「愚かで矮小な光の守護聖よ・・・。お前が・・・・。お前が、何故、私が彼女を愛した事を許せぬままで居るのか、教えてやろうか。」
クックック、と男の喉がなる。男の手が伸びて、幼い私の身体を吊るし上げ、口元が近づいてくる。男は、唇がギリギリに触れる距離で、うっそりと笑んだまま、呟いた。
「お前を、殺してやる。」
ギャーギャーと突然、魑魅魍魎の声が、周囲に五月蝿く響き渡る。

−−−これは、夢だッッ!!!

私は夢の中で叫び、自分の叫び声に驚くように、ガバリと飛び起きた。ハッハッハッ、と短く五月蝿い呼気。胸元の布を強く掴んで、鳴り止まぬ動機を宥めるように、私は目を強く瞑って息を止める。まだ、寝入ってからそれほど経っていないようで、寝室には闇が落ちていた。ハァ、と溜め息を吐き、髪を掻きやるが、ベットリと嫌な汗を掻いていた。私は、室内履きを履いて、ベッドを降り、テーブルに用意させた水をグラスに入れて飲み干す。
それから、窓辺に近づき、窓を開けた。サァ、と風が入って来て、レースのカーテンを揺らす。空を見上げれば、満月に近づこうとする月が、煌煌と輝いていて、どこか恐ろしげだった。私は、右手で窓枠を掴み、倒れ込みそうになる衝動と戦った。左手で、自分の身を抱くと、身体が僅かに震えている。
分からなくていい、と思った。知りたくない、と思った。
「お前に、ならば・・・。ころ、されても、いい、・・・など、と。」
たどたどしく、覚束ない誰かの声が、微かに聞こえた。光の守護聖の声の筈はない。光の守護聖は、守護聖を導く首座の者。子供の泣き言のような事は、決して口にしない。首座の者が、あまつさえ、殺されても良い等と、思う権利もなければ、そもそも、そのような事を過らせる可能性すら無いのだ。私は、クッと喉で嗤った。嗤い始めたら、あまりの滑稽さに腹が痙攣し始める。クックックック、ハッハッハッハッハッ!!!段々と笑い声が大きくなり、私は嗤い過ぎて、膝が抜け、耐えきれずにくるりと窓に背を向け、床に頽れる。
己の高笑いが、暫し部屋に響いた。
「愚かで、矮小な、光の、守護聖・・・」
呟いてから、私はくたりと力の抜けた指を額にやる。ガランとした空虚な寝室を見やってから、ゆっくりと天井を仰いだ。
「そのような者。・・・何処にもおらぬ。」
私はすっくと立ち上がり、衣服の乱れのみを直し、夜着と室内履きのままに、寝室を出る。眠れる気がしない。どうせ眠れぬのであれば、執務をするのも良いだろう。幸いな事に、仕事に困った事はない。書斎に寝静まった館の中を歩いて移動していると、執事が自室から出て、頭を下げた。夕食後、「今日は早く休む」と言って寝室に行き、それを喜んでくれた彼を前に、少しばつの悪い思いをしたが、
「起こしたか。少し仕事をする。お前はもう休むがいい。」
私が短く言うと、執事は、胸に手を当てて、最敬礼を取る。
「畏れながら。実は、今日は何故か眠れぬのです。ご迷惑でなければ、エスプレッソをお淹れすること、許しては頂けないでしょうか。」
等と言った。私に、もう寝所に戻る気がないことを、読み取ったのかも知れぬ、そう思って。私はフ、と知らず口元だけで笑い、
「ふむ。もらおう。」
と返す。彼は、ニコリと笑んで、踵を返した。その後ろ姿を見送ってから、『私は、存外、恵まれすぎているのだ。』と思った。そして。
『・・・だから、悪夢を見る。』
・・・私らしくもない。私は再度襲って来た苦い気持ちを、グッと口元を引き締めて追いやった。執務に没頭すれば、このような事、全て忘れる。そう思って、書斎へと急いだ。

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【Side: Oscar】

翌日。
「お疲れですね。」
俺は、書類の分類を手伝いながら、動かしている手を止めずに言う。隣に立つジュリアス様も、手を止めずに、
「そうだろうか。」
と返した。暫く無言で二人で手を動かし続けていたが、
「いや、疲れている。昨夜、早めに休もうとして、実は失敗したのだ。」
と、書類の分類を終えて、ジュリアス様は苦笑して俺を見上げた。その瞳は、力強い。けれども、いつものそれに比べると、やはり光が弱い気がした。
「お前には参る。」
クス、と男らしく音を伴ってジュリアス様は苦笑すると、何事もなかったかのように、執務机に戻った。俺はそれを追いかけて、執務机の前に立ち、
「お疲れのところ、恐縮ですが、お尋ねしたい事が。」
と少し前傾の姿勢を取り、顔を近付けて言う。ペンを持った手を止めて、ちらりと俺を見上げると、
「込み入った事か?」
と短い問い。俺が問いの内容を言わず、わざわざ「尋ねたい事がある」と言った時点で、執務補佐官達が、出入りしている場で、問いにくい内容だと察して下さったのだろう。
「いえ。立ち入った内容です。」
俺は前傾のまま言って、にこりと笑う。ジュリアス様は一瞬、面食らった顔をしてから、
「よかろう。それでは、今日の執務を終えてから、お前の執務室を尋ねる事にする。どちらかの私室で話そう。」
と笑った。俺は、ハッと胸に手を当てて答え、踵を返した。

一つバタついた案件の処理が入ったものの、なんとか執務時間を少し超過した辺りで、自分の仕事に目処が立つ。ジュリアス様も、今朝の書類の感じでは、そろそろ終わられる頃合いだろうか、と思いながら、残りの書類の処理を急ぐ。既に執務補佐官達は帰宅している。執務室は、俺がペンを走らせる音以外、音らしい音はしなかった。
自分の分の処理が終わって、カプチーノメーカーでカプチーノを落とし始めたところで、コツコツとノックが鳴った。
「私だ。」
その声に、執務室の扉を開いて中にジュリアス様を招き入れる。瞳を合わせて、やはり、少し疲れていらっしゃるな、と思いながら、私室に案内する。
「少し遅くなった。急な案件が入ったのでな。」
言いながら、腰を落ち着けたジュリアス様に、
「いいえ。俺も丁度終わったところです。」
と答え、
「カプチーノを入れています。エスプレッソの方が?」
聞くと、
「どちらでも構わぬ。」
と返事。俺は、では、カプチーノで、と答えて席を立つと、ふぅ、とジュリアス様が相好を崩した。俺はそれを嬉しく思いながら、メーカーに前に戻って二人分のカプチーノを用意する。ジュリアス様の前に出すと、早速ジュリアス様は、ソーサーとカップを手に取った。
「それで?立ち入った事、とは?」
挨拶もなしに、単刀直入の問い。俺はそれに、ジュリアス様らしいと苦笑しながら、自分も一口カプチーノを飲んで、
「そうですね・・・。」
と口を開いた。『学習の成果を期待してるよ。炎の守護聖。』カティスがどこかで笑っている気がする。
「クラヴィス様と、ジュリアス様の事を、知りたくて。」
笑んで言うと、キュ、とジュリアス様が唇を引き結んだ。それから、ゆっくりと、もう一度カップに口を付け、苦笑する。
「そのような事。既に、よく知っているのではないか?」
そう、よく知っていると・・・そう思っていた。少なくとも、カティスと昨日、話をするまでは。俺は笑んだまま、話を続ける。
「ジュリアス様と、クラヴィス様は、幼少期には仲が良かったのですよね。」
ジュリアス様は、自分の問いに答えぬ俺に腹を立てた様子も無く、ただ、カップの中身を見つめ、自嘲するように笑んだ。
「・・・良かったのかどうか。ただ、今とは違ったな。」
「どのような、関係だったのですか?」
おそらく、何度か聞き及んでいる。ジュリアス様からも、周りからも。けれども、俺は敢えて聞いた。ジュリアス様は、
「そのような事が知りたいのか?」
と笑ってから、
「そうだな。幼い頃のアレは、もっと頼りなげで、心細そうな様子であった。それで、私があれこれと世話を焼いたのだ。彼奴にとっては、鬱陶しかったのかもしれないが。」
ジュリアス様の紺碧色の瞳が、慈愛に満ちたものになる。そこにまるで、幼き頃のクラヴィス様が居るかの様に。そして、俺の方を見やって、少し首を傾げて見せた。
「可愛かったのだぞ。今のアレしか知らぬお前には、想像しにくかろう。」
まるで、溺愛している弟を、自慢するかのような、やや得意気なジュリアス様に、俺は奇妙な胸の詰まりを覚える。
「確かに、想像しにくいですね。」
と俺は返す。クラヴィス様とは、今のところ、あまり接点がない。普段のクラヴィス様の顔を思い出して、脳内でそこに『可愛い』とテロップを付けてみる。脳内のクラヴィス様が、物凄く嫌そうな顔をして、俺はそれに苦笑する。
「そして、可愛くなくなった。」
俺が言うと、ジュリアス様は、フッ、と吐息に混ぜて小さく笑い、またカップを傾ける。
「・・・そうだな。」
落ちる沈黙は、けれども、どこか暖かだった。ジュリアス様の瞳は、またカップの少し先、宙空を見つめている。そこにおれは、まだ聖地に来たばかりの、クラヴィス様の姿を描こうとした。ピタリと、二人の視線が合う。
懐かしいものに久々に出会ったように微笑むジュリアス様と、あどけない表情で、不思議そうにジュリアス様を見つめる幼いクラヴィス様。
「アレが、私の背を越した日を、私は覚えている。」
独り言のように、ジュリアス様は言い、少し視線を上げる。ジュリアス様の背に追いついて、そして少しそれを越した日の、クラヴィス様が、そこに居るのだと俺は思った。フッ、とまた吐息でジュリアス様は笑い、
「おそらく、彼奴は覚えていないだろうな。」
と言った。兄に懐いていた弟が、やがて、兄離れして・・・自立しようとする弟を、なんとなく寂しく思う。その表情は、そういったものに見える。それなら、俺にも覚えのある感情だった。・・・けれど。
「俺には、弟が居たのです。」
過去形で自然に弟の事を語る自分を、俺は少し切ないと思ったが、それを見送る。突然の話題の切り替えに、ジュリアス様は、少し怪訝な顔で、俺を見やった。
「弟は、とても俺に懐いていて。けれども、反抗期を迎えて、俺が守護聖になろうとする頃、丁度、兄離れをするかどうか、といった時期でした。」
丁度良かったのかもしれない、と俺は思った。自然と、弟の顔が浮かぶ。兄さん、と微笑むアイツと、俺が旅立つ時の、泣くのを必死で耐えているような顔が。けれども、すぐに立ち消える。それから、ジュリアス様を見つめて、微笑む。
「兄離れされると、兄は、置いていかれるような、寂しい気持ちを味わいます。ジュリアス様のクラヴィス様への気持ちは、そういう感覚に近いですか?」
俺を見つめたままのジュリアス様の表情が、くしゃりと歪んだ。・・・沈黙。それから、
「そう・・・だな。」
表情は、そのまま。ぎこちない返事。また、沈黙。それは、「そうではない。」という事を、俺とジュリアス様が、確かめる間のようだった。そして、ジュリアス様は、飲みかけのカップとソーサーをテーブルに戻し、キュ、と膝の上で両手を結び、顔を上げる。丁度斜向いに俺とジュリアス様は座っているので、ジュリアス様は、まっすぐに、部屋の奥、キッチンの方を見やっていた。
「いや、そうではない。」
それから、俺の方を向いて、笑った。俺はその笑顔に、何故かとても驚く。
「本当のところ、分からないのだ。私には弟は居ない。だから、もしかしたら、それに似ているのかもしれぬ。ただ、クラヴィスは、私のモノだと。そう、思いたかったのだ。私は。」
言ってから、ジュリアス様は唇を結んで、もう一度、開いた。
「不思議だな。」
微笑んで俺を見つめるジュリアス様は、暖かな心を持つ、けれども、ヒトではない、何者かのように、圧倒的だった。
「初めて、このような気持ちを、口にした気がする。」
それから、俺の前で時折みせる、男臭い苦笑に顔を崩して、続けた。
「おかしかろう。誰かが、誰かのモノになるなど、あり得ぬ事だ。」
そして、ずっと口を利かない俺を、不思議に思ってか、
「・・・どうした?」
と聞いた。俺は、呆然と固まってしまっている自分に気づいて、「あ、ああ。すみません。」と間抜けな応答を返す。クスクスとジュリアス様は笑い、
「こういった事が聞きたかったのか?」
と、重ねて尋ねる。俺も、膝の上で持ったままになっていたカップとソーサーをテーブルに戻す。

『特別・・・なんだな。』
『何故?』

カティスの私室で、自分が口にした事を思い出す。前者については聞けた。けれども、後者がまだだった。俺は、顎を引いて頷いてから、緊張を追いやるように、一度唇を舌で濡らし、思い切って、口を開いた。
「誰かが、誰かのモノになるなんて、あり得ない。確かにそうかもしれません。けれども、きっと、ありますよ。」
ジュリアス様が、怪訝な顔になり、顔に掛かった前髪を小さな所作で避け、問う。
「何がだ?」
視線と視線が、気持ちよいくらいに、まっすぐに交わされる。
「誰かを、自分のモノだと、思う事です。」
けれど、俺が言い終わるや否や、ピタリ、とジュリアス様の表情が固まる。それから、クッと、喉の詰まる様な音がした。クッククッ、とそれは忍ぶ様に続く。やがて、ハッハッハッハッハ、と大きな声。それは、笑い声ではなく、俺にとって、初めて聞くものだった。
「其方に話せば、なんでも恋愛相談になるのか?」
やや皮肉な調子で、ジュリアス様は問うた。俺は、
「恋愛とは、限りませんが・・・。」
と返そうとするが、途中で、ジュリアス様は小さく片手を上げ、遮る。
「冗談だ。」
俺は口を噤む。唇から出ようとする言葉が、行き場を失って口の中で詰まる。
「馳走になった。・・・話は、これで終わりか?」
微笑んでから、残りのカプチーノを飲み切るジュリアス様は、いつものジュリアス様で、俺は、『今は、もう無理だ。』と思った。
「ええ。」
俺も微笑む。そして、二人分のカップを片付けると、ジュリアス様が、
「私邸まで送ろう。支度が終わったら、私の執務室へ。」
と言う。俺は、「はい。」と答えて、ジュリアス様を見送ってから、帰りの支度をする。独りになった、自分の執務室を、振り返る。

『学習の成果を期待してるよ。炎の守護聖。』
「敢えなく、惨敗ってところだ。」

苦笑して返し、部屋の照明を落とす。施錠して、ジュリアス様の執務室に向かう途中に思った。あの、空虚な、ジュリアス様とも思えない笑い声のような・・・声。それを俺は、抱きしめたいと思った。

だが、俺は、誰かを自分のモノだと思った事は無い。
だから、俺じゃ、駄目なんだ・・・・。

それは、やはり。
俺にとって、哀しい事ではあるようだった。

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【Side: Julious】

『きっと、ありますよ。』
『誰かを、自分のモノだと、思う事です。』

帰りの支度をしながら、私はまだオスカーの声を聞いている。自分の胸の内で。そんな自分に、苦笑してしまう。何かが、決壊するような、自分の壊れた笑い声。昨日の夜と同じものを、まさかオスカーの前でまで晒す羽目になるとは思わなんだ。私は、自分の醜態を恥じる。どうも、オスカーには甘え過ぎてしまう節がある。また、オスカーもそれを赦すものだから・・・と、いつの間にか責任転嫁しかけて、また私は苦笑した。
コツコツとノックを聞いて、「入れ。」と応じる。誰何するまでもなく、オスカーだった。支度を終えて、オスカーと共に、馬車に乗り込む。あのような醜態を晒したばかりだと言うのに、車内には私とオスカーだけだからか、私は乗り込むなり、抗いがたい眠気に襲われていた。
言葉少なな私に気づいたのか、隣に座るオスカーが、「どうぞ、休まれて下さい。」と微笑む。私は、他の者と共にならばあり得ぬ事だなと、またこの男に甘えている事を自覚しながら、「すまぬ。」と言って、此処のところの疲労感に絡めとられるように、眠りに落ちた。心地よい振動と、信頼している者しかいないという状況も手伝ってか、あっという間に深い眠りに誘われる。

私の髪を不思議なものを見つめるように触る、幼いクラヴィスの指先。
『綺麗・・・。』
そうか。そう面と向かって言うものではないと思うが、お前に言われると不思議と嬉しいものだな。不意に、足元から落下する様な感覚。そして、ゆっくりと、暖かく、しっかりとした腕の感触に、抱きとめられる。
・・・ん?
おかしいな、お前はこんなに小さいのに・・・。

いつの間にか、今のクラヴィスが、憮然と他所を向いたまま、私に肩を貸している。
そうか、お前か。お前の前でこんな醜態はまずい・・・。
そう思いながら、けれども、眠気が一向に収まらない。
「良いから寝ろ。」
と低い声で呟かれて、『そうか、寝ても良いのか。』と思って、持ち上げかかった頭を、再び、男の肩に落とす。
小さな頃は暖かい身体だと思っていたが、大きくなったお前にも、体温が通っているのだな。
初めて知ったぞ・・・。

「クラ・・・ヴィス・・・・。」

紅い髪の男が、困ったような顔で私を見下ろしていた。慌てて私は身体を起こす。随分、遠慮なく体重を預けてしまっていたようだ。・・・それに。
「すまぬ。私は・・・何か言ったか?」
コホン、と咳払いをして問うと、オスカーは、笑んで、「いえ、何も。」と答えた。ホッと胸を撫で下ろし、着いたか?と聞くと、
「ええ。私の家に先に寄って頂いて、ありがとうございます。」
と生真面目な返答。私は、
「ほとんど変わらぬ。お前とて疲れているだろうに、済まなかった。それでは、また明日。」
と、もう一度詫びて、オスカーを見送る。車から降り、何事か御者とやりとりして、オスカーが離れていく気配。程なく、また車が動き出した。

何か、良い夢を見ていた気がするが、思い出せない。
このところ、悪夢ばかりだったが・・・と、私は窓枠に片腕をのせ、笑う。肩を貸してくれたオスカーのお陰かもしれない。

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【Side: Clavis】

土の曜日の昼前。
「ジュリアス様が、お越しです。」
私は、朝寝を充分に楽しんでから、遅い朝食を取っていたところだった。思わず、食べていたものが、変なところに入りそうになって、それをなんとか呑み込む。
「誰、と言った?」
私が再び問うと、
「ジュリアス様です。」
と、明快な返事。私は急にやって来た頭痛を厭うように、額に右手を当てた。
「体調が優れぬ、と。」
月の曜日に、険悪なやり取りをしたばかりだというのに、懲りぬ男だ・・・。しかし、いくらなんでも、土の曜日に私邸に尋ねてくるとは珍しい。・・・全く、嬉しくはない珍事ではあるが。
「畏れながら、既に応接室に御通ししております。」
「・・・・!」
私は一度目を見開いてから、食べかけのパン粥をテーブルに戻し、溜め息を吐く。
「全く・・・。」
ブツブツと文句を言いながら、しぶしぶ腰を上げると、「そろそろジュリアス様はランチかもしれませんね。ご用意致しましょうか?」と問われた。
「長くはならんだろう。要らぬ。」
答えながら、と言って、私の希望が通るかどうかは分からぬがな、と私は応接室に向かった。
ノックをせず、扉を開くと、金髪の男が、シックに纏められた内装の中、際立って見えた。私は、扉に背を預け、
「何をしに来た。説教なら、間に合っているぞ。」
と問うた。ジュリアスは、すっくと立ち上がって、
「どうしてお前はそういう言い方になるのだ!?」
と、憤怒に瞬時に顔を赤らめる。このようなやり取りを、わざわざ人の私邸に足を運んでまでしたいとは、物好きとしか言い様が無い・・・私は、溜め息を吐いて、髪を掻きあげた。
「頭痛がしているのだ。そう喚くな。」
仕方なく、応接のソファの、ジュリアスの向かいに腰を下ろす。ジュリアスが、
「悪いのか?」
と、憮然としたままに、けれども問う。『お前のお陰で、相当にな。』と答えてやろうかと思ってから、ジュリアスの心配を読み取って、吐息に流す。
「朝は苦手だからな。」
「もう昼ではないか?」
「・・・私にとっては朝なのだ。・・・こんな話をしに来たのか?お前が私の家に足を運ぶのだ。緊急の要件か?」
早くこの場を片付けてしまいたく、自然と口数が増えている。私は自分に苦笑した。
それを嘲笑のように思ったのか、
「緊急の要件ならば、このように私も悠長ではない。」
とまた、怒りに燃える瞳。
「では、なんだ。」
私は気にせず先を促した。そこで、ジュリアスは思いがけない質問が来た、というような顔になる。・・・・。まさか、用も無いのに来たのではあるまいな、と私はますます頭痛が酷くする。
「け、ケーキを、持って来たのだ。」
・・・・ケーキ?思わず眉が寄る。ジュリアスは、憮然とした表情に戻って、テーブルを睨みつけるようにしていた。
「ライチケーキだ。お前が、好きだったと思い。」
キッと睨みつけられて、私は言葉を失う。私は、この男のケーキを味わう為に、朝食を途中で切り上げて来たということか?不意におかしくなり、プッと吹き出すと、後は止まらなかった。クックック、と喉が鳴る。
「な!何故笑う!!」
「突然、一体、何なのだ・・・。脈絡のない・・・・。」
私は思わず素直な感想を漏らす。笑ったりいなしたりしている内に、パイ皮に包まれたケーキとコーヒーが運ばれて来た。私は家の者に、朝食は途中で切り上げさせておいて、これは食べさせるのか?という意味で視線をやるが、何事もないかのように、給仕した後、館の者達は、みな退室してしまった。
「朝食が途中だったのだ。腹は減っている。」
と言って、私はフォークでケーキを一口取り上げる。
「甘いな。」
と感想を零すと、
「そうだな。」
と返事が返って来た。暫く黙々とケーキを食べ、コーヒーを飲む。ジュリアスには、エスプレッソが出されているようだった。
食べ終わって、「これで要件は終わりか?」と尋ねようとしたタイミングで、ジュリアスが口を開いた。
「月の曜日の、朝の事だが。」
ポツリ、とテーブルに言葉が落ちる。
「・・・・。」
やはり、その件か、と思って。私は、だとしても、わざわざ私の家まで足を運ぶ必要があるだろうか、と思った。
「済まなかった。」
不意に姿勢を正し、ジュリアスは私に頭を下げ、またきちりと姿勢を正した。
「何を大袈裟な・・・。いつもの事ではないか。」
と、私はその生真面目さから逃れるように、横のクッションに身体を預け、視線を逸らし、庭を見やる。
「陛下のことに、今更触れるべきではなかったかもしれぬ。」
そう続けるジュリアスに、私は視線を戻し、その瞳を見つめる。おそらく、睨むようにして。わざわざ、もう一度触れるのか、そうやって。私はこの男のこういうところが、どうにも我慢ならないのだろう。
「そう思うなら、もう黙れ。」
私が低まった声で言うと、ジュリアスは、キュ、と眉根を寄せた。それから、態とらしく、大きく息を吐いた。まるで、深呼吸するように。それは沸き上る怒りを、なんとか宥めているようにも見える。
「わ、私は寂しかったのかもしれぬ。」
「なんだと?」
ジュリアスはもう眉を顰めてはいなかったが、今度は私の眉が顰められる。けれども、ジュリアスは、ぎこちなく、けれどもやがて、昔よく見た慈愛に満ちた笑みを浮かべて、言った。
「お前が、どこか知らぬ場所へ行くようだと思った。存外、私はお前の世話を焼いているつもりで、お前に依存していたのかも知れぬ。」
何事も言い返せぬまま、ジュリアスを見つめるままの私を、ジュリアスは、フフと笑って見逃した。
「話は、それだけだ。ではな。・・・月の曜日の朝議、今度こそ遅れるなよ。」
キチンと、カップの中身を飲み切ってから、ジュリアスは席を立つ。
私は、応じるように席を立った。踵を返す、ジュリアスの背に、掛ける言葉が見当たらない。・・・ただ。
「待て。」
私はジュリアスの腕を掴んで引き止める。引き止めて・・・どうすると言うのだ。振り返ったジュリアスは、私の胸中と同じく、困惑した顔つきだった。至近距離に、二つの、ラピスラズリ。
「どういった風の吹き回しか、知らぬが。」
私はそこで、もう一度言葉を探した。けれども、やはり言葉は見当たらない。暫く待ってから、ジュリアスはまた、あの兄の様な顔で微笑み、私の頬を指先で触った。
「クラヴィス、良いのだ。もう、此処へは来ぬ。安心せよ。」
そして、もう一度踵を返すと、部屋を出て行った。

「なんなのだ・・・。・・・一体。」
決然とした金髪の後ろ姿だけが、私の印象に残った。

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「珍しい事もあるもんだ。」
「・・・・・。」
「それで?昼から酒でも飲みに来たのか?」
ニヤニヤと笑う男に、隣にいた執務補佐官が、ギョッとした顔でこちらを見やる。私が、
「飲みたいなら、家で飲む。」
と答えてやると、補佐官は、ホッとしたように仕事に戻っていった。私は髪を掻き上げて、
「お前が何か吹き込んだのか?」
と端的に問う。
「誰に何を?」
悪戯っぽい笑顔を称えたまま、男は片眉を器用に上げる。分かっている顔だな・・・と私は思った。
「ジュリアスに、余計な事をだ。」
しかし、男はパチクリと目を見開いて、キョトンとしている。
「・・・・?」
訝しんで、自分の顎を触ると、
「何か、進展があったのか?その絶望コンビは。」
等と言う。私は額に手をやり、吐息を吐いた。
「ジュリアスが、私の家に来た。」
「ほう!?」
男は態とらしく驚いてみせる。それで、私はニヤリと笑って続けてやる。
「『もう二度と来ない』だ、そうだぞ。」
「流石だなぁ。」
男は、「お前ららしい。」と、言い添えて苦笑する。そして、暫く笑ってから、再び口を開く。
「そんでまた、オスカーもやるなぁ。」
と。私は自分の眉がぴくりと持ち上がるのを感じた。
「オスカー?」
「おっと、しまった。」
男は態とらしく両手で口を塞ぐ。全く!喰えない男だ・・・。どこまでが演技なのだ・・・最初から全てか・・・・。自分で自分の問いに胸中で答え、気を取り直して再びニヒルに笑ってやる。
「それで?オスカーを焚き付けたのが、カティス・・・という訳だな。」
プルプルと、口を両手で塞いだまま、顔を横に振る男に、私は、
「闇の守護聖は根に持つタイプらしい。気を付けた方がいいぞ?」
と、言い添えてやって、私は踵を返した。周囲で蒼白になるスタッフを尻目に、反省する様子もなく、プッと背後で吹き出してケラケラと笑う男は、この際、放って置く方が良いだろう。

『寂しかったのかもしれぬ。』
『お前が、どこか知らぬ場所へ行くようだと思った。存外、私はお前の世話を焼いているつもりで、お前に依存していたのかも知れぬ。』
『クラヴィス、良いのだ。もう、此処へは来ぬ。安心せよ』

幼い頃。一刻も早く大人になろうとしていた背中を・・・いや、在る意味では、既に大人だった・・・それほど年の変わらぬ子供の・・・金色の、決然とした背中を追いかけていた。
いつからか、寧ろ追いかけられているように感じ、鬱陶しく思い始めた。
そして、いつからか、私はジュリアスの背を越した。
いつからか、私達の不仲は際立っていた。
そして・・・・あの日。
ジュリアスのせいだなどと思ったことはなかった。ルヴァのせいだとも。単に、巡り合わせの問題だったのだ。
だが、ジュリアスが、あの日の事を、口にする事だけは、何故か赦せないままでいる。

・・・・何故?

『クラヴィス、良いのだ。もう、此処へは来ぬ。安心せよ』
あの、ラピスラズリを、これ以上、至近距離に見なくて済むというのなら、そしてアレがその話題に触れないというのなら、それも良いだろうと思った。

・・・だが。

コツコツとノックをすると、中から返事があって、執務補佐官に招き入れられる。
「これは・・・御珍しい。」
これほど同じ対応を、別の者にされるというのは、原因が分かっていて尚、なかなか奇妙なものだなと私は溜め息を吐く。執務机の前まで移動して、
「・・・・余計な事をしてくれたな。」
とだけ言う。オスカーは面食らった顔で、
「薮から棒になんです?」
と言ってから、眉を顰めた。
「それを言いたかったのは、私の方だった訳だが。アレが、私の私邸に突然やってきてな。好き勝手にあれこれと話し、その後、もう二度と来ぬといって、出て行った。」
私は、静かに、ゆっくりと、けれども、一息に告げた。『こんなに話している闇の守護聖を初めて見た』とでも言いたげに、炎の守護聖は目を白黒させる。
「よくは分かりませんが、またジュリアス様と喧嘩なさったのですか?それと俺と、どう関係が?」
『喧嘩』・・・・?・・・子供ではあるまいし。しかし、炎の守護聖は、言いながら、思い当たる節があったのか、ハッとしたように、自分の手を口元に当てた。それから、唐突に、まるで聖者のような、儚気な笑みを見せる。今度は、私が驚く番だった。
「なるほど。大体の事情は分かりました。」
私は呆気に取られて、悪態を吐くのが一瞬遅れる。
「クラヴィス様は、誰かを、『自分のモノだ』と思った事はありますか?」
突然の問いに、また私は言葉に詰まった。
「なんだ、それは?」
と問い返すと、
「俺は、ありません。だから、分かりません。」
きっぱりと、見上げてくるアイスブルーの瞳。しかし、内容は曖昧だ。
「私とて、そのように思ったことはない。」
発言の意味は取りかねるまま、問われた事に最低限で答えると、彼はニコリと笑んだ。奇しくもそれは、水の守護聖が『それでいいのですよ』等といって、私を笑う時の顔つきに似ていた。
「俺は・・・・。クラヴィス様、貴方が少し羨ましいのだと思います。ですから、何かクラヴィス様に失礼があったのでしたら、その嫉妬心に免じて御赦し下さい。」
男は、慇懃なのか、殊勝なのか、判別の付かぬ台詞を、やはりきっぱりと言った。それから、席を立った。同じ高さで光る瞳。
「へぇ。」
と男は感心したように唐突に声を上げる。
「貴方の瞳、烏珠の黒だと思っていましたが、光が入ると、アメジストのようですね?」
私は、深く深く、溜め息を吐いた。そして、何も言わずに、踵を返す。
「聖地に、手に負えぬ者が、いつの間にかまた増えているな・・・。」
と、独り言を言いながら、その部屋を出る。

一言言わずにはおれず、訪れた筈が、かえってやり込められてしまったようで面白くない。

『貴方が少し羨ましいのだと思います。』

・・・・何を言っておるのだ・・・・。
私はヤレヤレと頭を振る。
『絶望コンビ』等と言う、名付け親に似合ったコミカルなあだ名は不名誉極まり無いが。なるほど、私とジュリアスでは、この先も絶望的な組み合わせではあるだろう。

そう、ただ・・・・。
ただ・・・・。

時折、あの後ろ姿の金髪に手を伸ばし、幼い頃と同じように、触れてみたいと思う事の他は。
胸中で言葉にしてから、何を馬鹿なと頭を振って。ギュ、と胸元の布を右手で掴む。

鬱陶しい偏頭痛は、この先も暫く続きそうな気配だった。



終。


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